Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

きり絵から‥少しよりみち(きり絵さとうてるえ)

2010年05月23日 15時34分46秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 「ふるさと福島」からは、少しよりみちして、送られてきたきり絵を一点紹介。



 さとうてるえさんが立原道造が好きだったとは、学生時代は知らなかった。送ってもらったきり絵の中に、このハガキ大のものがあった。きっと詩が気に入って愛唱されているのであろうと勝手に想像している。
 詩は「拾遺詩集」におさめられている詩の最後の3行。

 月の光に与へて

おまへが 明るく てらしすぎた
みずのやうな空に 僕の深い淵が
誘はれたとしても ながめたこの眼に
罪は あるのだ

信じてゐたひとから かへされた
あの つめたい くらい 言葉なら
古い泉の せせらきをきくやうに
僕が きいてゐよう

やがて夜は明け おまへは消えるだらう
-あした すべてを わすれるだらう


 舞台が秋の月夜の萩の原に設定された。しかしこのソネットには4行たりない詩、最後の2連の6行はどのように立原道造はつくろうとしていたのだろうか。あるいは何が書けなくて断念したのだろうか。そしてさとうさんは何を読み込んだのだろうか?この2行から類推するのは難しい。逆にいろいろと想像が羽ばたく。
 転機への渇望を読み取れるかもしれない。しかし「信じていた人」からの「つめたい、くらい」言葉を、私ならば「せせらぎをきくように」聞いてはいられない。どのように転調し、どのように転移するのか。答えは見つからない。
 そしてきり絵に彩色された満月の黄と青の光に呼応する萩の白い部分のうっすらとした微かな青味がかった黄色は、何を物語っているのだろうか。
 私の仙台での学生時代の5年間は、こんなさびしさが、孤独な風が心の中を吹いていたことを思い至った。誰のせいでもない、時代のせいでもない。自分自身のせいといわれても、それは私にはわからない。そしてどのように転移をしたか、もう忘れてしまった。あるいはそのまま転移もなしに20代の頃からの歳月がただただ過ぎ去っただけのような気もする。
 20代の頃のさとうさんの心の中に、どんな風が吹いていたか、私にはわからないが‥。
 さとうさんからは先ほど「立原の清澄さ、年を取るほどに目指したいものです」とのコメントをいただい。なるほど私はまったく別の読みをしていたことになる。解釈も、共鳴するところも人によって、時代によってさまざまだということを実感する。私の読みがただただ頓珍漢でひねくれているだけなのかもしれない。

土門拳を見る・読む(3)

2010年05月23日 10時54分09秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 西芳寺を土門拳はずいぶんこだわって撮影に訪れている。苔寺といわれるほど苔が美しいそうだが、私はまだ訪れていない。
 この三点の写真は忘れられない美しさだと思う。「庭園に相対するときは無意識のうちに、枝葉末節は捨象して、基本的な構成にあずかる要素だけを抽象して、主観的に再構成して鑑賞している」「枯山水にあっても視点の移動を抜きにしては、その構成的な造形性を十分に鑑賞できない」最後に残された可能性は、質感のちがいによる描写だけである。その点でも、苔は写真に苦手な素材である。何とビロードのようなやわらかさもすべらかさも出ないことか。いわば困惑と失敗の果ての窮余の一策みたいなねらいだった」

西芳寺細羽翁苔1965

 岩を丸く覆う苔の滑らかさと半円のパターンと円弧を描く光の帯と、その光の帯を斜めに横切る樹木の強い陰。強弱、直線と曲線、明暗ともにそろった構成は、実に心をおだやかにさせてくれる。
 一見何の造作もなく撮ったように見えるが、私には、ある一瞬にその場面を目撃してから、撮影準備をして写真機を構え、一日中、いや何日も通い続けて、心に焼き付いている一瞬の再現を待ち続けて、また何枚もの失敗を繰り返してようやく出来上がったものというように私は思う。

西芳寺黄金池1959

 この水紋の写真もごくありふれて簡単に取れそうな印象すら与えるが、水面の光の具合を見計らい、十分にピントを合わせてから、おそらく小石による波紋を生じさせてシャッターを切ったものであろう。一点にしか波紋を生じさせる箇所はなかったはずで、的確にそこに波紋の中心がいくような投擲もたやすいものではないだろう。
 私はこのモノクロの写真が、光だけでなく、心のありようによって色彩の氾濫にも思えることがある。心持が激しいときにはそれなりの動的な波紋に見え、心が沈静に向かっているときは、心を静める方向に鑑賞できる。私にとっては忘れることのできない写真である。

西芳寺金剛池夜泊石1963

 この写真には光の反射も見えにくいし、時間の経過をあらわすものもない。水は流れを失い澱み、実に静的な沈黙をあらわしている。強いて動的なもの、時間に統御されるものを探すとすれば、それは岩が少しずつ池からせり出して全体像をあらわすという比喩のような岩の配列だけではないだろうか。
 あるいは水からせり出すにしたがって苔が生じてくる長い時間を表しているかもしれない。

 私は土門拳の写真、古寺巡礼のシリーズが好きだが、その中でもこのように庭や樹木を撮ったものに心惹かれる。