つむじ風

世の中のこと、あれこれ。
見たこと、聞いたこと、思ったこと。

明日のことは知らず

2016年02月28日 18時16分37秒 | Review

―髪結い伊三次捕物余話11―
宇江佐真理/文春文庫

 2015年1月10日初版、作品番号54。久々の「伊三次」さんの登場。今回の本のお題は第四章から取っている。相変わらずの乗りで一気読み。読んでいると、ついつい歴とした捕物であることを忘れてしまうのだが、あまり捕物に嵌り込まないことで市井の日常に現実味を持たしている。普通の人々の暮らしという現実味は、複雑に見える現代の生活者のシンプルな現実なのだと思う。伊三次も四十を過ぎて、度々昔を振り返るようになった。そして、人の幸せであることの本質や、自分の人生の在り様、終末の在り様などを考えるようになったようだ。

・あやめ供養          桂庵の母美佐の話し
・赤い花             魚佐の娘おてんの恋
・赤まんまに魚そえて     金沢屋女中おあさの話し
・明日のことは知らず     市井に生きる人々の不安
・やぶ柑子           元家臣海野隼之助の話
・ヘイサラバサラ        元町医者桐山道有の話

 新品で購入した文庫本には「時代小説の名手逝く 追悼 宇江佐真理」という帯が掛っていた。そう、以前から病気の話しはあったが、昨年の十一月始め、いけなくなった。「私は伊三次とともに現れたのだから、伊三次が終わるときは私の終わり」というような話もあった。あと四冊、それで伊三次の余話は終わるらしい。もう、伊三次のそれからを読むことが出来ないと思うと、本当に残念で仕方が無い。

 庭の草木として、やぶ柑子(藪柑子)という植物がお題に使われている。ちょっと調べてみた。
この手の植物は、似たようなものが結構あるようだ。そんな中でも、最も草に近いのが藪柑子で、丈が少し大きくなると千両万両、更に十両、更に南天といった感じである。何れも白や薄紅の花が咲き、赤い実を付けるようだ。

 先日、植物学の権威にお目にかかった。植物は従来「草木」を区別していたが、最近その垣根を無くしたらしい。つまり、草と思えるものも成長すると木になるものが多々あり、この区別が意味を成さなくなったということのようだ。植物は本来、与えられた環境によってその姿形を変えてゆくものなのだという認識である。だからといって、南天から藪柑子まで、同じものということは無いと思うが。


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糸車

2016年02月26日 22時37分51秒 | Review

宇江佐真理/集英社文庫

 2016年1月25日初版、作品番号55。各章にお題がついており、「糸車」は最終章のお題。
松前藩家老の妻、お絹が主人公。江戸藩邸で夫が不慮の死を遂げる。同時に息子(勇馬)も行方知れずとなった。何もかもが納得できないまま、国から江戸へ出てきて宇右衛門店の店子になり、慣れない小間物の行商をしながら、息子(勇馬)を探す日々を送る。

 時に背景、時に状況、いろいろな事件、宇右衛門店の店子生活、行商生活を通してセッセと描く。そして、徐々にお家(藩)の事情が見えてくる。この間、江戸の四季の移り変わり、国もととの比較、人々の暮らしや風情が走馬灯のように流れてゆく。道具立ては確かに江戸時代風なのだが、この人間模様は現代的で生活観があふれ、とてもリアルに思える。以前に小説の話しのネタを、どうやって探すのかという話しを読んだことがあるが、それにしてもこの時代へ無理なく溶け込ますことの上手さは格別という他はない。単に詳しいということだけではなく、市井生活をこれほどリアルに生々しく描くことが、著者の真骨頂だ。何で函館に住んでいる人間に、こんなことが書けるのか不思議でならないのだが。

 作品を読みながら思うことは、外装外観は江戸時代であっても、人々の営み、心情、苦悩は何ら現代人と変わらない。昨日、今日、明日への思いも変わらない。複雑な現代生活から不要なものを取り除いてシンプルな姿にしたものを見ているような気持ちになるのである。小説を通して人間生活の必要不可欠、根源的な大切さに迫るような気がする。何が大事で何を捨てなければならないのか、そのことによって、例え失うものがあったとしても、勇気を持って受け入れねばならないと思わせる。
 決断し選択したことの責任の重さ、否応無しに止まる事の無い時間、迫ってくる時間、全てのものを過去へ過去へと押し流してしまう無常さなどが胸に迫ってくる。

 だからこそ、江戸の何気ない自然描写が心に染みる。人間は何か一生懸命に出来ることを、与えられ夢中になってやっているとき、遣り甲斐をもってやっている時が花であり幸せであり喜びなのだと思う。しかし、誕生から死亡まで、禍福は等量に繰り返されるとすれば、福は禍を乗り越えるための糧なのかもしれないと、著者の作品を読みながら思うのである。著者の作品には、それを涙を流しながらも受け入れる覚悟と、生きることへの執着があり、読者をやさしく力強く押してくれているような気がする。そして、おそらく、著者にとってのつむぎ、糸車は「小説を書くこと」なのだろうと思う。


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まいまいつむろ

2016年02月11日 10時06分32秒 | Review

―うっぽっぽ同心十手裁き―
坂岡 真/徳間文庫

 2010年6月15日初版。久々の時代小説だが著者の作品は初めて読む。著者は時代小説を主に書いているようで、中でも「鬼役シリーズ」が有名らしい。この文庫には特に記載はないが「うっぽっぽ同心十手綴り」というシリーズもあるようだ。「時代考証の詳しい時代小説を書く」作家の一人なのだとか。今回の文庫本に収められた作品は以下三話の連続短編。

1.冥途の鳥  掏りの親子、初音の仙蔵と仙吉、おひろ
2.夜鰹  玄治店立てこもり事件(悪の元締め:森本勇之進)
3.まいまいつむろ  幇間の夢太郎、父の思い

 主人公の周囲の人物はどの章にも登場するが、事件関係者は四季の変化のように自然と入れ替わる。続き物として読みやすい。小説の作りとしては殺陣やミステリー、サスペンスはあるものの、どちらかと言うと勧善懲悪モノ。主人公の臨時廻り同心 長尾勘兵衛(57)の活躍ということになる。主人公はほぼ「水戸黄門」で、助さん格さん役は娘婿の鯉四郎と岡引のスッポンの銀次が担う。一見軽そうで実は軽くない「情に竿さす」展開が辛い。といっても肩が凝るほどではないからご安心を。

 時代小説であるためには、何が必要なのか。時代考証に基づく正確さだけではつまらない。現代風に言うと警察モノのミステリー&サスペンスなのだが、そこに時代小説として目に見えるものだけではない風情、情景といった著者独自の視点が必要なのではないだろうか。

 私が時代小説を読むのは、この現代の東京の空が、はるか江戸の空まで続いていると思うと、何だか妙に懐かしく思えるからである。たぶん、その風情、情景を小説の中に探しているのかもしれない。

 先日読んだ乃南さんは「秋霖」という言葉を使っていたが、今日の坂岡さんは「春霖」という言葉を使っていた。いずれもそれぞれの季節の、しおしおと降る長雨のことだが、現代小説も時代小説も、読み手は結局そのなかに「自分の今」を探しているのかもしれない。



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禁猟区

2016年02月06日 12時39分35秒 | Review

乃南アサ/新潮社

 2010年8月30日初版。著者の作品は前回の「凍える牙」に次ぐ二冊目。今回の作品は四つの短編を収めて単行本にしている。表題の「禁猟区」は収録した短編の最初のタイトルで、八王子のホストクラブの名前。単行本のタイトルとしては何だか安易な気もするが「鑑察」とするにはあまりにも厳しい。

短編集であっても「警視庁本部警務部人事一課 調査担当二係」というのは全話共通。いわゆる「鑑察」という部署で、警察の中の、警察の話しである。被疑者が警官であるだけに、いかにも悲しい。人間の性である。

1.禁猟区    ホストクラブ狂い
2.免疫力    お人よし
3.秋霖     証拠捏造
4.見つめないで ストーカー

 この主人公を考えたとき、勿論各々の作品には主人公が居るわけなのだが、それ以外に「沼尻いくみ」がさり気なく登場する。徐々に登場シーンが多くなり、第四話に至っては完璧な主人公になるという仕組みは、最初からの計画によるものなのだろうか。アクション物が多い警察モノの中でも、著者の作品は一風変わった警察モノ。それにしても、「警務部人事一課 調査担当」は著者にとって何やら馴染み深いところらしい。


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風化水脈

2016年02月01日 11時41分42秒 | Review

―新宿鮫Ⅷ―
大沢在昌/光文社文庫

 2006年3月20日初版、662pの大作。シリーズの第一作は1990年というから16年も前、すっかり著者のライフワークになってしまった感がある。今回の作品はつまみ読みしている私には判らないが、何でも「原点回帰」的なのだとか。登場人物の真壁は第一作にも登場しているらしい。今回は主人公の鮫島と真壁、そして元警官の大江という人物の3人が織り成す「高級自動車窃盗団」を背景にした人間ドラマになっている。

 先日、シリーズ5作目の「炎蛹」を読んだばかりなので、その印象は充分残っているが、孤高の刑事はこの作品の方がより鮮明である。この辺の描写はシリーズ中およそ一貫しており、著者の人間観、仕事観が現れているように思う。このシリーズはTVドラマ化、映画化もされているが、両方とも見ていないので、この雰囲気がうまく出せているかどうか判らない。もし見る機会があったら、改めてその辺を注目してみたいと思う。

 今まで、「烙印の森」から始まって「涙はふくな、凍るまで」「砂の狩人」「影絵の騎士」と読んで来たが、「新宿鮫シリーズ」は著者にとってその集大成的な存在か。また、現在まで10作、シリーズを通して「都市小説」という新たなカテゴリーも作りつつある。20年に渡って作品を作り続けるという意欲の維持は驚嘆すべきものがある。



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