改めて「信教の自由」について考えてみた。今まで見たこと、聞いたこと、経験したことも含めて、「宗教の本質」「憲法が示す理念」そして「現実」を。
【宗教】
宗教は信じる人のためのものであって、信じない人には何の役にも立たない。むしろそれは目の前に立ち塞がる障害であり、自己を抑制する不自由でさえある。
単に「世界平和」や「心の安寧」、「無病息災」を願うことは宗教ではない。宗教の根幹にあるものは「布教」である。布教だけが宗教を成立させる唯一の手段である。どんな本尊でありどんな教義なのか等ということは、二の次、三の次のことである。
従って、布教の無い宗教の存立というものはあり得ない。
【布教】
以上のような理由から、宗教にとって「布教」というのは避けて通ることの出来ない死活の問題であり、テーマであり、目標となっている。そのための本尊であり教義なのだとも言える。
故に世の中の宗教的な活動は、全て必ず「布教」を伴うものである。
「布教」によって獲得した「信者」は、何の疑いも無く信じるが故に「活動を無償で提供し、高額献金を行い、聖本を購入する」人になる。さらなる「布教」活動もその一環である。
あらゆる宗教団体(組織)はこのような「信者」の有形無形の奉仕によって支えられ、生き延びているのである。まるで「ネズミ講」のような話だが、これが宗教の本質であるとも言えるだろう。
「布教」活動は研究会、サークル活動、バザー等、集会、講演会等あらゆる手段(偽装)を用いて勧誘する。時に拉致、誘拐まがいのことさえもいとわない。一旦信者となれば、生活の中のあらゆる時間と行動を制約し、拘束する。脱退しようとすれば、組織を上げて全力で阻止しようとする。なぜならそれは宗教にとって「死活の生命線」だからである。
精神的な孤独、不安や悩みは誰しも解決したいもの。しかし彼らはそこを突いて入り込んでくる。いかにも「不安や悩み」を解決できる唯一の存在であるかのように語りつつ。そして、振り返って見れば「不安や悩み」は一時的な逃避はあっても、何も解決されていないのだ。それどころか状況は更に悪化し、身動き取れなくなっている自分を見ることになるのである。
【信教の自由】
日本国憲法 第二十条
1.信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。
いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2.何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3.国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
【洗脳】
宗教は一種の「洗脳」だと思う。勿論、信者本人にいくら説明したところで、悲しいかな簡単には納得してもらえない。だからこそ「洗脳」なのである。今更説明するまでもないことだが、日本国憲法は、宗教の「信じる/信じない」自由を保証している。同時に宗教が「布教によって人々を洗脳すること」をも“信教の自由”としてこれを保証している(禁じてはいない)のである。
“信教の自由”は決して「洗脳」などという精神的、心理的状況までは微塵も把握していないし考慮もしていない。ここに見えるのは、個々の人格が既に高い独立性を確立しており、その判断に委ねるという、性善的期待があるだけである。「自由」はあくまでも高尚で、故に厳しく、いかに恐ろしいものであるかが解る条文である。
しかし、そんな完成された人間は何処にも見当たらない。悲しいことに、不完全な人間が「票と支援」欲しさに右往左往し、恣意的な政治活動(あらゆる権益獲得)に邁進奔走するという姿ばかりが見えてしまうのが現実である。
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