Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

明日は病院

2018年08月19日 22時20分48秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 金曜日に総合病院から帰って行こう、どこにも出かけなかった。土曜日に団地の中を300歩ほど歩いただけ。先ほど妻が牛乳を買わなくてはいけなくなった、とのことなので妻について往復1200歩ほどのコンビニまで出かけた。特に異常は感じなかったが、少し息切れ。情けないものである。
 背中のだるさはだいぶ改善した。熱も出ていない。

 明日は雨も降る可能性があるが、朝のうちにいつものかかりつけの内科に出かけて、再度診察をしてもらうつもりでいる。血液検査をしてもらう予定。さまざまな検査はしてくれるし、一応市立病院などへの紹介状も書いてくれる。もう高齢なのでちょいと頼りないところもあるのだが、こちらも勉強してきちんとした会話・対話ができるのがいいと思われる。

 夕食時にお猪口半分だけ日本酒を口にした。しかし美味しく感じなかったうえに、飲みたくないという信号が脳から発せられたようで、すぐにやめた。
 もう少しおとなしくしていないといけないようだ。

 外では秋の虫が鳴いているが、その声をじっくりと聞く気分的なゆとりがない。

 モネ展の感想を具合の悪い中、2編ほどつくっては見たものの、どうも思いがうまく描けない。しかし放置したくないので、恥ずかしながらアップしてみた。最近自分の力の無さを痛感することしきり。具合の悪いのは理由ではない。




「モネ それからの100年」展 2

2018年08月19日 17時56分26秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等




 「モネ それからの100年」展の第2章で最初に展示されているのが、「セーヌ河の日没、冬」(1880、ポーラ美術館)。
 最初の妻のカミーユが亡くなった翌年、セーヌ河が凍結するという大寒波がヨーロッパを襲い、多くの画家が描写をしている。この作品、カミーユの死から画家の回生の作品と云われている。結氷と解氷、あわせて20点の作品に没頭するモネに「回生」の契機を求めるという解釈の当否は別として、そのエネルギーには驚く。
 なお、この作品や「印象 日の出」、「黄昏 ヴェネツィア」、「ジヴェルニーの積みわら、夕日」などのあの橙色が美しい作品はいづれもスキャナーでの取り込み・再現がとても難しい。自動補正でも手動補正でも色合いがどんどん原作から離れていく。機械処理がとても難しい。これもモネの色彩感覚のすごさなのか、と驚いている。



 この作品は「チャリング・クロス橋」(1899、メナード美術館)。1899年から1901年にかけて断続的に倫敦に滞在し、フランスにもどっからも作品を仕上げているとのこと。解説によると画家は「私が失敗したのは、仕上げのタッチを加えるのにこだわった点です。最初のいい印象があっという間に消えてしまったのです。‥自分の力のなさにうんざりしました。」と記しているとのこと。だが、私はこの手の色彩感覚がとでも気に入っている。いかにもモネらしい画面が印象に残っている。霧の中で太陽の光が踊る雰囲気、特に煙が印象的である。
 この第2章には影響を受けた作家として、写真のエドワード・スタイケン、ウルフレッド・スティーグリッツ、画家のマーク・ロスコ、モーリス・ルイス、ゲルハルト・ペインティング、松本陽子、根岸芳郎、水野勝規、丸山直文などの作品が展示されている。



 スタイケンの写真は、歳の中の霧・水・水蒸気などをキーワードにモネとの共通の感覚というものを実感した。しかし私はまさかロスコの作品「赤の中の黒」(1958、東京都現代美術館)がここに取り上げられるとは思ってもいなかった。これは今回の解説の記事をじっくりと今後咀嚼してみようと思った。解説では「ロスコの絵画の茫洋とした瞑想的ヴィジョンの源泉に、彼にとっての原風景であるロシアやポーランドの夕日の康慶があることを指摘する向きもある。その繊細な色層の向こうから溢れ出てくるような光の感覚には、モネの作品、とりわけロンドンの連作との相関性を見出せよう。」とある。
 客観的な解説以外はあまり参考にしないものの、ロスコとモネの関係については心にとめておこうと思った。



 松本陽子「振動する風景的画面Ⅲ」(1993、倉敷市立美術館)は既視感のある作品である。具象から抽象への過程に着目して、モネの位置が見えてくるような気がしている。(ここは思い付きの独り言)

秋日和

2018年08月19日 14時02分18秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 横浜では本日も30℃を割る予想。湿度も昨日は55%、本日は現在50%を下回っている。 昨晩は発熱もでず、肩甲骨付近の鈍痛や重苦しさもさほどではなかった。気温も低かったので、心地よく眠ることができた。寝汗もかいていなかった。ただし背中の重苦しさは完全にはおさまっていない。

 30℃の気温で秋日和・秋晴れというのもちょっと抵抗がある。しかしこの夏のひどい暑さのあとでは、ホッとする気温である。もうすでに北海道の大雪山系では雪の情報。例年以上に急降下で気温が下がっていくのであろうか。

★秋晴の何処かに杖を忘れけり     松本たかし
★畳屋の肘が働く秋日和        草間時彦


 第1句、真夏の日差しの中では杖にすがらないと歩くのもつらい。私ですらウォーキング中に杖でも欲しくなった。しかし秋晴れでは、からだは楽である。身も軽く感じる。突き抜けたような秋の空にふさわしく、気分もどこか突き抜けている。こんな心境になってみたいものである。
 第2句、畳屋はごく少なくなってしまった昨今、しかもほとんどは機械で縫っていく。昔ながらの作り方で畳をつくる畳職人はもう稀有の存在なのではないか。そしてどういうわけか畳店は暑い室内で汗だくで仕事をこなすものらしい。特に夏場はきびしい職人技である。句のように畳職人は肘を巧みに使う。この句を読むと、肘が美しく動く技の躍動が伝わる。秋になって精が出るのである。消えていく職人技、機械化の中で新しい職人技が求められ、時代とともに変容していく技が美しい。