Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「定家明月記私抄 続編」 その5

2020年09月06日 23時03分34秒 | 読書

   

 本日の読書は「定家明月記私抄 続編」の続き。「眼前ニ公卿ヲ見ル(嘉禄二年記)」、「花と群盗(安貞元年記(1))」、「正二位ハ人臣の極位ナリ(安貞元年記(2))」、「初月糸ヨリモ繊(ホソ)ク、山ヲ去ルコト纔(ワヅカ)二五尺(寛喜元年記(1))」、「金銀錦繍ヲ着シ渡ル(寛喜元年記(2))」の5つの節を読む。
 定家は関東申次の西園寺公経、関白九条道家との姻戚関係、鎌倉の宇都宮頼綱との姻戚関係構築によって貴族としての階段を遅ればせながら駆けあがり、正二位に上り詰める。後鳥羽上皇のときの和歌所寄人などで同輩であった家隆などの没落とは対称的であった。
 だが京の宮廷も買官が横行し、京は群盗が横行し、地方からの収入も途絶え、富は西園寺家・九条家に集中し、政治も人心も頽廃を極めている時代であったようだ。

「地方の実相がかくの如きものであるとすれば、もはや歌枕による芸術的、懐古的、伝統的地理認識というものは成立しなくなる。‥月の名所の「田毎の月」などと謳われた姨捨山についての幻想は、完全に消えてしまったであろう。すなわち和歌による、あるいは宮廷においての伝統的な日本認識というものが、何の実態も伴わないものであることが、いやでも応でも、咽喉もとに押しこむようにして知らされているのである。」(「正二位ハ人臣の極位ナリ」)

 堀田善衛は定家の歌の世界が、このような天皇制の解体、無力化という中で、支えられていることをこれでもか、というほどに明月記の記載を通じて実相を暴いていく。というよりも定家自身が明月記に詳細に、ゴシップジャーナリストのように社会をえぐり出しているのである。
 歌の世界よりも、家の確立、御子左家の経済の確保と地位の確保が勢力が費やされている。

 しかし明月記とのお付き合いもそろそろ終盤である。もはや定家も70歳に届き、新勅撰集の撰進という仕事が遺されているばかりである。


明日から「白露」というが・・

2020年09月06日 18時02分26秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 本日は完全休養日。 本日までが二十四節気の処暑、明日からは白露ということになっている。節気の定義によれば、
・処暑は「陽気とどまりて、初めて退きやまんとすれば也(暦便覧)」で、「処暑は暑さが止むと言う意味。萩の花が咲き、朝夕は心地よい涼風が吹く頃だが、台風のシーズンでもある。」
・白露は「陰気ようやく重なりて露こごりて白色となれば也(暦便覧)」で、「野には薄の穂が顔を出し、秋の趣がひとしお感じられる頃。朝夕の心地よい涼風に、幾分の肌寒さを感じさせる冷風が混じり始める。」
ということなのだそうだ。
 しかし、本日までの「処暑」では、夏の陽気は退く気配は見せていない。台風シーズンであることと、萩の花が咲き始めていることはあたっているが、暑さの止む気配も、朝夕の心地よい涼風もない。
 明日からの「白露」でも、露も結ばず、涼風も肌寒さも期待は薄い。虫の声、薄の穂は確かに見ることはできる。

 萩の花や薄の穂は確かに見かけるが、この暑さではそれらを眺める気持ちにもならない。虫の声、ツクツクホウシの声は聞こえてくるので、季節は秋だとは思うが、体は飽きであるとは納得していない。シオカラトンボも見かけるけれども、それを眼で追う気力も湧かない。

 いやはや、今年の夏は、否今年の夏もだいぶ暦とずれてしまった感じである。

★水平に流れて海へ処暑の雲       柿沼 茂
★姿見に一樹映りて白露かな       古賀まり子
★糸尻の掌になじみたる白露の日     斉藤史子

 第1句、この雲は秋の雲であろうが、何という雲か、悩んでいた。秋らしい高い雲ならば「流れる」という表現がぴったりとはおさまらない。高度が2000mくらいの綿雲=積雲ならば秋のものは夏と違って平べったい。これならば8月末によく見かける。夏のような雲でもあるが、停滞しないで流れていく様子は秋の気配が濃厚である。
 第2句、夏でも冬でも一年中姿見に庭の樹は映る。しかし多分しっかりと着付けが決まるのは、白露の季節なのである。
 第3句、糸尻は茶碗の底の突き出た部分。ざらざらとしている。秋の涼やかな気配の中、暖かい茶が美味しく感じられる季節である。冷たい飲み物ばかりを喫していた夏からの季節の移りである。抹茶茶碗よりも煎茶茶碗で喫したお茶の方が私はこの句にぴったりだと思う。


持続力・持久力

2020年09月06日 12時55分12秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 正午までは団地の管理組合の関連の会議。理事ではないので事務的には楽をさせてもらっている。

 11時の段階で29.8℃。これまでの気温に慣れている身体ではそれほど暑いとは感じないが、身体には危険である。身体が気温にすぐに順応するというのは驚くべきことだが、その能力がかえって身体を無理に動かしてしまうというマイナス要因にもなっている。
 身体機能というのは、瞬発力などは限界というものがすぐに表れる。だが持続力・持久力に関しては無理を続けることが可能なのだ。無理を続けていると、気がついたときには限界に達していて、身体機能が突然に異常をきたしてしまう。心身が同時に発症することもある。
 私はいつもこのパターンが多い。自分でも無理をしているな、とわかっていながら自分で止めることが出来ない。気がつくと疲労がたまる、という程度を通り過ぎて、病気として発症してしまっている。精神的にも突然つらくなる。その結果、たいがいは妻に迷惑をかけている。

 痛風と思われる足の親指の付け根の痛みは少しある。会議のために団地の集会所まで歩いたけれども痛みはそれほど強くは感じなかった。痛み止めは昨晩から服用していない。しかしこれまでのように歩くのに支障になるような痛みの再発の予兆もあり、ビクビクしている。
 今のところこれ以上出かける予定もない。夕方になってから、どういう気持ちになるか。10分でも20分でも歩いてみたい、体を動かしてみたいという欲求が出て来るかもしれない。それまではおとなしくしていようと思う。

 天気は曇。出れ日では台風10号の情報が続いている。被害がでないでほしいものである。