午後は広いコンビニのイートインコーナーに座り、わずか100円のアイスコーヒーで1時間近くの読書タイム。「人類の起源」の第6章「日本列島集団の起源 本土・琉球列島・北海道」を2/3ほど。
出かけるとき杖は持たずに家を出た。そしてバスに間に合うように少し足を引きづりながら急いだつもりで歩いた。といっても人よりは少し遅いが。バスに乗ろうとしたら、私よりも高齢で80代と思われる杖を着いた女性に、先に乗車するように促された。先に乗らずとも空いているので十分に座れるのだが、私が足を引きづりながら急いでバス停に向かっているのを見ていたらしい。
さすがに驚いたが、後から乗っても先に乗っても座れることに変わりはないので、好意は受け取ることにした。
しかし何となく恥ずかしさが先に立ってしまい、空いている一番奥の席まで行って座った。
帰宅後妻にその話をしたら、おおいに笑われた。確かに昔から年齢よりは上に見られるのだが、そこまで見られたのには驚いた。妻に言わせると新しいエピソードとして日記に記載しておくという。実年齢より上に見られることはもう致し方ないと10代の頃より諦めている。
本日は長袖で出かけたのは失敗であった。もう半袖、半ズボンで良かったと思う。バスを待つ間、陽射しに照らされて気分が悪くなりそうなほど暑かった。
フラワー緑道を久しぶりに一人で歩いてみた。菖蒲が見頃となっており、傍ではヒイラギナンテンが実をたわわにつけていた。
カワヅザクラにはまだ白い実と赤くなった実がいくつか残っていた。鳥に啄まれないでのこっていたようだ。しかし黒く熟した実は見当たらなかった。
そして不思議なことにカワヅザクラよりも後に実が着いたヨコハマヒザクラには2本とも実が一つも見つからなかった。すでに鳥に食べられてしまったのか、カワヅザクラよりも先に実が熟して落ちてしまったのか、見極められなかった。来るのが少し遅かったのかもしれない。
そして今年気になったのは、カワヅザクラよりもヨコハマヒザクラのほうが葉が少し厚く大きめではないか、ということ。撮影し終わってその場を離れてから、気になった。
光線の具合か、あるいは木の年齢なのか、それとも私の早とちりなのかは不明である。今度じっくりと観察してみたいと思う。それまでの宿題としうしよう。
帰り道は歩かずにバスを利用。バスの窓からカワヅザクラとヨコハマヒザクラを眺めたが遠すぎてわからなかった。
「図書5月号」をとりあえず読了。
・「図書」の表紙を書き終えて 下 武満徹の「夢の引用」 司 修
「タケミツが十六作目に作曲した映画音楽「不良少年」はスナップ写真のようなシーンからはじまります。‥不良少年たちは私と同世代が多く、敗戦によるはまざまな影響を受けています。戦後の荒廃は町だけでなく、勝つ戦争を信じて生きた男たちを襲い、不良少年の父親世代は軽石のような頭になっていて、妻への、子どもたちへの腕力と言葉による暴力が、少年たちを不良化させていったといえます。私も不良とならずにいられたのが不思議です。敗戦と焼け野原がそうさせたと思うと同時に、焼け野原の生活が私を不良になるのを止めたと思うのです。焼け野原にバラックを、母と二人で造ったことや、自分たちの糞尿を土に流して生まれた野菜の味などがそうです。」
・言葉の栞3 Flowers in the Dustbin プレディみかこ
「(ウクライナ人とベラルーシ人との間に生まれたアレクシエーヴィチは)「小さき人々」の概念をロシア文学に登場させたのはドストエフスキーだそうです。‥ドストエフスキーはそれまでロシア文学があえて書こうとしなかった人間の多様な側面と暗黒を書いたと語っている‥。‥彼女の祖母はドイツ兵を恐ろしい悪魔ではなく、一人の人間として孫に話して聞かせたのです。どこを切っても金太郎飴のように天使の顔しか出てこない人間もいなければ、悪魔の顔しか出てこない人間もいない。ドストエフスキーと祖母はそのことを彼女に教えたのでした。それなのに戦争がはじまると、わたしたちは金太郎飴の思考に傾きがちです。そうしなければ、たとえどんな大義があったとしても人が人を殺すことを正当化できないからです。でも、それでは偉大な物語や英雄の話しに逆戻りして、「小さな人々」が見えなくなってしまう。谷川(俊太郎)さんからいただいた詩を思い出しました。“道端の萎れた花束に目を留めて/それをコトバにしようとするけれど/人の役に立たないものミクロな行動は/地球上の人類が直面している困難と/なんの関わりもない/と 彼は考える” きっと人間たちは、巨大な危機に直面しているときこそ、道端に捨ててある花束に目を留めなければならないのです。‥大きな言葉の劇的な洪水にさらわれ、自分では考えてもいなかった場所に流されてしまわないように。」
・美術館の扉を開く6 来る者 岡村幸宣
・中村きい子の激しさ 斎藤真理子
「中村きい子の二つの小説には、戦争の中で、家族どうしの関係に国家の強権がめりめりと食い込む場面が描かれている。「間引子」と「女と刀」ではその構図が反対であっても、「家」と「私」と「国」がそれぞれの重さでぶつかり合う瞬間の激しさは同じだ。その中で選択を迫られるとき、家族は虚飾をはがされ、何か名誉であり、何が卑怯であるかをめぐってにらみ合う。その視線の強さ、言葉の苛烈さには圧倒されるが、同時に、めいめいの考えがしっかりと言葉にで筋道を通して説明されつくしていることに、感銘を受けた。」
「日本人は長らく、戦争と名誉について、自分のこととしてはほとんど考えなくてよかった。その歳月が長かった分、(鶴見俊輔のいう)てんびんの向こうにあった重さが今、ずっとりとのしかかってくるような気がする。」
今月号は16編のうち以上13編を読んだ。特に今回引用した3編はとても惹かれた。