詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

広田修『societtas』

2020-06-23 10:19:05 | 詩集


広田修『societtas』(思潮社、2020年06月01日発行)

 広田修は、散文体のスタイルが印象に残っているが、今回の詩集には行分けスタイルと散文体スタイルが混在している。行分けスタイルでも、広田散文体につながるものを持っている。
 巻頭の「銃弾」という作品。

銃身の鈍重さを仮装しながら
銃弾のようにすばやく生きるのだ

 書き出しの二行の中に、すでにすべてが書かれている。「銃身」と「銃弾」。それはまとめて言ってしまえば「銃」なのだが、「銃身」と「銃弾」という二つの「存在形態」として言い直される。つまり「定義」しなおされる。ここに広田散文体(広田論理)の基本がある。ひとつの存在を複数の視点でみつめることで、「存在形態」を活性化させる。
 「銃身」と「銃弾」は、「鈍重」と「すばやく」と言い直されることで、もはや「銃身」でも「銃弾」でもない。「仮装」と「生きる」という複雑な運動になる。「仮装」とは「隠す」でもある。何かを隠し、隠しながらも、その奥にある「運動」は統合されるのである。「仮装し」「生きる」のは「銃」でも「銃身」でも「銃弾」でもなく、それを「象徴(比喩)」として統合する存在である。

この秋の穏やかな一日は
最大限の速度で組み替えられていくから
この君の静止した生活も
信じがたい高速で雑踏に埋没していくから
撃ち出す可能性しかない母体を装い
撃ち出された現実性しかない弾丸を生きるのだ

 「母体(銃身)を装い」「弾丸を生きるのだ」と最初の二行でつかわれていた動詞が再びつかわれる。そうすることで、ここに書かれていることは、最初の二行の言い直しだと説明される。広田の散文は、とても「ていねい」である。
 その言い直しまでの間に、何があったか。
 「仮装し」「生きる」以外のことばが、やはり言い直されているのだ。「穏やか」は「最大限の高速」と対比され、「高速」は「静止した」と対比され、「静止した」は「埋没する」と言い直される。どんなに「高速」であっても、それは「静止し」「埋没する」。これは物理運動としてはありえないともありえるともいえる。どちらを「信じる」かは、「心情」次第である。「心情」であるからこそ、これが「抒情」になりうるのである。「論理の抒情」に。
 「撃ち出す可能性しかない」「撃ち出された現実性しかない」の「しかない」は「心情」である。そして、それは「信じがたい」の「信じる」という動詞で、先に言われていることでもある。「心情」は「信条」になり、「装い」「生きるのだ」という決意になる。「可能性」だけが「現実」なのだ。つまり、夢だけが現実なのだ。これを「抒情」と呼ばずに、なんと呼んでいいのか、私にはわからない。
 詩の後半を、解説(私の「誤読」)を省略して引用しておく。この後半でも相反するものの対比が運動のエネルギーになっている。弁証法が広田論理の原点であることがわかる。

この浜辺の町の風景には
夢の遊び込む一片の亀裂も存在しないから
この復旧されていく時間には
もはや現在の証明しか存在しない
銃身の優しさで横たわり
銃弾の鋭さで何もかもつんざいていく
責任も罪も悪徳も無効になるこの秋の日
弾丸となりすべてを傷つけていく

 散文スタイルの場合は、こんな具合である。「三十五歳」の一連目。

本質は本質として朽ちていき、装飾や細部にこそ神は宿るのだった。仕事は論理によって組み立てられた城であるが、その堅固さを基礎づけているのはむしろ至る所にある建具の装飾なのである。龍の形をしたり雲の形をしたり山水を描いたり、それらの装飾の綾こそが仕事を別の原理から基礎づけている。虚栄心や嫉妬に基づく競争や攻撃、そういった装飾的な外部をうまく克服することに、仕事はその本質の裏側でぴたりと癒着している。

 「本質」は「朽ちない」からこそ本質というのであり、「本質」と「神」は本来「一体」でなければ意味がない。「神」が「本質」でなかったら、「神」を信じる意味がない。「本質」が永遠に頼ることのできないものであるなら、もう「本質」ではない。
 広田散文の特徴は、こういう「矛盾」にある。「対象」を「矛盾した視点」でとらえなおし、定義する。弁証法の是と非(否)である。ここから「止揚」へ向けての運動がはじまる。矛盾しているからこそ、運動が誘い出される。
 この「矛盾」は「仕事」と言い直されて、「哲学」の領域から「労働」の領域へと場を移し、言い直される。「城」という存在があるとして、その「本質」は「装飾」にあると言い直された後、「装飾(細部)」のひとつを取り出し、それは「装飾」を生み出した(つくった)「心情」に還元される。つまり「虚栄心」「嫉妬」などが、「装飾」を必要とし、「外部」をつくる。そういう「運動」こそが、つまり「心情の発露」こそが、「本質」として「細部(装飾)」に宿る。この「心情」を広田は「原理」と呼んでいる。「装飾」は表面的(表層的)なものだが、その表面の「裏側」には、語られない「心情」が「ぴたりと癒着している」。それが「原理」(永遠に朽ちない「本質」)なのだ。このとき「心情=原理」は「神」になるのである。
 この広田論理のなかで、いちばん重要なことばは「癒着」であるように見えるが、そうではなくて、その前の「ぴたり」だろう。「癒着」は「合体」とか「接着」とか「密着」とか「接合」とか、あるいは「融合」とか、いろいろ言い直しが可能である。もちろん、そのとき文全体が変わってくる。(だからこそ、広田は、同じ運動をさまざまな「変奏」として詩にできるわけである。)だが、「びたり(と)」だけは、言い換えがきかない。
 「ぴたり(と)」は省略しても、第三者(読者)に「意味」が通じる。しかし、それがないと広田の「心情(こころ)」納得できない。そういう無意識に書かれたことば。「肉体」になってしまっていて、書いたかどうか意識できないことば。
 こういう、言い換え不能のことばを、私は「キーワード」と呼んでいる。(広田が言い換えができないから、読者の方も、それを言い換えることができない。ためしに「ぴたりと」を自分のことばで言い直すとどうなるか、やってみるとわかる。)
 広田論理(広田抒情)は、「ぴたり」をめざしているのだ。しかも、その「ぴたり」は矛盾しているが、「ぴたりと」合致するというあり方なのだ。矛盾によって、より「接合(癒着)」が強烈になる。そういう運動。それを、弁証法では「止揚」と呼んでいる。

 こういう「表層的」な分析は、まあ、どうでもいいことかもしれない。
 広田散文の特徴は、そういう「見かけ」とは別に、軽やかなリズムを持っている。このリズムは「弁証法」と書いたが、ヘーゲルのドイツ哲学とは一線を画している。構造が先にあるわけではない。フランスの、ベルグソン(古くはデカルト)の自発重視のいいかげんさ(自発的だから正しいという主張)とも違う。なんとなく、「英語」特有の、何でも後から追加すればいい、という成り行き文体という感じがする。「後出しじゃんけん文体」と言ってもいい。
 こういう言い方は、いい加減すぎるのだが、ほんとうに書かなければいけないのは、この私の「いい加減」で指摘している部分である。ことばのリズムだとか、文体の印象というのは、ひとそれぞれによって受け止め方が違う。つまり「相性」がある。しかし、最後は「相性」でことばを読んでしまうものなのだ。「文学」というのは。「どれが、いい?」という質問は、文学の場合、「どれが、好き?」という問いかけに他ならない。
 私は広田の文体が好きである。



**********************************************************************

「現代詩通信講座」開講のお知らせ

メールを使っての「現代詩通信講座」をはじめます。
メールで作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントを1週間以内に返送します。

定員30人。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円です。
費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A版サイズのワード文書でお送りください。

推薦作は、ブログ「詩はどこにあるか」で紹介します。
(ただし、掲載を希望されない場合は紹介しません。)

先着15人に限り1回目(40行以内)は無料です。16-30人は1回目は 500円です。
2回目から1篇1000円になります。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com

**********************************************************************







オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

たかとう匡子『耳凪ぎ目凪ぎ』

2020-06-22 11:40:52 | 詩集
たかとう匡子『耳凪ぎ目凪ぎ』(思潮社、2020年04月20日発行)

 たかとう匡子『耳凪ぎ目凪ぎ』を読みながら思うのは、どんなこともけっして終わらない、ということだ。
 たかとうは東日本大震災のことを書いている。やっと「ことば」がやってきたのだ。「ことば」はすぐにはやってこないのだ。
 「耳凪ぎ目凪ぎ」の書き出し。

闇は波立ち
わたし
不在のような気がしてならない

 あの日、大震災は「闇」のなかで起きたのではない。午後だった。私は現場にいたわけではないから天候のことまでは明確には認識していないが、雨は降っていなかったと思う。暗くはなかったと思う。でも「闇」としかいいようのないものが直立し、押し寄せてきた、ということなのだ。
 そして、そのとき、「わたし」は「存在している」。しかし、ほんとうか。「不在」なのではないか。
 この書き出しでは、「不在」の主語が何なのか明示されていないが、私は、だれかが不在になったと感じる前に、あ、あの瞬間、たかとう(わたし)そのものが不在になったのだと感じた。これは、私の直感であり、直感というのはいつも「誤読」に支配されているものだが……。
 詩はつづく。

いないという名の地平
掴もうとしてのばした指先
たしかにさわった
屈折や伸縮
裏返し
耳や目やその凪ぎ地図ほど枯れて
誰かが入ってきた気配はするがすでにその町名は沖に流されて
張りつめた恐怖が横切っていった

 そこにあった「町」は流されて、もうない。不在だ。「町名」は記憶に残っているが、町がなくなれば、それは「町名」が奪われたということだろう。
 「耳や目やその凪ぎ地図ほど枯れて」という一行は、「誤読」を誘う。「誤読」をまっている。つなぎとめられていたものが、「解かれて」、地図は記憶として、そこにないもの(不在)があったことを教えてくれる。
 あのとき、何があったのか。
 「わたし」は誰かの指にたしかに触ったのか。現実に触らなくても、想像力のなかで、肉体で触るよりも、もっと切実に触ったかもしれない。しかし、そう考えるのは、不遜なことかもしれない。実際に、触ったのに、その触ったいのちを奪われた人もいる。そういうとき、想像力で触った、それは肉体で触るよりも記憶に深く刻み込まれている、と書いていいのかどうか。そう読んでいいのかどうか。
 こんなことを考えるとき、「私(たかとう、ではなく、谷内)」は存在しているといえるのか。「私」は、いのちを奪われた人にとっては「不在」である。だれも、わたしのことなど思わない。
 私(谷内)もまた、たかとうのことばのなかで「不在」になる。
 しかし、たかとうのことを思うひとはいるだろう。そのたかとうにとって、「わたし」が「不在」なのか、それともいのちを奪われたひとが「不在」なのか。
 これは、わからない。わからないから、私は、それを「保留する」。
 詩のつづきを読む。

闇はなお波立ち
不在のわたし
キンモクセイの内側にもぐりこむ
ささやかな生活の痕跡にさわる
闇は波立ち
虚空に
魚の影

 「不在のわたし」と言い直される。
 だが、どう言い直されているのか。
 「わたし(たかとう)」は、この詩を書いているとき、存在している。その「存在の場」と、たかとうが書いている「たかとう以外のひとの存在の場」は、同じであっても同じではない。震災の後、たとえたかとうが「現場」にいったとしても、そこでことばを動かしたとしても、「同じ場」とはいえない。「場」のなかにある「時間」が違う。
 いま「存在する」ということは、あのとき「存在していない」ということだ。あのとき、そこに「存在していない」から、いま、「ことば」が存在する。その「ことば」の発話者は、「不在のわたし(存在しないことによって存在するわたし)」なのだ。

 入り乱れる。論理的に書こうとすると、どうしても何かを間違えているという気持ちに追い込まれる。
 そう感じさせる何かが、

わたし
不在のような気がしてならない

 という書き出しのことばからつづいている。
 どうしたら、「不在」ではなくなるのか。

国会答弁なんか聞いているばあいではない
どんな手続きをするにせよ待ってなんかいられない
ああ
早くみつけてほしい
音になって落ちたすっかり汚染された海

 「早くみつけてほしい」。「見つける」しかないのだ。「見つけた」とき、「わたし(たかとう)」は存在しているといえる。それは、たかとうのことばであるけれど、たかとうを突き破って動いている「いま」のことばだ。
 「手続き」ではないのだ。「手続き」のさきに、何かがあらわれてくるのではない。「手続き」を超えるものがあるのだ。「国会答弁」の「手続き」など、信じてはいけない。ふいにあらわれる「国会答弁」に、たかとうの怒りが込められている。無念がこめられている。
 
 こんな断片的な感想では、たかとうの肉体に触れたとはいえないのだが、私は私の感じていることを書いておくしかない。
 詩の最後。

時がとまっている
対岸の突堤まで延びはじめる
耳や目やその凪ぎ
これを伝っていけば逃げられる
あるいは時間が経てばきっと
と思ったのは誤算だった
草色の部分がかすんで
むこうの沖合の暗いずっと下の見えないところ
さわぐ
草模様
その勢いはただごとではない
言葉ではとうてい太刀打ちできない
渇いたまま
しばし立ちすくむ

 時間がたてばたつほど、書かなければならなくなるのだ。「ことば」で太刀打ちできないが、「ことば」は太刀打ちせよとたかとうにいいつづけるのだ。「不在」であると知りつつ、あるいは「不在」であると知っているからこそ、「不在」であることを突き破ろうとする。
 その「方法(手続き)」は、きっと、永遠に確立されない。だからこそ、「早く」それを見つけたいとあせるように書くしかない。遅れて書くことの、あせりの強さが、いまたかとうの向き合っているものなのだ。この強いことばに向き合うためには、繰り返し繰り返し、この詩集を読まないといけない。






**********************************************************************

「現代詩通信講座」開講のお知らせ

メールを使っての「現代詩通信講座」をはじめます。
メールで作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントを1週間以内に返送します。

定員30人。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円です。
費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A版サイズのワード文書でお送りください。

推薦作は、ブログ「詩はどこにあるか」で紹介します。
(ただし、掲載を希望されない場合は紹介しません。)

先着15人に限り1回目(40行以内)は無料です。16-30人は1回目は 500円です。
2回目から1篇1000円になります。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com

**********************************************************************







オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コロナ第二波

2020-06-22 10:15:43 | 自民党憲法改正草案を読む
コロナ第二波
       自民党憲法改正草案を読む/番外365(情報の読み方)

 コロナ報道は「下火」になってきたが、それだけにいろいろな「情報操作」がしやすくなっている。
 2020年06月20日の読売新聞(西部版・14版)にはコロナ関係のニュースが何本が書かれている。
 1面には「感染症に強い社会築け/安心取り戻す医療・経済」という「提言」が掲載されている。これは「提言」だから「主観」が前面に出ていても、私は気にしない。(「首相直属の本部を設けよ」という提言には「感染防止と経済再生を両立」という安倍政権に寄り添った主張がかかれている。7、8、9、10面に詳細な提言が掲載されているが、いまは、読まない。)
 「主張」ではなく、「客観的事実」をどうつかえるか。「客観的」を装って、そこに「主観」をどれだけもぐりこませるか。それをどう読むか。そのことに目を向けたい。
 
 2面。

中国「感染封じ込め」揺らぐ/新型コロナ 北京「第2波」200人超す

 これは「事実」である。記事を要約すれば「20日に20人の有症感染者が確認された。11日以降の有症感染者の累計は227人になった」。だから、中国が感染症の封じ込めに成功したとは一概にいえない。信用してはいけない、といいたいのだろう。
 一方、26面には、国内の感染者一覧が載っている。

国内56人感染 福岡2日連続ゼロ

 一方、東京(日本の首都)はどうか。35人の感染を確認している。有症/無症の区別はないので単純に比較することはできないが、35人は北京の20人よりはるかに多い。さらに記事には「1日あたりの感染者数が30人を超えるのは4日連続」とある。北京のように「11日以降」の累計ではどうなるのか。北京の「227人」を超えるかもしれない。「東京アラート」解除後、40人を超える日が続いた記憶している。
 有症/無症の区別をどこまで配慮すべきなのかわからないが、東京の方が北京よりも深刻な状況かもしれない。
 けれど、読売新聞は、簡単には比較できないように2面と26面に記事をわけて書き、北京(中国)がたいへんだ。封じ込めが成功したというのは嘘だ(信頼性が揺らいでいる)と印象づける書き方をしている。
 世界の状況に目を向けると、6面に「主な国・地域の感染状況」が載っている。記事はない。いま、中南米で感染が拡大していて、ペルーでは感染者が25万人を超えたというニュースがあったばかりだが、読売新聞の一覧表では「ブラジル103万人」があるだけで、ペルー、チリの数字は載っていない。世界では感染がまだまだ拡大し続けている。「第2波」ではなく「第1波」状態だということがわからない。
 「情報」は「分断」されている。その「情報」を読者がつないで「ひとつ」にしないと状況がわからない。これは、一種の「情報操作」である。世界中が対処に困っている。それなのに、北京(中国)の感染拡大だけが問題である(中国が感染封じ込めに成功したというのは嘘だ)と印象づけようとしている。
 中国を批判するなら批判するでいいのだが、もっとていねいに「事実」を分析し、世界の今の状況(日本の今の状況)と比較しないことには、「客観的」とはいえないだろう。
 さらに。
 26面には、たいへん興味深い記事がある。

新型コロナ/医療機関 経営に影/受診控え進み患者減

 感染を恐れて、コロナ以外の患者が来なくなり、経営が悪化している、という。これは、別なことばで言い直せば「医療(経営)崩壊」が起きている、ということである。
 この「医療崩壊」は、コロナ感染が拡大していたとき、患者が殺到すると助けられる患者も助けられなくなるという意味でつかわれたのだが、コロナ感染者も「助けなければならない患者」であるはずなのに、そこから除外されていた。「医療崩壊」を叫んだ医療現場(経営者)は、「高額の治療費を支払ってくれる人を助けられなくなる」、つまり収入が減る(医療「経営」崩壊が起きる)と「無意識」に言っていたのだ。「医療倫理崩壊」が起きていたのだ。
 いま、診察にくる患者が減って「医療経営崩壊」が起きている、と医療関係者(経営者)は言うのだが。
 これは、よくよく考えると、とても奇妙な主張である。
 医療は受診する人が少なければ少ないほど、国民が健康である「証拠」になる。もちろん金がなくて受診できないという人もいるかもしれないが、原則的に、患者が減れば病院へ行くひとは減ると考えるべきだろう。
 医療の経営はたしかに苦しいのだろうが、国民が健康ならば、それはいいことではないのか。「医療経営崩壊」は「国民健康の増進」である。そういう視点があっていいはずなのに、完全に欠如している。
 コロナの影響で、国民が自分の健康に配慮し、手洗い・うがいなどを徹底したことにより、ふつうの風邪などが減った、ということなら、それはとてもいいことだろう。
 そういうときに、「医療経営崩壊」が起きている、とそれをニュースにするのは、何か「論点」がずれていないか。手洗いの励行により、風邪や食中毒などの患者が例年よりどれだけ減ったかという「朗報」もニュースとして知らせるべきだろう。その方が、国民の健康への関心を高めることになるだろう。これからの生活の「よりよい指針」になるだろう。
 いま守るべきなのは、国民の健康だろう。医療の経営環境ではないだろう。
 私は読売新聞の「提言」をまだ詳細には読んでいないが、先に書いた「感染防止と経済再生の両立」という提言や、1面の「安心取り戻す医療・経済」という見出しを読むと、「経済」のために感染症を防止すると言っているだけのように聞こえる。「経済」は、人間が生きていれば、やがて復活するだろう。しかし、人間は死んでしまったら、もう生きかえれない。人間は「数」ではなく、ひとりひとり、かけがえのない存在なのだ。人間を「数(労働力)」としてとらえるという視点が、いま、あらゆるところで問題になっているが、コロナ報道ひとつをとってみても、それを感じてしまうのである。







#検察庁法改正に反対 #安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

「天皇の悲鳴」(1000円、送料別)はオンデマンド出版です。
アマゾンや一般書店では購入できません。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

ページ右側の「製本のご注文はこちら」のボタンを押して、申し込んでください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

瀬尾薫「ばみり」

2020-06-21 09:43:32 | 詩(雑誌・同人誌)
瀬尾薫「ばみり」(「折々の」50、2020年07月01日発行)

 瀬尾薫「ばみり」。「ばみり」とは、舞台での立ち位置などをテープなどで目印をつけること、らしい。註釈がついていた。「場を見る」ということか。専門用語というより、一種の「隠語」のようなものだろう。
 それを利用して、瀬尾は、こんなふうに詩を展開する。

蒲公英(たんぽぽ)色のテープの辺り
 こども
 自転車の補助輪をはずす

薄群青色のテープの辺り
 子ども
 熟語辞典をやぶく

 劇がどんなふうに展開しているのか。
 「たんぽぽ」と「こども」が「自転車の補助輪をはずす」の組み合わせは、子どもが補助輪なしで春の野を走り回る様子を浮かびあがらせる。そこにたんぽぽが咲いていなくても、こどもにとっては春の野なのだというよろこびを感じさせる。
 色が「薄群青」に変わって、「こども」が「子ども」に変わる。成長したのだろう。「熟語辞典をやぶく」には「反抗心」のようなものが感じられる。幼いときの「反抗期」ではなく、一段成長した後の反抗。向き合っているのは、親だけではないだろう。社会全体への怒り、辞典に象徴される強固な権威への怒りのようなものが芽生えている。

思色(おもいいろ)のテープの辺り
 大人
 靴音をたてて歩く

濃朽葉色のテープの辺り
 おとな
 自分の背中を鏡にうつす

 「思色」は、はじめて聞くことば。造語だろうか。「大人」と「靴音をたてて歩く」から想像すると、「思っていること/自分がここにいること」を知らせるために、わざと靴音を立てているのだろう。
 「熟語辞書をやぶく」「子ども」(たぶん少年)ではなく、その少年が成長した姿だろう。恋をしているのか。
 「蒲公英色」のように即物的ではないだけに、いろいろなことを想像させてくれる。「わからない」ことばには、想像力を駆り立てる力がある。
 「濃朽葉色」は、主役の男の晩年だろう。「朽葉」には、それだけで晩年が象徴されている。「じぶんの背中をうつす」は自分の過去を振り返る。
 男の人生の、それぞれの時間が象徴されていることになる。

 とてもおもしろい。真似をして、書いてみたい気持ちにさせられる。剽窃したい衝動に駆られる。こういう気持ちを起こさせる詩は、いい詩だ。

 残念なのは、「ドラマ」がいまひとつ明確ではないことだ。
 芝居(舞台)は、役者が登場する。役者は、それぞれの「過去」を背負って舞台に登場する。役者が「セリフ」に、役者の「肉体」で陰影を与える。
 その舞台での「役者の肉体の陰影」のようなものが、この詩には反映されていない。ストーリーがあるのだが「肉体」が不在である。
 「補助輪をはずす」(補助輪なしで自転車に乗る)「辞典をやぶく」「靴音をたてる」「背中を鏡にうつす」と「動詞」そのものは書かれているが、その「動詞」がひきおこしたひろがり(他人への影響)を感じさせる一行があれば、ドラマが活性化すると思う。
 たとえば、「二階の窓がひらく」「チャイムの音にあわせて学校の窓が夕日を反射する」「女が部屋の明かりを消す。シルエットが消える」「窓から落ち葉が入り込む」など。私の書いたことは安直すぎて、ドラマ(劇)になりきれていないが、芝居はたいてい対話でできているのだから、「対話」を感じさせるものがあると、とてもおもしろい作品に変わると思う。






**********************************************************************

「現代詩通信講座」開講のお知らせ

メールを使っての「現代詩通信講座」をはじめます。
メールで作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントを1週間以内に返送します。

定員30人。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円です。
費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A版サイズのワード文書でお送りください。

推薦作は、ブログ「詩はどこにあるか」で紹介します。
(ただし、掲載を希望されない場合は紹介しません。)

先着15人に限り1回目(40行以内)は無料です。16-30人は1回目は 500円です。
2回目から1篇1000円になります。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com

**********************************************************************







オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神谷直樹「ウミウシの朝」

2020-06-20 18:49:07 | 詩(雑誌・同人誌)
神谷直樹「ウミウシの朝」(「六番目の母音」5、2020年06月15日発行)

 神谷直樹「ウミウシの朝」は、ウミウシのことを書いているか。ウミウシに神谷を託して書いているか。

鰓(えら)と
触覚とを
獲得した

 この書き出しはウミウシのことを描写しているようにも見えるが、いのちの長いはじまりのようにも感じられる。神谷が、遠いいのちに自分をつなげているとも受け止めることができる。

遠くまで
光と
風と
感応できるよう
置き去りにしたナメクジ
追い抜いたカタツムリ
四六時中這いまわり
狡猾なトカゲの真似をして
移動してみたい
手というもの
指というもの
その強靱にあこがれた
はるかなにち月

 これはウミウシの気持ちだが、同時に神谷の気持ちだろう。「遠く」は「はるか」と言い直され、「にち月」と言い直される。
 空間ではなく、時間なのだ。
 しかし、時間と空間は、簡単に分離できない。

微睡(まどろみ)ながら
太古の空にとどろいた
雷鳴からの指令として
  尿管など
  肛門など
暗く
長くつづく
未踏の洞窟の
その出口にこそさらに下げて
  口腔など
  眼窩など
  鼻腔など
洞穴として
空にひらく
その入り口にこそ高みに掲げて

 空間と時間は、「肉体」のなかで合体する。「肉体」のなかでおきていることは空間と時間に置き換えられるということか。
 そして「肉体」とは「管」であり、「管」には「出口」と「入り口」があり、それは「空(宇宙)」に向かって開かれている。
 ウミウシも人間も同じなのだ。
 いのちを生きる。時間を生きる。宇宙になる。
 繰り返される「など」ということばが必要かどうか、私にはわからない。ない方が、私の好みである。
 一行の短さが、私は気に入っている。


**********************************************************************

「現代詩通信講座」開講のお知らせ

メールを使っての「現代詩通信講座」をはじめます。
メールで作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントを1週間以内に返送します。

定員30人。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A版サイズのワード文書でお送りください。

推薦作は、ブログ「詩はどこにあるか」で紹介します。
(ただし、掲載を希望されない場合は紹介しません。)

先着15人に限り1回目(40行以内)は無料です。16-30人は1回目は 500円です。
2回目から1篇1000円になります。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com

**********************************************************************







オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さすが読売(陸上イージス、その3)

2020-06-20 10:03:15 | 自民党憲法改正草案を読む
さすが読売(陸上イージス、その3)
       自民党憲法改正草案を読む/番外364(情報の読み方)

 2020年06月20日の読売新聞(西部版・14版)の1面と2面。陸上イージス停止の「舞台裏」が「検証」というタイトルで書かれている。
 1面の見出し。

改修 防衛範囲1/3に

 山口に配備される予定だった陸上イージスのブースターを演習場内に落下させるように改修すると、

防衛範囲が3分の1に狭まり、本州西部、九州、沖縄という元の範囲から本州西部などが外れてしまうことが決断の決め手となった。

 つまり、大阪、京都や名古屋あたりを守れないということなのだが、これだけを読むと「日本の防衛」を真剣に考えている気がする。そう感じさせるために、1面には、こういうことが書いてあるのである。
 2面にはそのつづきが書いてある。

配備停止 根回しなく/河野防衛相、成果狙う

 費用対効果が低い。だから1面の「事実(改修すれば防衛範囲1/3に狭まる)」を踏まえて、「行革」に熱心な河野が「白紙撤回」へ動いた、というのである。ここでは、読売新聞は河野を持ち上げている。

「だまされたという思いはあるが、米国の当初の説明をうのみにしてしまった」

 という防衛省幹部の談話まで掲載している。悪いのはアメリカだ、と言いたいらしい。
 でも、河野だけで、これを決定できる? ほんとうに「根回し」がなかった? アメリカが陸上イージスを売れなくなったことで被る損失(?)は額にすると少ないという意見もほかのところで読んだが、どうかなあ。売れるはずのものが売れなくなって、「わかりました」と簡単にアメリカが、ビジネスマンのトランプが引き下がるだろうか。
 そんな疑問を解消してくるのが、次の部分だ。安倍と「親しい」読売新聞にしか書けない部分だ。(他紙を読んでいないのでわからないが、こんなことを書いてあるのは読売新聞だけだろう。番号は、私がつけた。)

 ①実は、首相も以前から、以前からイージスショアの費用対効果を疑問視するようになっていた。②配備計画が地元の反対で停滞する中、③周辺には「新しいミサイルの登場で『盾』だけでは限界がある。矛を持たないとダメだ」と語っていた。
 ④首相は、河野氏が主導した今回の配備手続き停止を、ミサイル対処のあり方を一から見直し、持論の敵基地攻撃能力の保有を議論する機会にしようと考えたとみられる。

 ①は「費用対効果」に安倍も配慮しているという「持ち上げ」である。「実は」という「飾りことば」まで書かれている。安倍の方が真剣に「費用対効果(予算)」のことを心配していると言いたいらしい。しかし、費用対効果を真剣に考えるなら②の「地元の反対」は関係ないだろう。論理が、奇妙にねじれている。本質は③にある。「矛を持たないとダメだ」。
 これをていねいに④で言い直している。陸上イージスでは「防衛」しかできない。「攻撃」ができない。そんな役に立たないものに金を使うな。費用対効果を考えろ、というわけである。
 これを言い直すと、陸上イージスはやめて、敵基地を攻撃できるミサイルを配備しよう、ということである。
 これなら、アメリカも納得する。
 「陸上イージスはやめて、敵基地を攻撃できるミサイルを配備する」というのは、ミサイルをアメリカから購入するということだからだ。
 「根回しなく」と読売新聞は見出しに書いてあるが、逆なのだ。アメリカに対する「根回し」はそこまで進んでいる。アメリカでの根回しは終わったのだ。「ミサイルを買います」とこっそり約束したのだ。だから、平然として「陸上イージス停止」と発表できたのだ。
 アメリカ側の反応(武器が売れない不満、世界戦略がどうなるかという不安)が報道されないのは、もうミサイルが売れる、世界戦略はより強固になるとアメリカが「安心」しているからだ。アメリカでは、そういうことは「周知の事実」なのだ。日本人が知らないだけなのだ。

 私が傑作だと思うのは、こういうことを読売新聞が書いてしまうことだ。
 書いた本人は、自分はここまで安倍の意図をつかんでいる(安倍と親密な関係にある)ということを言いたいのかもしれないが、ちょっと「忖度」を働かせれば、いま、こういうことを書いたら安倍批判が噴出すると予測しないことだ。朝日新聞なら、同じことを把握していたとしても、こういう書き方はしないだろう。
 「政治」の裏事情をのぞきみるには、読売新聞の記事は、とてもおもしろい。

 まあ、アメリカとミサイル購入の密約ができているというのは、私の「憶測/推測/妄想」かもしれないけれどね。
 
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

徳永孝「カルダモン ミルクティー」、池田清子「独り言」、青柳俊哉「言葉の糸」

2020-06-19 19:55:42 | 現代詩講座
徳永孝「カルダモン ミルクティー」、池田清子「独り言」、青柳俊哉「言葉の糸」(朝日カルチャーセンター福岡、2020年06月15日)

カルダモン ミルクティー      徳永孝

きっ茶店で飲む
家でいれてみる
ジンジャーを足してもいい
花椒(ホワジャオ)はどうかな

インドでは
スルタンがチャイを飲む
カルダモンの産地スリランカ
シンハラ人 タミル人の島
仏教の国

 紅茶をいれて飲む。そのことが書いてあるだけ、と思うが、そうではない。ここには「事実」が書いてあるというよりも、ことばが「音楽」そのものである、ということが書かれている。
 「ジンジャー」と「ホワジャオ」の響きあいが楽しい。カタカナと漢字のすれ違いも楽しい。響きあい、すれ違いと感じるのは「ジ」の音が交錯するからだろうか。
 とりわけ二連目の

カルダモンの産地スリランカ

 の音の響きが美しい。楽しい。「ン」という音ではない音(?)がリズムをつくっている。「ダ」という濁音が一回だけ登場するのも、響きの強さ(豊かさ)を感じさせる。
 発音する人によって違うだろうけれど、私は「ダ」と「ラ」の類似性も、この一行を不思議な響きにしている要素のひとつだと思う。
 読んだ後、それでは何が書いてあった? というようなことを語り始めると、「意味」がみつからずに困るかもしれない。しかし、世界は意味だけではできていない。声に出すと楽しい、耳がうれしがっているだけではなく、声に出すときに動く喉とか舌とかも、きっと喜んでいる。
 もう一篇、「音の見える世界」の一連目も楽しかった。

ブラックのバイオリニスト
エリック・カールの I see a song
音楽の星 Jelly Jum
時の終わりのための四重奏曲
メシアンにも音が見えていたのかな

 「ブラック」は画家、絵本作家「エリック・カール」につながっていくのだが、意味よりも、ここでも「音」の方が行と行をつないでいる。
 「意味」というものは、人間ならだれでも自分自身の意味をかかえて生きている。だから、必要ならばいつでも意味は捏造できるものである。たとえば、いま書いたブラックは画家であり、その「絵」の印象が二行目のエリック・カールを誘い出している。一行目と二行目は無関係なようで関係がある、という具合に。
 でも、こういうことは気にしないで、ただ、あ、何か美しい音が響いていると感じること、その感じに肉体をあずけてみるということも必要だと思う。
 意味がわからないけれど、読んでいて「音」が気持ちがいい、あるいは逆に意味はわかるし、説得力もあるが、どうも音の響きが重くて説教くさくて、いやだなあ、と感じる詩もある。
 「音(音楽)」は無意識の連想を活性化させるように思える。



独り言        池田清子

強烈な
パンチを
くらった

ぱん ぱん ぱん ぱん

痛いなぁ

痛いなぁ

 参加者のひとりが、「痛みをじぶんのことばのなかで消化している。ことばに返還することで、内容は心地よくないのに、何かここちよいものに変わっている」と感想を語った。「消化」は「昇華」であり、また「浄化」ということだろう。私は「消化」と最初に書いたが、参加者が言ったのは「昇華」だったかもしれないし、「浄化」だったかもしれない。
 意味を特定せずに、「消化/昇華/浄化」のままにしておく。
 「痛みを持ちこたえている底力、しぶとさ」のようなものがあるという感想も聞かれた。
 たぶん最後の二行の繰り返しが効果的なのだと思う。一度では「痛み」が強すぎる。もし、これが三回、四回と繰り返されていたら、また印象が違うと思う。二回だから、効果的。二回の繰り返しのなかで、きっと「音」が変わっている。その音の変化が気持ち(感情)の変化だ。同じ文字が書かれているのだが、音が変化していると感じるのは、私たちが、「痛いなぁ」を繰り返して言った体験があるからだ。「肉体」が、詩に反応しているのだ。



言葉の糸          青柳俊哉

日ざかりの庭へおちていく
飛ぶ鳥の羽を
無意識の 言葉の糸がうけとめる

詩人から送られてきた絵葉書の 
だれもいない豊饒(ほうじょう)の海の流木のうえに 
羽がいちまい垂直にとまっている

最後の蝉声(せんせい)をうたう歌集の
最後のページに 底のない青空から
朝も夕もなく 蝉の声がふりつづける

美しい尼僧の中の 日ざかりの庭に
蝉の声がたちこめて 記憶もリンネもすべて
けされていく

 参加者から「イメージが広がっていく。やがて消えていくのだけれど、その変化が気持ちがいい」と「わかりにくい」という感想があった。
 イメージの変化、イメージの移動については、わかりにくさは、こう指摘しなおすことができると思う。
 タイトルの「言葉の糸」が三行目に出てくる。「無意識」ということばが直前にあるが、この「言葉の糸」は「肉体(五感)」では見えない何か、意識でとらえた「事実」だろう。「日ざかりの庭」という現実が、意識の「事実」(心象)へと変化して、動いていく。(「現実」から「意識」へと世界の次元が変化していっているから、区別がつきにくいということかもしれない。)
 「庭」と「言葉の糸(意識)/無意識」の、どれがいちばん大きな存在か、特定するのはむずかしいが、対象を把握するために意識が移動しながら焦点を動かしている感じがする。
 それは二連目で、さらに明確な運動になる。「絵はがき」は小さい。現実の「海」は絵はがきにはおさまり切れない。しかし絵はがきのなかに描かれた海がある。それは現実の海ではなく、意識が海と判断している何かだ。その大きな海は海より小さい「流木」が対比され、さらに小さい「羽」へと視線が動いている。動いていくけれど、その大から小への動きがスムーズなので、動いていることを忘れてしまう。
 私は三連目の「蝉声」にとまどっていたのだが、作者が、河野裕子の歌集(歌)からの引用だと言った。河野裕子は、「豊饒の海」の作者・三島由紀夫と「言葉の糸」によってつながっていく。ふたりとも死んでしまった。そしてそのことが「リンネ(輪廻)」ということばで、しっかりと結びついた作品だ。
 私は、一連目の羽、二連目の羽を「言葉の糸」というイメージから繊細な白い(儚い)羽を想像したが、青柳は、黒い羽だと言った。黒が、二人の死、さらに「輪廻」へとつながっていくのか、納得した。
 一、二連目に死につながる明確なイメージがあれば、「蝉声」と死がもっとわかりやすくなったのではないか、と思う。







オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ペドロ・アルモドバル監督「ペイン・アンド・グローリー」(★★★★)

2020-06-19 17:44:35 | 映画


監督 ペドロ・アルモドバル 出演 アントニオ・バンデラス、アシエル・エチェアンディア、レオナルド・スバラーリャ、ペネロペ・クルス

 ペドロ・アルモドバルの映画は絵画(色)と音楽が強烈だ。この映画でも色が鮮やかだ。そして、その色の鮮やかさが最後に光に変わる。そこに、この映画のすべてがある。
 
 有名監督が、肉体の痛みに苦しんでいる。栄光はあるが、新しいことは何もできない。ただ生きているだけ、という状態だが、こういう状態をさらに苦しめるのが「過去の栄光」というものなのか。栄光を思い出すが、気分は晴れない。過去を思い出せば出すほど、つらくなる。
 それが、最後の最後の瞬間。
 アントニオ・バンデラスは一枚の絵を見つける。そこには幼い自分が描かれている。太陽の下で本を読んでいる。それを見たとき、アントニオ・バンデラスは「最初の欲望」を思い出す。
 家の修理をしている若い男。(この男が、少年時代のアントニオ・バンデラスを描いたのだ。)仕事をして体が汚れたので、水を浴びる。その姿を少年は、ベッドでうたた寝しながらみつめている。健康な体に水しぶきがはねる。光が散らばる。若い男が体の向きを変えると、体に隠れていたペニスが見える。「タオルをとってくれ」。少年はタオルを持って若い男に近づく。正面からペニスが見える。少年は、気を失う。
 日盛りの下で本を読んでいた。熱射病が原因だが、それだけではない。少年は、そのときはじめて「欲望」を知ったのだ。「el primer deseo 」は「欲望の最初」と訳したい感じがする。少年は、自分に「欲望」というものがあったと知る。「欲望」を発見するのだ。
 それは太陽の光そのもののように輝かしい。

 映画の冒頭、アントニオ・バンデラスはプールに沈んでいる。背中の痛みをやわらげるためなのだろうが、この不思議なシーンは、最後の「欲望」の発見の「水」ともつながっている。少年は「欲望」を発見しただけてはなく、「欲望」のなかに自分の理想像をみたのだろう。水をはじいて、きらきら輝く肉体。

 しかし、少年は、成長し、その欲望のままに生きるわけではない。欲望を殺し、「愛」に生きる時代もあった。薬物中毒に苦しむ恋人に寄り添い、旅をする。恋人が薬物中毒から立ち直るのを待って、マドリッドに帰ってくる。そういう時代があった。
 その後、その恋人との生活を何度も映画化している。それは忘れられない「祝祭」であり、「栄光」よりも輝かしいものに違いない。その「忘れらない」感情を、体力が落ちたいまは「芝居」にしている。それを演じるのは、一度は仲違いした役者であり、それを昔の恋人が偶然に見て、主人公は自分だときづく、というシーンもある。
 私の書き方は逆になったが、映画は、いまと過去を交錯させながら、最後に「最初の欲望」を発見するという展開になっている。そういう展開だからこそ、最後の「欲望」の発見が、とても美しい。
 この「欲望」の発見は、また、「欲望の法則(La Ley del deseo)」を思い出させる。アントニオ・バンデラスが出演した。「Dolor y gloria」という原題も音が美しいが、タイトルは「el primer deseo 」の方がよかったのではないか、と私は思った。この文字がパソコン画面をさっと横切っていくシーンも非常に美しかった。

(キノシネマ天神、スクリーン2、2020年06月19日)



*

評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076093


「詩はどこにあるか」2020年1月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168078050
(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)

オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石毛拓郎「峠の墳墓にて」

2020-06-18 12:07:06 | 詩(雑誌・同人誌)
石毛拓郎「峠の墳墓にて」(「飛脚」24、2020年06月10日発行)

 石毛拓郎「峠の墳墓にて」は国木田独歩のことを書いている。
 石毛と私の考え方のいちばんの違いは、石毛が「存在」を社会にかえしながら考えるのに対し、私は社会を気にしない(忘れてしまう)ということにあると思う。と、書くと抽象的だが。
 独歩を書くにあたって、石毛は「出産」から書いている。男と女がいて、交わって、子供が産まれる。これはごくあたりまえのことなので、私は男と女がだれであったか気にしたことはないが、石毛は男と女を特定し、そこに「社会」を見ているのである。
 これは、「おさらい」。私は、あ、そうなんだとは思うが、それ以上考えるのはめんどうなので、そこに書いてあることを気にしない。
 で、いきなり最終連をひく。

風に吹かれて
若葉にすくぶる峠の墳墓にたつと
そこに民権運動が眠っている
独歩は、口を手で隠して
なにごとか海外にむかって叫んでいる
山林をのぼり、峠を越えた者たち
峠で息絶えた者たち
峠の変哲もない墓地で
ひと口、喉を湿らしていたら
黒い外套の独歩が
匕首を抜いて、墓地の塵を払い
虚栄の自由を切り裂いていった

「なにごとか海外にむかって叫んでいる」という一行で、私は立ち止まる。
「なにごとか」が何を指すか、石毛にはわかっている。私は独歩のことは「名前」くらいしか知らないので、その「なにごとか」がわからない。ここに石毛と私の違いがあるのだが、なぜ、私は石毛が「なにごとか」について知っているかと「わかる」か、というと……。
「海外にむかって」ということばがあるからだ。
峠から見える「海」に向かってではない。「海」のはるか向こうの「海外」に向かって叫んでいる。このときの「海外」というのは「具体」であると同時に抽象である。単に「土地」を指すのではなく、土地の「意味」を含んでいる。その「意味」は「自由」である。
独歩は、海に向かって叫んだのではない。ましてや、「海外の国」に向かって叫んだのでもない。「海外の国」のひとには、独歩の「叫び」など聞こえるはずがない。独歩が叫んだのは「自由」に向かって叫んだのであり、その「自由」とは独歩が知っている何かなのだ。独歩は、独歩が知っていることを、独歩自身に向かって叫んだのだ。「口を手で隠して」いるのは、その「叫び」が他人に聞かせるものではなく、自分にさえ聞こえればいいものだからである。それは独歩の肉体を突き破って、独歩の前にひろがり、独歩は自分の「肉体」から噴出した「自由/叫び」に向かって自分の「肉体」を動かす。
そういうことを、

匕首を抜いて、墓地の塵を払い
虚栄の自由を切り裂いていった

と石毛は言い直している。そう「ことば」にすることで、石毛は、いまひとりの「
独歩」になるのである。「なにごとか」とし言えない「叫び」をそのままことばにするのはむずかしい。しかし、独歩がしたこと(肉体の動き)なら、石毛はその肉体を追体験できる。追体験することで、独歩になる。
 (二連目から引用した方が、「肉体」の動き、独歩と石毛の「重なり」がわかりやすいのだが、省略した。)



 石毛は「言わずに死ねるかい!」というコラムを、「どこか」に書いている。「どこか」については以前聞いたことがあると思うが、忘れた。その「94」のなかに、こんな文章がある。

 ある日、ある集会の帰り際、見知らぬ若い男につかまり、立ち話で聞かされた。その若者が《こんな小さな集会でも、ここでは安心して真面目になれる》と、真顔で言うのだ。

 石毛はそのことばに「心底、驚いた」と書いている。私も驚いた。石毛が「驚いた」のは、どのことばか。「ことば」全体、その「意味」か。
 私は「安心して」に驚いた。真面目になるのに、「安心」「不安」ということばがついてまわるのか。
 私の子どものころは、ふざけていると「真面目になれ」(真面目にやれ)と叱られたけれど、つまり「不真面目」だと叱られるという「不安」がついて回ったものだけれど、いまは、逆。ふーん、そうなのか。私は、それ以上考えなかったが、石毛は考えている。それについては書かない。ただ、そこでも私は、石毛と私の違いを感じた。
 私は年をとるとともに「自己中心」になってしまって、「社会」を考えるのがめんどうくさい。もう、自分一人で手いっぱい。「その人」の向こう側までつながってみようという気力がなくなってしまった。石毛は、偉い、と思う。





*

評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076093


「詩はどこにあるか」2020年1月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168078050
(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)

オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

陸上イージス(その3)

2020-06-18 09:16:10 | 自民党憲法改正草案を読む
陸上イージス(その3)
       自民党憲法改正草案を読む/番外363(情報の読み方)

 2020年06月18日の読売新聞(西部版・14版)の一面。

河井夫妻に出頭要請/検察 買収容疑で逮捕へ

北「前線部隊強化」計画/挑発続く 韓国統一相が辞意

コロナ対策 閉会中審査/国会閉会 検察庁法改正案 廃案

 ニュースが並んでいる。「陸上イージス停止」の報道はどこにも見当たらない。一面以外の他面にも書かれていない。
 とても不思議だ。
 私がいちばん知りたいのは、アメリカの反応。どうして、アメリカの反応がないのだろうか。
 疑問点は二つある。
①秋田の陸上イージスはハワイの米軍基地を守るため、山口の陸上イージスはグアムを守るためにあると見られているが、アメリカはハワイとグアムをどう守ることにしたのか。日本の、アメリカに対する「防衛負担」はどうなるのか。
②陸上イージスの「購入費」はどうなるのか。購入費に続いて「維持費」もアメリカの軍需産業の収入になるはずだが、アメリカは「収入源」に対して日本に苦情を言わないのか。これは、「防衛費負担」の問題と言い直せそうである。

 そして、この①と②から、こんなことを考えてしまうのである。
 河野は、陸上イージスを改善費のために、膨大な金がかかる。費用対効果が低い、というようなことを言った。つまり、防衛と金の関係に問題があると言った。
 同じ問題は、辺野古でも起きている。埋立工事が軟弱地盤のために、ほんとうに完成するのかどうかわからない。つまり、防衛の役にたつのか、費用はいくらかかるかわからない。
 でも、河野は中止するとは言わない。
 陸上イージスと辺野古基地とどう違うのか。「金の流れ」が違う。陸上イージスは、金が日本からアメリカの軍需産業へ流れる。辺野古では、日本の金が日本の企業に流れる。そして、企業に流れた金はどうなるか。
 陸上イージスの場合、アメリカの軍需産業から、日本政府に金がキックバックされることはないだろう。キックバックがあるとしたらトランプへの「献金」という形になるだろう。
 しかし、辺野古の場合はどうか。日本の金は、日本の土木建築業者に支払われる。日本の企業だ。その企業から安倍に対してキックバックがあるだろう。献金だけでではなく、選挙時の「投票(票固め)」というキックバックもあるだろう。
 陸上イージスは、安倍にとって「金づる」ではない。しかし辺野古は「金づる」である。その違いが、陸上イージスは停止できても、辺野古は中断・廃止はできない理由である。アメリカの防衛戦略ともアメリカの軍需産業の利益とも関係がない。アメリカの防衛戦略、軍需産業の利益を考慮するとき、他の武器で代替できる。
 陸上イージスがだめなら、イージス艦を増やせばいい。イージス艦向けの武器を売ればいい。イージス艦増強の必要性があるという「解説」なら、すでに紙面化されている。
 06月17日の読売新聞(西部版・14版)2面。

「前提違う 進められぬ」/首相 陸上イージス代替検討へ

 という見出しで、イージス艦増強の案が書かれている。イージス艦は来年3月に8隻になるが、さらに増やすのだろう。契約済みの陸上イージスのためのレーダーなどについては、イージス艦や、他のレーダーサイトで使い道がある、という。
 つまり、陸上イージスの「全システム」は購入しないが、部品をさまざまな形で購入し続け(爆買いを続け)、アメリカの軍需産業の損失にはならないようにする、という「密約」のようなものが、すでにできているのだ。
 だから、「突然」、陸上イージスは停止、と河野が言えたのである。
 そして。
 この17日の2面のニュースの見出しには、「河野(防衛相)」の名前はなく、かわりに「首相(安倍)」が前面に出てきている。記者団に答える安倍の写真まで掲載されている。主役が河野から安倍に代わっている。
 ここが、とてもおもしろいというか、読売新聞ならではの「配慮(ニュース報道)」になっている。
 陸上イージス停止を安倍が発表すれば、河野が発表した以上に衝撃は大きい。「防衛相の決断」ではなく「安倍の決断」になるからだ。しかし、実際は安倍が決断している。安倍が河野をあやつっているということを、「首相 陸上イージス代替検討へ」ということばであらわしている。陸上イージスの代替をどうするか、それを検討し、決断するのは河野(防衛相)ではない、と明記している。

 私は、山本太郎の都知事選立候補表明の直後に、陸上イージス停止が発表されたこと、それについてのアメリカの反応がどこにも書かれていないことから、アメリカの方針が変わったのではないか、という「予測」を書いたが、どうも無関係らしい。
 すでにアメリカとの「密約」は終わっている。
 読売新聞の記者は、そういうことも、どうやら「把握」しているらしい。つまり、関係者から「リーク」されているということだろう。今後、予定されていた「爆買い防衛費」は、どうアメリカに支出されるのか(形を変えた爆買いになるのか)、みんな知っているのだ。知っていて、書かない。

 「知っていて、書かない」に類似したニュースでは18日の4面に「国会閉会」と絡んで、とてもおもしろい記事が載っている。

#国会を止めるな 野党の運動不発

 国会は会期延長がないまま閉会する。これは、野党がSNSで呼びかけた「#国会を止めるな」が盛りあがらなかった「証拠」である、と告げるニュースである。野党の力は弱い、と知らせるためのニュースであり、わざわざ鳥海・東大准教授の、

「広告のプロでもネットの世論をつかむのはむずかしい。素人の国会議員が仕掛けて成功するはずがない」

 という否定的コメントを引き出している。
 これは黒川辞任に追い込んだときの、検察庁法改正見送りという「スクープ」を報じたとき「世論の反発(世論の勝利)」のような表現をつかったのと対照的だ。黒川辞任に至るだろうということを知っていて、先に「世論の反発(世論の勝利)」を打ち出し、そのあとで黒川辞任へと「情報」を落着させたのだ。検察庁法改正→黒川検事総長誕生→賭けマージャン発覚だと、きっと安倍はてんやわんやになっていただろう。「世論の勝利」という形で、いったん「ガス抜き」が行われた。その「誘導」に読売新聞がつかわれた、ということだ。
 読売新聞は、SNSの運動(世論の動き)には否定的であるというのは、「スクープ」以前の報道、そして、今回の4面の報道の仕方を見れば、はっきりしている。そして、それだからこそ、ことばにならない部分で、政治がどう動いているかをいろいろと想像させてくる。なまぐささが漂ってくる貴重な「情報源」でもある。





#検察庁法改正に反対 #安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

「天皇の悲鳴」(1000円、送料別)はオンデマンド出版です。
アマゾンや一般書店では購入できません。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

ページ右側の「製本のご注文はこちら」のボタンを押して、申し込んでください。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

粕谷栄市「喝采」「厭世」

2020-06-17 10:30:54 | 詩(雑誌・同人誌)
粕谷栄市「喝采」「厭世」(「森羅」23、2020年07月09日発行)

 粕谷栄市「喝采」「厭世」の書き出しを書き写してみる。

 古いでたらめな夢のなかで、何かの間違いがあったら
しい。ある日、おれは、一人の旅役者になっていた。
 片田舎の町や村を、安い木戸銭で興業をして回る、い
わゆる、三文芝居の一座にいたのだ。芝居小屋の前の色
褪せたのぼり旗が、おれの一座の目印だった。     (喝采)

 たぶん、私の長いだらしない生活のせいだ。ある日、
私は、自分が、六十五人の私になっていることに気づい
た。いや、正確には六十六人だったかも知れない。
 何れにせよ、ばかげている。私にとって、生きること
は、苦痛に満ちている。自分一人でも容易でないのに、
六十五人の私になって、どうして、それを耐えることが
できるというのか。                 (厭世)

 書いていることは違うのだが、違うことが書かれている感じがしない。「森羅」に書きつがれてきているこれまでの詩と、どこが違うのか、ということもよくわからない。非常に似ている。あるいは、まったく同じもの、という気がする。
 「六十五人の私」「六十六人の私」。その「差」としての「一人」が常に描かれているのだが、これは「六十五」と「六十六」の違いであって、それはあってないにひとしい。「違い」を指摘することは簡単だが、それではどこが違うかというと、指摘しても無意味だということに気がつく。
 「喝采」では「旅芸人」、「厭世」では「多重人格者(?)」と、「主人公」を定義することはできるだろうが、その定義は「属性」を定義しただけであって、人間の「本質」を定義しているわけではないからだ。
 「本質」の部分が同じなのに「属性」でわけてみても、何もつかみとったとは言えない。こういう考え方は、たぶんに「重要なのは本質である」という哲学の影響であり、もちろん間違いなのだが、間違いを生きるというのが私の癖(本質?)なので、とりあえず、そう書いておく。

 で。
 では粕谷の「本質」、そのことばの「本質」は何か。この詩から、二つのものを引き出すことができる。
 ひとつは「ある日」の「ある」。この「ある日」の「ある」というのは、不特定のものを指す。「何月何日」ではなく、どの日を想像してもらってもかまわないが、ともかく「日(時間)」には違いない。そして、同時にそれは「不特定」でありながら、想像した瞬間に「特定」にかわるという性質を持っている。「ある日」が「何月何日」でもかまわないが、「ある日」を想像した瞬間から、その日は「〇月〇日」であり「△月△日」ではない。「何月何日」が特定されるわけではなく、「想像力」が特定されるのである。つねに、想像した日を想像し続けなければならない。つまり、「ある」は「持続」を強要してくるなにかなのだ。「ある日」が求めてくるのは、「別の日」へと想像力を動かしてはならないということなのだ。
 「ある日」「旅芸人」を想像する。そうすると、その「ある日」からはじまる時間は「旅芸人」を想像し続けなければならない。そこに「持続」というものが生まれる。「ある日」「多重人格者」を想像する。そうすると、その「ある日」につづいていく時間は「多重人格者」であり続けなければならない。「持続」がポイントなのだ。
 もちろん読者は「別の日」「別の人間」を求めることもできるが、それは粕谷の詩を(ことばを)離れてしまうことである。

 そして。
 この「持続」の問題を考えるとき、粕谷の、もうひとつの「本質」が見えてくる。リズムである。ことばのリズム、語り口のリズムが、どの詩においても「同じ」なのである。「本質」とは「永遠に変わらぬもの/いつまでもおなじもの」と定義すれば、粕谷の本質は「語り口のリズム」である。
 その特徴は、飛躍が少ない。同じことが繰り返し語られる。
 「喝采」は「要約」して言えば、旅芸人が舞台で血を吐いて死んでしまう。それを「台芝居」と勘違いした観客が「喝采する」というもの。こんな安直なストーリーなら、いままでも何度も書かれてきたことだろう。
 だが、詩、あるいはことばの「本質」というのは「要約」できるものではない。「要約」からはみだしてしまうものである。
 粕谷はほとんど同じことばを、少しずつ新しい要素を付け加えながら繰り返す。これが粕谷のリズムの基本だ。古いことばを持続しながら、新しいことばで変化をつける。そういう変化を持続し続け、ときには何度も何度も前に書いたこと(過去)を思い出す。過去をひっぱりだす。過去を「いま」にひきずる。そこには「過去の持続」が生まれ、「いま」へと持続させられた「過去」こそが「未来」をあらわすということが起きる。
 時間が「無限」になる。
 「喝采」の最後に「大団円」ということばが出てくるが、粕谷の描いているのはいつも「大団円」を実現するリズムなのである。

 散文にもリズムはあるか、詩は散文よりもリズムを生きる度合いが強い。粕谷の詩は「散文詩」として分類されるものだが、そのことばのリズムは散文とは違う。たとえば鴎外のことばのように、事実をつかみながらどこまでも進み続けるリズムとは違う。鴎外の「渋江抽斎」は渋江抽斎が死んだあとも事実をもとめてことばが動くが、粕谷の「喝采」は旅芸人が死んだあと、さらにその先の「事実」を求めたりはしない。





*

評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076093


「詩はどこにあるか」2020年1月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168078050
(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)

オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(69)

2020-06-17 08:40:54 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

現実

時の鍵が失われて
永遠がはじまる

 この「永遠」は、ふつうに言われる「永遠」とは逆である。「時」を超越した「理想」のことではない。むしろ理想から遠い「現実」のことである。

こころの隅の一語も
何一つ身動きができない

 「身動きができない」、「動き」が「ない」。静止している。これが「永遠」であり、それは求めているものではないからこそ「現実」である。
 「動く」とき、そこに必然的に「時」は生まれる。必要なのは「時」なのだ。



*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

陸上イージス(その2)

2020-06-16 08:51:47 | 自民党憲法改正草案を読む
陸上イージス(その2)
       自民党憲法改正草案を読む/番外362(情報の読み方)

 2020年06月16日の読売新聞(西部版・14版)の一面。

陸上イージス「困難」/山口 危険排除できず/ブースター落下 秋田含め配備停止

 これは「政府発表」を要約しただけ。なぜ、突然、きのう河野が発表したのか、その理由がわからない。
 記事中には、

SM3ブロック2Aの開発には日米両国で2200億円以上かかったと(河野が)指摘した。

 とある。日本がいくら負担し、アメリカがいくら負担したかは明示していない。
 金銭がらみでは、3面に

コスト「合理的ではない」

 という見出しで、こんなことが書いてある。

イージスショアは本体2基やミサイルなどで約7000億円と見積もられていた。政府高官は、「高額システムの導入の背景には、同盟国に防衛費の増額を求める米国のトランプ政権の意向もあった」ともらす。すでに昨年度までに、レーダーなどで計1787億円の予算が米企業に執行されている。

 最後の部分は「計1787億円の予算が米企業に支払われている」ということだろう。アメリカ企業は、ある程度はもうけた。トランプ再選は、コロナと人種差別問題でつまずき、もう見込みがなくなった。だからトランプを気にしないで、損失を現段階でとどめるための方針転換、と読めないことはないのだが、よくわからない。
 読売新聞の記事だけでは、何があったのか、推測できない。あるいは何を隠すために、こんな記事を書いているのかわからない。
 
 ネットで入手した「東京新聞」の一面見出しは、

地上イージス計画停止/技術的問題 改善に時間

 とは別に、解説で

米兵器爆買い つまずく

 という見出し。
 この解説の見出しは、とても奇妙である。
 「爆買い」が「つまずいた」とき、困るのはだれ? 買う側は買い物が中止になっただけである。ほんとうに必要なら、なんとしてでも買う。日本が「買えなくて困る」ということはない。そうであるなら、金をつぎ込んで計画をさらに推進する。
 困るのは「売れなくなった」アメリカだろう。「爆買い」がなくなって困るのは、いつでも「売る」方である。
 この「困る」をアメリカが飲んだ。
 これが、今回のニュースのポイントだと思う。
 では、アメリカのだれが飲んだのか。原則的に考えると、トランプが飲んだということになるが、コロナと人種差別問題で窮地にいるトランプが金づるがなくなるのを「はい、わかりました」と飲むはずがない。トランプが頼るとすれば、「安倍ならいつでも武器を買ってくれる、商売になる、金稼ぎができる」しかない。
 だから、別な「だれか」が飲んだのだ。
 だれか、はわからない。

 だいたい、巨額の金が動く問題を河野ひとりで決められるわけがない。河野が矢面に立ってアメリカと交渉できるはずがない。
 第一次安倍政権が、突然、政権を放り出したことがあった。あとから「病気」が原因といわれたが、そのあとから「実はアメリカに約束したこと(軍事問題だったと思う)が守れなくなった。期限が来ている。アメリカから追及されたくないから、次期政権に丸投げした(後始末をまかせた)」と言われた。
 今回も、それと「逆」なのだが、何か共通するものがあるような気がする。
 「陸上イージス停止」は、年来ならアメリカから(トランプから)約束違反だと追及されることがらだが、どこかで「非難されない」という確証を受け取っているのかもしれない。そう感じさせる。
 安倍が出てきて説明しないのも「丸投げ」の印象を強くする。
 「トランプ再選不可能」にあわせて、日本の政治も根底から変わるのだと思う。
 安倍の「表舞台からの引退(?)」は「東京五輪簡素化」のときも感じた。それまで五輪に執着してきた安倍が「簡素化」発表のときは出てこなかった。

 「簡素化五輪」の発表に安倍が出てこなかった。「陸上イージス停止」の発表に安倍が出てこなかった。別個の問題だが、それを繋ぐと、絶対何かが起きているのだと感じてしまう。
 すでに書いたが、この発表が山本太郎の都知事選立候補表明の数時間後、というのも関係がありそうに感じられる。
 コロナ以後、「金の動き」が変わってきたのだろう。世界を動かしている「金」のつかい方に関する「認識」が変化し始めた。それは、いっぱん国民の「日常経済」を超えて、もっと違うところまで突き動かしている。「経済界」そのものを動かしている。「軍需産業頼みではだめ」という認識が生まれてきているのかもしれない。
 そういう問題が、「陸上イージス」の背後にありそうな感じがする。「防衛」の問題ではなく、きっと「経済」の問題なのだ。
 読売新聞は「金」について少ししか書いてなかったが。
 東京新聞は、兵器ローン(アメリカへのローン)の20年度現在の残高は過去最大の5兆4310億円と報じている。日本の経済界からも、何らかの「圧力」があったのかもしれない。






#検察庁法改正に反対 #安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

「天皇の悲鳴」(1000円、送料別)はオンデマンド出版です。
アマゾンや一般書店では購入できません。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

ページ右側の「製本のご注文はこちら」のボタンを押して、申し込んでください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山本太郎の都知事選出馬と、「陸上イージス停止」という組み合わせ。

2020-06-16 00:24:03 | 自民党憲法改正草案を読む
小池が都知事選への出馬を、議会最終日ではなく、それよりおくれて発表した。
そして、きょう(15日)、山本太郎が都知事選への出馬を表明した。
その日のうちに、河野が「陸上イージス計画を停止する」と発表した。
なぜ、きょうだったのか。
私は、この三つには、何か重要な問題が隠されている(あるいは、あらわしている)のではないかと疑っている。
河野の発表は、以前から指摘されていた問題(ブースターが演習場以外に落下する可能性がある)に配慮して、計画を停止するというのだが、なぜ、きょうだったのか。
それが私には気になって仕方がない。
私はどうしても、山本太郎の立候補と関係があると考えてしまう。
小池の立候補表明が遅れたことも関係があると思う。
また、「東京五輪簡素化」と同じように、この「陸上イージス停止」の発表に安倍が出てこないことも何か関係があると思う。
見えないことろで、「政治」が、国民とは関係なく動いていると思う。
何の確信もなく(証拠もなく)書くのだけれど。
山本太郎が勝つのではないか。
山本太郎の「勝利」を、アメリカが指示したのではないか(支持ではなく、指示したのではないか)という「疑念」を持っている。
そして、そうであるなら。
山本太郎の「勝利」はけっして国民(都民)の勝利ではなく、アメリカの戦略になる。
アメリカの「戦略」の勝利になる。
あるいは、山本の立候補に世論の眼が集中するのを避けるために、そして小池を応援するために、河野が(自民党が)、「陸上イージス停止」を発表したとも考えられるが、もともと陸上イージスの設置場所は東京とは関係がないから、この話題にどれだけ「都民」が関心をもつかわからない。
日本がアメリカに「買う」と約束したものを、「停止」するわけだから、絶対に、アメリカの了承が「事前に」必要になる。
アメリカが了承しない限り、河野が一方的に、そういう発表をできるはずがない。
だから、絶対にアメリカの「戦略」が絡んでいると思う。
また、こんなことも思う。
山本の言う「MMT理論」は財務省の理論だし(山本は、街頭演説の中でも「財務省がこういっている」と平気で財務省の考え方を踏襲している)、自民党(資本家)の理論にすぎないと、貧乏人の私は感じる。
都知事になってしまえば、「MMT理論」はつかえなくなるんだけれどね。
国(日銀)は貨幣を発行できるが、都には貨幣を発行する「権能」はないからね。
ここが、山本の「ネック」だと思う。
そんなところからも、山本はアメリカの「戦略」に、うまいぐあいに乗せられて動いている(動かされている)と感じてしまう。
山本太郎の都知事選出馬だけだったら、「奇妙」には感じないが、追い打ちをかけるように河野が「陸上イージス停止」を発表したということに、私は、非常に、非常に、非常に、疑問を感じるのだ。

*

すこしだけ、追加。
河野が「陸上イージス停止」を発表した。
これは、日米の関係で見直すと、日本がアメリカに「陸上イージス」を買いませんということ。
買うといっていたのに買わないことになったら、ビジネスでは「違約金」が必要になる。
「もうつくってしまった(つくっている途中だ)。経費を払え」といわれたら「違約金」を払うしかないだろう。
こういう問題を河野がひとりで決断(決裁)できるはずがない。
だから、きっと「裏」がある。
裏ではもう何かが「合意」されている。
思うに。
安倍は世界で金をばらまくことで「お友達」を増やしてきた。
世界の支持を得てきた。
けれど、「陸上イージス停止」になれば、アメリカに金をばらまくことができなくなる。(違約金をはらうというばらまき方はあるが。)
河野が「停止」を発表できたのは、アメリカが金を支払わなくてもいい(支払いが遅れてもいい)ということを納得したということだろう。
で、これを逆から見れば、安倍との「金」のつきあいが切れた。
「金の切れ目は縁の切れ目」ということばがあるが、アメリカは安倍との「縁」を切った(見限った)ということだろう。
では、アメリカは、「だれ」を「縁」のつなぎめにしようとしているのか。
それを考えると、どうしても、山本太郎を選んだ、と思ってしまうのである。
山本太郎の都知事選出馬表明にあわせて(追いかけるように)、河野が「陸上イージス停止」を発表したということは、偶然ではなく、何かのメッセージだと思ってしまうのである。
きょう、「陸上イージス停止」を発表する必然性はない。
きょう、必然性があるのだとしたら、きょうの早い段階であってもいいはずだ。
山本太郎の出馬表明後、というところに「意味」があると、私は感じる。
これはもちろん、「感じ」にしかすぎない。
なんの「証拠」もない。
これに、16日の河井秘書の判決がつづく。
有罪→連座制適用も、おりこまれているかもしれない。
つまり、安倍への追及がこれから本格化するという「暗示」すら、ここには隠されているかもしれない。
そのとき。
山本太郎は、どこへ行くか。
とりあえず「都知事」に逃げ込む。立場を、国会から切り離す。そのうえで自民党に接近する。
絶対、野党とは組まない。
野党を統一するのではなく、自民党乗っ取りを考える。
「首相」をめざすとき、自民党と接近するのだ。
でも、この自民党のっとり計画は、きっと自民党へ吸収されるということになってしまう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(68)

2020-06-15 09:35:14 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (だれも愛さない)

枯れつくした芝生の上を歩くような日々である

 これは「現実」だろうか。「比喩」だろうか。「現実」が「比喩」になったのだろうか。もし、そうだとすると、それは何を言い表そうとしているのか。

いつかの言葉は憶えているが
きょう一日が過ぎてしまうとその言葉も忘れてしまう

 「憶えている」のは「枯れていない芝生」。そういうものが「かつて」は存在した。「いま」は存在しない。そして同じように「いま」存在しているものも、いつか(将来)には消えてしまう。
 これが「愛さない」ということなのだ。「いま」の問題ではなく、「過去」「いま」「未来」へとつながっていく「時間」が浮かびあがってくる。



*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする