風邪をひいた
at 1999 10/01 15:47 編集
日本に着いてから、妻と僕と、それぞれ時差ぼけに苦しんでいる.
妻は、明け方まで眠れず、僕は、10時ごろには、寝てしまう.
昨日の夜もそうだった.部屋の電気をつけたまま寝ていたのだが、夜中寒くて目がさめると、隣りには妻はまだいない.身体の右側にあった布団をかける.すると、それをさらにきちんと掛け直そうと、僕の左から引張る力がある.こわごわ左側をのぞき込むと、クーラーの前に何か小さな物がうずくまっている.
恐くなって又右側を向く.しばらくすると、この小さな物は、僕をまたぐと、部屋の電気を消して僕の右側の布団に入った.「なんだ、嫁さんか」
しばらくすると、妻は突然「うるさい」と叫んだかと思うと、立ちあがって部屋を出ていってしまった.(妻は時々寝言を言うが、夢遊病と呼ぶまでひどくはなかった.)僕には何も聞えない.一生懸命耳をすますが、何も聞えない.そのうち、妻の帰りを待たずに、眠ってしまった.
翌朝7時に目がさめる.頭が少し痛い。しばらくすると、激しい寒気。布団の中で丸くなって震えていた.それに気がついた妻に布団を3枚くらい掛けてもらう.体温はあっという間に38度3分.平熱が36度を切るくらいなので、この位の熱もかなりきつい.
頭痛薬と、アイスノンで、現在は36度7分まで下がった.まだ立ちあがるとふらふらする.
昨夜の恐い経験で、ショックで熱が出たのかもしれない.
妻に聞くと、あれは夜中の3時半くらいだったらしい.最近義父が「チェッ、チェッ、チェッ」と小刻みに継続して舌打ちする癖があることから、義父に「うるさい」と注意しようとしたのだそうだ.ところが、「チェッ、チェッ、チェッ」というのは義父の舌打ちではなく、柱時計が時間を刻んでいた音だったらしい.
いもあらい
at 1999 10/02 06:10 編集
「このあいだ「いもあらい」やったけど、何ともなかったんだよ.」
うちの母親は、時々わからないことを言う.
「でも、先生が納得いかないって言うから、今度は造影剤を入れて写真を取るんだって」
「いもあらい」が「MRI(Magnetic Resonance Imaging)核磁気共鳴診断装置、磁気を利用してからだの断面図を作成する機械・検査」のことだとわかるのに、2分かかった。
くも膜下出血の後の経過を見るために、検査を受けるものだ.
母親が倒れてからすっかり気が弱くなり、3ヶ月で15キロ痩せた父も、最近頭痛がすると言って、母と同じ病院で、「いもあらい」を受けたらしい.
脳の検査のベテランになっている母親は、父親の結果を見るなり、「あーら、きれいな脳みそ。百科事典に載せても良いくらいの、真っ白白の、脳みそ.どこも悪くないわ.」その後、お医者さんも続けて、「本当にきれいな脳みそ.どこも悪くありません.」
そんな両親から生まれた僕も、昔からの頭痛持ち.来週の月曜日に、僕も「いもあらい」をする予定です.
冷え性の話
at 1999 10/02 08:45 編集
熱下がりました。
朝起きて体温を測ったら、水銀体温計は35度6分。測る前から、35度6分だったので、実際は、もっと低いのかもしれない。
僕は昔から冷え性で、冬になると、しもやけ、「ゆきやけ」(ゆきやけについては、「母の思い出、しもやけ/ゆきやけ」をご参照)で苦しんでいた。
今回実家に帰って、母親も、母親の弟も体温が低いと言う事がわかり、母方からの遺伝だとわかった。
これに対して、妻は体温が高い。それで、虫が彼女に集まる事になる。
留学時代の安アパートでは、犬を飼っている隣りの家からのみがいっぱい入ってきたらしいのだが、食われるのは妻ばかり。今回の福井行きでも、蚊に刺されるのは妻ばかり。
冷え性もたまには良い事がある。
くつした
at 1999 10/02 11:41 編集
ルースソックスがまだはやっているようだ.
みんながみんな、ルースソックスなので、これは制服の一部ではないかと思うくらいだ.
中に一人、紺のぴったりしたハイソックスをした子がいたが、新鮮だ.(あぶない、あぶない.おやじになっている.自分ではまだまだ若いつもりでいても、世間では十分におやじの年齢.)
僕の子供のときは、ハイソックスが流行っていたが、ゴムの技術が遅れていて、いつのまにか足首まで落ちてきてしまう.
おしゃれな友達は、「ソックタッチ」という一種ののりみたいなものを使っていたが、貧乏だった僕は、「あれは皮膚がかぶれるから」といって、輪ゴムを靴下の上から巻いた.(でもすぐ落ちた.)
中学のときは、服装の規則が厳しく、靴下は、色は白か黒か紺。横のラインは2本まで.くるぶしのところのワンポイント刺繍は10円玉の大きさまで.
違反していると殴られた.U先生は、しょっちゅう怒鳴って、ひっぱたく恐い先生だった.
内田先生、校長先生になられたそうで、おめでとうございます.
自動巻きの時計
at 1999 10/03 17:57 編集
僕の腕時計は、自動巻きである。古い自動巻きで、腕を動かすことでねじが巻かれるもの。はずして寝ると、朝には必ず止まっている。はめて寝ても、死んだように眠った日は、翌朝止まっている。昼間でもボーっとしていると止まることがある(いけない、いけない。仕事しなきゃ)。
就職前に、ヨーロッパを貧乏旅行した。最後の旅行地ロンドンでは、8人部屋。怪しいスイス人と、怪しいスコットランド人(スコットランド訛りがきつくて、こいつの英語はほとんどわからなかった。)と知り合い、近くのパブに行った。
スイス人が、僕のしていたセイコーの時計を見ながら言う。
「日本の時計も良いが、スイスの時計も良いぞ。実は俺は、この時計を別の人からもらったんだ。その人は酒好きなんだが、金がなく、俺に「この時計をやるから、ビール一杯飲ませてくれ」と言ってきた。それで俺がこの時計を持っているわけだ。お前も俺にビールを一杯おごってくれたら、この時計をやるよ」
てなわけで、今僕はこの時計をしているわけだ。
当時のビール一杯はいくらだっただろうか。300円くらいだろうか。
時計の裏には、ドイツ語で文字が刻んである。
「ルドルフ ザンガ殿 永年勤続に感謝する。1962年7月28日。アドルフ・ザウバー・アルボン株式会社」
アルボンと言うのは、スイスの地名らしい。いつか時間が取れたら、アルボンの町を訪れて、家族にこの時計を返したい。
新しい時計も欲しいのだが、はずすと止まってしまうので、かわいそうで見捨てられない.
サングラスの話
at 1999 10/02 23:44 編集
日本人では、サングラスはまだ定着していないようだ。そもそも、目がまぶしさに強い日本人には、サングラスは不要なのかもしれない。
外人さんは、目がまぶしさに弱い。
ミラノ支店にいたときは、夏は社内の電気は消されていた。外の明かりで十分だというのだ。「暗くて仕事にならない」と日本人が電気をつけると、イタリア人はサングラスを出してきてかけ始めた。
イタリアの高速道路は暗い。ライトがついていないところが多い。われわれには何も見えないのだが、彼らにはちゃんと見えている。危なくてしょうがない。
ロンドンでも同じだ。気がつくと、天井の蛍光灯が間引きされている。
同僚のK君のオフィスでは、あまりに暗くて太陽電池式計算機が動かないので、パソコンの画面に計算機を近づけて仕事していた時期があったそうだ。
通算10年暗いところで仕事をしていた(特に、ロンドンのオフィスは地下にある)事から、僕もすっかり目が弱くなって、ひなたで目をしっかり開けられなくなっている。でも、サングラスをすると、なぞの東洋人になってしまうのだ。
サラダ記念日
at 1999 10/03 08:40 編集
高校の同級生に俵万智(たわら まち)がいた。彼女は電車で通っていた.高校の近くの駅、田原町(たわらまち)で降りて、通っていた.
高校では、試験の結果を点数順に30人くらい発表する.いきなり俵万智という名前が上位に出てきて、誰もがペンネームだと思ったし、しかもどうも女の子らしいということがわかると、みんなでどんな子かと見に行った.
彼女は演劇部だった.僕は筝曲部(お琴を弾く部)だった。
友達に誘われて学園祭の前に演劇部の大道具作りの手伝いをした事もあったが、高校3年間で同じクラスにもならず、ほとんど話をする機会がなかった.
昔も今と同じマッシュルームカットだった.
彼女は早稲田に進む。JRの高田馬場の駅の構内アナウンスのアルバイトをしていて、それが「ポパイ」だか「ホットドッグプレス」に取り上げられていた。
(僕が若者雑誌に踊らされてスネ毛の脱色をしている間に、彼女はその若者雑誌にデビューしていたのだ)
俵万智 歌人
「サラダ記念日」「かぜのてのひら」「チョコレート革命」
俵万智のページは、www.gtpweb.net/twr/をご参照
「ぼくの」事件
at 1999 10/03 10:12 編集
高校時代、最初は家から通っていた.
自転車で10キロ、国鉄で13キロ、最後が徒歩で2キロ.合計25キロの行程だった。
山奥に住んでいるから、行きは下り坂で調子が良い.信号もほとんど無い田舎だ。
帰りはつらい.だらだらとした上り坂が、果てしなく続いている.
冬は最低だ.雪は結構積もる.県道まではブルドーザーが来て雪をどけてくれるのだが、県道までの500メートルを、ひざまで雪に埋もれながら自転車をかついで行ったこともあった.朝は必ずチェーンが凍っている.まずはチェーンにお湯をかけて、とかしてからでかける.
片道1時間半の道のり.途中でパンクすると完全に遅刻。電車は一時間に一本.通勤時は2本.かなり疲れた.
2年生の秋から、叔母の家に下宿した.かなり近くなったが、それでも自転車で3キロ通っていた.
これを機に、ピアノを始めようと考えた.家が貧乏だったので、ピアノは習わせてもらえなかった.
まず、「バイエル」(みんなが使う初級教則書)を購入.そこには、紙に書かれた鍵盤が付録でついていた.黒鍵のところにはさらに厚紙を貼って本物らしくして、練習を始めた.だが、音が出ないとやっぱり練習にならない.違う鍵盤をたたいてもわからない.
そこで、中古の足踏みオルガンを買った.
ほとんど骨董品の、きれいなオルガンだった.
足踏みで風を送る音が大きくて、オルガンの音が聞えないくらいだった.
そのうち、独学での限界を感じ、習いに行こうと考えたのだが、貧乏下宿生の行けるようなところは無い.結局ヤマハのエレクトーン教室のグループレッスンに行くことになったのだが、指一本で和音をならし、、足でベースラインを演奏するエレクトーンを教わっても、オルガンは弾けないということにすぐに気がついた.
3年の春からは、学校から歩いて5分のところの下宿屋に移った.足踏みオルガンは叔母の家に置いていった.
学校に近くなったからと言って、その分勉強したかと言うと、そうとは言いきれない.毎日のように近くの本屋でマンガの立ち読みをしていた.この時期に速読の技術を身につけた.
こっそり買っていた篠山紀信「激写・135人の女ともだち」(小学館刊)を母親に発見されたのもこの年だった.
下宿屋のドアは、かぎをかけずに寝る.日曜日の朝、僕がまだ寝ている間に、母親が尋ねてきてこっそり部屋に入ってくると、枕元においてあった「激写・135人の女ともだち」を見始めた。(当時としては、少なくとも高校生には)過激な内容に、思わず母は「これお前のか」気まずい僕は、(あたかも徹夜の勉強で眠くてしょうがないようなふりをして)
「ぼくの…」
床屋の話
at 1999 10/03 11:44 編集
高校のときは、自分で髪の毛を切っていた。(床屋に行く金が無かった)
後ろ側の毛は頭を下げて切るのだが、なかなか難しい。結果的にマッシュルームカットになる。
うちの学校は身だしなみにうるさく、男子の髪の毛は、眉毛にかからず、かつ、耳を隠さず、また、後ろは詰襟にかからないようにという規定だった。
ぼくのマッシュルームは前は眉毛のちょっと上で止まり、横は耳だけが飛び出していた。
規定違反ではないものの、先生にはちょくちょく注意されていた。
卒業近くになって、さすがに先生に呼び出され、床屋に行けと言われた。
しょうがないなあと、下宿先の近所の田原町商店街にあった床屋に行った。
そこでは、なんとミニスカートとT-シャツのおねえさんが散髪してくれた。
「なあんだ、ずっとちゃんと床屋に来ていれば良かった」
チェッ
2000年問題担当者の悲劇 17
at 1999 10/03 18:42 編集
東急ハンズ新宿店に行く。
2000年問題関連の展示があり、関連商品が売られていた。
「食料や水は最低3日分は用意しておきましょう。電気・水道・ガス・物流等の機能が一時的に停止する事も考えられます。」
売られていたのは、乾パン、パンの缶詰、水で戻す野菜・おにぎり等、浄水器(風呂水もろ過する)、水を使わないシャンプー、乾電池を使った携帯電話充電器などなど。
地震・台風などの天災への備えがしっかりしている日本は、問題が発生してもあまり慌てる事はないのかもしれない。
パーマ屋
at 1999 10/03 19:30 編集
高校を無事に卒業。東京に出ることとなる。
厳しい校則も無い。まずやるべき事は、パーマをかけることだ。
母親にどこのパーマ屋(美容院とは呼ばない)がいいか、相談する。母のいきつけの「Oパーマ」に行く。
ここで注意。うちの田舎のパーマ屋のメニューは、おばさんパーマ、パンチパーマ、アイパー(アイロンパーマの略?男性用ストレートパーマ?)しかないと言う事。
必然的に、ぼくの頭はおばさんパーマになった。ブローしてセットするという発想が無いから、頭を洗うとタオルで拭いて自然乾燥のみ。出来あがりは、メデゥーサか、サザエさんかという頭になってしまう。
入学式の記念写真があった。同じ大学に進んだ高校の友人3人で撮ったもの。見事なサザエさん頭の写真の存在をすっかり忘れていたのだが、ふとした弾みで、妻の手に渡ってしまった。
「ふっ、ふっ、ふっ。いいのあなた、そんなこと言って。あの写真みんなにばらすわよ」
うちの奥さんは、とてもやさしいすばらしい奥さんです。
のっぴきならない話
at 1999 10/03 20:09 編集
最近自分の日本語があやしい。
聞いてわかるが、自分で使えない言葉が増えている。(聞いてもわからない言葉も増えている)
「のっぴきならない」
時々聞くが、良くわからない言葉だ。
自分で使おうとするが、良い例が思いつかない。
「101匹ワンちゃん」
「93、94、95匹。」
「6匹足らない。(ろっぴきたらない)」
「ハムスター7匹ください」
「6匹しかないんですよ」
「6匹ならいらない。(ろっぴきならいらない)」
だれか、使い方を教えて。
中古車
at 1999 10/03 20:54 編集
貿易関連の友人から聞いた話
日本のトラック会社(日産だったか、日野自動車だったか)が、むかし北朝鮮政府にトラックを輸出した事があったそうだ。
受け渡しは、港ではなく、ピョンヤン市。そこで、北朝鮮の港まで貨物船で運び、そこから先は、陸路を運転していったらしい。
ピョンヤン市につくと、先方の政府高官は、
「私達は新車を注文したのに、あなたたちは中古をもってきました(港からピョンヤンまで走ってきたので中古ということ)。よって、お金は払えません。いやなら、持ちかえってください。」
帰りの船の費用も考えて、結局泣く泣く、トラックは置いてきたらしい。
爪
at 1999 10/04 07:47 編集
爪をむしる癖がある。いらいらしてくると、いつのまにか爪をむしっている。
年に3回くらいしか、爪きりを使っていない。
いつも両手の爪の先はがたがた。爪が無くなるまでにむしらないだけ、僕のいらいらもまだ症状は浅いということか。
一時帰国も2週間目に入り、爪は伸び放題に伸びている。
あまりに伸びすぎたことにいらいらして、爪をむしり始めている。
「いもあらい」行ってきました
at 1999 10/04 13:06 編集
「いもあらい」やってきました.(「いもあらい」については、「いもあらい」ご参照)
台に寝かされ、脚、上半身、頭で固定され、目隠しされ、トンネルのような機械に入っていく(目は見えていなかったので、想像だが).SF映画のようなものだ.
30分間いろいろな(騒)音が聞えてくる.道路工事の削岩機のような音もある.
それほどうるさいものではないものの、身体が固定されていて逃げられないというのは不快.検査後頭が痛くなった.
体積
at 1999 10/04 13:18 編集
妻は一足先にイギリスに戻り、僕は妻の実家に滞在している。
昨日の夜の話。
おかあさん「お風呂入れたんだけど、お湯入れすぎちゃったから、私、先に入るわね。」
30分位して、おかあさん、お風呂から出てくる。
おかあさん「お湯が多いけど、あふれても気にしないでね」
ゆぶねに、ゆっかりつかる。
お湯、あふれませんでした。
謎の東洋人 3
at 1999 10/04 14:00 編集
今日は午後から取引先にご挨拶。
10日間のばしたひげを、残念ながら剃り落とす。
今回も、やっぱり謎の東洋人ひげになってしまい、鼻の下は、まばらなまま終わった。
留学時代にのばしていたときは(最初単身留学だった事もあり)、まばらなひげと眉毛をまゆずみで書き足し、3分写真で写真を撮って留守宅に送った。
妻には、即座に見破られた。
今朝、「いもあらい」に行く途中に京王線で見かけた若いサラリーマンは、しっかり眉毛を書いていた。
僕は時代を10年近く先取りしていた。
整体に行ってまいりました。
at 1999 10/04 19:54 編集
午前中に行った脳ドックの待合室に置いてあった「HANAKO」に紹介されていた店。
西武新宿の「東洋中国気功整体院」。
40分のコースは、極めて気持ち良かった。
新たな発見。
その1
1. 普通の人は、押されても痛くない場所であっても、
2. 少しこってくると、押されると痛い
3. こりすぎると、押されても痛くない
最初押されても痛くなかったところが、治療が進んで、筋肉がほぐれてくると、押されると痛むようになった。
その2
右と左は、つながっている。
背中の右側のマッサージが終わると、左側の筋肉もリラックスしていて、始った頃痛くなかったのに、押されると痛くなっていた。
勢いをつけて首をひねられるのは(ゴキッ、ゴキッ)、あまり気分の良いものではないが、首が軽くなったような気がする。
明日も行こう。
ビジネス用ハイソックス、ルースソックス
at 1999 10/04 20:23 編集
僕は会社に行くときはひざのすぐ下までのハイソックスだ.
イタリアでは、「足を組んだときにスネ毛が見えるのは下品だ」との考え方がある。
(必ずしもみんながそう考えているわけではないようだが)
気がつくと、イタリアには紳士用ビジネスハイソックスがたくさんあった.ひざの下に使う靴下用サスペンダーなるものも売られていた。
色もデザインも豊富で、ネクタイや、シャツの色とコーディネートすることが可能である.
時々ゴムが強すぎるものがあって、靴下を脱いでしばらく、ゴムの跡がかゆくてしょうがない.ゴムの弱いものもあって、ズボンの内側でルースソックス状態になっていることがある.
ジャイアント馬場
at 1999 10/04 21:22 編集
高校に入っても、僕の身体は貧弱だった。筝曲部なんかに入ったから、体が鍛えられる機会は限られている。(部室の畳の上で、柔軟体操はしていたが)
ある時、同級生のK君と話をしていて(彼も貧弱だった)、「次の体力測定までにどちらが胸囲を増やせるか」と、競争をする事になった。
そうは言っても、田舎の貧乏高校生。雑誌の広告につられて「ブルー・ワーカー」を買うお金も無い。必然的に、腕立て伏せをやることになる。
毎日毎日、一日に何回も暇を見つけては腕立て伏せをして、この時は僕が勝った。
大学に入り、体育実技の時間の体力テストに、また腕立て伏せがあった。毎日毎日、一日に何回も暇を見つけては腕立て伏せをした。
偏った運動をすると、偏った筋肉がつく。
腕立て伏せをすると、脇の下の後ろ側の筋肉がつく。それ以外に運動をしなかったから、胸のほうには筋肉がつかない。その結果、
1. 後ろから見ると逆三角形の体が出来たが、前から見ると、引き続き貧弱。腕も肩も弱弱しい。
2. 脇の下が、前を向いている。
3. わき毛が、前に向かってはえる。
4. 仰向けになって頭のほうから見ると、見事な台形
故ジャイアント馬場の胸板のようだ。
現在ジムにて、修正中。
女嫌い
at 1999 10/04 22:18 編集
「僕は、女嫌いなんだ」
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「男はもっと嫌いだけど」
at 1999 10/01 15:47 編集
日本に着いてから、妻と僕と、それぞれ時差ぼけに苦しんでいる.
妻は、明け方まで眠れず、僕は、10時ごろには、寝てしまう.
昨日の夜もそうだった.部屋の電気をつけたまま寝ていたのだが、夜中寒くて目がさめると、隣りには妻はまだいない.身体の右側にあった布団をかける.すると、それをさらにきちんと掛け直そうと、僕の左から引張る力がある.こわごわ左側をのぞき込むと、クーラーの前に何か小さな物がうずくまっている.
恐くなって又右側を向く.しばらくすると、この小さな物は、僕をまたぐと、部屋の電気を消して僕の右側の布団に入った.「なんだ、嫁さんか」
しばらくすると、妻は突然「うるさい」と叫んだかと思うと、立ちあがって部屋を出ていってしまった.(妻は時々寝言を言うが、夢遊病と呼ぶまでひどくはなかった.)僕には何も聞えない.一生懸命耳をすますが、何も聞えない.そのうち、妻の帰りを待たずに、眠ってしまった.
翌朝7時に目がさめる.頭が少し痛い。しばらくすると、激しい寒気。布団の中で丸くなって震えていた.それに気がついた妻に布団を3枚くらい掛けてもらう.体温はあっという間に38度3分.平熱が36度を切るくらいなので、この位の熱もかなりきつい.
頭痛薬と、アイスノンで、現在は36度7分まで下がった.まだ立ちあがるとふらふらする.
昨夜の恐い経験で、ショックで熱が出たのかもしれない.
妻に聞くと、あれは夜中の3時半くらいだったらしい.最近義父が「チェッ、チェッ、チェッ」と小刻みに継続して舌打ちする癖があることから、義父に「うるさい」と注意しようとしたのだそうだ.ところが、「チェッ、チェッ、チェッ」というのは義父の舌打ちではなく、柱時計が時間を刻んでいた音だったらしい.
いもあらい
at 1999 10/02 06:10 編集
「このあいだ「いもあらい」やったけど、何ともなかったんだよ.」
うちの母親は、時々わからないことを言う.
「でも、先生が納得いかないって言うから、今度は造影剤を入れて写真を取るんだって」
「いもあらい」が「MRI(Magnetic Resonance Imaging)核磁気共鳴診断装置、磁気を利用してからだの断面図を作成する機械・検査」のことだとわかるのに、2分かかった。
くも膜下出血の後の経過を見るために、検査を受けるものだ.
母親が倒れてからすっかり気が弱くなり、3ヶ月で15キロ痩せた父も、最近頭痛がすると言って、母と同じ病院で、「いもあらい」を受けたらしい.
脳の検査のベテランになっている母親は、父親の結果を見るなり、「あーら、きれいな脳みそ。百科事典に載せても良いくらいの、真っ白白の、脳みそ.どこも悪くないわ.」その後、お医者さんも続けて、「本当にきれいな脳みそ.どこも悪くありません.」
そんな両親から生まれた僕も、昔からの頭痛持ち.来週の月曜日に、僕も「いもあらい」をする予定です.
冷え性の話
at 1999 10/02 08:45 編集
熱下がりました。
朝起きて体温を測ったら、水銀体温計は35度6分。測る前から、35度6分だったので、実際は、もっと低いのかもしれない。
僕は昔から冷え性で、冬になると、しもやけ、「ゆきやけ」(ゆきやけについては、「母の思い出、しもやけ/ゆきやけ」をご参照)で苦しんでいた。
今回実家に帰って、母親も、母親の弟も体温が低いと言う事がわかり、母方からの遺伝だとわかった。
これに対して、妻は体温が高い。それで、虫が彼女に集まる事になる。
留学時代の安アパートでは、犬を飼っている隣りの家からのみがいっぱい入ってきたらしいのだが、食われるのは妻ばかり。今回の福井行きでも、蚊に刺されるのは妻ばかり。
冷え性もたまには良い事がある。
くつした
at 1999 10/02 11:41 編集
ルースソックスがまだはやっているようだ.
みんながみんな、ルースソックスなので、これは制服の一部ではないかと思うくらいだ.
中に一人、紺のぴったりしたハイソックスをした子がいたが、新鮮だ.(あぶない、あぶない.おやじになっている.自分ではまだまだ若いつもりでいても、世間では十分におやじの年齢.)
僕の子供のときは、ハイソックスが流行っていたが、ゴムの技術が遅れていて、いつのまにか足首まで落ちてきてしまう.
おしゃれな友達は、「ソックタッチ」という一種ののりみたいなものを使っていたが、貧乏だった僕は、「あれは皮膚がかぶれるから」といって、輪ゴムを靴下の上から巻いた.(でもすぐ落ちた.)
中学のときは、服装の規則が厳しく、靴下は、色は白か黒か紺。横のラインは2本まで.くるぶしのところのワンポイント刺繍は10円玉の大きさまで.
違反していると殴られた.U先生は、しょっちゅう怒鳴って、ひっぱたく恐い先生だった.
内田先生、校長先生になられたそうで、おめでとうございます.
自動巻きの時計
at 1999 10/03 17:57 編集
僕の腕時計は、自動巻きである。古い自動巻きで、腕を動かすことでねじが巻かれるもの。はずして寝ると、朝には必ず止まっている。はめて寝ても、死んだように眠った日は、翌朝止まっている。昼間でもボーっとしていると止まることがある(いけない、いけない。仕事しなきゃ)。
就職前に、ヨーロッパを貧乏旅行した。最後の旅行地ロンドンでは、8人部屋。怪しいスイス人と、怪しいスコットランド人(スコットランド訛りがきつくて、こいつの英語はほとんどわからなかった。)と知り合い、近くのパブに行った。
スイス人が、僕のしていたセイコーの時計を見ながら言う。
「日本の時計も良いが、スイスの時計も良いぞ。実は俺は、この時計を別の人からもらったんだ。その人は酒好きなんだが、金がなく、俺に「この時計をやるから、ビール一杯飲ませてくれ」と言ってきた。それで俺がこの時計を持っているわけだ。お前も俺にビールを一杯おごってくれたら、この時計をやるよ」
てなわけで、今僕はこの時計をしているわけだ。
当時のビール一杯はいくらだっただろうか。300円くらいだろうか。
時計の裏には、ドイツ語で文字が刻んである。
「ルドルフ ザンガ殿 永年勤続に感謝する。1962年7月28日。アドルフ・ザウバー・アルボン株式会社」
アルボンと言うのは、スイスの地名らしい。いつか時間が取れたら、アルボンの町を訪れて、家族にこの時計を返したい。
新しい時計も欲しいのだが、はずすと止まってしまうので、かわいそうで見捨てられない.
サングラスの話
at 1999 10/02 23:44 編集
日本人では、サングラスはまだ定着していないようだ。そもそも、目がまぶしさに強い日本人には、サングラスは不要なのかもしれない。
外人さんは、目がまぶしさに弱い。
ミラノ支店にいたときは、夏は社内の電気は消されていた。外の明かりで十分だというのだ。「暗くて仕事にならない」と日本人が電気をつけると、イタリア人はサングラスを出してきてかけ始めた。
イタリアの高速道路は暗い。ライトがついていないところが多い。われわれには何も見えないのだが、彼らにはちゃんと見えている。危なくてしょうがない。
ロンドンでも同じだ。気がつくと、天井の蛍光灯が間引きされている。
同僚のK君のオフィスでは、あまりに暗くて太陽電池式計算機が動かないので、パソコンの画面に計算機を近づけて仕事していた時期があったそうだ。
通算10年暗いところで仕事をしていた(特に、ロンドンのオフィスは地下にある)事から、僕もすっかり目が弱くなって、ひなたで目をしっかり開けられなくなっている。でも、サングラスをすると、なぞの東洋人になってしまうのだ。
サラダ記念日
at 1999 10/03 08:40 編集
高校の同級生に俵万智(たわら まち)がいた。彼女は電車で通っていた.高校の近くの駅、田原町(たわらまち)で降りて、通っていた.
高校では、試験の結果を点数順に30人くらい発表する.いきなり俵万智という名前が上位に出てきて、誰もがペンネームだと思ったし、しかもどうも女の子らしいということがわかると、みんなでどんな子かと見に行った.
彼女は演劇部だった.僕は筝曲部(お琴を弾く部)だった。
友達に誘われて学園祭の前に演劇部の大道具作りの手伝いをした事もあったが、高校3年間で同じクラスにもならず、ほとんど話をする機会がなかった.
昔も今と同じマッシュルームカットだった.
彼女は早稲田に進む。JRの高田馬場の駅の構内アナウンスのアルバイトをしていて、それが「ポパイ」だか「ホットドッグプレス」に取り上げられていた。
(僕が若者雑誌に踊らされてスネ毛の脱色をしている間に、彼女はその若者雑誌にデビューしていたのだ)
俵万智 歌人
「サラダ記念日」「かぜのてのひら」「チョコレート革命」
俵万智のページは、www.gtpweb.net/twr/をご参照
「ぼくの」事件
at 1999 10/03 10:12 編集
高校時代、最初は家から通っていた.
自転車で10キロ、国鉄で13キロ、最後が徒歩で2キロ.合計25キロの行程だった。
山奥に住んでいるから、行きは下り坂で調子が良い.信号もほとんど無い田舎だ。
帰りはつらい.だらだらとした上り坂が、果てしなく続いている.
冬は最低だ.雪は結構積もる.県道まではブルドーザーが来て雪をどけてくれるのだが、県道までの500メートルを、ひざまで雪に埋もれながら自転車をかついで行ったこともあった.朝は必ずチェーンが凍っている.まずはチェーンにお湯をかけて、とかしてからでかける.
片道1時間半の道のり.途中でパンクすると完全に遅刻。電車は一時間に一本.通勤時は2本.かなり疲れた.
2年生の秋から、叔母の家に下宿した.かなり近くなったが、それでも自転車で3キロ通っていた.
これを機に、ピアノを始めようと考えた.家が貧乏だったので、ピアノは習わせてもらえなかった.
まず、「バイエル」(みんなが使う初級教則書)を購入.そこには、紙に書かれた鍵盤が付録でついていた.黒鍵のところにはさらに厚紙を貼って本物らしくして、練習を始めた.だが、音が出ないとやっぱり練習にならない.違う鍵盤をたたいてもわからない.
そこで、中古の足踏みオルガンを買った.
ほとんど骨董品の、きれいなオルガンだった.
足踏みで風を送る音が大きくて、オルガンの音が聞えないくらいだった.
そのうち、独学での限界を感じ、習いに行こうと考えたのだが、貧乏下宿生の行けるようなところは無い.結局ヤマハのエレクトーン教室のグループレッスンに行くことになったのだが、指一本で和音をならし、、足でベースラインを演奏するエレクトーンを教わっても、オルガンは弾けないということにすぐに気がついた.
3年の春からは、学校から歩いて5分のところの下宿屋に移った.足踏みオルガンは叔母の家に置いていった.
学校に近くなったからと言って、その分勉強したかと言うと、そうとは言いきれない.毎日のように近くの本屋でマンガの立ち読みをしていた.この時期に速読の技術を身につけた.
こっそり買っていた篠山紀信「激写・135人の女ともだち」(小学館刊)を母親に発見されたのもこの年だった.
下宿屋のドアは、かぎをかけずに寝る.日曜日の朝、僕がまだ寝ている間に、母親が尋ねてきてこっそり部屋に入ってくると、枕元においてあった「激写・135人の女ともだち」を見始めた。(当時としては、少なくとも高校生には)過激な内容に、思わず母は「これお前のか」気まずい僕は、(あたかも徹夜の勉強で眠くてしょうがないようなふりをして)
「ぼくの…」
床屋の話
at 1999 10/03 11:44 編集
高校のときは、自分で髪の毛を切っていた。(床屋に行く金が無かった)
後ろ側の毛は頭を下げて切るのだが、なかなか難しい。結果的にマッシュルームカットになる。
うちの学校は身だしなみにうるさく、男子の髪の毛は、眉毛にかからず、かつ、耳を隠さず、また、後ろは詰襟にかからないようにという規定だった。
ぼくのマッシュルームは前は眉毛のちょっと上で止まり、横は耳だけが飛び出していた。
規定違反ではないものの、先生にはちょくちょく注意されていた。
卒業近くになって、さすがに先生に呼び出され、床屋に行けと言われた。
しょうがないなあと、下宿先の近所の田原町商店街にあった床屋に行った。
そこでは、なんとミニスカートとT-シャツのおねえさんが散髪してくれた。
「なあんだ、ずっとちゃんと床屋に来ていれば良かった」
チェッ
2000年問題担当者の悲劇 17
at 1999 10/03 18:42 編集
東急ハンズ新宿店に行く。
2000年問題関連の展示があり、関連商品が売られていた。
「食料や水は最低3日分は用意しておきましょう。電気・水道・ガス・物流等の機能が一時的に停止する事も考えられます。」
売られていたのは、乾パン、パンの缶詰、水で戻す野菜・おにぎり等、浄水器(風呂水もろ過する)、水を使わないシャンプー、乾電池を使った携帯電話充電器などなど。
地震・台風などの天災への備えがしっかりしている日本は、問題が発生してもあまり慌てる事はないのかもしれない。
パーマ屋
at 1999 10/03 19:30 編集
高校を無事に卒業。東京に出ることとなる。
厳しい校則も無い。まずやるべき事は、パーマをかけることだ。
母親にどこのパーマ屋(美容院とは呼ばない)がいいか、相談する。母のいきつけの「Oパーマ」に行く。
ここで注意。うちの田舎のパーマ屋のメニューは、おばさんパーマ、パンチパーマ、アイパー(アイロンパーマの略?男性用ストレートパーマ?)しかないと言う事。
必然的に、ぼくの頭はおばさんパーマになった。ブローしてセットするという発想が無いから、頭を洗うとタオルで拭いて自然乾燥のみ。出来あがりは、メデゥーサか、サザエさんかという頭になってしまう。
入学式の記念写真があった。同じ大学に進んだ高校の友人3人で撮ったもの。見事なサザエさん頭の写真の存在をすっかり忘れていたのだが、ふとした弾みで、妻の手に渡ってしまった。
「ふっ、ふっ、ふっ。いいのあなた、そんなこと言って。あの写真みんなにばらすわよ」
うちの奥さんは、とてもやさしいすばらしい奥さんです。
のっぴきならない話
at 1999 10/03 20:09 編集
最近自分の日本語があやしい。
聞いてわかるが、自分で使えない言葉が増えている。(聞いてもわからない言葉も増えている)
「のっぴきならない」
時々聞くが、良くわからない言葉だ。
自分で使おうとするが、良い例が思いつかない。
「101匹ワンちゃん」
「93、94、95匹。」
「6匹足らない。(ろっぴきたらない)」
「ハムスター7匹ください」
「6匹しかないんですよ」
「6匹ならいらない。(ろっぴきならいらない)」
だれか、使い方を教えて。
中古車
at 1999 10/03 20:54 編集
貿易関連の友人から聞いた話
日本のトラック会社(日産だったか、日野自動車だったか)が、むかし北朝鮮政府にトラックを輸出した事があったそうだ。
受け渡しは、港ではなく、ピョンヤン市。そこで、北朝鮮の港まで貨物船で運び、そこから先は、陸路を運転していったらしい。
ピョンヤン市につくと、先方の政府高官は、
「私達は新車を注文したのに、あなたたちは中古をもってきました(港からピョンヤンまで走ってきたので中古ということ)。よって、お金は払えません。いやなら、持ちかえってください。」
帰りの船の費用も考えて、結局泣く泣く、トラックは置いてきたらしい。
爪
at 1999 10/04 07:47 編集
爪をむしる癖がある。いらいらしてくると、いつのまにか爪をむしっている。
年に3回くらいしか、爪きりを使っていない。
いつも両手の爪の先はがたがた。爪が無くなるまでにむしらないだけ、僕のいらいらもまだ症状は浅いということか。
一時帰国も2週間目に入り、爪は伸び放題に伸びている。
あまりに伸びすぎたことにいらいらして、爪をむしり始めている。
「いもあらい」行ってきました
at 1999 10/04 13:06 編集
「いもあらい」やってきました.(「いもあらい」については、「いもあらい」ご参照)
台に寝かされ、脚、上半身、頭で固定され、目隠しされ、トンネルのような機械に入っていく(目は見えていなかったので、想像だが).SF映画のようなものだ.
30分間いろいろな(騒)音が聞えてくる.道路工事の削岩機のような音もある.
それほどうるさいものではないものの、身体が固定されていて逃げられないというのは不快.検査後頭が痛くなった.
体積
at 1999 10/04 13:18 編集
妻は一足先にイギリスに戻り、僕は妻の実家に滞在している。
昨日の夜の話。
おかあさん「お風呂入れたんだけど、お湯入れすぎちゃったから、私、先に入るわね。」
30分位して、おかあさん、お風呂から出てくる。
おかあさん「お湯が多いけど、あふれても気にしないでね」
ゆぶねに、ゆっかりつかる。
お湯、あふれませんでした。
謎の東洋人 3
at 1999 10/04 14:00 編集
今日は午後から取引先にご挨拶。
10日間のばしたひげを、残念ながら剃り落とす。
今回も、やっぱり謎の東洋人ひげになってしまい、鼻の下は、まばらなまま終わった。
留学時代にのばしていたときは(最初単身留学だった事もあり)、まばらなひげと眉毛をまゆずみで書き足し、3分写真で写真を撮って留守宅に送った。
妻には、即座に見破られた。
今朝、「いもあらい」に行く途中に京王線で見かけた若いサラリーマンは、しっかり眉毛を書いていた。
僕は時代を10年近く先取りしていた。
整体に行ってまいりました。
at 1999 10/04 19:54 編集
午前中に行った脳ドックの待合室に置いてあった「HANAKO」に紹介されていた店。
西武新宿の「東洋中国気功整体院」。
40分のコースは、極めて気持ち良かった。
新たな発見。
その1
1. 普通の人は、押されても痛くない場所であっても、
2. 少しこってくると、押されると痛い
3. こりすぎると、押されても痛くない
最初押されても痛くなかったところが、治療が進んで、筋肉がほぐれてくると、押されると痛むようになった。
その2
右と左は、つながっている。
背中の右側のマッサージが終わると、左側の筋肉もリラックスしていて、始った頃痛くなかったのに、押されると痛くなっていた。
勢いをつけて首をひねられるのは(ゴキッ、ゴキッ)、あまり気分の良いものではないが、首が軽くなったような気がする。
明日も行こう。
ビジネス用ハイソックス、ルースソックス
at 1999 10/04 20:23 編集
僕は会社に行くときはひざのすぐ下までのハイソックスだ.
イタリアでは、「足を組んだときにスネ毛が見えるのは下品だ」との考え方がある。
(必ずしもみんながそう考えているわけではないようだが)
気がつくと、イタリアには紳士用ビジネスハイソックスがたくさんあった.ひざの下に使う靴下用サスペンダーなるものも売られていた。
色もデザインも豊富で、ネクタイや、シャツの色とコーディネートすることが可能である.
時々ゴムが強すぎるものがあって、靴下を脱いでしばらく、ゴムの跡がかゆくてしょうがない.ゴムの弱いものもあって、ズボンの内側でルースソックス状態になっていることがある.
ジャイアント馬場
at 1999 10/04 21:22 編集
高校に入っても、僕の身体は貧弱だった。筝曲部なんかに入ったから、体が鍛えられる機会は限られている。(部室の畳の上で、柔軟体操はしていたが)
ある時、同級生のK君と話をしていて(彼も貧弱だった)、「次の体力測定までにどちらが胸囲を増やせるか」と、競争をする事になった。
そうは言っても、田舎の貧乏高校生。雑誌の広告につられて「ブルー・ワーカー」を買うお金も無い。必然的に、腕立て伏せをやることになる。
毎日毎日、一日に何回も暇を見つけては腕立て伏せをして、この時は僕が勝った。
大学に入り、体育実技の時間の体力テストに、また腕立て伏せがあった。毎日毎日、一日に何回も暇を見つけては腕立て伏せをした。
偏った運動をすると、偏った筋肉がつく。
腕立て伏せをすると、脇の下の後ろ側の筋肉がつく。それ以外に運動をしなかったから、胸のほうには筋肉がつかない。その結果、
1. 後ろから見ると逆三角形の体が出来たが、前から見ると、引き続き貧弱。腕も肩も弱弱しい。
2. 脇の下が、前を向いている。
3. わき毛が、前に向かってはえる。
4. 仰向けになって頭のほうから見ると、見事な台形
故ジャイアント馬場の胸板のようだ。
現在ジムにて、修正中。
女嫌い
at 1999 10/04 22:18 編集
「僕は、女嫌いなんだ」
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「男はもっと嫌いだけど」