―髪結い伊三次捕物余話11―
宇江佐真理/文春文庫
2015年1月10日初版、作品番号54。久々の「伊三次」さんの登場。今回の本のお題は第四章から取っている。相変わらずの乗りで一気読み。読んでいると、ついつい歴とした捕物であることを忘れてしまうのだが、あまり捕物に嵌り込まないことで市井の日常に現実味を持たしている。普通の人々の暮らしという現実味は、複雑に見える現代の生活者のシンプルな現実なのだと思う。伊三次も四十を過ぎて、度々昔を振り返るようになった。そして、人の幸せであることの本質や、自分の人生の在り様、終末の在り様などを考えるようになったようだ。
・あやめ供養 桂庵の母美佐の話し
・赤い花 魚佐の娘おてんの恋
・赤まんまに魚そえて 金沢屋女中おあさの話し
・明日のことは知らず 市井に生きる人々の不安
・やぶ柑子 元家臣海野隼之助の話
・ヘイサラバサラ 元町医者桐山道有の話
新品で購入した文庫本には「時代小説の名手逝く 追悼 宇江佐真理」という帯が掛っていた。そう、以前から病気の話しはあったが、昨年の十一月始め、いけなくなった。「私は伊三次とともに現れたのだから、伊三次が終わるときは私の終わり」というような話もあった。あと四冊、それで伊三次の余話は終わるらしい。もう、伊三次のそれからを読むことが出来ないと思うと、本当に残念で仕方が無い。
庭の草木として、やぶ柑子(藪柑子)という植物がお題に使われている。ちょっと調べてみた。
この手の植物は、似たようなものが結構あるようだ。そんな中でも、最も草に近いのが藪柑子で、丈が少し大きくなると千両万両、更に十両、更に南天といった感じである。何れも白や薄紅の花が咲き、赤い実を付けるようだ。
先日、植物学の権威にお目にかかった。植物は従来「草木」を区別していたが、最近その垣根を無くしたらしい。つまり、草と思えるものも成長すると木になるものが多々あり、この区別が意味を成さなくなったということのようだ。植物は本来、与えられた環境によってその姿形を変えてゆくものなのだという認識である。だからといって、南天から藪柑子まで、同じものということは無いと思うが。