つむじ風

世の中のこと、あれこれ。
見たこと、聞いたこと、思ったこと。

64(上下)

2016年05月28日 11時18分30秒 | Review

横山秀夫/文春文庫

 2015年2月10初版。比較的最近の長編作品で、TVドラマにもなっているらしい。
以前に読んだ作品としては「第三の時効」がある。同じ警察モノでも著者の作品には、いわゆるアクション場面がほとんど出てこない。「第三の時効」も心理描写が多かったが、「64」は、更に徹底した心理描写になっているように思う。それはそれで一つの手法として面白いと思うが、組織の権力闘争的な場面が延々続くと、違和感が出てこないでもない。そこはうまくしたもので、適当に事件が起きるようになっており、飽きさせない。

 最初は14年前の事件であり、時効寸前なので、一つの未解決事件として扱うのかな、と思っていたら、実はこれが徐々に蘇ってくる。それも、歴代の刑事部長が隠し続けてきた、誘拐事件に関わる決定的な捜査ミス、その隠蔽が明らかになるという形で。
 キャリアと所轄の軋轢もさることながら、上げ足取りか梯子外しか人事異動が刑事に与えるストレスも大変なものだ。

 家に帰れば、娘は失踪して久しく、更に妻はノイローゼ寸前という状況が待っている。強面警察官もプライベートでは辛苦をなめている。何とか乗り切ろうと、もがいている姿がある。この「執拗な努力」が、意外にも「64」解決に向かうことになる。全ては14年前のことであり、状況証拠ばかりが並ぶけれども、何かしら閉塞感、無力感に風穴が開く、一筋の光が差し込む。明日への希望というほど晴れがましいものではないけれども、えらい長編であるだけにホッとする結末である。


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花酔ひ

2016年05月16日 08時51分11秒 | Review

村山由佳/文春文庫

 2014年9月10日初版、215年7月25日第6刷。著者の作品は初めてお目に掛かる。浅草の下町を背景に、当たり障りのないところから始まって中ほど、なるほどこの作家の本領発揮はこれか、と。どこでも居そうな二組の夫婦が、過去にどんなトラウマがあったにせよ、こんな展開になろうとは思いも寄らない。そこには所謂「小説的な飛躍」というものがあるのかもしれないが、其々夫婦の心の変遷がいかにもリアルに描かれている。同じことを繰り返す単純な下ネタ小説とは一線を画すもので、「おぼれる」ということをこれ程リアルに書いたものは、久々に読むような気がする。

 結果はわかっているのに拒みきれないほどに自らを失う、限りなく自殺行為に近い。瀬戸内さんも言っている「あれは命を縮める」と。読み終えて、結局千桜の夫の桐谷正隆が最も真っ当に思えてくるから不思議である。人々の妖艶な思いが紡いだ着物、膨大な時間で濾し取られて尚残った着物の持つ魅力が話の色艶をより一層際立たせているようにも思う。そんな風に描く筆を持っている著者にも驚く。

 刹那的で不安定、何もかも投げやりで奈落の底に落ちて行くかのような四人あっても、それをあと一歩のところで踏み止まり、支えているのは祖母のトキ江の存在である。トキ江は麻子との関係でしか登場しないが、人の不徳を許し、えにしを思い切る、人生の転機を冷静に見越すことで読者を安心させているように思う。




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馬を売る女

2016年05月15日 10時58分07秒 | Review

松本清張/文春文庫

 1981年8月25日初版、1992年4月15日第11刷。今まで著者の作品を読んだことがあるかといえば、「ある」とは思うが、おそらくほんの1~2冊である。あまりにも勿体無くて、なかなか手が出せない。読んでしまって読むものが無くなっては大変だから、出来るだけ後日に取っておこうという思いもある。

「馬を売る女」は下記4作の短編集。文庫本のタイトルは収録の最初の作品名から取っている。
・馬を売る女
・式場の微笑
・駆ける男
・山峡の湯村

 どれも、小気味良いほど決まる“オチ”、抜群の切れ味、このリアリティ、これが清張作品の特徴なのだと再度認識した。読み物として読者サービスを忘れない。最後には「ほ~」「あらま!」「ワォ!」などという感嘆符が思わず出てしまう。途中までが至極真面目なだけに、綿密に計算された「娯楽」がある。松本清張は社会派かどうか判らないが、悪行もまた人間の活動の一部と認識しているような雰囲気がある。その意味では、「チョイ悪作家」なのかもしれない。

 「現実的で功利的、無装飾」という菊池寛を古典として仰ぐという清張、題材の面白さやストーリー展開の工夫を基本とするようだ。いずれの作品も外面からは判らない人間の性悪な一面、それを隠そうとすればするほど性悪になる。最終的に暴露してしまうことでその性悪が滑稽にさえ見えてくる。

当事者(犯罪者)の目論み、やってしまったことの重大さ、結果の滑稽さ、勧善懲悪とはまた別の、人間に対する「お釈迦様の手の平」を意識しているような所がある。



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