Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「国立西洋美術館の名作」

2020年09月26日 23時14分55秒 | 読書

 本日の夜は、オンラインでの飲み会。オジサンとしていつも不思議な思いをしながらも楽しく参加させてもらっている。普段は気心の知れた男ばかりで居酒屋に行くのとはちがい、女性ばかりというのが、新鮮で面白い。

 本日横浜駅地下の有隣堂の美術関係のコーナーで「国立西洋美術館の名作」(誠文堂新光社)という本を見つけ、購入した。表紙の作品は、ルカス・クラーナハ(父)の「ホルフェルスの首を持つユディト」の部分。
 「国立美術館ガイド3」となっており、「京都国立近代美術館」と「国立国際美術館」「国立近代美術館」の4冊が出版されているらしく、本日棚にあったのは近代美術館を除く3冊。

 西洋美術館に行くたびに、通常展示の解説が欲しい、と思っていたのでためらわずに購入した。もしも「国立近代美術館」のものがあれば一緒に購入したかった。どこの美術館でも通常展示の作品解説が欲しいのだが、揃えていない。
 横浜市美術館でも収蔵作品展は開催されているが、収蔵作品全体の解説本はない。

 とてもいい企画だと感じた。できるだけ早めに通読したい。


「裸婦の中の裸婦」(澁澤龍彦)

2020年09月26日 22時22分34秒 | 読書

 本日から読み始めた本は「裸婦の中の裸婦」(澁澤龍彦・巌谷國士、文春文庫)。
  既に古書店で購入していた本、購入した時に12編の内4編を読んでそのままになっていた。再度始めから読みなおしである。
 この書は1986年3月から月刊誌の連載として、澁澤龍彦氏によって始まった。しかし9編まで澁澤龍彦氏が書いたにもかかわらず、氏が癌を患い、巌谷國士が残り3編を引き継ぐ形で完成されたものである。

 澁澤龍彦の文章はなかなか読みにくいのだが、この書は対話形式の文章で、言葉が分かりやすく、何よりも親しみがある。しかしすでにこれまでに読み終わっていた部分までは読み終えた。残り8編、すぐに読み終えてしまいそうなのが残念。

 


「美術の物語」第8章

2020年09月26日 14時15分41秒 | 読書

 日曜日からのオンライン講座のテキストである「美術の物語」(ゴンブリッチ)の第8章「るつぼの中の西洋美術 ヨーロッパ 6世紀-11世紀」を読む。同時に講座の資料24ページを打ち出し、目をとおす。

 ゴンブリッチの叙述は唐突に一般化した言葉がポンと出てくることが多い。それが当っているなぁと感心する場合も多いのだが、そこまで断定してしまっていいいのかな?と疑問符をつけて保留したくなるところも多い。

 前回読んだ第7章では、「(中国では)絵に求めるのは、本物らしさではなく、筆の跡にみてとれる画家の精神の高揚である。(画家が)雄峰を前にして感じた畏怖のようなものを追体験しようとすれば、中国人が美術のどんなところを重視していたか、感じ取れるであろう」
 さらに「(中国では)単純な主題でも画家が忍耐強い観察を重ねていることが感じられるし、いざ筆をとると自由自在に主題を扱っている。ここにもまた、優美な曲線を好む中国の画家たちの傾向が見てとれ、運動感を出すのに曲線が効果的に使われている‥。明確な対称性はどこにもないし、ペルシャの写本彩飾のような均等な配置もない。それなのに全体のバランスについては、作者は絶大な自信をもっている。」と言葉を慎重に選びながら述べている。

 非対称性、稠密な書き込みの否定はよく言われるが、「曲線」への着目は覚えておきたい指摘だと思った。

 しかし今回の第8章では、「エジプト人はおもに「知っている」ことを描いた。ギリシャ人は「見えている」ものを描いた。だが、中世の画家は「感じている」ことをも表現できるようになったのである。」という指摘に、たじろいでしまった。
 確かにこれまで読んできた流れでは、全面的な同意は保留するものの、エジプト・ギリシャについてわかる。しかしはたして5世紀から11世紀、中世前期までのヨーロッパの美術の総括として「感じていることをも表現できるようになった」ということでひとくくりできるのか、ととっさに思った。
 むろん全くの素人なので、否定はできないが、この指摘は記憶して検証したいと思わせてくれた指摘である。