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日本の海防政策・北方領土『幕末の海防戦略』

2024-05-16 07:41:05 | 歴史から学ぶ
@鎖国時代の外国船対応
  • 遭難船からの外国人は保護し、補給を与えた上で出国させた。
  • 外国船の寄港や入国は原則として許可しなかった。外国船打払令により一時的な寄港も認めなかった。
例外的な寄港の許可
  • オランダ、朝鮮、琉球の出島利用は認めていた。
  • 幕末から明治にかけて、欧米諸国との通商交渉により、徐々に寄港や開港が認められるようになった。
北方領土問題
  • 当時、国後島と択捉島は日本領であった。
  • 中間にあるウルップ島は無人島とし、日露両国の了解のもと「空島」とされていた。
  • 終戦後、ソ連(現ロシア)が北方4島を不法占拠した。
鎖国時代の日本は、原則として外国船の寄港や入国を認めず、一時的な補給のみを許可していた。しかし、幕末から明治にかけて開国が進み、徐々に寄港や開港が認められるようになった。また、北方領土問題では当時の日本領土であったにもかかわらず、終戦後にソ連(ロシア)に不法占拠された経緯がある。
『幕末の海防戦略』上白石実
「概要」突然のペリー来航は、幕府に大きな衝撃を与えたが、外交交渉には周到な準備をして対応している。なぜそのような戦略をもちえたのか。十七世紀のヨーロッパ船から十九世紀のアメリカ船の来航まで、日本に接近する様々な異国船への対応を検証。打ち払い・垣(かき)船(ふね)・薪水(しんすい)給与など、海禁を維持するために奔走する幕府の姿を描き、海防政策の本質に迫る。
ー1612年幕府ではポルトガル・スペインの出島などから領土的野心への脅威からキリスト教禁教
ー1633年には宣教師渡航禁止、武器輸出禁止、日本人の渡航禁止を敢行
ー1637年島原の乱、ポルトガル戦入港禁止、異国船取り払い令など発令
1792年松平定信の海防構想発令(海辺御備愚意・強兵富国中心)
    対馬藩、泉藩などからはかなり出鱈目な報告書が提出されていた
    定信が退任すると湾警備構想が消え去ってしまった
1807年にはロシア船による蝦夷地襲撃、打払令発信
    日本両道国後、択捉としてウルップは人の住まない無人島とした
ー1818年以降異国船来航(ロシアのみならずイギリスなど)捕鯨目的で来航
    大津事件(イギリス人の上陸・捕鯨船)食料の補給
    水戸藩は船に大砲2門、鳥銃21、短筒30などを設置
    漁師と異国船とが頻繁に交流、海禁策が崩壊していた
    米廻船と接触を避ける為利根川を利用した迂回路、陸路を選択した
ー1825年異国船打払令を発令、漁業者との接触を禁止、外国人隔離を目指した
    薪水給与令により上陸は許可せず場合によって大砲武器等に関しては領置(押収)
1844年阿部正弘政権(27歳~39歳)により異国船払打令継続
    海防掛老中、若年寄新設、海防策強化(農兵・浦賀での外国対応)、大型船建造
    異国船が商船や捕鯨のみならず軍艦が増え通称や開港を求める要求が増える
    アメリカ軍艦など太平洋でのアメリカ捕鯨船がピークとなる
    オランダ・朝鮮・琉球船の許可(出島許可、軍艦の利用許可、帯刀許可)
    フランス・デンマークなどの軍艦外国使節の来航
ー1868年 明治新政府日米修好条約などにより築地での居留地を認める
    在留外国人に対して湯治など許可(箱根・熱海)但し通訳付きを条件
ー1895年日英通商航海条約で外国人内地雑居許可