Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

健康を食い物にする

2024年08月06日 22時40分15秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 読書に倦んだ時や、時間つぶしに時々テレビをつける。すると特にBSのチャンネルでは、医師の処方する薬以外の医薬品や健康食品の類、いわゆる老化に抵抗するための化粧品や「医薬品」なるもののコマーシャルばかりを絶え間なく続けている。
 違和感はいくつもあるが、まずどうして自然過程としての「老い」の兆候がそんなにも忌避すべきことなのか、まるで「悪」者としてそれらを目の敵にしている。
 嘘か本当化はしらないが、60代、70代で色白で「シミ」「シワ」などのない女性の顔がまず大写しに出てくる。それがあたかも人生の最大の「価値」であるかのように。これを繰り返されるとあたかも真実のごとくに聞こえてくる。コマーシャルの繰り返し効果というものなのであろう。
 しかもタイムセールのごとくに購入を煽ること煽ること。見ていてあまりの品の無さにコマーシャルが始まると他のチャンネルを変えても、同じコマーシャルが流れている。それを大手の薬品メーカーまでが行っている。余程の需要と儲けが見込まれるのであろう。

 自然過程にこれほど抗わなくてはならないという強迫観念は、何処から来ているのだろうか。

 核家族化や所謂非婚化が進行して、家族や「家」の形態の変化もまたそこに噛んでいるのかもしれないと、ふと感じることもある。
 三世代の同居などは望むべくもない都市住居のあり様とそれにともなう世代間の意識の差、「年寄り」のあり様の変化があるようだ。現に私も、親世代や子供の世代との同居には躊躇する。近すぎず・離れすぎずの頼り・頼られる生活が身についている。
 老年になって一人ないし夫婦ふたりの、孤独ともいえる年齢になってわかるのであるが、自分よりも高齢の自立している親世代や、親に頼らずに生きている子供の世代から求められる高齢者の役割は、縮小している。
 同時に反作用として、祖父母世代の孫世代への過剰ともいえる接近も目に付く。高齢者が定年を迎え職を離れることで、これから先の人生で果たしてどんな生きざまが残っているのか、不安になるのだろうか。結果として自身の健康への関心が高くなり、孫世代への過剰な接近が始まったとも思える。
 定年後の長いと思われる人生や、孫世代との関りから、「若さ」や体力ばかりが強調され、それが「生きがい」として提供されることになってしまったのではないか。本末転倒ともいえる。「生きがい」のための体力づくりではなく、体力づくりが「生きがい」として強調されている。過剰な「若さ」へのこだわりに繋がっていないか。
 自然過程としての「老い」の兆候が、これほどまでに忌避される社会は、果たして「健康」なのであろうか。

 もうひとつ気になることがある。私は、健康診断などによる個人を対象にした個別・具体的な診断に重点をおいて、医師との対話、自身の体との対話に重点をおいている。その結果、不特定多数を対象としたコマーシャルによる健康不安の煽りがとても気になる。提供する商品としての医薬品・健康食品があたかもすべての人に有効であるかのようなコマーシャルは、病気の個別性・具体性と、人間集団の傾向とを混同して憚らない。これはわざと混同しているように思うのは私の穿った見方でしかないとは言えない。
 例えばカルシウム摂取が足りない、という一般論は危険である。どのような母集団を想定するかで、傾向は変わるはずである。塩分の多い食事といっても地域差はある。炭水化物の摂りすぎ、といっても年代や職業や性別でも大きな差があるはずである。これらを考慮せずに一般化して、万人すべてに当てはまる傾向としてしまうことは極めて危険である。
 私はこれらの傾向と現状がとても気になる。日本国中、不健康への道を転がり落ちているのではないか。私がテレビをあまり見なくなったのもこういったコマーシャルに嫌気がさしたからでもある。



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