つむじ風

世の中のこと、あれこれ。
見たこと、聞いたこと、思ったこと。

マジシャン

2014年02月26日 18時37分55秒 | Review

―完全版―
 松岡圭祐/角川文庫

 2008年1月25日初版、この作品はマジシャンシリーズの中の作品で、「マジシャン」と「イリュージョン」の2作の片方である。著者の作品は、一度「千里眼 岬美由紀」でお目に掛かっている。その時の印象と比較すれば、この「マジシャン」の方が面白かったようにと思う。「千里眼 岬美由紀」はシリーズモノだが、「マジシャン」は読み切り(完全版)だという違いがあるかもしれない。

 「マジシャン」は、主人公「舛城 徹 警部補」と共にマジックの世界、マジシャンの世界をジックリ見せて貰ったように思う。見た目は華やかで楽し気だが、現実には暗い厳しい世界が広がっている。いわゆる業界の裏側の生々しい描写、そしてメディアに対する批判である。そんな中でも「里見 沙希」の存在が一条の光となってその闇を照らしている。真の犯人はなかなか現れない。物語の最後、思わぬ人物が姿を現すところはさすがマジック!だ。

 また、いろいろな聞いたこともない専門用語(業界用語?)が出て来て、いかにもマジックの世界らしい雰囲気を作り出している。一番の読み所は、どう見ても有り得ない事の仕組みが次々と里見 沙希によって解かれていくところであろうか。目の前で(現実にそんなものがあるかどうかは別にして)タネを明かせば、確かに「なるほど」なのだが、何回騙されても又話しに乗せられている自分が居る。この「マジシャン」は「肩すかし」を食らわせ「踏鞴」を踏ませる連続である。

 303p、出光 マリに「マジシャンっていう職業は、すなわちマジシャンの役を演じる俳優である」。「わたしはマジックを演じることで、自分の欠点を補おうとした。それが間違いだった」と言わしめるが、このことはマジシャンに限らない。そもそも人は皆、何等かの「役を演じる俳優」にならなければならない。しかし、「役を演じる」ことで「自分の欠点を補う」のは誤りだというのである。結局、人が感動し、納得するのは「その人の魅力」以外に何もないのだから。

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マイナス・ゼロ

2014年02月21日 11時05分01秒 | Review

 広瀬 正/集英社文庫

 1982年2月25日初版、1998年11月15日12刷。広瀬 正はSF作家。47歳という若さで亡くなっている。従って作品は少ない。「マイナス・ゼロ」は代表作といってもよいかもしれない。大正13年、東京生まれで、小説を書く以外にジャズ・サックス奏者、クラシックカーモデル製作者でもある。この辺の所は小説の中にも色濃く残っている。時間をテーマにしたSF作品を多く残し、「時に憑かれた作家」とも呼ばれているらしい。

 Herbert George Wellsについては、「タイム・マシン」「モロー博士の島」「透明人間」「宇宙戦争」などで知られているSF作家の草分け。核戦争を予見した「解放された世界」や、日本の憲法9条「平和主義と戦力の不保持」もH.Gウェルズの人権思想が色濃く反映されていると言われている。SF作家にとっては神様のような、憧れの、或いはバイブルのような人らしい。

 それはともかく、「マイナス・ゼロ」を読んでみると、何とこれはタイム・マシンの話しであった。なかなか入り組んでいて難しい。登場人物も名前が変化するし、時間軸もシフトする訳で、これがまたややっこしいのだ。しかし、登場する人物の中で、「カシラ」と呼ばれている大工の棟梁が居る。この御仁はタイム・マシンには乗らない。従って、ややこしい時間軸の「基準」にすることができる。それでもなかなか難しいので、遂にタイムチャートを作ってしまった。

 面白いのは主人公(俊夫)が見た昭和の東京風景である。この手の話しとしては江戸時代などが使われそうだが、何故か著者はレトロな、そして激動の昭和を設定している。東京銀座の描写が、江戸時代とはまた違う雰囲気を醸し出している。さらに、真空管ラジオや車にも憧憬深く、タイム・マシン以上の思い入れがあるようだ。大正13年生まれの筆者の子供の頃見た風景そのものに違いない。

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秘伝の声(上)(下) 

2014年02月17日 11時50分09秒 | Review

 池波 正太郎/新潮文庫

 1990年12月20日初版、2004年3月5日31刷。池波 正太郎は1990年5月3日に亡くなっているから、「秘伝の声」はその後の発表となったようで晩年の作品になるだろうか。作家としては、あまりにも有名で当たり前過ぎて、面白いのは当然と思ってしまうが、著名な作家であっても出来の悪い作品も中にはあるのではないだろうか。まあ、それはともかく「秘伝の声」は「男の作法」に継ぐ二冊目ということで、ほとんど作品を初めて読むようなものである。

 著作は非常にたくさんあって、当初は現代物も書いていたようだが、時代小説、歴史小説に落ち着いた。作品には代表的なシリーズとして『鬼平犯科帳』シリーズ、『剣客商売』シリーズ、『仕掛人・藤枝梅安』シリーズの三つがある。

 いつの頃からか、「炎の武士」「武士の紋章 男のなかの男の物語」「戦国と幕末 乱世の男たち」「男振」「男のリズム」「男の作法」など池波流男の美学的なものが伺える。さらにもう一つの流れは、(即ち悪漢小説というらしいが)「よいことをしながらわるいことをする」人間の矛盾というテーマである。「秘伝の声」にも、二人の主人公(白根岩蔵と成子雪丸)が登場するが、岩蔵は師日影一念の遺言を聞かずに極秘の巻物を勝手に持ち出して道場から姿を消してしまう。その後、紆余曲折があって再び雪丸の前に現れ、持ち出した巻物を返却することになるのだが、雪丸にしても岩蔵にしても、人間が持っている「矛盾」の一面を端的に表現しているように思う。筆者の言葉を借りれば即ち、「このことである」。

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十日えびす

2014年02月14日 14時29分29秒 | Review

―花嵐浮世困話―
 宇江佐 真理/祥伝社文庫

 2010年4月20日初版、同年5月25日第二刷。作品番号35。花嵐浮世困話=「はなにあらし、よのなかこんなもの」というSub Titleの通り。主人公は八重さん。通常の平穏な人生の5年から10年分くらいを一気に1年に圧縮したような話しで、春夏秋冬でまとめている。いままでもこのような手法でまとめた作品はあったが、これほど市井に徹した話しではなかったように思う。まあ、思う存分といったところである。

 作中、二人目の「おみち」が出て来るが、ここだけは作りっぽいところ。もし、この部分が無かったら、この作品は(リアルな)八重さんの「日記」のようになってしまうのだが、これによって何とか小説らしくなっているように思う。とにかく、全体が日常過ぎてリアル過ぎるのだ。

 大事件や大捕物がある訳ではない。有名な出来事や突飛な事が起きるわけでもない。ただただ町屋の人々の、日々の暮らしがあるだけである。その中で人は変わる。一喜一憂し、落ち込んだり、再起を図ったり、諦めたり、希望を繋いだりするものなのだと切々語り続ける。

 「もう嫌だ、もうこんなこと真っ平だ」と思いながら暮らしている。それぞれの人物の内情を知れば、憤りも切なさに変わる。それでも、腹も立ち頭に血が上るし、肝も焼ける。そんな風でありながら何とか世間と折り合いを付けながら生きている日々が、そのまま表現されている。「日々」「日頃」「毎日」といったような常々のことを集大成にしたような作品である。

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三日月が円くなるまで

2014年02月10日 11時36分10秒 | Review

―小十郎始末記―
 宇江佐 真理/角川文庫

 2008年12月25日初版、作品番号30。何をやっても今一つ力が入らない。こだわるものも何もなく、周辺の出来事にもただ傍観しているだけの日々を過ごしている。学問もイマイチ、剣術もイマイチ、そんなノンポリの刑部小十郎が主人公である。お家大事の武家で、且つ何といっても藩主(殿)が最優先の時代、父親の命令に不条理を感じながらもそんな環境から逃げ出すことが出来ない。これは、今ある環境から抜け出ることができない(ずるずると引きずられる)惰性という現代に通ずるものがある。解説を読んで知ったことであるが、この話しは、まるきりの小説ではない。東北は南部藩、津軽藩の「檜山騒動」という実録を舞台にしているらしい。

 藩主のために一矢報いる計画が失敗して、朋輩の正木庄左衛門が市中引き回しの上獄門晒し首になり、主人公も切腹かと思ったが、何とか謹慎で済んだものの、刑部家の跡継ぎ問題で度々理不尽な思いをする。そんな折り、「死んだふりをして生き抜く」ことを「ゆた」から教えられる。一度命を賭けた者が、再び生きることへ希望を抱く。ここで言う「死んだふり」は「我慢」とも「忍耐」とも違って、どうも「煩悩」を捨てるような、気負うことなく、もっと真摯に、もっと素直にというような寛容さが伺える。

 葉隠の「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」ではないが、解説で縄田一男さんが武士は一般に「生から死を覚悟することは出来るが、死からもう一度、生へ転回することはその心ばえからしてむずかしいものである」と言っている。そんな心情があっての「死んだふり」である。

 著者の作品によく登場する女主人公は「思い切ったことをする」人が多い。ここでも紅塵堂の娘「ゆた」は結構思い切りが良い。辰巳芸者ではないが、多分これは著者の性格なのではないだろうか。そもそも女は(男のようにグジグジいつまでも悩まず)思い切りが良いのだと言いたいらしい。どうも、そんな雰囲気が伝わってくる。しかし、小十郎、賢龍、ゆたの三人はいい仲間だな。

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憂き世店

2014年02月08日 09時47分46秒 | Review

―松前藩士物語―
 宇江佐 真理/朝日文庫

 2007年10月30日初版、2011年5月15日第三刷、作品番号24。Sub Titleにあるようにある松前藩士の物語で、松前藩士は「相田総八郎」、そしてその妻「なみ」の物語である。著者の作品に度々出て来る松前藩のゴタゴタで、松前藩が陸奥の国、伊達郡梁川に移封となった経緯から始まる。大名から小名に格下げとなり、お国替えとなったからには今までのようなお家の体制は維持困難となり厳しいリストラを断行するより他無かった。江戸詰めの相田総八郎もまたリストラ対象の一人であった。と、まあこんな具合に話しは進んでゆく。

 「憂き世」には、どんな意味があるのだろうか。似たような言葉遣いに「憂き身」というのがあり、「辛いことの多い身の上」という意味。「憂き世」は「辛いことの多い世の中」とでもいう意味になるのだろうか。
55p「人が生きていくのは切ないことだ」
56p「切ないから、せめて今を必死で生きなければと思う」
 というなみの思いが伝わってくる。

 待ちに待った移封が解けて、総八郎も松前藩の家臣に復帰。しかし、あれほど待ち望んでいたことが実現し、思っていた通りになったのに何かが違う。久々に江戸の神田三河町一丁目「徳兵衛店」に戻って見ると、たった三年ほどしか経っていないのに、知った顔は誰一人として無かった。そして徳兵衛店で「必死で生きてきた」ことが「自分がどれほど幸福であったか」思い知るのである。そして「自分の人生がもはや終わりに近い」と感じるこの悲しさ、切なさは歳を取ってみなければ解らない。ここは著者の真骨頂だねぇ。

 例によって、「徳兵衛店」を図にしてみた。正確さに欠けるかもしれないが、参考になればと思う。店の主は女房達の名前にした。

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玄治店の女

2014年02月07日 16時13分02秒 | Review

 宇江佐 真理/幻冬舎文庫

 2007年8月10日初版。作品番号20番で「深尾くれない」に続く作品。内容はコロッと変わって市井モノに徹した作品である。この物語には(子供の小梅は別にして)三人の女(お玉、お喜代、お花)が登場する。そして、このお玉が「玄治店の女」の主人公ということになるようだ。それぞれの女の人生が展開する。お玉の前には手習い所の先生青木陽蔵が現れる。しかし「年上で、妾をしてた女だから」、おまけに武士と町人という「世間様」もある。諦めかけたとき、ふと「世の中の帳尻」が合った。

 お玉の前には三人の男が現れる。一人はお玉を吉原から見受けしてくれた小間物問屋の主伊勢屋籐兵衛。一人は手習い所の先生青木陽蔵、そしてもう一人は小間物問屋「坂本屋」の一番番頭、卯助。それぞれの出会いと別れ。結局籐堂藩に仕官した青木を追って玄治店を出ることにするのだが、決して単純なHappy Endではない。「人生、明日は何が起こるか解らない」ことに、いい知れない不安、悲観、絶望を抱きながらも、明日に向かって一歩踏み出すことの重さが伝わってくる。江戸時代であればそれこそ命懸けのことなのだが、その大切さは現代でも変わらない。
 著者は、結局明日のことは解らないのだから、今をもっと真剣に素直に真摯に生きよ!と、小説という舞台を借りて言いたかったのかもしれない。


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