つれづれ日記

~認知症に備えて~
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秋山兄弟生誕地、湯築城と今治城

2008-05-25 20:16:00 | 

 今日は、朝は曇だったが、昼前からは晴となった。

 昨日時間が短く、また雨も降ってじっくりと松山城を見て廻れなかったので、今朝再度見て廻ろうかと思った。しかし、歩いて近くにある秋山兄弟生誕地跡も坂の上の雲ミュージアムも見たかったので、そちらへ廻ることにした。

P1060774seitanchi  秋山兄弟生誕地跡に行ったが、9:30開館ということで門が閉まっており、中には入れなかった。外から覗いて我慢した。秋山好古の乗馬像、真之の半身像があった。仕方がないので、坂の上の雲ミュージアムへ行こうとそこにあった資料をみると、開館が10:00と書いてある。これでは今からいってもしょうがない、と諦めホテルに戻った。チェックアウトし、9:50ホテル駐車場出発。

 給油モニターが点滅を始めていたのでガソリンスタンドを探してうろうろし、やっと見つけて満タンにした。58.7?、@¥154/?だった。自宅を出て、ここまでの走行距離753.4kmで(フェリーでの洋上は約650kmだがガス消費は当然ない)、燃費は12.83km/?だった。

P1060800yuzukijyo 湯築城の周りを一周し、西口(湯築城搦手にあたる)にある駐車場に10:15駐車した。湯築城は、河野氏の本拠で源平合戦(1180~1185)で功績を挙げ、鎌倉有力御家人となり、伊予国の統率権を得たが、承久の乱(1221)で一時没落するものの、元寇(1281)で河野通有が活躍、確固たる地位を確立した。南北朝時代、通盛の頃には本拠を河野郷から道後の湯築城へ移した。全国統一を目指す豊臣秀吉の四国攻めにより、小早川隆景に開城し(1585)、河野氏の伊予支配は終わった。天正15年(1587)、福島正則が湯築城に入り、東・中予の領地を支配し、のち、府中の拝志城に移り、湯築城は廃城となったと見られている。発掘調査が昭和63年(1988)に始められ、現在それに基づき武家屋敷などが復元されている。城跡は、2重の堀に囲まれており、中央部はこんもりとした山で、森となっており、頂上には展望台が設けられており、そこに立つと松山城の天守閣が望めた。現在、道後公園として市民の憩の場となっている。

P1060848yamazatoyagura  12:15湯築城駐車場を出発、途中コンビニでパンと牛乳の昼食を摂り、13:40今治城市営駐車場到着。3重の堀(海水を取り込み)に囲まれた典型的な輪郭式の海城だったが、現在は内堀とその内側しか残っていない。天守は、藤堂高虎が5重6階を建てたが、伊勢の津に転封となる。同時期家康が丹波亀山城を天下普請で築城の際、この今治城の天守を解体移築したという。もっとも、今治城の天守はもともと造られなかった、という説もある。現在は、昭和55年(1980)に模擬復元された5重6階の鉄筋コンクリート製が立っており、二の丸に山里櫓(西隅)、御金櫓(東隅)と、鉄御門(北隅)それに続く多門櫓・武具櫓が復元されている。また、本丸には、吹揚神社をはじめ数個の神社が鎮座している。

 16:20、今日の宿、ホテルポートサイド今治に到着。


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