つむじ風

世の中のこと、あれこれ。
見たこと、聞いたこと、思ったこと。

日本美の再発見

2022年02月18日 14時49分39秒 | Review

ブルーノ・タウト/篠田英雄訳/岩波新書

 1939年6月28日初版、1964年10月10日第22刷。1933年来日、1934年から1935年高崎にて指導、1936年イスタンブールへ去るまでのたった3年間のことであるが、建築物以外にも、富山や新潟・佐渡、秋田、青森、仙台の旅行では、第二次大戦前の昭和初期の日本の実情を実によく著わしているように思う。野山、海辺の風景、人々の暮らし、そんな中に見え隠れする日本文化の流れを見出した著者の文化に対する見識、建築物に対する見識には鋭いものがある。

 伊勢神宮や桂離宮に、日本建築の源泉を見たのは、やはり第三者(外国人)だったからなのだろうか。「建築の聖詞」とまで言われても、当の日本人はすでにその価値を見失い、西洋の模倣に懸命に励んでいるようだ。改めて指摘されて、その形容しがたい価値に気付くのである。

 申し訳ないが、桂離宮も修学院離宮も見たことはない。伊勢神宮や京都御所は見たことは見たが、「見た」というより、「通り過ぎた」が正しかろうと思う。普段から雑多な「いかもの」の中にどっぷり漬かって暮らしている我々にとって、改めて外からの客観的な目線で、その価値が何処にあり、いかなるものかを教えてくれる一冊であるように思う。また、87年も前にこのような見識を持って日本文化を眺めた著者のような人間が居たことに驚いてしまう。伊勢神宮はじめ桂離宮、京都御所、修学院離宮はいずれも戦災を免れた。今更ながら「大切にしなければ」と思えてくる。

 著者が日本で主に滞在した高崎の少林山達磨寺・洗心亭は今も現存するようで、その間取りや周囲の景観、環境がまた実に素晴らしい。御所や離宮はどうにもならないが、叶うことなら洗心亭のような家に住みたいものだと思った。



モモ

2022年02月12日 15時18分51秒 | Review

ミヒャエル・エンデ/大島かおり訳/岩波少年文庫

 2005年6月16日初版、2021年11月5日第34刷。これも何かの紹介で、いつか読みたいと思っていた本の一冊である。何と「岩波少年文庫」ということで、児童文学に類するものだとは思わなかったが、ここで投げ出す訳にもいかず、シブシブ読み始めたのが本当のところ。

 最初は、どうということもない話から始まるが、83pあたりから「灰色の男たち」が登場する。どうやらここからが話の本筋らしい。「灰色の男たち」は人間から時間を盗む時間泥棒である。
 この辺は、現代社会に対する批判的な部分だと思われるが、この「時間」の扱いが、先日読んだ「時と永遠」と重なって、とても興味深い部分だった。古くからある人間にとっての「時間性」の問題、認識論の問題だからである。「時間性」の問題は「モモ」の中でもほぼ同様の認識であったように思うが、その先が異なる。

「モモ」は「永遠性、不死性」を求めている訳ではない。ただ「人間らしい生活」を取り戻したいだけである。「灰色の男たち」は「時間性」の破壊的な、壊滅的な側面なのだが、そこに「永遠」と称して、宗教的な飛躍を求めないところが現代的なのだと思う。
 しかし、「時間の国」やその「境界」は登場する。カメの「カシオペイア」はその案内人である。そして時間を司る「マイスター・ホラ」の助けを借りなければならなかったことは、やはり宗教的飛躍の側面でもあるように思う。「神」ではなく「マイスター」というところは、いかにもドイツ人なのだが。そして、語り口だけは確かに「少年少女向き」なのだが、実際これを読んで現代の「少年少女」はどんな感想を得るのか知りたいものだと思う。

 この作品は1973年の出版だから、もう50年近くも前のことである。「モモ」の話は「過去の話でもあり、将来の話でもある」と言っている通り、無関心、無気力、すべてのものに対する不満が蔓延し、致死的退屈症によって現代人は「灰色の男」になってしまっているのだろうか。そう思うといかにも寒気がしてくるのだが、本当は誰の心の中にも「モモ」は存在する。それを呼び覚ましたいというのが、著者の本音ではなかろうか。





あかね空

2022年02月06日 19時02分01秒 | Review

山本一力/文春文庫

 2004年9月10日初版、2004年10月30日第5刷。著者の作品は「まねき通り十二景」「欅しぐれ」を既読しているが、「あかね空」は最初の長編時代小説ということで、これまたいつか読みたいと思っていた一冊である。宝暦12年からの豆腐屋、親子二代の話である。
 江戸と上方(京)の食文化の違いをうまく使って、その斬新さや困難さを混ぜながら、長屋の人々と共に(1つの文化が)根付くまでの根気の居る命がけの努力である。それだけでなく商売敵や身内の争いが、更にその困難さに輪を掛ける。しかし、腹を割って話してみれば、寛容になれるのが家族である。そんな家族ほど強いものはない。突然亡くなった著者の母への思いと共に作品に込めた思いであろう。

 作品の中で「人さらい」が登場する。いかにもこの時代の話だが、博徒一家の傳蔵親分は、自分が豆腐屋「相州屋」の一人息子(正吉)であったことは、回状や触れ書きから知っていたであろう。この時、当時の事情を知るものは永代寺の賄主事、西周くらいしかいない。「京や」が「平田屋」同様の豆腐屋であったなら、第二幕は違った展開になったと思われる。しかし、思わぬところで自分の親のことが明らかにされ、「恩人」と思っている人に出会ったことで、用意した第二幕の筋書きはちょっと違った方向になったように思う。傳蔵のことがとても気になる部分だった。

 最初に読んだ「まねき通り十二景」は深川の冬木町が舞台だったが、「あかね空」は同じ深川の「蛤町」である。「蛤町」は地図で見ると3か所ほど同名の場所があるが、作品から推して永代寺の南側にある「蛤町」であるらしい。冬木町とはさほど離れていない。この界隈には著者の深い愛着が感じられる。

 俗に作家ほど「陸でもない」人間はいない。或いは「陸でもない」人でなければ成れないのが作家であるなどと言われるが、著者も、それを地で行くような人らしい。しかし、だからこそ書ける作品もあるのではないだろうか。




山小屋の灯

2022年02月04日 14時31分02秒 | Review

小林百合子/ヤマケイ文庫

 2021年2月5日初版。何かの紹介でいつか読みたいと思っていた一冊。早い話が、山のガイド本といったところ。著者は結構飲兵衛で、あちこちの山小屋の主人達と忌憚のない付き合いをしているらしい。薄暗い山小屋の灯の下で、それで「山小屋の灯」なのだ。いつも、カメラマンの野川かさねさんとコンビらしい。この本には文章に負けないくらい野川さんの写真が載っている。よく見掛ける絵葉書風の写真ではなく、山小屋とその生活のリアルなヤツだ。それが文章とよくマッチしていて実に良い。山の写真も多くは雲の中に霞んでいる。これが現実だ。

 訪れたことのない山もあったが、以外にも馴染みのある山も多かった。秩父、尾瀬、大菩薩峠、中央アルプス、富士山等。ただし、50年も昔の話だ。「雲ノ平」の存在がチラホラ聞こえ始めた時代だったように思う。何分写真が多いので、昔を思い出しながらもスイスイと軽快に読み進む。

 深田久弥の「日本百名山」と比較するのはおかしいが、これはこれで現代の「山小屋」にスポットを当てた一冊であることに間違いはない。「山小屋」の現状と経営者の方針を大切にしながら、自然との関わり、山の見方、楽しみ方を教えてくれる。それは50年前も、今も変わらないように思う。普段は「厚かましくてやかましい編集者」なのかもしれないが、その山小屋への思いは確実に伝わってくる。何だかまた行きたくなってしまうのは私だけだろうか。