昨日の「実年齢より上に見られる悲しみ 」の続き。
小学6年生のとき、クラスの友人が塾に通っているのを見て、私も塾に通ってみる気になった。塾は私鉄に乗って通った。短い短期講習をとりあえず受講することにして、その都度小学生用の半額切符を購入して通った。ある日、窓口で「お前が小学生であるわけがない、小学校の証明書を見せろ」といわれ、在学証明書だったかを見せたら、「中学生にもなって弟のものを使うのは犯罪だ」と駅員にに脅かされた。同じ塾に通っていた友人が、「僕と同じ教室に通っているんだ」と言ってくれてやっと切符を売ってくれた。
小学生の私はいたく傷ついた。当時156cm、50キロの私は確かに頭一つ大きかったが、犯罪者扱いされたことで、親を恨んだものである。塾の授業はとても楽しかったので、通うことは辞めなかった。その駅員は私の顔を覚えたらしく、それからは私をにらむものの黙って切符を販売してくれた。あの怖い目つきは今でも覚えている。
短期講習が楽しかったので夏休みは通学定期ではないが、小学生用の一か月定期を買ってもらって通った。
2学期になり、塾の夜間講習にも通った。塾のそばに映画館があり、成人映画を上映していた。友人とともに好奇心いっぱいでそのポスターを眺めていたら、後ろにいたオジサンから、「高校生はまだ入れないんだぜ」と注意されたことがある。友人も背は高かったので、高校生と間違えられたと思われる。
大学に入って1年目、仙台市に住民登録をしたとき、窓口の女性が開口一番に「弟さんと同居になるんですか」と聞かれた。「私本人です」と返事をしたことを記憶している。当時はどんな書類をもって窓口に行ったか覚えていないが、ずいぶん失礼な市役所だと思った。それ以来仙台市内で3回転居したが、住所変更手続きに行かないで済ませた。
やはり1年生の夏休み、サークルの先輩に連れられて奥松島の野蒜海岸という海水浴場に行った。そこで先輩が若い女性数人に声をかけて、一緒になった。銀行員とのことであったが、私のことを彼女たちは「もうお子さんもおられるのではないですか。30歳過ぎに見えます」と端から敬遠されてしまった。このときほど傷ついたことはなかった。
さすがに先輩達もムッとしたらしく、すぐに彼女たちを置き去りにして男3人で仙石線に乗って仙台に戻ってきた。駅前の居酒屋でふんだんにおごってくれたことはよく覚えている。いい先輩たちであった。当時は19歳でもお酒は飲ませてくれた。
横浜市の一担当職員であった30代も半ばのころ、要望があり地元の意向と法律の狭間で苦労しながら何とかまとめた。後日地元の代表が市会議員とともに事務所を訪れ、部長に面会を求め、「Fs課長はいますか?お礼にまいりました」と菓子折りを持参してきた。
部長・課長は苦笑いをしていたが、一番驚いたのが私本人である。菓子折りは丁重にお引き取り願ったが、保守系の市会議員は私の肩を叩いて、「お前さんのことだったのか。40代で課長よりも上の部長職に見られるほど態度が鷹揚だぞ」と笑われ、それ以来仲良くしてもらった。内心それでも俺はまだ30代だぞ、と怒った。その議員は、私が組合の非主流派の役員であることは後に知ったようだ。地元の要望を所長に話す前に私に一応打診をして前捌きを依頼されるようになった。私の前捌きで見通しがつくと、その議員が直接部長である所長に話しをするという道筋が二人の間で出来上がった。地元での議員の手柄にしていたのは承知している。代々の所長も知っていたはずである。
やはり同じころ、道路の不正使用をしている人に指導をするために係長と共に地元に出向いた。係長が名刺を出して指導したが、やくざのようなその人が突然私を指さし「係長より偉そうなお前がどうして名刺も出さずに後ろにいるんだ。お前が出てこい」と怒りだした。この時はたまたま警察官も同行したので、警察官がその人を制して「これ以上騒いだらどうなるかわかるか」とすごんで見せて終わりとなったのがさいわいであった。
10代のころから、実際の歳よりも上に見られ、就職しても実際の役職よりも上に見られるたびに、実際の年齢相応に見られたい、と願ってきた。しかも70歳になる今でも変わっていないのだろうか。
妻は口を噤んで、最初の出会いの時の印象はいわない。私の以上のようなエピソードを聞いてニヤニヤ笑って聞いているだけである。
「とっちゃん坊や」と言われたエピソードはまだまだあるが、自分がみじめになるので、この程度で終了。