詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy Loco por España(番外篇394)Obra, Luciano González Diaz y Miguel González Díaz

2023-08-13 22:04:08 | estoy loco por espana

Obra, Luciano González Diaz y Miguel González Díaz

 Exposición de Lucian, Miguel y otro escultor. La salón de exposición y charla en torno a las obras. Al ver las fotografías, me sorprendí.

 ¿Es éste el tamaño real de esa obra?

 Había visto sus obras en sus talleres. Incluso las he tocado. En otras palabras, he confirmado el tamaño con mi propio cuerpo. Creía que conocía los tamaños. Sin embargo, el tamaño que conozco parece diferente en este exposición. Cada una tiene un tamaño grácil, tranquilo, un tamaño que evoca algún tipo de "distancia".

 Y si defino esta distancia con otras palabras, es ésta.

 Cada obra tiene su propio mundo independiente. En el taller, las palabras de las obras resuenan unas con otras, lo cual es divertido, pero en la embriaguez de esa diversión, me di cuenta de que había pasado por alto algo importante.

 Esto no es tanto un comentario o una crítica como una "nota" para mí mismo. Me gustaría escribir sobre la "distancia" en otro momento y en otro palabra.

 

 LucianとMiguel、そしてもうひとりの彫刻家との三人展。展覧会場、そして作品を取り囲んでの談笑。写真を見ながら、驚いた。あ、これは、こんな大きさだったのか。

 私はふたりの作品を、アトリエで見た。触った。自分の肉体で大きさを確かめた。だから、大きさは知っている。しかし、その知っている大きさが、展覧会場では違って見える。優雅で落ち着いた大きさ、何かしらの距離を感じさせる大きさである。

 そして、この距離を別のことばで定義すれば、こうなる。

 作品は、それぞれが独立した世界を持っている。アトリエでは、作品の発することばが響きあって、それはそれで楽しいのだが、その楽しさに酔って、私は大事なものを見落としていたと気づいたのだ。

 これは感想、批評というよりも、私自身のための「メモ」である。「距離」について、別なときに、別なことばで書きたいという思いがある。

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Estoy Loco por España(番外篇393)Obra, Joaquín Llorens

2023-08-13 18:42:48 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens

 Una cita de perros. Los perros huelen las nalgas del primer perro que conocen. Pero los perros que se conocen no se saludan así. Se besan como personas. La obra de Joaquín me recuerda esas citas de perros.
  Según el ángulo desde el que se miren, cada perro parece un poco distinto. Me da la impresión de que la mirada del dueño mira a cada perro. Así, las miradas de perros y de personas se funden.
  Cuando escribo esto, también pienso en otra cosa. En japonés, persona se escribe "人"'. Cuando dos personas se encuentran y se convierten en una, se convierten en "人" por primera vez. Cuando están solas, es una sola línea vertical. El carácter para "人" también puede verse como la forma de un pie que camina.
  Cuando se encuentran, caminan como uno solo. Tanto las personas como los perros. Si los dueños pasan de ser conocidos a pareja, es un encuentro agradable.

 犬のデート。犬は、始めてあった犬の尻のにおいをかぐ。しかし、知っている犬同士は、そういうあいさつをしない。人間のようにキスをする。Joaquín の作品は、そうした犬のデートを思い出させる。
  見る角度によって、それぞれの表情が少し違う。それは飼い主がそれぞれの愛犬を見ている視線を感じさせる。ここには、犬と人間の視線が融合している。
  と書いて、私は、また別のことも思う。日本語でひとを「人」と書く。ふたりが出会い、いっしょになって、はじめて「人」になる。一人だと直立した一本の線だ。そして、その「人」の文字は、歩く足の形にも見える。
  出会いがあって、一体になって歩いていく。人も、犬も。飼い主同士が、知り合いから恋人になるなら、それは楽しい出会いだ。

 

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Estoy Loco por España(番外篇392)Obra, Juancarlos Jimenez Sastre

2023-08-12 21:34:40 | estoy loco por espana

Obra, Juancarlos Jimenez Sastre
TÍTULO : VIDA
HIERRO Y PIEDRA

 Piedra y hierro. He visto piedras en la naturaleza. En las montañas, en los ríos o en el mar. Suele estar ahí. Está abandonada. Pero nunca había visto hierro en la naturaleza. El hierro siempre tiene una forma artificial. Y a veces lo he visto desechado como una piedra. En las montañas, en los campos. Incluso en la ciudad, los lugares donde se arrojaba el hierro parecían páramos naturales.
 Puede que el hierro de Juancarlos sea una forma creada por él. Pero me parece que es un hierro que fue abandonado en algún lugar.
 Una piedra y un hierro que nadie miraría. Se encuentran y se convierten en uno. En ese momento, el límite o la unión son muy misteriosos. Es como si conocieran esta forma desde el principio. Poco a poco se acercan más y más, se funden y se hacen inseparables.
 Los sentimientos de abandono se superponen y se convierten en una tristeza más profunda. Pero hay una extraña alegría en el encuentro.

 石と鉄。私は、石は自然のなかで見たことがある。山で、川で、あるいは海で。それはたいていただそこにある。見捨てられてある。しかし、鉄は見たことがなかった。鉄は必ず人工的な形をしている。そして、それはときどき石のように捨てられているのを見た。山で、野原で。街中であっても、そこは何か手つかずの自然のような感じがした。
 Juancarlosの鉄は、彼がつくった形かもしれない。しかし、私は、どこかに見捨てられてあった鉄だと思ってみる。
 誰からも見向かれもしない石と鉄。それが出会って、ひとつになる。そのとき、その境界線、あるいは接合点がとても不思議だ。最初から、この形を知っていたかのようにあっている。じわじわと接近し、融合し、分離できないものになっている。
 見捨てられていたという感情が重なり合って、より深い悲しみになる。しかし、その出会いには、不思議な喜びがある。

 

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青柳俊哉「余韻」ほか

2023-08-06 15:16:07 | 現代詩講座

青柳俊哉「余韻」ほか(朝日カルチャーセンター、2023年07月17日)

 受講生の作品。

余韻  青柳俊哉

冬の木から 水鳥がはばたく
月に鷺が響く 水のような
夜明け 空の端から端へ伸びる
雲の暗い紫 言葉が瞬時にめざめる 
枯野の草は柔らかく 葉音は
一面に潮を引いて空へむかう 

水鳥の中へ 太陽は落ちていった 
空と海は 葉の潮に溺れる

光は光を演じ 水は水を演じる 
人は言葉を 鳥は水の音を 
光と水の余韻が
刻印する鏡 

 冬の情景が端的に描かれている。「一面に潮を引いて空へむかう」には飛躍があって楽しい。光と面を感じる。宇宙の静けさを感じる。「光と水の余韻が」という行には、対象に余韻ということばが集中している。「光は光を演じ 水は水を演じる」という一行、自然からことばがやってくるという感じに満ちている。「光と水の余韻が」には、そのもののもつ力を感じる、というような声。
 青柳は、書きたかったのは最後の二行と「光は光を演じ 水は水を演じる」という行。自然から感じたものと対応しあっている(照応)の感じ、鏡のイメージと語った。
 私も「光は光を演じ 水は水を演じる」が好きである。自分自身を繰り返す。そのとき、透明になり、強くなるものがある。他人を演じることでは到達できない境地のようなものが、そこからあふれてくる。

あと3ふんで  木谷明

ブルーインパルスを見たいと言ったのはあなただったのに
きょうは私が見ましたよ
地味なもんでした
グレイ色したけむりをながして
ひとが亡くなりましたから
レインボーカラーの煙は見ましたよ以前に
あれはお祝いの前日の予行演習で娘の卒業式の日で
けれど
本番はありませんでしたひとが亡くなりましたから
こうなるとひとはいつでも死んでいるから
いつでも虹の橋をとかいうくせに
しかたない
ほんとの空は虹をみせてくれる
あの日のそらに弧を描く人のいるということも
見上げたということもいつでも偶然で
あと
3ふんで飛んでくるから一緒に見らんと言ってもらい
色のことは誰も言わずに

今日いっしょにみましたよ

 音が柔らかい。口語体が流れるように書かれている。詩的散文になっている。死のイメージが「ほんとの空は虹をみせてくれる」と結びつく。短い一行が独立している。感覚がするどい。空の広さを感じる。運命、人の生命を感じる。短い行に強い意思を感じる。
 好きな行は「ほんとの空は虹をみせてくれる/あの日のそらに弧を描く人のいるということも」の二行、さらに書き出しの一行に、短い行も不思議な感じ……。
 私は三行目の「地味なもんでした」が非常に印象に残っている。こころに突然あらわれた「現実」という感じ。西脇の、ふいの口語の出現に似ている。全体が口語だが、とくにこの一行の口語性が強い。口語出歩かないかを意識しない無意識の口語。この無意識に発せられた「地味」の奥にあるもの、「地味」と言わずにはいられない何か、もっと派手であったら(もっと華々しくあってくれたら)違った思いができたかもしれないが隠れている。
 「地味」が逆に、ほんとうに見ている何か(見たかった何か)を浮き彫りにしている。

草  池田清子

わたしのまちがいだった
わたしの まちがいだった
こうして 草にすわれば それがわかる
と 八木重吉はうたった

娘が れんげ畑で花冠をつくった
立花山の頂上は 爽快だった
許斐山では ゴロと一緒に走りまわった
公園では 青いシートの上でお弁当

今 寝っ転がって 外を見ている
空ばかりが広い

抜いたのに この雨でまた 生き生きしている
たくさんの 犯してきたまちがいを
とりかえしのつかないまちがいを
そんなに深く見ないで

 「まちがい」の意味は何だろうと考えた。よくわからないが「許斐山では ゴロと一緒に走りまわった」はよくわかる。「とりかえしのつかない」からの、最後の二行は誰に対して言っているのだろうか。
 「子ども(娘)に対してではないですか」「花かもしれない」「自分自身に対してかも」という声を聞いて、池田「雑草に対して、言っている」。
 このあと、誰にも理解されなかったのには驚いた、と池田は感想を漏らしたが。
 しかし、これは、いいことではないだろうか。読者が全員同じこたえを、そしてそれが池田の書いた通りだとしたら、その詩は実はつまらないのではないか。詩は論文や法律ではではない。死の感想を語るのは、学校のテストではない。答えがばらばらなのは、その詩のひろがりが広いからではないのか。詩のことばが豊かになってきているからではないのか。
 読んだ人の感想がみんな違っている、というのは詩にとっては、とても大切なことだ。

白い空  杉惠美子

水平線の膨らみを過ぎて
白樺並木を歩いていたら
ふと小さな音がした

細い木だけれど
風を受けても大きくは揺れず
枝々を通過させて
互いを響き合わせるように
立っていた

空を見上げると
あらゆる自然の力の先に
透明なエネルギーで囲まれた
小さな渦

  何枚もの紙をめくって 
  めくって
  探し続けた
  裏も表もなく
  問いばかりが書かれた
  紙だった

  その問い達は
  渦を巻きながら私を誘
  い
  大きな渦となった

  そして時が経ち
  少しずつ角度が変わり
  問いと答えは繰り返し
  ながら
  同じになっていた

気がつくと
小さな渦は
見えないけれど
私を待っていてくれたようで
少しずつ静かな気持ちになった

私は救われて
包まれて
沈黙の白い空に吸い込まれていく

 白い空
     
水平線の膨らみを過ぎて
白樺並木を歩いていたら
ふと小さな音がした

細い木だけれど
風を受けても大きくは揺れず
枝々を通過させて
互いを響き合わせるように
立っていた

空を見上げると
あらゆる自然の力の先に
透明なエネルギーで囲まれた
小さな渦

 

何にも見えないけれど
私を待っていてくれたようで
少しずつ静かな気持ちになった

 

私は救われて
包まれて
開いた空に
吸い込まれていく

 同じタイトルの、長い詩と短い詩。
 目に見えないものを比喩の力で浮かび上がらせている。「何枚もの紙をめくって」がいい。長い詩の三字下げをした三連がいい。前の部分は情景の描写。三字下げの部分は心象風景と思って読んだ。
 字下げの部分は意識が「小さな渦」に集中している。その集中力の結果が「比喩」になる。比喩が生まれるとき、意識は集中している。これは逆に言えば、意識の集中を欠いた比喩は、上滑りな連想、つまり「常套句」ということになるだろう。

 

 

 

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中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(19)

2023-08-05 21:24:45 | 中井久夫「ギリシャ詩選」を読む

中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(19)

 「帰ってくれ」というタイトルは、なかなか難しい。二つの意味に取れる。ギリシャ語では、二つの意味になるかどうかわからないが、日本語では二つの意味になる。ひとつは、「もうここから帰ってくれ」という拒絶。もうひとつは「ここへ帰って(来て)くれ」という願望。
 二行目は、こう書かれている。

帰って来て私を捉えてほしい感覚よ。

 これが、またまた、難しい。「帰って来て(くれ)」と呼びかけられているのは「感覚」である。感覚って、だれの感覚? 基本的には自分の感覚だろう。他人の感覚に対して「帰って来てくれ」と呼びかけるとしたら、それはたとえば死んだひとに対してであろう。生きているひとの感覚に対して「帰って来てくれ」、そして「捉えてほしい」というのは、もう一度愛してほしいという意味だろうか。ども、それなら「感覚」というよりも「感情」だろうなあ。
 そして「感情」なら、もう一度「愛してくれ」ではなく、「もう一度愛したい」という欲望かもしれない。いま愛している誰かではなく、いまここにいない誰かを「愛したい」。「愛した」ときの、あの「感覚よ」、帰って来てくれ、だとしたら、それはどういう意味になるだろうか。
 深追いするのはやめよう。
 何か、いいしれない矛盾がある。そして、それは矛盾しているけれど、対立しているというよりもからみあって解けない矛盾、渾沌のようなものかもしれない。
 「(もう)帰ってくれ」「(ここへ)帰って来てくれ」というのは、愛しながら拒絶した誰かに対する深い矛盾、絡みついた情念のようなものかもしれない。さらに、もう一度愛したいとなると、それは、いま愛している人を裏切ることにもなる。
 どう理解すればいいのか難しいが、何か、そのことばに出会った瞬間に「わかってしまうもの」というか、「あ、こういう体験をしたことがある」と思い出させる不思議な「からみつき」が隠れている。読めば読むほど「理解」したことを説明できないし、説明したくはないのだが、「わかる」という実感が残ることばである。
 中井が、これをどこから見つけ出してきたのか。いったい、「だれ」の声を思い出したとき、この「帰ってくれ」ということばになったのか。誰かを思い出しているに違いないという強い実感がある。

 

 


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Estoy Loco por España(番外篇391)Obra, Jesus del Peso

2023-08-03 18:53:39 | estoy loco por espana

Obra, Jesus del Peso

 Hay esculturas y pinturas en la obra de Jesús del Peso, pero de vez en cuando, pierdo distinguirlas.
 Sus obras tienen un sentido único de la perspectiva.
 Las líneas rectas son tan fuertes que incluso después de completar la forma, me siente como si las líneas continuaran moviéndose a lo largo de la extensión de las líneas. La impresión de movimiento rechaza la perspectiva.
 Y sus movimientos fuertes y rápidos me desgarran la visión como un bisturí quirúrgico. Me siento mareado, como si estuviera viendo el momento en que mi visión se desgarró.
 Es como "Un perro andaluz" de Luis Buñuel con un cuchillo rebanador de ojos. Es como el miedo que siento que me abren los ojos.
 Sus obras tienen un sentido de perspectiva que provoca miedo instantáneo.

 Jesus del Pesoには立体と平面があるが、私は、その区別を見失う瞬間がある。
  彼の作品には独特の「遠近感」がある。
 直線があまりにも強いので、それは形が完成した後も、さらに線の延長上を動いていくように感じられる。その動きの印象が遠近感を拒絶する。
 そして、その鋭く速い動きは、まるで手術のメスのように、私の視覚を引き裂く。私は、その視覚が引き裂かれる瞬間をみているような感覚に襲われ、めまいを覚える。
 それはルイス・ブニュエルの「アンダルシアの犬」の、目を切り開くナイフを見るような感じ。私の目が切り拓かれる、と感じる恐怖に似ている。
 彼の作品には、「恐怖の遠近感」がある。

 

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Estoy Loco por España(番外篇390)Obra, Eduardo Muñoz

2023-08-01 22:20:43 | estoy loco por espana

Obra, Eduardo Muñoz

 La obra de Eduardo siempre me ha inquietado.
 Esta obra me parece la cara de un niño gritando. ¿Está sorprendido o enfadado? Los ojos izquierdo y derecho tienen formas diferentes. Deben de estar mirando cosas distintas. El derecho ve "cosas" (objetos). Pero el izquierdo se mira a sí mismo. Por la boca abierta puede ver el fondo de la garganta. (Puede ser un diente que ha empezado a crecer). Toda la imagen es como el autorretrato de un niño, con la cara en el centro y los pies de repente debajo de la cabeza.

  Lo que me molesta es lo siguiente. Entiendo esta combinación de virutas de hierro como "arte (la cara de nino)"' según mi "memoria". Es la "modificación" de virutas de hierro en arte. ¿Es correcta esta modificación?
 Es nuestra capacidad de "arreglar", lo que Eduardo critica por su obra. No podemos reconocer lo que hay tal como es. Lo "arreglamos" y lo entendemos a nuestra manera. A veces se convierte en una palabra que exige una "modificación", diciendo "esta sería la forma correcta ".
 Mi artista favorito, Picasso, terminó sus obras luchando contra esas "exigencias de modificación", y Eduardo también lucha contra ellas.

 Eduardo の作品を見て、私は、いつも悩んでしまう。
 たとえば、この作品は私には子どもが叫んでいる顔に見える。びっくりしたのか、怒っているのか。左右の目は、形が違う。見ているものが違うのだろう。右目は「もの」(対象)を見ている。しかし、左目は自分自身を見つめている。開かれた口の奥から喉ちんこが見える。(生え始めた歯かもしれない)
 全体は、子どもが描く自画像のように、顔が中心であり、頭の下に突然足がある。

 さて。悩むのは、これである。私は私の「記憶」に従って、この鉄屑の組み合わせを「芸術」と理解する。それは鉄屑を芸術に「修正」することである。こうした修正は正しいことなのか。
 それというのも、Eduardo が作品をとおして批判しているのは、私たちのこうした「修正能力」である。そこにあるものを、あるがままに認識できない。自分の都合のいいように「修正」し理解してしまう。ときには「こうすれば正しい(美しい)形になる」という「修正」を要求することばにもなる。
 私の大好きなピカソは、そういう「修正要求」と闘いながら、ピカソの作品を完成させた。Eduardo もそうした要求と闘っている。
 

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北條裕子『半世界の』

2023-08-01 16:24:02 | 詩集

 

北條裕子『半世界の』(思潮社、2023年07月15日発行)

 北條裕子『半世界の』の「果てまで」の一連目。

毎日 毎日 雨雪が 落ちてくる
ああ ああ ああ
ここの冬は こんなに 暗かったのか
水底に潜んでいるような

 なぜか非常に印象に残った。たぶん、その他の詩のことばと、ここだけが違っているからだと思う。繰り返しと、分かち書き。とくに「ああ ああ ああ」が深い。「ああ ああ」では足りないし「ああ ああ ああ ああ」ではしつこい。多すぎる。
 この繰り返しのあとに「ここの冬」「こんな」の頭韻。「ここの」のなかには「こんな」が隠れている。「このような」では重くなる。「こんな」の撥音が「暗かった」の促音と響きあうものを持っている。母音の欠落。繰り返しは過剰。過剰が欠落によって洗い流され、「水底に潜んでいるような」という風景に変わっていく。空中から、水底へ。一行目の「落ちていく」が思い出される。
 これだけでいいなあ、と思う。
 たぶん、詩を書き始めたころ、ひとは、これくらいの長さ、これくらいの瞬間だけを描いて満足したのではないか、と思う。
 これでは「世界」にならない、「半世界だ(半分の世界だ)」というわけなのかもしれないが、「世界」を目指してことばは展開する。しかし、「半分」でもいいのではないか、と思う。残りの半分は、読者に任せればいいのではないだろうか。
 「この頃」の三連目。

寄り掛かる 壁は漆喰で
触り続けていると
指に伝わってくる りんごの丸みのようなもの
たわんでゆく壁を 触って
どうにか 息をして

 「りんごの丸みのようなもの」ということば、「果てまで」にもでてきた「ような」がとてもいいが、全体的にはリズムがギクシャクしている。「果てまで」にみられた音楽がない。
 「触り続けている」と「触って」。「触る」という動詞が二回登場するが、同じ動作(肉体の動き)には感じられない。「触る」が持っているリズムが前と後では完全に違っている。(と感じるのは、私だけだろうか。)
 「りんご」は、この詩のなかではもう一度、

りんごの赤の中に しのび込んで あふ あふ 逢う

 と登場する。この「あふ あふ 逢う」は、その前の連の、

こもりがちな日々に 顔のないあなたを待つ あふ あふ あう

 と呼応しているのだが、「音楽」というよりも「意味」が強い。「触る」に通じることだが、「物語性」がことばを強引に統一しようとしている。もちろん「意味」そのものに詩があることもあるだろうけれど、それには「意味」を追求することばの自立性(自律せい)が必要だろうなあ、と思う。
 こんな抽象的なことを書いてもしようがないか。批判にもなんにもならないか。

 


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(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

 

 

 

 

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