つむじ風

世の中のこと、あれこれ。
見たこと、聞いたこと、思ったこと。

ドラマの本質

2012年07月29日 12時18分24秒 | Weblog

 小説でも映画でも、或いは創作でも実話でも「ドラマ/Drama」というものがある。ドラマであるためには、恐れ、怒り、悲しみ、喜びといった結果があるだけではドラマにならない。結果を生成するための過程が重要な役割を担う。いや、おそらく過程そのものが重要なのであって、結果はほぼどうでもよいことなのかもしれない。

 人が感動する「過程」とは、いったいどんなものなのだろう。「巨人の星」に代表される「スポ根」ものか、はたまた「おしん」のような「忍耐と頑張り」の人生か。それも確かにドラマには違いない。しかし、誰もが人生にそんな「過程」を持つとは限らない。平凡な日々時計のように繰り返す日常の中にドラマは無いのだろうか。人は自分の人生の中にドラマが無いとしたら生きた心地がしないものなのか。

 逆に波瀾万丈の人生であれば、人はそれで満足できるものなのだろうか。それとも波風立たぬ平穏無事な人生であれば人は満足できるのか。人は皆、自分や身近な人達の無病息災、平穏無事を祈る。間違っても波瀾の人生を期待したり要求したりはしない。しかし、他人の波瀾万丈には興味がある。熱狂し、感嘆し、涙まで流してあこがれる。

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はるがいったら

2012年07月22日 21時30分34秒 | Review

 飛鳥井 千砂/集英社文庫
 著者が26歳位の時の作品らしい。そもそも1979年生まれなので現在33歳というから若い。これからも作家業をやっていくのだとしたら、いったいどんな作品が出て来ることやら、という秘かな楽しみも無いではない。そんな気を起こさせる。

 タイトルの「はるがいったら」って??。読み進むにつれて意味が判る。確かにそれは「ハルが逝ったら」という意味だった。ちなみに「ハル」は犬の名前だ。動物を飼い、そして最後まで看取ったことのある方であれば、きっと丹念に描かれたその情景がリアルに迫って来るのかも知れない。

 しかし、サスペンスでもなく小説でもないようなこのサラリとした感覚は、今の若者特有の感覚なのか。本人の意図とは関係なく少なからず時代を反映した作品なのかもしれない。ネット社会特有の軽さというか、流れというか、言葉ではなかなか言い表すことが難しい感覚が一貫して作品を支配している。この感覚は「すいかの匂い」、「ぼくと、ぼくらの夏」、「恋は肉色」にも似ているような気もするが、ちょっと違う。妙に爽やかな空気に満ちているのだ。それは、著者がまだ充分若くて、人生の年輪がまだまだ少ないことが起因しているのかも知れない。

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われ弱ければ

2012年07月19日 11時58分36秒 | Review

 三浦 綾子/小学館文庫
 著者の作品は、これが2つ目となるだろうか。内容は「矢嶋楫子伝」である。と、言ってもキリスト教の信徒でもなく、教育関係に携わるものでもなければ名前すら知るよしもない。おそらく知っている人は少ないのではないだろうかと思う。この「矢嶋楫子伝」によれば、早い話が「明治の女傑」の話しということだ。あらゆるものが変遷する日本のパラダイムシフトと言って良いこの時期、宗教面で、或いは教育面で時代を担った一人の女性の話である。著者自身洗礼を受けたキリスト教信者なので、日本におけるキリスト教文化というものを歴史的に解釈しようという試みの一つなのかも知れない。

 興味深く読んだのは、キリスト教のことよりも、当時(江戸時代末期から明治)の日本のありようだ。庶民の暮らしはもとより、社会状況、風習、習慣と言った諸々の日常について、時代小説やドラマと違う生身の生活が描かれている点だった。著者がその辺をどのように意識したかどうかは別にして、「美しき日本」とか「日本らしさ」とか言う場合、多くは造形的な美、或いは理想的な側面を指しているが、実は「憚られ、忌避され、目を覆いたくなるようなありのままの姿」こそ本来の日本らしさなのではないだろうか、と思えてくる。

 何も、自虐的に負の側面だけを強調することもないが、少なくとも、最初からそのような側面を無かったことにして都合の良い部分だけをもって、それを正味とするのは、あまりにも勝手な解釈というより他ないだろう。何処ぞの政治家(本当に政治家かどうかは不明?)のように。

 著者が言うように、これは伝記でも無ければ評伝でもない。勿論、小説でもサスペンスでもない。なんとも不思議な仕上がりになっているのだが、「矢嶋楫子」という人を伝えるという意味では、目的は達成されたものと思われる。しかし、その目的以上に「人は常に変わる」ものだということがよく判る。目的、目標を持って変化するのか、周りに押し流されて変化するのか、そんな違いもあるけれど、人は良くも悪くも時間(運命)という抗しきれない悠久の流れに打ち曝(さら)されて生きていかねばならない、ということか。

 著者は1999年10月12日、77歳で亡くなっている。この文庫本の初版が1999年1月1日発行ということだから、これは最後の作品ということになるのだろうか。

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安全神話崩壊

2012年07月12日 18時38分05秒 | Weblog

 原発について、そのリスクがあまりにも強大で、なかなか説得力のある説明が難しいのだけれど、その危険性は、現状ではどんなに「安全性」を強調してもらっても打ち消すことができない。どんな理由があったとしても、理屈抜きに(ほぼ)本能的に「危険」を感じてしまうのは、取り越し苦労というものか、それとも無知なるが故の単なる恐れなのか。

 例えば、「官僚組織の隠蔽体質」というものがある。311事故直後、アメリカが素早く航空機を使って線量を実測、「汚染地図」を作成して日本政府へ提供した。しかし、何故かこの「汚染地図」は公表もされず、以降の住民避難にも生かされなかった。
 しかし、実はこの地図は「保安院」と「文科省」に保管されていた。文科省・科学技術学術政策局は地図の存在を認めたが、原発から放射性物質が飛び散り、対応には一刻を争うときであるにも関わらず、「精度不明」などの理由で何等検討することもなく捨て置いたという。一方の保安院では「緊急時対応センター・放射線班」に地図は届いていた。しかし、同室にある「住民安全班」には知らせなかった。理由は「放射線班」は文科省からの職員が中心なので(そこは文科省から指示があるだろう)という判断だ。これに対し文科省は「保安院が公表すると思っていた」と言うのである。何に対する緊急対応なのか、放射線班や住民安全班は、一体何をする所なのだろう。汚染の実態を知らず、右往左往した住民達のことなど全く眼中にないらしい。             =参考:2012/6/27記者有論=

 同室の部署であるにも関わらず、この縦割り意識、無責任さ、隠蔽体質は鉄壁で今以て揺るがない。これは小説やフィクションの話しではなく、歴とした現代版の実録だ。新組織・原子力規制庁の職員は「ノーリターン・ルール」と言って、出身官庁には戻れない(という約束)。しかし、この鉄壁の「縦割り意識、無責任さ、自己中心的隠蔽体質」は、そう簡単には崩れないだろう。この構図は、70年も昔の(1941年)ワシントンDCは日本大使館の内情(ワシントン封印工作で語られた内情)と何も変わらない。日本の官僚組織の実態を見事に現している。

 佐々木 譲氏も、「絶対安全、の虚構」について語っている。

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ワシントン封印工作

2012年07月12日 01時58分16秒 | Review

 佐々木 譲/新潮文庫
 ノンフィクションとフィクションの融合した641ページの大作。舞台はワシントンDCの日本大使館。時間軸としては、先の大戦の開戦前夜である。時の日本の政府、軍、或いは外務省の行動をノンフィクションで骨格とし、血肉をフィクションのミッキー、ミミ、トラビスなどの行動で埋める。ワシントンDCが舞台なのだが、もっとスケールの大きい迫力ある壮大なイメージを作りだし、この融合が全く違和感のない物語になっている。

 ノンフィクションであるだけに、歴史的に本当に「奇」なのだが、作品を書く前に著者がどのくらい資料を探し、内容を吟味し、こだわったかは本当に気の遠くなるような作業だったに違いない。今だに発掘される新しい事実がある。それくらいに奇妙な「開戦前夜」だったのだから、表面だけではとても理解し得ないものがある。

 面と向かって話せば判ることも、或いは個人的なつながりには何等問題がなくても、太平洋という厚い壁の向こう側とこちら側では、相手が見えないだけに信頼は揺らいでしまう。読み終えて、これは「理解し難い」2つの文化の衝突なのだなと思わずにはいられなかった。2つの背景(文化)から見る理解の相違を見事に解説しているようにも見える。

 アメリカにおける滑稽なまでの白人至上主義、階級社会、差別社会、そして自由といったものが遠慮無く書き込まれている。時にはワシントンDCの街の風景すら思い浮かべることが出来るくらいに。まるで米国人の原作者が他にいて、実は彼の作品の翻訳なのではと思えるほどうまく出来ているのである。

 それにしても、トラビスの奥さんは怖いな!

 著者は、サスペンス、バイクもの、ホラーもの、戦争もの、歴史・時代もの、現代(警察)ものと、かなり幅広い範囲で小説を書いている。29歳で小説家としてデビュー。器用というか、多趣味というか作品もたくさんあって、受賞作も多い。多くの作品がTVドラマ化されているらしい。「ワシントン封印工作」は1997年の作。高卒の作家として知られているが、今は東京農業大学の客員教授をしているらしい。

 Web Siteはこちら

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大飯原発再起動

2012年07月08日 15時34分49秒 | Weblog

大飯原発(3号機)再起動のSCDL
7月1日 大飯原発(3号機)再起動
7月2日 臨界到達
7月4日 負荷(タービン)バランス調整完了
7月5日 負荷接続、送電開始(出力40%)
7月8日 出力100% 
 この後、7月18日、大飯原発(4号機)が再起動を予定しているという。 

 同じ頃(7月5日)、国会事故調査委員会(黒川清委員長)は、東京電力福島第1原発事故の最終報告書を政府に提出した。事故の最終報告であり、報告書の中で指摘された事項について直ちに対策を構築しなければならないはずなのに、一方では「報告書の指摘」など捨て置き、既に勝手に再起動している。このけじめのなさ、しまりのなさ、矛盾を飲み込む国民性は何とも日本的な現象としか言いようがない。(どうして、こうもお馬鹿さんなのかと)

 また報告書は、事故の根本原因が日本人に染みついた慣習や文化にあると批判。権威を疑問視しない、反射的な従順性、集団主義、島国的閉鎖性などを挙げ、「事故はメード・イン・ジャパンだったことを痛切に認めなければいけない」としている。

 この報告書を受けて、イギリスのガーディアン紙は、「重大な報告書と文化を混同することは混乱したメッセージを世界に与える」と批判、タイムズ紙は「過ちは日本が国全体で起こしたものではなく、個人が責任を負い、彼らの不作為が罰せられるべきものだ。集団で責任を負う文化では問題を乗り越えることはできない」とコメントしたそうな。この点においては全く同感である。

 福島第1原発事故の刑事責任
 福島地検や警察は何故、東京電力を強制捜査しないのか。これだけの事故、膨大な被害をもたらした事業所に対して、刑事責任の有無を含め、キチンと捜査することは地検や警察の責務ではないのか。非力なもの弱いものは取り締まるが、強大な企業や国策権力には最初から手も出さない。このように不作為を決め込む地検や警察もまた「無責任体質」そのものなのか。何の証拠も無いのに調書を作文して罪作りをしてみたり、ケチな交通違反などの取締りには(たとえ計測器の使い方を知らなくても)熱心なのは信じがたい。
東電歴代役員、政府歴代与党(自民党)、経済産業省、文部科学省の高級官僚、原子力安全保安院の各責任者は何の責任もないのか。今更ながら「開いた口が塞がらない」とはこのことだ。

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あの頃の誰か

2012年07月05日 00時26分18秒 | Review

 東野 圭吾/光文社文庫
 東野作品は初めて読むが、どの短編も慣れた文体である。あまり深刻にならず、あまり追い詰めることもなく、一定の軽快さを持って物語るスタイルは既に完成されたものと思われる。これは8編の短編小説を収めている一冊で、ずいぶん昔の作品もあるようだが、古さはそれほど感じない。

 気負うこともなく、かといって滅入ることもない、逆に爽快ささえ感じられるこれらのサスペンスは確かに今時の感覚なのかもしれない。重い読み物、ヘヴィな或いはハードな読み物の真逆をゆく、軽くてライトで或いはソフトなサスペンスなのだ。TV映画化も盛んに行われているようで人気があるらしい。

 しかし、嫌いじゃないけど何かしら物足りないと思うのは個人的な嗜好の問題だけではないように思うのだが、皆様のお考えはいかがなものか。最近の東野作品は、社会性に重きを置いたものが多くなってきたらしい。それにしてもこの狭い日本で、何と多くの方々がサスペンスに挑戦しておられることか、あらためて驚嘆いたしましたね。


追記(2012/08/11)
 「東野作品は初めて読む」などと書いてしまったが、Blog読者から「赤い指」/講談社文庫 を読んでいたことをご指摘いただいた。丁度1年前のことになる。そうか、あれが東野作品だったのか。フィクション1で一言、「土曜ワイド劇場」の原作のような、などと評してしまったが、今から思えば確かにあの時の読後感はこの作品でも変わっていない。どうやらこれが東野作品のエスプリらしい。

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慟哭

2012年07月01日 17時13分31秒 | Review

 貫井 徳郎/創元推理文庫
 1968年の東京は渋谷区生まれ。「慟哭」は著者のデビュー作らしい。
「読後感が非常に暗く重い」という作風で知られる作家なのだそうな。読んでみたが、それほど「読後感が非常に暗く重い」とは思わなかった。小説ではないが「恋は肉色」の方がはるかに気が滅入る。しかし、デビュー作としてはかなり完成度が高いように思う。400ページを越える大作だ。その分だけ新人の初々しさが感じられないが、それはそれでやむを得ないことか。

 「彼」の行動と警察の捜査1課長「佐伯警視」の行動を2つの軸として物語は進んでゆく。このような場合、2つの軸はいずれ交差するものとは思ったが、それがなかなか交差しない。まるで別々の2冊の本を同時に読んでいる感覚である。「彼」が「松本」という名であることは92ページになって初めて明かされる。それも(読み飛ばしてしまうような流れの中で)何気なく。大方終わりの方になって、この話しはどうなるのだろうと心配しながら読んでいると、唐突に「もう、おやめなさい。佐伯さん」という岡本刑事の言葉だった。おっと、何だこれは!。ここで2つの軸は交差した。402ページで「佐伯警視」は「妻とは離婚しましたから、今は松本です」と種明かしするのである。あれれ!!。

 最近は大抵の作家がWeb Pageを持っている。
 URL http://www.hi-ho.ne.jp/nukui/

とてもシンプルなWeb Pageで無駄なものが何もない。気に入った。

・・・・女房のことは書いてないな。

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