―復活の希望に生きて―
日永 康 /日永聖書集会編
2020年6月初版。キリスト教には多くの諸派があり、その核心がどこにあるのか定かではない。教義の元となるのも新約、旧約、その他、何かとあるらしい。そんな中で異彩を放つのが「無教会主義」である。祖は「内村鑑三」である。内村は無教会主義の教祖とでも言うべき存在である。
もともと無教会は聖書を由一の拠り所とし、聖書の下に平等な平信徒の集団であるから、教祖などと言ったら叱られるかもしれない。著者日永 康さんは、その内村鑑三の孫にあたる方だが、2019年10月に亡くなった。本書は日永さんがあちこちで行った講話をまとめたものである。
そもそも無教会はその主義から言って「聖書研究会」のような組織に見える。階級的な組織がないものだから、その辺は運営がなかなか難しいらしい。「聖書の言葉をいかに汲み取るか」ということを研究し、発表する他に、自らの体験の中に聖書の教えを見出すこともしているらしい。
・新しい創造
・内村鑑三におけるもう一つの無
無抵抗主義、非戦論との関係、個人の立場、国家の立場
・和解のすすめ―ピレモンの手紙―
主人と奴隷の関係、賠償の問題、敵対の関係、和解への仲介
・基督信徒・内村鑑三
その出自と生涯、「心の法則」「罪の法則」、「罪人の首」
強烈な二律背反の罪の意識、そして福音
・無教会の原点
「最後の審判」と「終末論」「キリスト再臨」
「備える人」・・裁かれることを自覚して務めて謙虚に
「備えの無い人」・・しばしば傲慢で人を裁くことを喜ぶ
・神の子たるキリスト者
神の子とキリスト教道徳
・キリストの復活と信者の復活
復活、再臨、昇天
無教会主義:信仰義認論
私自身は何の宗派にも属さず、信仰には全く縁のない人間だが、指摘の中には全く反論の余地がないものもある。もっともだと思うところもある。
「和解のすすめ」では、日本と韓国の関係を想像した。もしかしたらパウロの立場はアメリカかもしれないが、それは高望みというものだろうか。現在のアメリカはそんな余裕はなく、逆に完全に「自己中心主義」に陥っている。かと言って、中国やロシアがその役に適するとはとても思えない。(人と神との間の平和は仲介者キリストがもたらしたものであって)人は何もしていない(出来ていない)。神の側から発せられた一方的かつ無条件の和解だ、という。パウロのような仲介者が居なければ、和解は永遠に望めないということか。
また「人の義とされるのは(法律の行いによるものでなく)信仰による」ものだと言われれば、現実を見て、確かにそうかもしれないと思う。人は未だに普遍的な倫理の確立に至っていない。例え「終末」において、「ヤギの群れ」に選別されたとしても、人の倫理概念が信仰に依らねばならないというのは悲しいことだと思う。「キリスト・イエスを信じる信仰」であり、「キリストあっての信仰」だからというのだが。