つれづれ日記

~認知症に備えて~
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飛騨高山旅行(第11回OC4人会)第二日目

2015-09-10 23:14:35 | OC4人会
 ホテル2階のレストランでバイキングの朝食を摂って、ホテル玄関前から9:10発の送迎バスで高山駅へ。今夜も同じホテルに連泊するので、荷物は部屋に置いて出かける。

 高山駅脇にある「高山濃飛バスセンター」で、往復の路線バス料金と「飛騨大鍾乳洞」とそれに併設の「大橋コレクション館」の入場料のセット券(それぞれを合計したものより350円安い)を購入し、9:40出発の路線バスに乗り込む。比較的狭い道を結構な速度で走るのには驚いた。

 30分後大鍾乳洞口のバス停に到着。そこからは、バス停舎の中のインターホンをとると、大鍾乳洞に直通されてその迎えのマイクロバスが迎えに来る。距離は約1kmだが、登り道となり、往は3~4分、復は2分ほどで往復できる距離である。
 まず、飛騨大鍾乳洞を発見した大橋外吉が集めた工芸品、装飾品など世界の美術品を展示した大橋コレクション館見て、その後大鍾乳洞へと向かう。大鍾乳洞はい全長800m(平面)ほどあり、途中で外に出られるバイパス出口が2か所設けられていて、幼・老齢者などに配慮されている。


 大鍾乳洞見学後、再び高山市街に戻り、肉の「丸明」で飛騨焼肉ミックス御膳を昼食として摂った。肉屋と焼肉屋をも経営しているようで、結構大きな店構えをしていた。12:30から約1時間半かけてのゆったりとした昼食だった。


 食後は、歩いて近くにある「山下清原画展」に入場。沢山の山下清(1922-1971)のちぎり絵、フェルトペンによる素描画、中には油絵などもあり、楽しむことができた。原画展の脇のコーナーにある「花火のカフェ」(山下清の特徴的な花火のちぎり絵に因んだものと思った)でコーヒーを飲んで(傍らでは雁の助主演の裸の大将のビデオがかかっていた)20分ほど休んだ。

そこから、山下清原画展と共通入場券(¥1100のところ\800)となっていた「高山昭和館」に入った。昭和30年から40年代ころの生活・文化などの店舗や商品などが展示されていて、当時を思い出しながら懐かしくおよそ40分ほど見て回った。

 そこから歩いて高山陣屋を目指して歩いたが、途中頭上に雨雲が広がり雨が降って来たので、アーケードの下でしばらく雨宿りをして古い町並を通り、また何回か目の赤い欄干の「中橋」を渡って「高山陣屋」に到着した。

 元禄7年(1692)7月、徳川幕府はそれまでこの地を治めていた6代高山城主金森頼旹(よりとき)を出羽上山へ移封し、飛騨国を幕府直轄領とした。以来、明治維新に至るまでの117年間25代の代官・郡代が政務を行った。
 ここを見学中に、御蔵の中の説明資料中に元水戸藩士梅村速水(本名:沼田準次郎:1842-1870)を知った。水戸藩士の家に生まれ、水戸学を学び決断力に優れ、学問・武術も人に抜きんでいたといわれている。後、脱藩し諸国を廻り、岩倉具視、三条実美たちに接しその影響を受け、1868(慶応4、のち明治元年に改元)年新政府から飛騨国出役を命ぜられ、27歳の若さで高山県の初代知事となった。知事となってから、旧習を退け、新しい施策を矢継ぎ早に打ち出したが、その急進的な改革は、飛騨の人たちに受け入れられず1869(明治2)年に騒動(梅村騒動)が起こった。これにより、梅村の理想政治はわずか1年で終わり、知事を解任され、捕らえられ明治3年10月26日無実を訴え続けながら牢死した。しかし、明治政府が目指した新しい国造りがようやく軌道に乗り世の中も次第に落ちついてくると、梅村知事の足跡を振り返り、遺徳をしのぶ鳥羽了英、江馬弥平らによって、梅村知事遺愛の碑を建立する話が持ち上がり高山の名勝城山三之丸跡の一画に竣工した。篆額:岩倉具視(右大臣・従一位・大勲位)、撰文:重野安繹(国立博物館編集副館長・従五位)、書:藤田 健(茨城県警部長・従六位)になる石碑の碑文の終わりには「飛騨の人々は、君が世を去ってから初めて本当の事を知った。君を死に追いやった事を大変くやみ、悲しみに堪えない」と哀惜の言葉で結んであるという。

 1時間ばかり見て高山陣屋を17:05出て高山駅まで歩いた。駅前からタクシーでホテルに戻った。その途中、「崇教真光」総本山を車中から見てホテルには17:40分頃に到着。
 夕食は、ホテル2階のレストランでバイキングの食事を摂ったが、とても支払った食事代は元が取れることはないと思った。