Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

土門拳のエッセイを読む

2010年05月05日 20時32分36秒 | 読書
 一昨日、多磨霊園・神代植物園・深大寺を探索した日の夜、夕食時に胃の下部なのか十二指腸の辺りなのか、突然に痛み出し夕食はお茶だけにして早寝をした。初めは昼間のカレーの香辛料の刺激が強烈だったのかと思ったが、発症の時間から考えて違うようだ。
 昨日は用心をしてアルコールは控えて就寝した。しかし本日になっても胃のあたりがむかむかして落ち着かない。市販の胃薬が効いているのか、下痢はしていないが‥。
 本日は約10キロの歩行をしたのみ。帰宅後はおとなしくベッドへ潜り込み、連休前に購入した土門拳の「風貌/私の美学」を読む。
 文章のプロ顔負け、否、文筆家以上の文章の達人である。
 「風貌」という、いわゆる著名人の風貌を収めた写真集に掲載された対象の人物を撮影したときのエピソードが綴られている。人物の性格まで身近に見るように活写されている。文庫本わずか2ページに足りない量で簡潔にまとめられている。対象をカメラを撮影する目線で凝視し抜き、文章として後日まとめられるほど凝視し続けたことを証明しているようなものである。
 同時にその人物を通して、歌舞伎・文楽・彫刻・陶芸への好奇心が旺盛に湧いているのがわかる。
 風景写真雑感、これなどは写真が芸術としての、美としての成立の根源に迫る迫力がある文章だと思う。
「自分の主体的な、人間的な撮影動機、エモーションというものが加わらない限りは、風景を撮ってもそれは単に絵はがきである。」「概念的に知っているだけではダメだ。‥知るということは深く知るということである。‥胸を広げてモノの突っかかってくる方向へ胸を広げて立ち向かってみるのである。」「松林の風景も、松がはえている大地、土台を抜きにしては一本の松といえども、地上に生えているのとして成立しないのである。苔は松の根方にはえて、その滑らかな光を反射させているだろう。周囲にはタンポポがはえて、黄色い小ちゃな花を咲かせているかもしれない。‥松・苔・タンポポの三つのモノを写しこまなくても環境を出せないというものではない。心中に深く感ずるならば、その存在の影響は画面のどこかに出ないということはない。」
 肉声として私に向かって響いてくるものがある。迫ってくる力がある。体験に基づく強さがある。

 私はかなり以前、市民講座でモノクロの写真を習った。しばらくその先生を囲む写真愛好家のグループに付き合った。しかし当時はまたフィルムだったので、フィルム代、暗室、引伸機、現像紙代や時間のかかる事態に直面し、継続をあきらめた。しかし石元泰博の写真のようなモノクロの世界をしり、とても勉強になったことを覚えている。
 土門拳の仏像のシリーズなどはこの石元泰博の方向性や私が通った講座の講師の志向とは違うが、それでもモノクロの豊穣な世界をより広げてくれた。風景に対する土門拳の言葉は、写真に限らず、風景画にも当てはまる。ただし写真と絵画では構図のあり方も風景を捕らえる技術的なものは当然、レンズと人の目、フィルムと筆という決定的な違いによる差が当然あるのだが。時間の捉え方も違うと思う。
 モノを深く知る、肉薄する、凝視をするということの迫力を教えてくれるエッセイだと思った。
 最後に、報道写真家として出発し、脳出血などの影響で現場での取材が制限される中、古寺巡礼などの風景写真を行った土門拳だが、1968年の羽田事件では、半身不随の病身を押して現場での写真を撮影した。私などは当時現場に行きたかったが行けなかった高校生活をしていた。2年後くらいに土門拳の写真集を見て、ニュース映像とは比較にならぬその迫力に圧倒された記憶がある。このエッセイ集では「デモ取材と古寺巡礼」という題で、氏の考えが述べられている。
 「報道写真家としては、今日ただ今の社会的現実に取り組むのも、ならや京都の古典文化や伝統に取り組むのも、‥僕には同じことに思える。前者が西洋医学の対症療法ならば、後者は漢方医学の持久療法ぐらいの違いがあるだけで、何も問題意識に本質的な違いはない。‥今の日本は問題が多すぎる。医者ならば、急患が多すぎるというところである。ベトナム、沖縄、核禁、公害、物価と問題は山積している。1970年もすぐそこ。報道写真家としての僕も、今日ただ今のアクチュアリティのある問題と取り組んで、現場の目撃者として火柱の立つような告発なり、発言を行いたい」
 途中割愛した「日本民族の怒り」などのことばなどは私にはどうしようもない違和感や深い溝を感じるが、しかし土門拳という人の中で、デモと仏像がこのようにつながっていたのか、ということを知り、私の心の今と大きく重なりうれしかった。

ジョルジュ・ルオーの絵

2010年05月04日 21時52分46秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 ジョルジュ・ルオーの絵というのは、私にとっては不思議な絵だ。子供の頃のステンドグラス職人としての経験によるのではないか、といわれるあの黒い縁取り、そして鮮明でない人物像が背景との区別がつけにくいくらいに塗り込められている。
 暖色が主として使われているのに暗く沈んだ画面。うつむいたり、眼を閉じたりした顔の表情は読み取りにくい。
 展覧会でもいつも通り過ぎるのに、しかし不思議と私の脳裏にこびりついていることが多い。本屋で様々な画集をみていても、画集を閉じたとき絵がやはり記憶に残っていて、本屋の帰りの電車の中でボーっとしているときにふと頭に浮かび上がってくる。
 かといって自分から求めて画集をかったり、あえて美術館に見に行こうという風にはならなかった。たとえば、カミーユ・ピサロやゴッホやクールベ、ジョアン・ミロ、パウル・クレー、ヴラマンク、坂本繁二郎、香月泰男などのように美術館で眼にすると「お久しぶり」などとその前でほっとたたずむというようなこともない。
 通り過ぎてから、何となく気になって出口から引き返してその絵の前に立っても、またすぐに出口に向かってしまう。私にとっては不思議な惹かれ方をする画家だ。
 今年、三つの美術館を回ってどうして惹かれるのか、また後になって気になるのか、探ってみようと思った。といっても私に美術理論があるわけではなく、あくまでも私の印象のつたない分析、自分の感覚だけの予断と偏見でしかなにい。

 まずキリストを、画家にとっての現在という時代を描いた画面に登場させている点が、他のキリスト教絵画と違うと思う。キリストという救いの象徴が、しかもそれは静的で受身で決して能動的ではない状況で現れている。聖書の場面の舞台が現代という言い方より、現代という時代に聖書の登場人物を、時代にあわせるように蘇らせている。
 さらにルオーは社会の底辺で生きる人々へのまなざしを終生持っていたといわれているが、社会の矛盾を声高に告発するわけでも、プロパガンダとしての絵画を描いたわけではけっしてない。パリコミューンの年に生まれ、植民地搾取が繁栄の前提であったり、第一次世界大戦から第二次世界大戦という戦争時代にあって、政治の波に飲み込まれること無く、しかし社会の底辺へのまなざしを忘れていないことへは共感する。そして政治家や「みずから救い主」にならんとする人をすべて否定するつもりは毛頭ないが、「神のいない」時代にあって、みずから神になろうとはしなかった精神には敬意を表したい、との思いが今の私がたっている場所だ。ルオー自身が時代の中に告発者となってしゃしゃり出るということはしていないようだ。
 そう、このうつむき加減のまなざしと、救いを求める静謐な画面、そして底辺の人を見つめる画家の凝視ともいえる視線、これが私をひきつける何かのような気がしてきた。わかりにくい人物の表情もこのように考えると少しずつその表情が浮かび上がってくる。
 もうひとつ、赤などの暖色系等の色が画面を暖かくしていない不思議な配色。緑や青、時として黄色が混ざっているようで混ざらずに見えるが、これが画面に明るさではなく、安定感をもたらしているように見える。私は「ルオーの緑」あるいは「ルオーの青」と勝手に言って見たい気がする。
 この色が効果的にある絵は、ひょっとしたらルオー自身が、精神的にも安定した時期の絵だと思っている。それらの絵は静謐でかつ安定感がある。あるいは希望があると表現できるかもしれない。
 赤があっても「緑」ないし「青」が効果的に、ほんの少しの割合でも現れない絵は、暗く沈んで救いのない状況を示している。この独特の不思議な色調が、ルオーの絵の大きな魅力のひとつなのだろう。
 私は、ルオーはキリストを正面から大きく肖像画や自画像のようには描かなかったと思う。ピエロの絵をよく描いたが、このピエロと題した絵がキリストの肖像画なのではないかと類推している。ピエロの苦悩と少しある希望、これをルオー独特の色彩によって類推することができるのではないか。
 ルオーが「追憶」や「ユビュおやじの再生」「ミセレーレ」などの連作、詩や物語の挿絵に大きなエネルギーを注いだのは、この独特の色調による画面の微妙なニュアンスの差にルオー自身が自覚的にのめりこんだ証左であると思う。そういった意味で、ルオーの連作は細切れに展示されることが日本では多いが、物語や詩全体の翻訳と一体となった絵や版画の展示が行われなければ、ルオーの理解は断片的になってしまう。
 今回の「ユビュ」の企画も、カタログを購入してもこの物語の要約すら示されていない、はなはだ不満の残る企画である。




 最初の絵は、後ろに赤い背景がある。カーテンか何かのようだが、画面を明るくしたり、温かみを添えることはない。服装に散らばる青も、背景の黒い青と呼応しており私のいう「青」ではない。節目がちの目が救いからは拒絶された絶望に近い諦念を感ずる。
 二番目の絵は、3つのピエロの絵の中ではもっとも明るく、絵自体に温かみがある。服装の「緑」が閉じ気味の眼にかかわらず、明るい表情を醸し出している。マントらしき物の赤はその明るさのイメージになんらの寄与もしていない。
 三番目の絵も瞑想にふけるようなピエロ=キリストだ。絶望と悲しさをかみ締めているような表情である。首と顔の一部の赤によってこの雰囲気が一掃際立っている。赤がここでも絶望と悲しみに人を引きずりこむ役を担っている。救いの象徴のような「緑」はまったく無い。
 この一般的な色彩感覚との乖離、これがルオーの大きな特徴、特質のような気がする。赤は黒ずんで見るものの意識もとことん下降気味にする。一般的な意味合いでの救いが決して浮上しないような場面・状況を想像させる。画家にとっても出口のない想念に取り付かれているようだ。
 そして緑や青が目立たないように配色されていても、調和と希望が画面に出てくる。どちらかがいいといっているのではない。どちらも私の気持ちを惹くことは確かだから。
 内省的で静的で、諦念が横溢しているような画面の中に、社会の底辺であえぐ人間を凝視しつづけた画家のような気がする。はじめにも書いたとおり、これはあくまでも私の印象だけを基にした、頓珍漢は承知の上の観想である。


出光美術館、ブリヂストン美術館&汐留ミュージアムでルオーを連続鑑賞

2010年05月03日 21時52分12秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日の予定の三菱一号館美術館は入場まで40分以上の列だったので、即あきらめた。すく傍の出光美術館で「喫茶のたのしみ」展を見る、というより同時にジョルジュ・ルオーの受難を見ることに力点を置いて入場。今回は「受難1~5」が展示されていた。版画を油彩画にした64枚の連作だが、これをまとめて鑑賞したことはない。出版物もないと思う。是非まとめて見たいと思う。
 本日の企画の「茶」のついても素人の私だが、一昨日の「細川家の至宝」に出品されていた「銘頼政」の茶碗などのような陶器は好きだ。今回展示されていたものの中では「伊賀耳付花生」(出光美術館名品選Ⅱでは「灰釉双耳角花生(伊賀釜・桃山時代)」)に惹かれた。
 次のブリヂストン美術館も混んでいたが、人の頭の間から覗くような混雑ではなく助かった。こちらも「印象派はお好きですか?」展ではあるが、今回はほぼ素通りをしてジョルジュ・ルオーの4点が目当て。ただしモネの「黄昏、ヴェネツィア」に敬意を表してしばらく鑑賞した。この上下対象の暖色の色の変化の中の塔はいい。(添付の図)

 さてルオーは「郊外のキリスト」「ピエロ」「赤鼻のクラウン」「裁判所のキリスト」が展示されていた。私の好みは「郊外のキリスト」(上掲)。私の好きなルオーの緑・明るい青が現れない絵の中ではもっとも好きな絵である。
 最後は汐留ミュージアムの「ユビュ 知られざるルオーの素顔」。このユビュシリーズは初めてなので興味が湧いていた。ここではカタログ2100円也を購入して、妻の財布を軽くしてしまった。

 ルオーの絵になぜ惹かれるのだろう?とふと考えた。別に心惹かれるのに理由など詮索する必要は無いのだが、はっきり言ってあのグロテスクとも思える黒い縁取りや、良く目を凝らしてもわかりにくい人物や風景にどうして惹かれるのか、なかなか気になる。
 そんなことを思ってカタログを買ってみた。しばらくカタログを見ながら考えてみたい。

カレーの店「プーさん」(武蔵小金井)と多磨霊園と神代植物園・深大寺

2010年05月02日 21時13分30秒 | 山行・旅行・散策
 毎回墓参りは、武蔵小金井駅経由で多磨霊園裏門経由で行くが、その途中のカレーの店「プーさん」を目的に武蔵小金井駅まで行った。本日で三回目。店の改装後としては初めて。ネットの検索では3代目のマスターとのことだが、辛さは少しマイルドになったような気がする。辛さ普通、ご飯はプチでも十分にコクのある辛さと量、そして20数種類かと思われる野菜が入っている。
 いつも彼岸の頃で店の前に行列ができている。本日はすぐに入れた。年寄りには量も辛さも合わないのでいつも墓参りとは別の日に訪れている。
 本日はここのカレーを食した後、「ここまで来て墓参しないで帰るわけにはいかない」と、お墓に詣でてから表門まで歩いた。

 多磨霊園は四季折々の花があり、さまざまなお墓を見ながらの散策ができる。今日は大平正芳元総理大臣の墓を見つけた。横に婦人の名も刻まれ、周囲に比べ質素ではあるが落ち着いた感じである。

 表門からタクシーにて神代植物園。石楠花や早咲きのバラ、見ごろの藤を満喫。しろい一重の山吹が見ごろであったが、何とも不思議な思い。妻の「山吹は山吹色でなくては‥」の言葉どおりだ。ただしとても清楚な感じはする。また「かつら」の樹が幾本もあり丸い葉の新緑が印象に残った。
 隣の深大寺で「なんじゃもんじゃ」の白い地味な花を見て帰宅。

 明日の予定は、三菱一号館美術館と汐留ミュージアムにおもむく予定。

国立西洋美術館「フランツ・ブラングイン」展と東京国立博物館「細川家の至宝」展ほか

2010年05月01日 23時15分58秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日は東京国立博物館と国立西洋美術館を訪れた。
 国立博物館では、まず、「仏像の道-インドから日本へ」。仏像が発生した紀元後の現パキスタン・ガンダーラ地方の初期仏像から、西域・中国・朝鮮半島を経由して日本の飛鳥時代の像の流れを22体の仏像で示そうというものだった。
 しかしそれぞれの地域で時系列の仏像の歴史があり、さらに各時代とも西から東への影響が起きていたことを考えれば、一本の流れだけで、全体の流れを把握できることはありえないことをキチンと頭に入れておかないと、いけないとあらためて感じた。どうも一面的な歴史理解に陥りやすい企画だと思った。
 もうひとつ南伝仏教の流れにまったく触れていない。タイ・カンボジア・ベトナムを経て中国南部から朝鮮半島への流れが紹介されていない。ここでもそれぞれが時系列をもっている。またチベットについても触れていない。
 同時に中国から西域へ、チベットへ、ベトナム・タイ等への逆の流れもあるのではないかと想像もしてみた。
 そんな大掛かりな陳列は無理としても、写真紹介でもいい、またそういうことも考慮に入れた複眼的な歴史があることは解説で触れなければ一面的な歴史把握・知識になってしまうと感じた。
 しかし初期のギリシャ・ローマ的な人間の表情に近い要素の仏像も、朝鮮半島・日本の様式化が進んだ仏像も、表情に差はあるものの、共通の親近感がある。祈りの衝動をかなり高次元で受け止める高度な思惟・哲学に基づいていることでは共通であるのだろう。
 次に新指定国宝・重要文化財の企画展示室へ。伊能忠敬関係資料を一括重要文化財から国宝に指定したのだが、伊能図をつくる元となった自筆の測量成果図など、地図を作る息吹が伝わってきた。
 出雲大社旧本殿跡からの出土品、平泉柳之御所跡出土品など、興味があったが、如何せん解説がないと理解ができない、評価ができない。
 次に企画展の「細川家の至宝」展。思ったよりは人は少なかった。鎧・兜・具足類は興味が無かったが、実際に目にしてみると、その奇抜な意匠に惹かれるものがあった。鳥の毛を幾本もまっすぐに兜の天辺から立てた意匠は奇抜であるだけのものというよりは、いかにも戦場での必然のように思わせる迫力を感じることができた。
 茶道具にも惹かれた。「唐物茶壷 銘 頼政」と茶碗「油滴天目」は黒の色の深みに吸い込まれそうな気分となった。確かに人を引き込む力がある。

 国立西洋美術館では松方コレクションのパートナーであったフランク・ブラングイン展から見た。残念ながら油絵や各種意匠より、エッチングと版画に心惹かれた。



 エッチングは、造船所での船の解体、造船の現場を描いたものや宗教画的なものがあったが、どれも陰影を強調しレンブラント様の光の演出で劇的な効果を狙っていた。油彩画もそのような劇的なものをねらっており、ブラングインの指向としては同じなのだろうが、エッチングの作品の方がより対象に肉薄している。油彩画は激しすぎる、空回りしている。
 ただし添付したエッチングの絵は船の下に労働者群がいない。働くものがいるものの方が余程良いと思われるのだが、いつものように私の気に入ったものは絵葉書にはならない。2700円のカタログを購入する資力はなく、断念した。
 版画はいかにもアール・ヌーボー然としたものだが、油絵とはまったく違って落ち着いたもので、これは私の好みだ。摺りに日本人が大きくかかわっていたとのこと。
 通常展示は駆け足のようにして回ったが、いつものようにクールベの前で立ち止まった。罠にはまった狐、波の絵などなど。そしてカミーユ・ピサロの冬景色の絵。またじっくりと見る機会を持たないと‥。