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Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

今晩は早寝

2019年03月17日 23時27分57秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日はもう56年も昔のことを長々と書き綴った。本当はまだ書かなくてはいけないことがあるのだが、それはそのうちいつか気が向いたら書いてみたい。今は書くわけにはいかない。
 記憶だけが頼りなので、半世紀の風化と忘却の結果である。肝心なことを忘れているかもしれないし、子どもには理解できないこともあったと思う。私の孤立のような状況は多分、私一人の振舞いだけではないはずだ。しかしそれは今は言えない。

 さて、明日は朝から退職者会の幹事会。例によって事前会議が3つほど、そしてそれをこなしたら今度は1200分以上のメール便の発送作業である。これが終わってから幹事会である。
 例によって疲労困憊して終了となる。退職者会ニュース、印刷が間に合いはずだが、12時までに組合の会館に到着しないとお手上げである。弐カ月おきにやきもきしながら到着を待っている。心臓に悪い。

 ということで今晩もまた早寝をしなくてはいけない。健康のためには悪い事ではない。

扱いづらい子だったにちがいない その2

2019年03月17日 20時12分00秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 進級して6年生になったとき、夏休み前だったと思うが、突然にクラスごとに体育の記録会が催された。ソフトボール投げ、50メートル走、幅跳び、懸垂位だったろうか。私は何しろ鉄棒や器械体操は1年生の時からまったくできなかった。
 懸垂など1回も首が鉄棒の上まで持ち上げたことがない。今も出来ない。ソフトボール投げもどう投げていいかわからなかった。その前の川崎の小学校で、思い切り腕を使って投げて痛みが走り、うずくまったことがある。「そんな投げ方をしたら肩が痛くなるのは当たり前だ」と逆に怒られた。それなら最初からそう教えてくれてもよさそうなのだが、知らないのが悪いということであった。注意をしていなかった私が悪いのだそうだ。
 また徒競走というのは、幼稚園以来いつもビリであった。自分でも悲しくなるくらいドタバタ走った。
 それが不思議なことに、ソフトボールを投げろといわれ、肩を庇って投げたらクラスで5番目くらいの記録だった。具体的な距離は覚えていない。幅跳びもとても良かった。懸垂はいつものとおり0回。いつものように皆に笑われておしまい。
 そして50メートル走になり、女子と二人一組で走らされた。これが不思議なことに8秒を切ってクラスで2番目になった。クラスのみんなが仰天した。
 タイムを計っていた担任ともう一人の体育を専門としているという別のクラスの男性教師が、計測の誤りかも知れないからもう一度走れ、という。他の生徒はそんなことは命じられない。私だけが、予想外のタイムだったので「測り間違い」というのは今思えばあまりにひどい言い方である。当時の私もとても傷ついた。しかし2回目も一生懸命走った。教師の指名で一人の生徒が一緒に走ってくれた。結果は一回目ほとんど同じタイムで走った。教師も信じられないという表情で記録を書き込み、その日は終了した。
 教室に帰ると私の記録が早かったことで話が盛り上がった。私は恥ずかしいようでもあり、同時にどうしてこんな話題になるのかわからず、黙っていた。

 帰りがけにどうして走るのとソフトボール投げがこんなに記録が伸びたか、考えてみた。
 この学校に転校してから、私は毎朝10分ほど緩い坂を私鉄の最寄り駅まで全力で走った。一駅だけ電車に乗ってさらに、駅から学校までの急坂を5分走った。いつも遅刻ギリギリであった。それで鍛えられたのかな、とまでは考えた。しかしそれ以上はわからなかった。ソフトボール投げの記録が伸びた原因はわからなかった。
 今思うと毎日の通学での走り込みの外に、帰りは一週間に一度か二度は一駅分を歩いて帰った。また家の前の途中で造成をやめてしまった標高差30メートルほどの丘の斜面を一人で行ったり来たりするのが楽しみであった。一緒に遊ぶ友だちはいなかった。たまたま戸建て20軒の小さな谷底の造成地に引っ越したのだが、同学年の男の子は誰もいなかった。そしてその造成地の隣りの古い造成地の子どもたちは別の小学校に通い、交流はなかった。
 当時は学校建設が間に合わず、私のような小学生でも電車通学が行われていた。給食設備もなく、弁当持参であった。6年生になる時、ひょっとしたら2部授業という午前組・午後組とに分ける、といううわさもあったらしい。さいわい6クラス300人に収まったということでそれを回避できた、という話を聞いたことがある。

 しかしこんなことよりも私は、別のクラスの体育の教師だという男性教師の、びっくりしたような顔が忘れられない。人並みに走るどころか、クラスのトップに近い速さで走ったことで私に対する評価がガラッと変わったらしいのだ。人をさげすむ目付きが少し変わったと思った。これまでは廊下ですれ違っても声をかけてこなかったが、この日から「生意気なだけでなく、ちゃんと走れるんだ」と声をかけてくるようになった。この人をばかにした言い方に反抗心が湧いてきたが、それを表現する場はなかった。
 ただし5年生のときに声をかけてくれた人懐っこい顔の先生は、相変わらずニコニコとして引き続き声をかけてくれる。ただし記録会のことは何も言わなかった。

 こんなことがあり、夏休み直前に突然校長室に私は呼び出された。女性担任に同行して初めて校長室に入った。そこで「君は横浜市の健康優良児童の選考基準を満たしているので、この小学校と〇〇区の代表として横浜市の選考会に参加するように」と云われた。突然のことで何のことやらわからなかったが、そこに担任の女性教師と校長の外にあの人懐っこい男性教師の顔もあることに気が付いた。その先生が、成績も抜群だし、運動能力も人並み以上のようだ。懸垂はダメだが、気にするな」といった。何となくうれしく感じた。
 翌日母親が校長室に呼び出され、同じことを言われたらしい。「選考会」が行われた市内の某小学校にはあのニコニコ顔の先生がついてきてくれた。その「選考会」では走る・飛ぶ・投げるの3種目をさせられて学校に帰った。授業には出なかったので、クラスメイトは不審な眼差しで私を見つめていた。
 確か夏休み明けすぐに、「横浜市の健康優良児童男女5名に選ばれた。これから神奈川県の健康優良児童の選考会に参加することになる」と通告を受け、こんどは市外の小学校に連れていかれた。ここにもあのニコニコ顔の教師が同行してくれた。
 そして何のはずみか、「神奈川県健康優良児童」男女それぞれ5名の中にも入ってしまった。たしか10月に、横浜市の市庁舎で当時市長になりたての飛鳥田一雄市長から市庁舎のビロードのじゅうたんが惹かれた貴賓室で表彰状をもらい、県庁舎のとこかの一室で表彰状を「知事の代理」からもらった。いづれも母親とあのニコニコ顔の教師が付き添いであった。すっかり仲良くなったニコニコ顔の教師はとても頼もしく、そして癒された。
 この二枚の表彰状をもって学校に戻ると表彰状を取られてしまった。不審に思っていたら、翌日の朝の朝礼で、校長から再度この表彰状を渡され、ようやく家に持ち帰った。

 この朝礼の時、あのこめかみをぴくぴくさせる粗暴で怒りっぽい教師は相変わらず、生徒の間をうろうろして生徒の足をたたいたり、肩を揺らしている子を小突いたりしていた。私のクラスメイトが私に表彰状を見せろと話しかけてきて、その教師に小突かれた。その子は教室に戻っても放課後も私に声をかけてくることはなかった。
 私の走るタイムを二度も測らせた教師は今度は以前のようにまったく私を無視するようになった。廊下ですれ違って朝や帰りの挨拶をしてもそっぽを向くようになった。
 担任の女性教師も声をかけてくることはなくなった。教室でも私を指して何かを答えさせたり、黒板に何かを書かせたり、あるいは学級全体の話し合いでも私に何かを話させることはしなくなった。教師から無視される存在になった。ガキ大将とクラスで成績が良く、「私立中学を受験したい」と公言していたクラスメイト以外、会話をする機会は無くなった。私には孤立した静かな世界が好ましく思われた。
 同時に、体育の成績が人の評価の軸の中心を占めることの怖さを改めて知った。人並みに走れないとバカにする、懸垂ができないと囃し立てる、ダンスをすると足がもつれて笑われる、長学生になってもこんなことが毎日繰り返されるのかと思うと、憂鬱になった。

 私立中学校に行きたいと公言していた友人M君が何故健康優良児童の選考対象から外されたのか、未だに私にはわからない。その彼が夏休み前に「公立中学に行くと器械体操をやらされる。俺はあれが嫌だ。私立に行くと体育の先生は人をいじめないらしい」とポツンと言った。私はこの言葉がズシンと心に響いた。
 同じように悩んでいる友人がいたのだ。かれも体育は不得手だったと思う。ただし懸垂は数回は出来ていて羨ましかったのを覚えている。不得手であっても人並みに体育の成績はあったと思う。私のように2ないし3ではなかった。またクラスでも人気はあった。少なくとも悪口を叩かれたりはしなかった。私のように担任の教師に面と向かって文句をいったり、自分の見解にこだわったり、教科書とちがう解き方をしたりすることはしなかった。

 私はM君のように私立中学校に行きたい、と親に告げた。5年生の二学期から、住んでいるところの町内会館の留守番として勤めていた大学生に週に3回ほど家庭教師のように勉強を見てもらっていたが、どちらかというと一緒に遊んでもらった記憶の方が多い。友達のいない孤立している私を連れだすことに腐心してくれていたと思う。
 その勉強に加えて、試しに横浜で有名な塾の夏季講習に行ってみようということにった。長い時間をかけて当時有名な塾に通ってみた。そこでは「点数」だけが評価の軸となる世界であった。それに馴染めないものがあったが、授業は面白かった。社会も国語にも何か新しい世界が待ち受けているような期待感をもった。授業が終わって食堂で食べる小盛りの熱いラーメンが美味しくかった。
 授業は「なぜこんな問題を出題するのか」ということを考えさせるもので、とても楽しかった。理解できない授業や課題もあったが、学校にはない新鮮な世界があったと思えた。何よりも教師が威張らない。人を小突いたり叩いたりしない。怒鳴らない、放置しない。そこが気に入った。子ども心に「私立中学校もこんなところだといいな」という思いが勝手に膨らみ、いつの間にか「そうに違いない」とまで思い込んでいた。不思議なものである。

 私が私立中学校を希望していることが知られることと、健康優良児騒動が重なり、私はM君の孤立は同時に進行したと思う。とくに担任教師に好かれていないと思われる私には女子生徒は声をかけなくなり、男子生徒も敬遠するようになったと思う。一人で過ごす時間が長くなった。
 6年生の三学期、1964年の2月、私はどうにか希望の私立中学校に入学できた。M君とは違う私立中学校であった。

 私の入った中学では横浜市の健康優良児童で飛鳥田一雄市長から表彰を受けた5人のうちたしか3人がそこにいて、驚いた。しかし同時に体育の教師には結局またがっかりした。私はまた6年間体育の教師と反目し、憂鬱な生活を繰り返すことになる。私が反目したというよりも一方的に目の敵にされた、と一時は落ちこんだ。

 実は横浜市長の表彰のとき、飛鳥田一雄市長は全員に「たくさん勉強してください」と言って握手をした。その手の暖かさがとても印象に残った。飛鳥田市長は杖を突き、足をひきずっていたことに気がついた。「足の悪い人でも市長になるんだ」という今思えばとんでもないことも感想に持った覚えがある。
 まさか大学をかろうじて出て、横浜市に就職し、その飛鳥田一雄市長から辞令を貰うとは思いもよらなかった。


扱いづらい子だったにちがいない

2019年03月17日 10時05分28秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 小学校の5年生になってから、私はずいぶんと言いたいことを言うようになったと思う。そしてしょっちゅう担任の教師やクラスメートと言い合いをした。

 5年生の夏休みが終わってから新しい小学校に転向して11月末か12月始めのことであった。希硫酸を使った実験のときだった。4つの机をひとつにして実験をしてのち、あと片付けの順番で教師のいうことがどうしても納得がいかなかった。机の上には、希硫酸を入れたシャーレがあり、それを乗せたまま、まず机を元に戻せというのが担任の指示であった。
 私は、それではシャーレから希硫酸がこぼれる心配もあり、先にシャーレを水道のある流しに捨てるべきだと主張し、さっさと自分のグルーブの希硫酸を捨てた。それから机を片付けた。その行為に教師が怒り、授業の最後に私一人を立たせて皆の前で教師に謝れ、と言ってきた。私はそれを拒否した。教師のいうやり方は危険であり、先に希硫酸を捨てなければ、机を移動してこぼれたらどうするのか、もしもこぼれた希硫酸を生徒が雑巾で拭けばなおいっそう危険ではないか、教師の指示であっても間違いがあるのではないか、と反論した。
 教師とかなり険悪な言い合いになっても私は謝らなかった。押し問答のようなことが繰り返され、授業終了のチャイムが鳴ったが、私は意地になって謝らなかった。教師も意地になっている。
 休憩時間の10分の半分も過ぎた頃、クラスの他の子が「便所いかせてください」と言ったが教師をそれを許さない。すると教室から一斉に「おまえが誤らないと皆が困る」という悲鳴が湧いてきた。これは教師のずるいところであると私は思った。この「おしっこ」発言で形成は一気に私に不利になった。
 皆が私に「早く謝れ」と催促する。実は私も便所に行きたいのである。仕方なく私は「皆が便所に行きたいというから、わたしが謝ることにするが、私はちっともまちがっているとは思いません。形だけ謝ります。」といって頭を下げて教師が許可もとらず、自分だけさっさと便所に向った。
 教師が無言のうちに、多くの子が皆便所に向ったようだ。私がクラスに帰ると教師と便所に行かなかった子はまだおとなしく座っている。私は何となくいたたまれなかったが、次の授業の教科書やノートを机の上に出して、次の時間の開始を待った。

 小学校だから次の授業も担任の教師が担当である。なんとなく無言のうちに次の授業の雰囲気となり、教師も次の授業を何となくはじめ、そのまま私は不問に付された。
 だが、わたしを見る冷たい目は痛く私の心を傷つけた。同時に仲良くなった子もいる。いわゆるガキ大将だった子とも仲良くなった。ときどき彼の家に連れて行ってもらって一緒に遊んだ。
 年末の、担任による面談で母親が怒られるのかと思っていたら、何もこの事件のことは教師の口からは云われなかったらしい。しかし母親は他のクラスメイトの母親からこのことを聞いたようだ。ということは私の行状についてこの担任は、面談で私のことをこき下ろしたことになる。
 私はこの教師と「お前が謝らないと皆が迷惑だ」といったクラスメイトとは口をきかないことにした。

 もうひとつの事件も忘れられない。三学期になって掃除のときは、皆で机を動かしてモップで床を拭く。当然のようにモップで遊ぶ子もいるし、実に騒々しい。それが小学生の掃除でもある。担任の女性教師は何も言わなかった。教室の前の机の前に座ったままであった。
 しばらくして隣のクラスの癇癪持ちのような男性教師が「うるさい」といって、怒鳴り込んできた。そしてある子のモップを取り上げモップの先で別の子の頭を小突いた。そしてそのモップを床にたたきつけた。その一喝で生徒たちはおとなしくなり、隣のクラスの男性教師は帰っていった。いつもこめかみをぴくぴくさせて生徒をにらみつける教師であった。朝礼や昼休みの校庭でもだれかれともなく怒鳴りつけていた。
 わが担任は何も言わず、やはり黙ったままだったが、掃除の時間が終わってから、急に「黙っていればいつまで騒ぐの。みっともない。静かにできなければ学校に来る資格はない。さっさと帰れ」と叫んで教室の中を歩き始めた。

 私は「帰れ」という言葉を聞くと同時に、嬉しくなって素直に鞄を持って廊下に出て玄関に向かって歩き始めた。教師が「何処へ行くのか」と後ろから声をかけたが私は見向きもせず「帰れといわれたから帰る」と言ってそのまま校門を出て、帰宅した。
 帰宅してから思い出したが、当日は私のクラスは廊下と階段の掃除の当番であった。皆はまだそれをしているはずだった。これには私もちょっと焦った。皆がいやいやながらやらされている廊下掃除を今週は私だけがやらないのは気がひける。しかし今更学校に戻ってももうそのときは廊下掃除は終了している。

 翌日学校に行くと、幾人かの子が「何故途中で掃除をしないで帰ったのか」と問い詰めにきた。「先生が帰れといったから帰った」といったが、聞く耳を持たない子ばかりであった。ガキ大将だった子といつも級長になる子は「俺も帰りたかった」と言ってくれた。女の子たちはいっせいに私と口を利かなくなった。担任の女性教師は女の子をいつも手なずけて味方にしていた。
 結局担任からは何も言われなかったが、やはり「掃除事件」として他のクラスにも広まっていった。特にさっさと無断で帰ってしまった私への非難をともなって広まった。怒鳴り込んできた隣の担任の粗暴な振る舞いと、それに何の反応も示さなかった女性担任や、騒いでいた掃除のようすなどにはまったく触れることの無いうわさとして。
 いたたまれなかった私の救いは、確か5クラスあった5年生の一番遠いクラスの担任の温厚な男性教師である。あの掃除事件のうわさが広まったころに、登下校のときにときどき声をかけてきた。おはようからはじまり、下校時ににこやかに肩や頭を軽くたたきながら、「勉強面白いか、将来何になりたいか」などと聞かれたりした。あの教師の意図もわからず、名前も全く覚えていない。しかし学校に通う気力は植え付けてもらった。すくなくとも私が通い出して一年もたっていないのに、学校になじめず、担任と隣のクラスの男性教師の間であまりいい評価を受けていないことは何となくわかった。

 あの担任教師と、癇癪持ちの男性教師はその後どうなったろうか。希硫酸実験事件で私を迷惑扱いした子はどうしているだろうか。ガキ大将と級長は何をしているのだろう。あの人懐っこい顔の教師もどうなったのだろう。卒業後に私立中学校に行った私はまったく彼らとは疎遠になり、消息は知らない。

 思い出したくもない1962年の頃の小学校の体験である。二度ともどりたくない過去である。