@家の主人、亭主が一生懸命働き、家を建て、子供を一人前に育て、孫を看る、家族に看取られ一生を終える。現代の一般的なサラリーマン・主人の姿かもしれない。家庭は妻に任せ、一生懸命に働き続けた、それは今の団塊の世代の人々の人生に映る。この小説は戦国時代、織田から秀吉、徳川時代を戦国の田舎の武将が地方の一城主となるまでの様々な武将の生き方・選択・戦いを描いた書籍である。ここで得るものは「強くなり上に立つ事」「上に立った者はしっかり下の者の世話をする事」、仕事等で突っ走るのもいいが周りをしっかり観ながら家庭も大事にする事へと繋がる。往往にして亭主の功績は家庭には響かない。「家族のために一生懸命仕事をした」と言っても家族の評価はそれほどでは無いのが現代である。人生に対してより難しい世代になりつつある。それは感性を重要視する時代になっているからだろう。 参考までに「感性」とは、生命的感性(生きるを刺激する)、知的感性(真理・真実を探求する)、社会的感性(善悪を探求する)、心情的感性(心情・心理を刺激する)、創造的感性(意見・意思を刺激する)
『亀井琉球守』 岩井三四二
- 「親の仇が、今や見方か・・」尽きぬ戦いなのか、恩賞をめぐる一喜一憂も束の間、一度気働きを怠れば、そこには我が身と一族路頭の死が待っている。毛利に滅ぼされた尼子党にあって、秀吉・家康という天下人の下を生き延び、流浪の身から一代で印旛國鹿野の大名にまで出世した亀井茲矩。秀吉に「琉球」を願い出た男が戦塵の果てにたどり着いたのは。家族と家臣を守り抜き、乱世に夢を追い続けた男の波乱の生涯を描く。
- 尼子党の残党から母の言葉「弱いものは母のように理不尽な仕打ちにあっても跳ね返せない。強くならなければならない。強くなるとは、人の上に立つ事だ」の通り、山中鹿介に仕え、上士の亀井家の娘を嫁にもらった。秀吉の家来になり毛利と戦う事で昔の領地を取り戻そうと奮闘、戦う。その時、秀吉から授かった扇子には「亀井琉球守」を名乗ってもいいとお墨付きをもらった。秀吉は下のものにも気さくに声をかけ、合戦につきものの普請なども自ら手を汚して見本を作り示した。しかも言う事、やることは筋が通り、誤りがない。下のものに兵糧が行き渡るように気を使ったりもする。知恵が回る上、情も厚い。明智光秀を討った後は大阪城、聚楽第や方広寺などを普請させ、田畑も検分し、刀狩り、など徹底した。秀吉からの「亀井琉球守」は九州征伐で島津に任せた事で幻の「領主」となる。
- 関ヶ原の戦いでは東西どちらに加戦するかで分裂するかのように思えたが、徳川側につき恩賞を得た。だが、街を焼き払った事、急遽味方に寝返った元敵を伴い、城を攻撃した事で印旛國の8國ある2國のみとなった。亀井家の所領は4万3千石、収益は隣国との貿易で、徳川からの普請要請でも満足いく仕事をこなせた。
- 亀井の妻には長く子供ができず、側女に長男、百姓の娘に次男が生まれ、その後亀井の正室に子供ができたが、虚弱体質で亡くなる。それを正室は側女等からの呪いがかけられたと発狂。30年連れ添った妻の発狂で悩む、「働いて家を興し、一城の主になった。何度も危機を乗り越えて、家を無事に子に継がせるも目途も建てた。どこが悪かったのか」。「夢を叶えようと頑張るものは、尻を叩かれ馬のごとく、前へ突っ走るしかできんもの。良い景色も眺められぬし、道端の草花も踏み潰して、事によると周囲の者へ泥を跳ねかけておるやもしれず、迷惑な者じゃ」夢・琉球の夢はなんだっのか・・・
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