@幕末の老中阿部正弘と堀田正睦は才能ある人材確保から、開国へ軟着陸させるべく攘夷派と開国派双方に荒波を立てさせないように慎重に交渉を進めた。だが、大老井伊直弼は、攘夷派とも開国派ともに拿捕処刑、さらに有能な奉行家臣等を左遷させてしまった。ここに2つのポイントがある。人材は幹部が選び、教育すること、交渉は時として外部からの事件・事故から動き出すことである。人事の難しさは幹部の日頃の目が重要である事、往々にして有能な人材は幹部の有能さを逆に見抜き転職してしまう。幹部の人選の目とは、日頃どれだけ部下と意見交換をしながら、行動を伴っているかではないだろうか。いわゆる基本はPDCAコミュニケーションとなる。では如何に選ばれる人材になるか。それは日頃より「諸問題の処方を探し、提案・行動できる」を身につけていることではないだろうか。さて次の交渉術なるものは、特に海外との交渉でよく言われるのは「日本は時間を掛けすぎて乗り遅れる」である。結局決定・決断ができない人が交渉しても何も前進しないことだけでなく、時間の無駄となる。決断できる人に積極的にアプローチし続けることは最も重要で、何がネックなのか知ることで次の交渉は必ず前進するはずだ。 特に現代の売り込みでの弱み・ネックは、先方に「予算が無い」が多いが、競争相手の動向は意外と真剣になる。
『幕末の官僚』檜山良昭
- どのように幕末政治危機を乗り切ろうとしたのか
- 「鎖国」1611年からキリスト教普及や海外貿易を制限開始、1639年に鎖国体制完成する。貿易窓口は出島でオランダと中国のみとなるが、1778年からロシア、イギリス、アメリカなど蝦夷地、室蘭、長崎などに外国船が多く寄港し、開港を迫っている。1846年アメリカ東インド艦隊が浦賀にて通商条約を要求するが幕府は拒否している。1953年ペリーが軍艦4隻で浦賀来航となり、翌年1月16日再度来日、阿部正弘は日米和親条約で下田と函館を開港する。イギリスも軍艦7隻で長崎に入港、同じく日英和親条約を締結。その後堀田正睦がロシア、フランス、オランダとも条約を締結する。1855年関東での地震発生、1857年阿部正弘逝去、1858年井伊直弼による日米通商条約交渉妥結、井伊直弼は「安政の大獄」にて多くの逮捕を処分、翌年から神奈川、長崎、函館において自由貿易を許可する。1860年には幕府の軍艦咸臨丸にてアメリカ視察を断行、同年井伊直弼暗殺となる。
- 「ペリー来航」1853年、ペリーは軍事力で威嚇しながら力ずくで上陸開港「砲艦外交」を迫る気迫を持っていた。ここに江戸幕府が衰退への道をたどる第一歩となる、それは開港、締結まで長々と3年以上もかけたことが、幕府の無能さを見せつけ、さらに倒幕藩士等を生み出したことにある。条約にアメリカ側では完全武装の約5百名の兵士を上陸させ、軍艦による37発の礼砲の演出をした。(元は赤字を抱えた陶磁器店主で、その後兄の仕送りで貿易をするが赤字続きでアジア諸国を転々とする。大統領への売り込みの手紙から採用された人物であった。中国で日本の金銀等の為替で一儲けした商売人)
- 「ハリスとの交渉」1856年、領事として来日したハリスにおいて、日本語条約文に誤訳があり(英文からオランダ語。中国語に翻訳、そして日本語)18ヶ月後に駐在は認めないと理解していた日本側は、その後の交渉でも為替、交易品目の値段なども言い値となる。駐在も急遽柿崎にある玉泉寺を宿舎とし、将軍への対面も行う。阿部はそれに先立ち人材を一新し「三傑」と呼ばれた岩瀬忠震、永井尚志、堀利煕を海防掛・勘定奉行に抜擢、その後堀田正睦が積極的な開国へと動き出すが「弱腰外交」と比喩された。堀田正睦は積極的な開国論を唱えていながら世論を誘導していく強い指導力がないことだった。アロー号事件「中国政府がイギリスと結んだ裁判権を無視し、度重なるイギリス領事の抗議や要求を顧みなかった中国政府の頑迷さにある」により英仏海軍による広東砲撃が始まった経緯をハリスは利用した。ハリスの将軍謁見は実現するが幕府により街道には武具など 、地図、兵法書なども店先から一切隠し、乞食等も一切街道には姿を見せぬように道路は清掃され民衆はゴザを敷き正座し静粛されたとある。
- 「幕府・幕閣体制」将軍家慶が老中水野忠邦の過激な改革にブレーキをかけようと阿部正弘(25歳)=「調停型」(和)を抜擢、「痛みが伴うような急激な改革は避ける」とした。「鎖国政策を維持」(無策の策)の鎖国派が多く、阿部は海防掛を設け水戸の斉昭をご意見番に置き改革派とのはけ口とした。水戸斉昭のご意見場番である藤田東湖は「向こうが力ずくで攻めて来ると脅すならば、やりたければ勝手にやれと言ったら良い。困るのは向こうの方だ」など、海外の戦力情報を過少評価していた。その後幕閣人材一新、浦賀奉行等が開国派となり、阿部は開国やもうなしと判断、仮条約をする。阿部は聡明で冷静な判断力や先見性もあったが、決定的に欠けていたのは強い意志で「和」を重んじた。強烈な個性と自我との嫌う日本政治風土が時代を好んだ。幕府の崩壊は国内改革が延々と進まず、江戸を安政の大地震が襲ったことにもある。
- 「将軍」ペリー来航直後に家慶が死去し、29歳の家定が13代将軍となる。病弱で知能障害を負っていることで指導力に不安があり、老中阿部・堀田体制が歪み攘夷派が反発を極めた。井伊直弼は、島津斉彬、松平春嶽等が支持する水戸の慶喜を避け紀州の慶福に決定する。
- 「開国論」老中堀田正睦は「外国には堅牢の軍艦があるが、こちらは短小軟弱な用船しかない。また兵士も強壮で経験もあるが、こちらは太平の世に甘んじ武備も薄い。よって戦っても勝ち目がない、交易を許して、10年ほど立ってから国益にかなわなければ打ち切れば良い。その間に武備を強化し、国益にかなう交易を続ければ良い」。斉昭は「こちらから使節をアメリカに派遣して、改めて和親条約の不備な点は改正し、これ以降は条約を厳守し、条約にはない要求はきっぱりと拒絶してはどうか」と幕閣に提案している。真意は富国強兵を背景に対等の外交を行うことであると主張した。
- 「日本の軍備」相模と房総に配備した大砲は26基、口径が5寸を超えるものはわずか8門であった。銃も距離が出ない旧式しかなく、オランダに大型軍艦を発注していたが、オランダは先ずは航海術の取得が先と幕府勝海舟に海軍伝習所を設立させた。
- 「蒸気汽船」1807年蒸気動力のイギリス帆船が大西洋を横断、1851年高圧蒸気で従来の半分の石炭燃料によるエンジンの発明により長距離が可能となり、時期同じくしてカリフォルニアのゴールドラッシュに1年間に10万人が押し寄せた。その半分は船だった。
- 「ゴールドラッシュ」1848年ジェームス・マーシャルがジョアキン・バレーで砂金を発見が発端、1年間に775隻が入港した。1914年にはパナマ運河も開通した。
- 「アメリカの野望」イギリスがアヘンで中国貿易に乗り出しているときにアメリカ太平洋郵船会社が3千トン級の大型汽船で対抗した。当時太平洋間は約30日間かかり燃料、食料等の補給で日本に開国を求めた。当時日本での燃料は、薪、鯨の油が主で石炭は砂のようなもので、その後採掘するようになる。
- 「老中幕閣人事」人事というのは人事を決める権限を持っている「上に立つ者」の見識次第、どれほど優秀な部下がいても、その能力を見抜くことができない幹部では、その優秀な人材が活かされない。世襲門閥の弊害が叫ばれながら、歴代の幕閣は家門や縁故や賄賂で人事を行ってきた。年功序列で幕政の腐敗と停滞の温床だった。
- 「日本遠征記」ペリーの書は日本に赴任する外交官の参考書となっており「日本側の交渉相手を上から見下し、威圧しながら、ちょっぴり柔らかく譲歩してみせる」が日本の交渉術だという。
- 阿部正弘と堀田正睦は苦心しながら、市場開放の軟着陸を目指した。これに対して井伊直弼は強権政治に走り、政争を激化させ、革新官僚を追放し、幕府の人材不足をもたらし、崩壊につながる道に走ってしまった。
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