本日の読書は「定家明月記私抄 続編」の続き。「眼前ニ公卿ヲ見ル(嘉禄二年記)」、「花と群盗(安貞元年記(1))」、「正二位ハ人臣の極位ナリ(安貞元年記(2))」、「初月糸ヨリモ繊(ホソ)ク、山ヲ去ルコト纔(ワヅカ)二五尺(寛喜元年記(1))」、「金銀錦繍ヲ着シ渡ル(寛喜元年記(2))」の5つの節を読む。
定家は関東申次の西園寺公経、関白九条道家との姻戚関係、鎌倉の宇都宮頼綱との姻戚関係構築によって貴族としての階段を遅ればせながら駆けあがり、正二位に上り詰める。後鳥羽上皇のときの和歌所寄人などで同輩であった家隆などの没落とは対称的であった。
だが京の宮廷も買官が横行し、京は群盗が横行し、地方からの収入も途絶え、富は西園寺家・九条家に集中し、政治も人心も頽廃を極めている時代であったようだ。
「地方の実相がかくの如きものであるとすれば、もはや歌枕による芸術的、懐古的、伝統的地理認識というものは成立しなくなる。‥月の名所の「田毎の月」などと謳われた姨捨山についての幻想は、完全に消えてしまったであろう。すなわち和歌による、あるいは宮廷においての伝統的な日本認識というものが、何の実態も伴わないものであることが、いやでも応でも、咽喉もとに押しこむようにして知らされているのである。」(「正二位ハ人臣の極位ナリ」)
堀田善衛は定家の歌の世界が、このような天皇制の解体、無力化という中で、支えられていることをこれでもか、というほどに明月記の記載を通じて実相を暴いていく。というよりも定家自身が明月記に詳細に、ゴシップジャーナリストのように社会をえぐり出しているのである。
歌の世界よりも、家の確立、御子左家の経済の確保と地位の確保が勢力が費やされている。
しかし明月記とのお付き合いもそろそろ終盤である。もはや定家も70歳に届き、新勅撰集の撰進という仕事が遺されているばかりである。