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一輪の花 めーたん(大堀恵)応援ブログ

現在はSDN48で活動しているめーたんこと大堀恵さんを応援しているファンブログです。
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「天国のドアは3回目のベルで開く」について

2011年05月10日 20時47分03秒 | 雑記・雑感
「天国のドアは3回目のベルで開く」について

最初にめーたんブログで「天国のドアは~」の集合写真(タイプBの歌詞カードにあるものと同じ。)を見たとき、僕はミルトンの叙事詩「失楽園」の如き、悪魔の軍団を連想しました。
同時に、前列中央に片膝を付きながら鎮座するめーたんは、まさにその軍団長であるサタンの如きでした。

そして、実際にPVを見て、僕のこの連想は、一寸たりとも間違えていなかったことを知ります。

孫引きになってしまいますが、澁澤龍彦著「エロティシズム」(中公文庫)から、バタイユ(仏の作家)の「エロスの涙」の言葉を引用すると、
「単純な性活動は、エロティシズムとは異なる。前者は動物の生活のなかにあるものであって、ただ人間の生活だけが、おそらくエロティシズムの名にふさわしい《悪魔的》な相をあらわす活動をしめすのである」

ミルトンの「失楽園」では、人間の祖であるイヴを誘惑する蛇の正体は、姿を変えたサタンであります。
「女神よ、優しき女よ、どうか手をのばして、心おきなく、これを味わって下さい。」(岩波文庫)

果たして、ドアの向こうは、本当に「天国」なのであろうか。
この曲の舞台となっている「古いお屋敷」。屋敷に巣くい、男を官能の世界へ誘惑するのは悪魔の仕業である。

上記、「エロティシズム」でバタイユを引用後、澁澤龍彦は続ける。
「このような面から眺められたエロティシズムは、あらゆる実用主義的な活動(中略)に対立するものであって、ただそれ自体を目的とする狂気の欲望なのだ。だから、エロティシズムは悦楽、熱狂、錯乱、狂気などへ高まる宿命をもっており、(後略)」
(話しは逸れてしまいますが、めーたんがこの曲を「情熱的」と表現したのは、この文と合点する。)

仮面やマスク、手や足や首に繋げられている鎖、鞭などは、倒錯の世界を表しているのだろう。
谷崎潤一郎著「秘密」に出てくる「色彩の濃い、血だらけな歓楽」という言葉を僕はイメージします。

澁澤龍彦著「機械仕掛のエロス」に収められている「現代日本文学における「性の追求」」で谷崎潤一郎(と川端康成)について、触れている部分。
「遊びの相のもとに眺められた性は、言葉の本質的な意味におけるエロティシズム(中略)であるが、このエロティシズムが、ともすれば、人間存在をほろぼす危険な、恐怖にみちた、しかも甘美な力であり得る(後略)」

最後に、
ボードレールの詩集「悪の華」より

「われらを動かす操(あやつり)の糸を握るは 悪魔なり。
いまはしきものに魅力を見出して、
汚臭を放つ暗闇を、恐れもあらず 横切りて
日毎に一歩 堕ちて行く 彼方は地獄。」
(岩波文庫)

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観ていてイメージが膨らむような、この作品が僕は大好きです。
例えば、歌詞に「セックス」を入れるとか、PVに入浴シーンを入れるとか、直接的な、僕から言わせれば話題性にばかり気を取られている作品よりも、暗示的な、そして、その中で、妖しい光を放ち、その影を捉え、美を表現しているこの曲に、僕は大きな大きな魅力を感じます。
妖しい光の照明に浮かび上がるめーたんは悪魔的に美しい。

僕はベルを3回鳴らそう。そこには美しい悪魔がいるのだから。
ドアの彼方が何であれ。