つむじ風

世の中のこと、あれこれ。
見たこと、聞いたこと、思ったこと。

軽井沢殺人事件

2016年09月25日 16時04分40秒 | Review

内田康夫/角川文庫

 1990年10月25日初版、2006年11月25日第50刷。「軽井沢殺人事件」は軽井沢の開拓史もあるけれども、旧公卿華族から財政界の大御所、政界の黒幕、公安警察、所轄警察、そして大企業の犯罪まで登場する超豪華版。しかし、それぞれ中身の詰めが甘く、どうもスッキリしない。同様に事件も何だかウヤムヤに。

 軽井沢らしいといえばそうなのかもしれないが、サスペンス小説としてはどうか。今ひとつインパクトに欠けたように思う。最後の逃走劇で疲れ果てた浅見さんのように「ちょっとお疲れ」か。

途中から、長野県警、捜査一課の竹村岩男警部が登場するが、もう少し活躍の場があってもよかったように思う。でも、竹村、吉井、木下のお三方が元気なのは何より。ここはとりあえず、またのお出ましを期待しておきましょう。

 ココム違反事件
 この手の違反事件は度々起きているが、この作品から直ぐに思い浮かぶのは「東芝機械ココム違反事件/1987年」である。本当に実害があったかどうかはともかく、アメリカからクレームが付き、親会社東芝の会長、社長が辞任するまでに至った。当時、アメリカ政府はノルウェーの企業にも同様の違反の疑いがあることを指摘している。その後、東芝と言えば近年不正会計でまたも歴代の社長がその責任を問われ、まさに「貧すれば鈍する」の状態にある。




長崎殺人事件

2016年09月22日 23時51分28秒 | Review

内田康夫/角川文庫

 1998年3月25日初版、2010年6月20日第11刷。この「長崎殺人事件」は浅見光彦シリーズの中でも代表作の一つなのだそうで、確かに登場する人物の配置には無理、無駄が無く、読者は犯人を最後まで特定することは難しい。その結末の唐突性、意外性は思わず「ホ~」と納得してしまう。推理小説ならではの感嘆である。100冊を超えるこのシリーズを読み始めて、まだ序の口であるが、こんな作品に出会うと思わず次の作品を読みたくなってしまうのは私だけだろうか。

 それにしても、いつものことだが背景になっている町並み、風物といった描写を読んでいると、風光明媚、盛者必衰、やはり一度は行ってみたいと思う。長崎もまたその例外ではなかった。ふらっとその町を訪れたくらいでは、何も判らないのかもしれない。本来、その町に住んでいる人々と共に苦楽を共にしてみなければ本当の姿は見えてこないのかもしれないが、少なくとも町の活気、人々の意欲、勢いといったものは何となく感じることができるように思う。

 光彦にとっての事件は、当初は難解なパズルを解くような感覚で挑戦的で確かに楽しい。しかし結末が近づくにつれて、犯人の心の淵、その哀しい性に思い至るにつれて耐え難い哀しみが込み上げて来る。光彦の心のスタンス、著者の犯罪に対する視点はいつもこの一点にあるように思う。殺人事件というものが例え推理小説の基本的なテーマであるとしても、残虐性、暴力性、陰惨性をできるだけ排除した推理小説があってもいいと思う。




「首の女」殺人事件

2016年09月16日 16時07分01秒 | Review

内田康夫/徳間文庫

 1989年10月15日初版。1993年10月10日第20刷。久々の浅見さん登場。この作品はシリーズで言えば115冊あるうちの初期の作品。読んでみるとなんとなく初々しい。この作品は東京、福島、鳥取を背景にする。そして今回の話しの謎めいた小道具は「根付」。江戸時代の飾り職人ならわかるが、今時商売として根付の製作が成り立つものかどうか、それはともかく、「美濃路殺人事件」で「和紙」が、「竹人形殺人事件」では竹人形がそうであったように、今回は「根付」が話しを成り立たせる。どんなものにせよ、歴史ある古いものは何となく不思議な魅力があるものだ。

 面白かったのは、柴山亮吾に言わせた「高村光太郎・智恵子」論である。別段「高村光太郎・智恵子」の遺した作品をたくさん読んだわけではないが、今まで断片的に映像化されたものを折に触れて見てきたイメージからすると、かなり偏屈なというか、独自な視点で見ているように思う。教科書にあるようなキレイで表面的なものの裏に、実は精神的な苦痛、苦悶、独善といったようなものが渦巻いているような気配が伝わってくる。そしてそれは結構納得できてしまい、「高村光太郎・智恵子」に対して、既存イメージの変質を余儀なくされたことは確かだ。

 ラストシーン、光光コンビのやりとり
 高村光太郎の「人に」は、誰でも聞いたことくらいはあるだろう。このあまりにも有名な詩をストーリーに織り込んで、最後の最後まで徹底的に利用する著者のしぶとさには感嘆する。ここまで来ると、それとわかっていながらもそれを楽しむという古典落語的「面白さ」である。いやまったく。

 松村善雄さんの解説
 その中に「推理小説は「殺人事件」をテーマとする」というのがある。なるほど、毎週毎週~殺人事件が起きるはずだ。こんな大前提があったとは知らなかった。更に「推理小説は健全文学である」というのは「イギリス人の老後」という話を聞けば判るような気もする。しかし、決して不健全とは言わないまでも、ちょっと違うような気がしないでもない。





つむじ風

2016年09月12日 11時08分37秒 | Review

―般若同心と変化小僧(2)―
小杉健治/光文社文庫

 2014年11月20日初版。著者の作品は現代モノ「父からの手紙」で3年前にお目に掛かった。今回の「般若同心と変化小僧」は現在11冊のシリーズもの。著者は現代モノ、時代モノおよそ半々でバランスよく書いているらしい。読者のReviewによれば、感動モノと同時につまらない、くだらないという評価もある。それは、人それぞれだから一向に構わないが、やはり量産しようとすると粗くなり、綿密に書こうとすると激減していろいろ支障を来たすといった按配はあるかもしれない。

 著者の時代小説は初めて読むが、この作品の場合、まあ有り得ない設定で颯爽と事件を解決する訳だから「痛快時代小説」であり「肩の凝らない楽な読み物」でもある。小説は、今見てきたかのごとく書くのが著者の力量であり、それが真実かどうかは別の話、ノンフィクション、ドキュメントを書くならそれはそれである。

 ただ、今回の「般若同心と変化小僧」は明らかに時代考証よりも「痛快時代小説」としての位置づけで書かれているように思う。主人公 柚木源九郎、そして仙太郎(永仙)との関係は典型的。今回の「つむじ風」は「つむじ風の弥蔵」をお頭にした20人ほどの押し込み強盗集団との戦い。上毛、榛名山麓の村から江戸に出てきた「あさがお売りの作次」の行動が話しを盛り上げる。結果は当然のことながら主人公側が勝つに決まっている、が、ただスンナリとは終わらない。この辺のカラクリ、展開、盛り上がりを楽しみながら読むのが本作品の正しい読み方であると思う。

 それにしてもこの作品には変化小僧、木鼠小僧、天魔小僧などいろいろな「小僧」が出てくる。著者は「~小僧」というのが基本的に好きなようで、何かしら憧憬、固執があるに違いない。





「老い」の作法

2016年09月09日 21時59分05秒 | Review

―100歳まで笑って生きる67のヒント―
渋谷昌三/成美文庫

 2011年6月20日初版。「~の作法」、「~の流儀」などというタイトルは今時の流行りか、それはともかく、本書は心理学を通して「老後の不安から開放される具体的な行動、方法」を解説する。いわゆる「解説本」なのだが、通常の物事に対する解説本とはちょっと異なる。なにせ「老い」に関することなのだから、一筋縄ではいかない。誰しも歩む道とはいえ、思わず暗くなってしまうのは止む無しか。そこを何とかしようというのが本書と思ってもよいかもしれない。

 結論として、「好き勝手に生きて楽しむ」、これが老いの作法であり、「今を受け入れて楽しく生きること」これが老いの作法の真髄なのだという。「好き勝手に生きる」というのは、いささか乱暴な言い方だが、他に適切な言い方が見当たらない。

要約すると、
 老いを楽しむ原動力は行動する(一歩踏み出す)ことである。一歩踏み出し、行動することですべてが始まり、孤独が消えてゆく。行動が老いの幸せを作る。思いついたらやってみる。無理をせず思うがままに楽しく生きる。好きなことに無心になり、日々の変化に敏感な感受性を持つことである。そうやって自分に出来ることを積み重ねてゆくことが、老いの「作法」なのだと。

 人は、長所より短所がめだち、目に付きやすい。そして出来ることより出来ない原因を探したがるものなのだという。その上で、遠藤順子さんの言葉は本当によく判るような気がする。
「私は人のために手を差し出さないで、寂しいと言っていないか」

 普段読んでいる小説やミステリーのように面白い訳ではないのだが、各方面の先人達がすでに残してくれた名言を「老い」というテーマに沿ってまとめてくれたのが本書である。勿論、心理学的分析も説得力があるが、もっと身近に迫った生活習慣の問題でもあるように思う。いくつになっても、気持ちの切替というのは大事なことなんだね。




半十郎影始末

2016年09月04日 18時01分28秒 | Review

―面影橋悲愁―
浅黄 斑/コミック時代文庫

 2014年8月25日初版。著者の作品は初めて読む。何となくコミカルな雰囲気があり、半分期待しながら読んでみた。何とコミカルというには程遠く、大真面目な時代小説であった。主人公都築半十郎は町方与力の兄を持つ放蕩の弟で「ゴロマキ半十郎」と言われ、同時に最近は麒麟児とも噂されているらしい。この設定はよくあるパターン。元々江戸時代の次男、三男は冷や飯食いとか言われ、何とか良い養子先を探すというのが一般的な人生だったようだから、「放蕩」や「麒麟児」もありえないことではない。

 現代風に言えば、これは内田康夫の浅見光彦とよく似ている。兄、陽一郎と愚弟光彦の関係だ。光彦に放蕩は無いが、兄との協力関係は全く同じである。光彦に同じく、でしゃばらず、驕ることも自慢することもなく任せるところは任して、事件の解決(謎解き)だけを楽しむような所がある。もっとも、半十郎は竹中道場と喧嘩で鍛えた起倒流の使い手だから腕っ節も強い。そこは、優男の光彦とは大いに異なるのだが。まさか「浅見光彦シリーズ」を参考にしたという訳ではないだろうが、こちらもシリーズ化されて「ごろまき半十郎―八丁堀双紙―」「半十郎影始末―麒麟児―」に次ぐ只今3冊目か、主人公は17歳、まだまだ続く予感に満ちている。まあ、いってみれば「肩の凝らない痛快時代小説」である。

 著者の名前「浅黄 斑」は蝶の名前「浅葱斑=アサギマダラ」から得たらしいが、調べてみると比較的大型のちょっと派手な蝶で、あまり人を恐れない。フワフワゆったり飛ぶ割には、北海道函館あたりから九州、沖縄どころか台湾、香港まで飛んでいくというなかなかの兵なのだとか。フワフワとゆったり世間を渡り、実は超遠距離飛行をこなすという能力も隠し持っている・・・そんな意味合いでしょうか。