Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

後期の講座

2018年08月22日 22時19分47秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日、神奈川大学の生涯学習講座の案内が送られてきた。前期はどの科目も選択できなかったので、今回は4つの連続講座を選択することにした。

・国際平和と日本の未来-新しい平和論をめざして
            講師は、佐橋亮、日下田説子、江川紹子、斉藤勁、寺島実郎の5氏
・考古学が描きだすヤマタイ国時代の列島の姿Ⅱ
          講師は、西川修一、赤塚次郎、常松幹雄、禰冝田佳男、瀬川拓郎の6氏
・キーワードで観る美術鑑賞-人間の営みと絵画編           講師は中村宏美氏
・くらべて楽しむアート鑑賞-美術の役割をみる            講師は中村宏美氏


 退職者会の取組みや、団地の管理組合の会議と重なっていたり、前日の資料作成日などと重なるが、出来るかぎる参加したいと思い、4講座とも申し込むことにした。
 申込みは9月1日から。昨年の好機も二日遅れて受講者がいっぱいで締め切られた講座があった。今回はそのようなことの無いようにする予定。

汗のかき方がおかしい

2018年08月22日 19時15分09秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 夕方に南句まで所用があり、久しぶりに地下鉄吉野町駅で下車。陽射しはやはり強く、汗が出たが、くらくらするほどではなかった。しかし汗の出方が全身からというよりも後頭部や脇の下に集中している。汗をかく場合、物理的な熱による温熱性発汗と、感情的なストレスによる精神性発汗がある。前者は全身から汗をかくが、後者は手のひら、足裏、腋の下、額にかぎられるという。手のひらと脇の下からは確かにたくさん書いたが、後頭部が目立つというのはどういう場合なのだろうか。まだどこかで体調が完全に戻っていないような気がする。
 風で熱を出した時などの汗の書き方にも似ているような気がする。

 所用を済ませた後、歩いて帰る気力はなかったので、そのまま地下鉄で横浜駅に戻り、書店を除いたのち、バスで帰宅。もうしばらく体力の回復を待ちたい。



「モネ それからの100年」展 3

2018年08月22日 14時29分06秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 国立西洋美術館にある「柳」(1907-08)は、風に揺れるヤナギを描いている。まず不思議なのはヤナギの幹は描かず、垂れて揺れる木の歯らしいものが印象に残る。なかなかヤナギとわからないが、風に揺れる枝葉と池の面の波が印象的である。
 解説によるとこの構図そのものは日本美術の影響ということになるらしい。そのとおりなのだろう。しかも近景が画面の上部というのもその影響であるとのこと。当時のヨーロッパの人には新鮮な印象だったのかもしれない。
 解説でも触れているが、私はそのような構図の扱いもさることながら、近景の風にあおられるようなヤナギの枝・葉と池の向こう岸の緑が遠近感を喪失しているばかりでなく、区別すらされなくなっていることが印象に残った。

 モネの晩年の睡蓮の連作は私は動きがあるもの、そして具象から嘲笑への架け橋のような作品が好みである。



 次は「睡蓮の池」(1907、和泉市久保惣記念美術館)は初めて目にしたと思うが、とても惹かれた。「睡蓮」が描かれているとはわかったのだが、中央下から上に伸びる黄色っぽいイメの塊が何なのかすぐにはわからなかった。
 解説によると池の周囲に立つポプラとヤナギが描かれているとのこと。そうするとこの黄色のような塊は夕日を浴びた明るい空が池に写っていることになる。睡蓮の横のに広がる楕円形のリズムと直角に交わる枠としてのポプラとヤナギ、そして空を模した光が、対比されるように絵かが枯れている。
 描いている対象が対象から離れて、画面の色彩の対比の要請に従って配置されているように感じる。
 水連は一定の形を明確に残しているが、ポプラとヤナギは背景として、視覚的な要請によって色彩の面として配置されたものである。空の光もうねるような筆致で波の敬称から解き放たれたように見える。



 1914~17年の「睡蓮」(群馬県立近代美術館)は、遠近感はさらに曖昧になり、スイレンの歯の楕円と縦の筆致による薄い緑、が画面を覆い、わずかに睡蓮の花と思われるのはたった一つだけである。網膜と意識に張り付いた印象だけが頼りのような作品である。
 解説では構図のまとまりも喪失しているように記載されているが、私は構図へのこだわりだけが残った作品に見えている。しかしまだ私自身が惹かれる根拠がまだよくわかっていない。むかしからなぜなのか、といつも悩んでいる。

8月21日

2018年08月22日 13時44分10秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 1968年8月20日23時(現地時間)に当時のソ連率いるワルシャワ条約機構軍が国境を突破し侵攻。チェコスロバキア全土を占領下に置いた。日本時間では21日。この日のことは私は忘れられない。当時高校2年生だったが、プラハの民主化運動が始まったこめから岩波書店の「世界」や「朝日ジャーナル」などを購入して自分なりに理解しようと努力していた。私が世界の政治のニュースに降れたのは、ベトナム戦争とこのプラハの春・ソ連によるチェコ軍事介入であった。

 そういった意味では私にとっては忘れられない1968年8月21日である。