「手を渡すのがうまい」
というのは羽生善治九段の将棋を語るのに、よく出てくるフレーズである。
前回は、村山慈明七段が見せた絶妙手を紹介したが(→こちら)、今回は同じ研究会だったよしみで、古い羽生将棋を見ていただきたい。
将棋のテクニックで、難解な局面では、あえて相手に手番を渡すというのがある。
うまくやれば、それが迷いを呼んだり、ときには悪手を誘発したりする効果があるのだ。
かつては、大山康晴十五世名人がこの達人で、
「生涯で、これほど相手に悪手を指させた人はいない」
そう評したのは先崎学九段だが、米長邦雄、加藤一二三、二上達也、内藤國雄といった幾多の名棋士が
「はい、手番あげるから、いい手を指してみなさいよ」
大山から投げかけられた問いに、苦しめられたもの。
その勝負術を継承する羽生が披露した、有名なものといえば、この局面。
1988年の新人王戦。決勝3番勝負の第2局。
羽生善治五段と森内俊之四段の一戦だが、次の手が「伝説」と呼ばれる1手だ。
▲96歩と突いたのが、観戦していた米長邦雄九段も大絶賛した一手。
この手のなにがすばらしいのかは、正直なところ、高度すぎてよくわからないのだが、米長の解説では、この局面では▲72角とするのが普通。
そこで後手が、△75歩などと仕掛けて、先手は▲83角成という手を含みに、受けにまわるという展開になる。
そこを端歩を突いても同じようになるなら、玉のフトコロが広いうえに、手持ちの角が反撃に使えて、こちらのほうが良い、と。
そう言われると理屈はわかるが、今まさに戦いがはじまったところで、じっと端歩を突いて、手を渡せるという度胸が並ではない。
これから猛攻を受けることは必至なのに、こんな効いてるかどうか微妙な手を指すのは、ムチャクチャ怖いはず。
しかも、相手は天下の森内俊之だ。
これで攻めこまれて、そのままつぶされでもしたら、アホらしすぎるではないか。
ただ、この一手パスをとがめてみろといわれると、これがなかなか見つからないのが、この将棋の実に不思議なところ。
将棋の形勢を判断するのに
「駒の損得」「玉の固さ」「駒の働き」「手番」
を参考にするものだが、そのうちのひとつを放棄するような手で、
「どうぞ、ご自由に」
とやられて、これで有効手がないなど、そんなバカな話があるものか。
この局面、先後逆にする、いわゆる「ひふみんアイ」をして後手側から見ると、よりわかるけど、本当に「え?」っていう手にしか見えないのだ。
だが現実に、ここで後手にハッキリした手がない。
森内は△65歩、▲57銀に、△75歩としかけるも、やはり
「動かされている」
と感じていたようだが、森内のその懸念は当たった。
後手は玉頭をからめて、激しく攻めたてるも、羽生は手厚い指しまわしで、それをガッチリと受け止めてしまう。
▲38歩と打ったのが、入玉を阻止する決め手。
金銀5枚+と金の護衛をひき連れて、ふんぞり返っている羽生玉が印象的。
金銀7枚を手にし、まるで森内のお株を奪うような、カナ駒のスクラムで押しつぶし、見事、新人王戦初優勝を飾るのである。
かくして「羽生の▲96歩」は、ここに伝説の一手となったのだが、この一局には後日譚があり、なんとこの妙手を、とがめる手というのが発見されたのだ。
1990年の竜王戦で、石田和雄八段が有森浩三五段に見せたその順とは、▲96歩の局面で△75歩と突く。
▲同歩、△同銀までは森内の指し手と同じだが、▲76歩に、前例は△66歩のところ、なんとそこで△84銀(!)と引き返すのだ。
羽生の▲96歩が
「なにか指してください。もっとも、たいして有効な手はないでしょうけどね」
という問いかけだとしたら、それに対する回答が、
「たしかに。じゃあ、こっちもパスするので、あなたこそ、なにか指してください。手を渡すくらいだから、あなたこそ有効な手はないでしょう」
「パス」が最善手なら、こっちもそのまま「パス」で返せば、また先手が「パスが最善手」の局面を処理しなければならなくて困るはず。
というのは、言われてみれば論理的な発想であり、今なら角換わり系の将棋における
「相手の最善形が、くずれるまで待つ手渡し」
なども理解できるようにはなったが、子供のころ観たときは、たまげたもの。
なんなんだ、これは?
ただ難しいなりに、将棋の奥深さのようなものは感じられ、今でも忘れがたい局面だ。
ちなみに勝又清和七段の解説によると、△84銀のパスには、さらに▲95歩(!)と手を渡した実戦例もあるらしい。
そうして将棋の手は、どんどん進化していくのだが、たとえ過去の局面になっても、やはりこの手自体の輝きは今でも色あせない。
それは、この局面が
「難解な局面で相手に手を渡せる」
という羽生将棋の大きな特徴、その見切り、度胸、自らの読みへの自信、そしてなにより、カオスを楽しむおおらかさ。
そういった「羽生マジック」のエッセンスが詰まった象徴のような図であり、どれだけ時が経とうとも、決して古びることはないのだ。
(郷田真隆と藤井猛の熱戦編に続く→こちら)
予め断っておきますがこの局面について
外部の意見を調べたりソフトによる検討
(余り意味はない気がするが)はしておりません.
記事の内容を全面的に信用しての意見となります.
御了承ください.
(勘違いや既出の意見の可能性もあります)
記事の内容に移りますが,記事には,
96歩には75歩→84銀,更に84銀には95歩,
があるとのことで〆ていますが,
95歩に更に75歩はどうなのでしょうか?
何か先手に打開手段はあるのでしょうか?
それとも話が更にややこしくなるから
省略したのでしょうか?
(それなら95歩の前で切るべきな気がしますが)
95歩(96歩)の局面で
先手に有効な打開手段がないのであれば,
後手は75歩→84銀の一手パスを繰り返すことで
先手を手詰に追い込めます.
先手に反復可能な一手パスの手段はなく思えます.
また仮に有効な往復手段が存在したとしても
千日手なら後手満足なはずです.
(また後手でなくとも攻め込んで劣勢よりはまし)
……というのが話の骨子です.
また詳細な考察をすると,
(上記の私の意見が全面的に正しい場合ですが)
先手は95歩の後の84銀の後に
72角(または千日手)を選択することになり,
それならば96歩→95歩の二手は
(おそらく)一応先手が得をしたことになります.
(絶対的な形勢はまた別物ですが)
更に96歩→95歩の二手が先手の得でありかつ
先手から有効な打開手段がないのであれば,
75歩→84銀では94歩の方が
(おそらく)後手は得なのではと思います.
確かに96歩94歩の交換(の有無)は
(おそらく)先手の得だと思いますが,
一方的に96歩→95歩とされるよりは
(おそらく)後手は得していると思います.
このあたりのことは将棋の実力というよりは
ゲーム理論的な思考があるかどうかだと思います.
私はそちら方面の思考がが好きなのですが,
一般に将棋指しの人はあまりしないのでしょうか.
余談ですが,自分は当記事を初拝見したときは,
96歩94歩には先手から有効な打開手段がある,
75歩→84銀で一歩持つと有効な手段が生じる,
という話の流れかな?と思って読んでいました.
96歩に94歩というのは第一に考慮する手段だと
思うのですが,そうではないのでしょうかね?
私もそれほど手を渡す経験はないですが,
私は96歩のような手で渡す場合には
(相手の攻撃がどうなのかよりもまず)
94歩と受けられたときはどうなのか,
(一手パスの意味はあるのか)から考えます.
有効な打開手段がないのであれば
相手の攻撃を読む価値は低いと考えます.
今回の場合は違いますが(というのは72角なら
結局相手の66歩以下の攻撃の順を読む必要がある)
相手の攻撃(相手は受けと攻めから選択可能)の
選択時のリスクと時間!を考慮すると
手を渡す選択をするのは実践的でないからです.
また更に雑談ですが,
96歩と手を渡すのが怖いと書かれてますが,
私からすると72角と「手を渡す」方が怖いです.
(正確に言うと72角は「催促する」のですが)
記事にもあるように同じ順になるなら
投資した角が取り残される危険が高いからです.
(というかプロの解説を聞いていると
このあたりの怖さの感覚はプロも同じ気がします)
ざっくばらんに言うと相手に攻撃されたとき
72角はマイナスの手にしかならないのです.
(一概には言えないませんが,少なくとも
この場面ではそう判断したからこそだと思います)
最初は更に75歩の手渡しはどうなの?という
疑問を言いたかっただけですが,
期せずして長文になりました.すいません.
これからも楽しみに読ませていただきます.
▲96歩の有効性と、その後の変化については文中にもあるように、
「高度すぎてよくわからない」
というのが本当のところです。
もちろん、自分なりの意見はありますが、素人の「勝手読み」に過ぎず、きっと穴だらけで、あまり意味はないでしょう。
同型の将棋の多くが、結局どこかで▲72角と打っているので、ここで打つのかもしれません。
ご指摘の通り、後手に一歩あるのは大きいですが、その有効性と、端の突き越しのどちらがプラスなのか。
▲95歩以下の変化にふれていないのは、勝又先生の記事でも、
「▲95歩とした将棋もある」
としか書かれていなかったからですが、たしかに気になりますね。
調べてみると、▲95歩に実戦は△86歩から仕掛けているので、プロの間では△75歩の再度のパスは有効でないと判断されているのかもしれません。
あと、▲96步に△94歩と受けた将棋はありませんでした。
自然な手のようですが、プロから見ると効いてないんでしょうか。この判断も難しそうです。