つむじ風

世の中のこと、あれこれ。
見たこと、聞いたこと、思ったこと。

高千穂伝説殺人事件

2015年04月28日 00時09分39秒 | Review

 内田康夫/角川文庫

 1987年11月10日初版、1997年10月30日第51刷。今回の舞台はまさしく伝説の地、九州は宮崎の高千穂。なんと現実の住所に「天の岩戸」だの「天の香山」があるのだとか。伝説と現実が直結しているような場所らしい。実際には北と南で本家争いをしているらしいが、とにかくこの辺は現実に古墳の宝庫なのだそうな。しかし、神話からイメージできるような素朴な人の暮らしがあるのかと思えば、とんでもない。このような土地柄だからという訳でもなく、人間の欲望には際限がないらしい。

 ここでも未だ戦争の影が尾を引く。はるか昔に忘れてしまったはずの過去が忽然と現代に蘇る、まさしくミステリー。それにしても天孫降臨、神武建国など伝説ならではの叙情的神話が、狂信的神道によってたちまちにして悠久の大義、護国の鬼、大東亜共栄圏、五族共和、王道楽土、、、となるのだから始末が悪い。結局、人は何かしら一元的根拠、拠り所を希求して止まない、これ無くしては生きられないものなのだろうか。ついついそんなことを考えてしまう。

 今回の浅見さんのお供は本沢千恵子(バイオリニスト)だが、せっかくお見合いも整ったというのに、例によってなかなか二人の仲は進まない。浅見さんは歳を取らないからいいようなものの、いつもドサクサに紛れてうやむやになってしまうが、今回もどうやら相変わらず御多分に漏れないようだ。

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耳なし芳一からの手紙

2015年04月26日 22時56分24秒 | Review

 内田康夫/徳間文庫

 どんな話しの展開になるのか期待しながら読む。何といってもお題からしてミステリアス。今回の浅見さんのお相手は丸池組の組長の一人娘・果奈。なるほどねぇ、こんな話しの展開があったか。確かに「何か因縁じみて思える」が、平家の六将士を結びつけるのは、ちょっと無理があったかも。ただ、「7」という数字の面白さは理解できる。

 小泉八雲流の怪談的オドロオドロシイ物語が展開するのかと思ったが、そこはすっかり裏切られた。考えてみれば、もっともで、浅見光彦は「怪談」話ではない。もっと科学的証拠主義に基づくリアリティあふれる知的推理展開が主要な話しなのだ。

 「旅と歴史」ファンとしては、今回の旅先は下関市の赤間神社(龍宮殿)、壇ノ浦、平家七盛塚、芳一堂、火の山など。あたかも現場を旅しているような感覚で読み進んだ。そうなると、是非にも行ってみたくなるのが人情というもの。

 「旅と歴史」はともかく、戦争に関わった過去を持つ特殊部隊の実態、極限の状況だからこそ「人間のエゴ丸出し」がある。生き延びて尚その罪を問うもの、問われるもの。浅見さんは警察ではないから、事件の真相追及はあっても犯人を逮捕したり、告発したりはしない。大方の事件は悲しき人間の性、弱き人間の成せる業である。そしてその真実が見えた時点で話しは完結する。

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おとこの秘図(上)

2015年04月25日 09時24分46秒 | Review

 池波正太郎/新潮文庫

 1983年9月25日初版、1999年1月20日34刷。主人公は徳山権十郎、徳山家の次男で側妾の子という設定である。それがまた実の父親にえらく嫌われている。長男が亡くなったために、権十郎が家督を継ぐにあたっても「殺してでも継がせない」と画策するのが実の父親なのである。元来家督など興味の無い権十郎は、それならそれでと、無断で江戸を出奔してしまった。権十郎の幼年時代の江戸での暮らし、出奔してからの道中、京都に着いてからの暮らしの様子までが「上」に収められている。例によって、これからというところで終わっている。その辺は、時代小説の大家、ぬかりは無い。

 主人公の権十郎は剣術道場にまじめに通った方であるが、特段の剣客というわけではない。しかし、長い稽古の甲斐あって、それなりの使い手である。どうも、先に読んだ「人斬り半次郎」とダブってしまうのだが、イメージとしては似ているところがある。これは著者が描く(理想の)ヒーローなのかもしれない。特に、女性に対するイメージは著者が描く(理想の)女性像、思い入れではあるまいか。半次郎の「尼僧」、権十郎の「お梶」は同じである。

 池波正太郎の時代小説には1963年の作品も20年後の1983年の作品も、決め台詞というものがある。「人斬り半次郎」でそれを読んだとき、結構痛快だった。これがこの小説(人斬り半次郎)に限るものなのか、そうではないのか判らなかったが、はたして20年後の作品(おとこの秘図)でも、それは健在であった。「・・・。」、「このことであった。」このように一貫して決め台詞を使うというのは、極めて珍しいように思う。読者がその気になって没頭し切った隙に、この台詞。なに、所詮は小説なのだよ、と言われているような遊び心である。「このことであった」は池波正太郎(時代小説)のトレードマークか。

 続けて「下」を読みたいところだが、それがなかなか見つからない。この後の展開を楽しみにして先ずは何かに付けて本探しをするしかあるまい。残念!

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オヤジの細道

2015年04月24日 16時41分05秒 | Review

 重松 清/講談社文庫

 2008年1月16日初版。「2005年~2007年に夕刊フジに掲載されたものから選抜」ということで、重松さんの著書は、数は少ないが既読の「かっぽん屋」「ニッポンの単身赴任」でおよそ見当が付く。
 独自の週刊誌的スタイルで肩の凝らない軽快な筆運びは健在だ。本格的な小説は読んだことはないが、やはり同じノリで書かれているのだろうか。意味慎であり、ノスタルジックで悲しくも有り、哀れみさえあふれている。真面目に働いているサラリーマンの苦笑い、或いは哀愁といったようなものである。

 「オヤジの細道」はどんな細道かと思ったが、そこは松尾芭蕉の「奥の細道」に引っ掛けたオヤジギャグだった。たしかに人生の旅には違いないのだが。
 誰しもいずれは通る細道である。モノ書きだけに「言葉」の持つニュアンスには異常なくらい敏感である。そうして見ると、確かに抗しがたい時代の流れが有り、ようやくもってここまで来たけれども自分の立ち位置が、いやがうえにも情けなく、ツラく、イタい。「まったくもって因果な細道」であることに気付かされる。かと言って毒にも薬にもならないが、気持ち心が軽くなる効果あり。

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人斬り半次郎

2015年04月10日 21時45分33秒 | Review

 幕末編
 池波正太郎/新潮社文庫

 1999年8月1日初版、但し作品自体は1963年に発表されているものなので52年も昔の作品ということになる。しかし、読んでみてそれほど古さは感じさせない。実在の人物を多少の脚色はあるかもしれないが、あまり暗くならないように「人斬り半次郎」と呼ばれた一人の人間を、さも今見てきたかのように描いているのが面白い。いわゆる伝記モノと呼ばれる時代小説の代表のような作品である。
 若き風雲児、中村半次郎の前半生が描かれているのは「幕末編」、600p超の長編である。明治になってからの半次郎の半生は「賊将編」ということで続きが書かれているようだ。

 時代の変遷と言ってしまえば一言で足りてしまうが、幕府の崩壊を我が目で見て、或いは新しい時代の到来を見て、そのスペクタクルに驚かないものは居ないだろう。幕末のパラダイムシフトの瞬間はこんな風にやってきたのだと感じ取れる作品である。緊張感とリアリティが溢れる時代小説「人斬り半次郎」であった。

 今更ながらであるが、昔の日本人、特に「武士」は何をするにも命懸け、というより日々常々子供の時から命の遣り取りに慣れているというか、「命懸け」にあまりにも慣れているようで、考えてみれば随分恐ろしい世界であったように思う。人斬り包丁を持ち歩く輩がそこ等中に居た訳であるから、人々の緊張感たるや休む暇も無かったに違いない。また、このような世界だからこそ、人並外れた集中力が養われたとしても何も不思議ではないのかも知れない。

 「人斬り半次郎」を読んでいて津本 陽さんの「焼刃のにおい」を思い出す。主人公「鶴立長右衛門」は政府要人になった訳ではないが、同じ時代背景の中で柳剛流の達人として活躍している。どこかで半次郎の顔をみたことがあるのかもしれない。そんなことを思うと楽しくなるのは私だけだろうか。

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貴賓室の怪人

2015年04月09日 11時43分45秒 | Review

 飛鳥編 内田康夫/角川文庫

 飛鳥編なんていうことだから「旅と歴史」からすると古墳の飛鳥時代に関係のある話しの背景かと期待する。ところが本を開いてみると飛鳥デッキプランなるものが?、何で船が関係あるの?と。ここでハタと思い出した。数年前に横浜の桟橋で見かけた船は確か「飛鳥」だったような。そうか、古墳ではなくてこの船中が舞台の話しなのだと納得する。そんなに有名な船ならば、もっと格好よく撮っておけばよかったと反省しきり。大きな船と言ったらクイーンエリザベス号と氷川丸しか知らないものだから、、、。この時(2012/11/02)の船は「飛鳥Ⅱ」でした。

(CASIO EX-P700で撮影)

 さて、話しはいきなり貧乏な浅見さんが豪華客船「飛鳥」のクルージングを取材するということでスターとする。勿論、費用面は影のスポンサーが払ってくれるので心配することはない。しかし、そんなことで取材費が出るはずも無く、そこには何かしら魂胆が。浅見さんが飛鳥に乗船するとすぐに「貴賓室の怪人に気をつけろ」という伝言が届く。
 ところが、このメッセージは最後まで解決することなく終わってしまう。世界一周の船旅も始まったばかり、理由は「続編」でということらしい。今まで読んだ「旅と歴史」の旅情ミステリーとはちょっと違った背景で描かれている。この手の作品はトラベルミステリーということになるようで、豪華な船旅気分満載であることは確かだが、「旅と歴史」を期待する読者にとってはちょっと当てが外れる。 それにしても、登場人物の多いこと。この辺は内田さんも苦労したに違いない。

 当初(13冊目まで)旅情ミステリーを書いてきたが、その後コロッと作風が変わる。本人曰く、これもまた作家自身の一面なのだとか。つまり、作品は確かに作家の一面を表出するが、それが作家自身の全てを表している訳ではない。もっと言えば、出来上がった作品は(作家と無縁とまでは言わないが)「確固たる自己主張」を始める。作家とは刹那的な関係はあったかもしれないが、完成と同時に独立した「個」になってしまう。作家は生みの親であることは確かだが、二十歳になった子供が親権を離れるように、作品もまた(作家の人格に関係なく)一人歩きしてしまうのかもしれない。

 もし、作家が過去の作品にあまりにも拘るとしたら、確かに新しい作風は望めない。それは親馬鹿のようなものか。読者は作品に魅力を感じることは確かだが、しかし、そのまま作家の人格の魅力につながるわけではないことを承知しておかなければならないだろう。



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