本日は13年目の3月11日。翌4月からは私が現役最後の1年になるな、という感慨が浮かんで来た時期である。当日の私の職場での振る舞いや体験はもう幾度も記載した。あえて記載する新しいことはないような気もする。同時にもう少ししたら、再度語りたくなるとも思う。世の中から忘れられようとするときに。
私の体験は、道路・下水道・公園・小河川の管理者の立場であった。その職場は日常が小さな災害の連続でもある。
体験は細かいことばかりかもしれないが、そこに大切なことが潜んでいる。大所高所から全体像を考察したり、企画するときも、この一見細かくてどうでもいいことに思えても、現場で大切だと思ったことは、忘れてはいけない大事なことだと思う。
災害対応は日常業務の延長である。災害時だけ使おうと備蓄している資材・器材・機械は役に立たない。普段使っているものをどのように応用力を発揮して利用するか、そこが災害時に問われる。
災害対応車は二次災害に合わないようにくれぐれも慎重にものごとに対処すべきであること。救助者が災害に遭えば、一時被害者の救援が滞る。
管理者といえども、災害時には外注に頼らず、第一線に立たないと経験は蓄積されない。自分の出す指示が現場で有効かどうか、それを見届けてこそ経験となる。また地元住民との接し方によって、地元の協力を得られるか、経験として地元に蓄積してもらえるかを考えることも必要である。管理者だけで災害対応は出来ない。住んでいる方の経験蓄積が大切である。
さて、言葉が上滑りしてしまうが、是非言いたい。
能登半島地震の政府・県の災害対応を見聞きするにつけ、1995年の阪神淡路大震災、2011年の東日本大震災の教訓がなんら継承されていないのではないか、と愕然としている。群発地震が続いていたにもかかわらず、避難所の整備も、食料も、薬剤も何ら用意されていなかった。
現場での消防・自衛隊・当該の基礎自治体の第一線の職員、病院や介護施設の職員の個々の奮闘には敬意を表するものである。しかし司令塔であるべき政府や県トップの指示は後手後手ではなかったか。陸路に頼るばかりで空路での救援については、2011年の対応のほうがはるかに的確であったのではないか。
原発事故の情報隠しもまたひどいものではなかったか。福島の事故の教訓も、情報の公開も首を傾げたくなるものばかりであったと思う。その教訓が生かされていなかった。一番大切なことは情報の公開である。情報が無ければ避難も的確に出来ないのが、原発事故である。
1.17、3.11以降、多くの語り部的な方々が災害時の振舞い方等々についての継承に苦労をされている。しかし当の政府や県レベルのトップに、しかも肝心な政治家に継承されていなければ、事態は深刻である。
災害時に役に立たない組織や政治は、日頃も役に立っていない、否存在そのものが国民には災害である、と私は断言したい。これもまた大切な教訓である。