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つむじ風

世の中のこと、あれこれ。
見たこと、聞いたこと、思ったこと。

スルジェ

2024年09月02日 12時03分13秒 | Review

Sub Title「―ネパールと日本で生きた女性―」
平尾和雄/旅行人 2001年5月1日初版

 この本には、前回読んだ「ヒマラヤ・スルジェ館物語」より、少し詳しく改めて嫁の「スルジェ」さんを中心にした(著者の視点から見た)話に仕立てている。二人の関係をここまで赤裸々に描写するのも珍しく、なかなか書けるものではない。前署との重複を極力避けて、未だ前署では触れてなかった数々のエピソードで埋められている。中でも大きなウエイトを占めるのは病死の「スルジェ」さんのことだが、「多田保彦の自殺」もなかなか衝撃的なことだった。

 特に病死の「スルジェ」さんの形相は身に覚えのあるものだった。小生の女房も胃がんで、発見時には既にステージⅣ。外科手術は不能となり、あらゆる抗がん剤治療を試みたがその甲斐も無く、二年後にこの世を去った。
「スルジェ」さんは、最初の食道がんは外科手術で何とか克服したものの、その後乳がん、肝硬変を患いクモ膜下出血で帰らぬ人となった。余命を宣告された人の気持ちはなかなか理解し難いけれども、残された著者の気持ちは共有・共感できるものだった。

1989年から99年までの10年間は比較的さらりと流しているが、実際、こんな風に美しく書けるものなのかと思うところもある。しかし「スルジェ」さんが残してくれた有形無形のものが、今となっては著者を助けてくれているのではないだろうか、とも思う一冊だった。

1972年1月15日 名古屋港から乗船出発(著者25歳)
   インド、ネパール、カトマンズ、ポカラ、タトパニ村
1980年秋 タトパニ村の「スルジェ館」閉める。
   著者、単身日本へ帰国
1981年夏 著者、スルジェを迎えにネパール・ポカラへ
   信州の一軒家を経て練馬のアパートへ引っ越し
1982年 スルジェ → ネパール・ポカラへ
   ポカラで「スルジェ館」復活
1983年春 著者ポカラへ
1987年12月 スルジェ → 日本へ
   食道がん、乳がん、肝硬変、クモ膜下出血
1999年10月30日 スルジェデヴィさん(52歳)他界
2001年1月 遺骨を持ってネパール・タトパニ村へ



ヒマラヤ・スルジェ館物語

2024年06月17日 14時39分35秒 | Review

平尾和雄/講談社 1981年5月30日初版

 ネパール、首都カトマンズの西の町ポカラからは天気が良ければダウラギリ、アンナプルナ、マナスルが見えるかも知れない。ポカラの側を流れるカリガンダキ川上流、ダウラギリとアンナプルナの谷筋にタトパニという村がある。そこで宿屋を営んでいるのが主人公で、平尾和雄・スルジェ夫妻の話しである。
この谷筋の村は、チベット岩塩の交易路であり、ヒンズー教徒の聖地(ムクティナート)への巡礼路でもあるらしいが、とにかくえらい山の中で、この街道を行くには徒歩以外に方法はないらしい。カトマンズとポカラ間にバスが通うようになったのは著者が訪れるほんの1か月前だったと言うから、その山奥度がどんなものか想像できる。
場所が場所だけに訪れる人も其々超個性的で、書き物のネタには困らない。

ガラ村とタトパニ村のこと、スルジェの一族、茶屋から宿屋へ、ハッシシ・大麻、ヒッピー、文無しトム、バラモン行者(ヒマラヤの聖者)、スルジェの母サスの弔い、聖地ムクティナート、インディラと和尚、ロミラと正太郎、そして結婚式、オランダ人ヘルミナ、健次と竹笛、フランス系カナダ人ドミニク。

 単に「変わっている」「珍しい」という事だけではない。なぜ人は旅をするのか、旅をしなければならないのか、何を求めて旅しているのかを地で行っているような話である。
あの時代、多くの若者が世界に飛び出して行った。忘れていた「ヒッピー」という言葉も懐かしい。それもそのはず、自分と年齢が4~5歳と違わないのだから。
あの頃は、世界の何処かに「それ」があるのでは、と思っていた。だから、それを探しに「旅人」をやっていたように思う。万難を排して(全てのしがらみを投げ捨てて)後先考えずに飛び出したように思う。そんな時代の一つのドキュメンタリーである。
「健次と竹笛」、健次が著者に宛てた手紙の中で「それが何だったのか、大方忘れてしまいました。たいしたもんじゃなかったわけです。“自我”というやつかな。」というくだりがあるけれども、それはやはり自分探しの旅だったのだろうと思う。自分が「存在」することの意味を問う旅だったのだろうと思う。

この本を読むことになったのは、実はあるyoutubeを見たからで、そこに紹介されていたからである。ケンイチロウは実は漫画本愛読家なのだが、Youtubeのお題「ヒマラヤの花嫁」にもあるように、(漫画本以外では数少ない)著者の熱烈なファンなのだとか。

さーちゃんの日常「ヒマラヤの花嫁」- Tamaken kitchen
https://www.youtube.com/channel/UCJBYUUv5h8HU5BB73ebEQbg

「ケンイチロウ」は名古屋出身の日本人、嫁の「さーちゃん(サムジャナ)」はネパール人で、ネパールのポカラ近郊のサランコットという村の出身。ある意味著者と同じような環境にある。
現在は日本で暮らしているが、かつてケンイチロウも「旅人」だったのだ。
著者が第一世代の「旅人」であるとしたら、ケンイチロウは第二世代の「旅人」になるのかもしれないが、旅する人の本質は少しも変わっていないような気がする。

この本の「スルジェ館」にまつわる話には実は前後があって、以下の順になる。
・ヒマラヤの花嫁
・ヒマラヤ・スルジェ館物語
・スルジェ ―ネパールと日本で生きた女性―

本当は順に読みたかったのだが、最初の「ヒマラヤの花嫁」が入手できず、話が前後することになってしまった。ちなみにスルジェはネパール語で「太陽、日神」という意味。






コンバット

2023年12月10日 17時23分16秒 | Review

 youtubeで懐かしいTVドラマ「コンバット」を見掛けた。TVで見たのは高校生の頃だっただろうか、60年以上昔のことである。今更ではあるが、
「コンバット」は原文では「Combat!」と感嘆符が付く。そして、

主演はヘンリー少尉   「Rick Jason」
   サンダース軍曹  「Vic Morrow」である。この二人は、

「Starring Rick Jason And Vic Morrow」であったり「Starring Vic Morrow And Rick Jason」と入れ替わったりする。さすがに152話もやれば、斬新さや新鮮さはやはり薄れてくる。これを防止するために「Guest Satr」によってストーリーに新風を吹き込むという仕組みだ。
随分長く放送していたように思うが、全部で152話あるらしい。

1962年(S37)から1967年(S42)まで、US ABC TVで放送されたもので、日本では(私が見た)TBSや後にはNHK BSでも放送されたらしい。当初はモノクロ画像であったが、128話から「Combat! in color」、即ちカラー化される。現代のような高精細画像ではないけれど、やはりモノクロよりは情報量が多く、リアリティも増している。モノクロも悪くはないけれど。

 第二次大戦が終わったのが1945年、その3年後(1948年)朝鮮戦争が始まった。そして1953年の休戦協定以来今日に至る。「コンバット」は僅かその11年後(1964年)から作られたドラマである。米国にとって第二次大戦の疲弊は、未だ完全に癒えていなかったに違いない。

戦争モノではあるけれど、背景が「戦争」であって、話の中身は「人間ドラマ」だ。それが152話という長寿のドラマになったのだと思われる。よく見ると同じ場面が繰り返し使われている。製作費用の節約だろうか、それ程気になる訳ではないが、所謂「使い回し」である。

第1話のノルマンディー上陸以来、フランスでの作戦が主になるが、時系列、或いは史実との関係性はドラマの性格上あまり重視していない。生死の極度の緊張の中にあって、人間の本質が顕著になりやすいことは実に納得のいく話だが、そこには喜怒哀楽だけでなくあらゆる不条理が潜んでいる。それがこのドラマの狙いだったのだろう。

 鉄拳制裁

日本の軍隊モノと言えば誇張はあるかもしれないが「鉄拳制裁」は付きものである。
兵隊として来たからには戦闘拒否や敵前逃亡は許されない。しかし「コンバット」ではどうか。叱責、激励は多々あるし、仲間内の喧嘩騒ぎは珍しくもないが、そんな中でサンダース軍曹が暴力に訴えたのは152話の内「ならず者部隊」と「恥知らず」の二つであったように思う。あらゆる不条理、無理難題の命令であっても「ベストを尽くす」のが軍曹である。しかし、自己都合によって部下や仲間を危険にさらす者には、さすがに我慢がならなかったのだろう。何かに付けて威張り散らし、殴る蹴るが常套手段の帝国軍人とは大違いである。

 ドローンとミサイル

「コンバット」では小銃、手榴弾、機関銃、戦車と大砲が主な兵器である。勿論、戦闘機や爆撃機も健在であるが、60年後の現代でもこれらは重要な兵器であることに変わりはない。
戦争がある度に新兵器が登場すると言われているが、現代の戦争で登場したのがドローンとミサイルである。これにはGPSも無関係ではない。確かに当初の目的は軍事的な利用であったかもしれないが、以前から精確な位置情報を得るために商業利用されて来たものである。その意味でGPSは今回の戦争による新兵器ではないものの、ドローンやミサイルには必要不可欠な技術であろう。商業衛星や農業機械、或いは物流、運輸、通信といった民生品が兵器に「転用」されるのは、ICも含めて60年前と比べてはるかに高い比率になっていると思われる。

 安全と幸福を求めて

より良い生活と幸福を求めて科学技術は発達して来たはずである。しかし人々はどれだけ幸せになれたであろうか。「戦争」は破壊と殺戮そのものである。地上には今も一億個以上の地雷が敷設されており、日本の総人口に相当する人々が着の身着のまま流民(難民)となって世界を彷徨っている。発達した科学技術の恩恵は何処にも見当たらない。それが目の前の現実である。

 歴史による教訓

 アフガニスタンやウクライナ、ミャンマー、パレスチナなどのNewsを見るにつけ、
「人間は歴史から何も学んでいない」と思う。

これが152話を一気見しての観想であった。



絵が殺した

2023年01月05日 16時12分46秒 | Review

黒川博行/角川文庫

 2020年4月25日初版(2004年9月、創元推理文庫から)
吉永誠一刑事と小沢慎一刑事のコンビ、得意の「ボケとツッコミ」のコンビである。それにしても、運転免許を持たない刑事というのは本当に珍しい。おそらく既読の小説の中で初めてではなかろうか。作品の中身を書いてしまうと「ネタばらし」になるのだが、要するに、美術業界と切っても切れない贋作の問題とそれに巻き込まれた個人の復讐という設定で話が展開する。「贋作集団の元締め」を追うのは警察だけではなかったのである。

 大方途中で犯人の見当が付くものだけど、今回の作品では306pまで判らなかった。刑事たちの地道な長い努力の継続が遂に目標に「辿り着いた」瞬間だった。かと言って「社会派」小説というわけではないけれども、魑魅魍魎的なこの業界の恐ろしさ、「人間の業」のような部分が見える作品だったように思う。考えてみれば金融業界にしろ不動産業界にしろ、あるいは食品業界にしろ偽装や不正は一向に無くならない。荒唐無稽だったはずの話しは、いつしか限りなくリアルさを増して、読者を引きずり込んでしまう。

 世の中に何となく閉塞感が漂い、暗い空気が流れだしている。そんなとき今回のような何となく明るい、モヤモヤを吹き飛ばすような作品を読みたくなってしまう。著者がそこのところを意識しているかどうかは判らないけれども、構想から練りに練った作品に違いない。黒川作品を読んで、心の均衡を保つことが出来るのであれば、こんな良薬は他にない。




暗闇のセレナーデ

2023年01月03日 16時21分45秒 | Review

黒川博行/角川文庫

 2022年10月25日初版。(2006年3月の創元推理文庫から)
デビューから3作、単行本が1985年発表だというから結構古い。
まだ、いろいろ試行錯誤していた時期だったかもしれない。いや当初は「ミステリーもの」「本格推理もの」を目指していたのかもしれない。さすが元美術の先生、絵画だけでなく彫刻やその加工工程など技術的なことだけでなく、業界事情や関係者の思考などには詳しいはずだ。黒川作品には、比較的「美術もの」が多いように思うが、それは美術に対する憧憬というよりも職業的なものなのかもしれない。
「ドライアイスで密室を作る」「粘土槽に死体を隠す」「シリコンラバーで指紋を偽装」など、特有のミステリー構築がある。

 女子大生二人の「ボケとツッコミ」には、後々の作品に続く面白さが既に埋蔵されているように思う。金銭名誉に無頓着で、純粋に表現したい欲求だけで生きている「芸術家」の姿は、ある意味世俗で生きているものの(実現不可能な)強い憧れである。後日の「アウトローもの」の作品を思えば、「初期はこんな作風だったのか」と興味深い。この「ボケとツッコミ」は黒川作品のテンポの良さ、軽快さ、それでいてミステリーという面白さの基本を成しているように思う。黒川ファンは、より洗礼された「ボケとツッコミ」で益々面白い作品を今後も期待してしまうのではないだろうか。





八号古墳に消えて

2022年12月31日 16時55分51秒 | Review

黒川博行/角川文庫

 2021年10月25日初版(2004年1月、創元推理文庫から)。
久々の黒川作品。今回は狭い考古学界に渦巻く魑魅魍魎に立ち向かう刑事コンビの話しである。相変わらずのボケとツッコミ。しかし亀田刑事の創造的な分析力には鋭いものがある。そしてそれを怒りながらも「聞く耳を持つ」相棒の黒木刑事がまた素晴らしい。シリーズとしては四作目だが、「黒マメコンビ」はこの作で最後になっているらしい。肩の凝らない「ボケとツッコミ」も楽しいが、せっかく徐々に存在感を増してきた「黒マメコンビ」なのに、残念なことだ。

 313p「冷徹、傲岸、狡猾、狭量、そして執拗」これが学者の本性かと思えばゾッとするが、別に学者の世界に限ったことでは無い。どんな組織にも、どんな社会にも潜在する人間の「持病」のようなものだ。そこに「博愛、謙虚、公明、寛大そして穏便」も併存するから面白い。喜怒哀楽である。

 黒川作品の中に古墳が出てくるのはとても珍しいように思う。古墳を背景にした作品が多いのは、やはり「浅見光彦シリーズ」ではないだろうか。今回の「八号古墳に消えて」にも登場する「306p古事記」や「111p箸墓」の話は、作品とは別に私の中では既に定着したイメージとなっている。そんな話が作品の中でどう料理されるかもまた興味深いところだ。



 


日本美の再発見

2022年02月18日 14時49分39秒 | Review

ブルーノ・タウト/篠田英雄訳/岩波新書

 1939年6月28日初版、1964年10月10日第22刷。1933年来日、1934年から1935年高崎にて指導、1936年イスタンブールへ去るまでのたった3年間のことであるが、建築物以外にも、富山や新潟・佐渡、秋田、青森、仙台の旅行では、第二次大戦前の昭和初期の日本の実情を実によく著わしているように思う。野山、海辺の風景、人々の暮らし、そんな中に見え隠れする日本文化の流れを見出した著者の文化に対する見識、建築物に対する見識には鋭いものがある。

 伊勢神宮や桂離宮に、日本建築の源泉を見たのは、やはり第三者(外国人)だったからなのだろうか。「建築の聖詞」とまで言われても、当の日本人はすでにその価値を見失い、西洋の模倣に懸命に励んでいるようだ。改めて指摘されて、その形容しがたい価値に気付くのである。

 申し訳ないが、桂離宮も修学院離宮も見たことはない。伊勢神宮や京都御所は見たことは見たが、「見た」というより、「通り過ぎた」が正しかろうと思う。普段から雑多な「いかもの」の中にどっぷり漬かって暮らしている我々にとって、改めて外からの客観的な目線で、その価値が何処にあり、いかなるものかを教えてくれる一冊であるように思う。また、87年も前にこのような見識を持って日本文化を眺めた著者のような人間が居たことに驚いてしまう。伊勢神宮はじめ桂離宮、京都御所、修学院離宮はいずれも戦災を免れた。今更ながら「大切にしなければ」と思えてくる。

 著者が日本で主に滞在した高崎の少林山達磨寺・洗心亭は今も現存するようで、その間取りや周囲の景観、環境がまた実に素晴らしい。御所や離宮はどうにもならないが、叶うことなら洗心亭のような家に住みたいものだと思った。



モモ

2022年02月12日 15時18分51秒 | Review

ミヒャエル・エンデ/大島かおり訳/岩波少年文庫

 2005年6月16日初版、2021年11月5日第34刷。これも何かの紹介で、いつか読みたいと思っていた本の一冊である。何と「岩波少年文庫」ということで、児童文学に類するものだとは思わなかったが、ここで投げ出す訳にもいかず、シブシブ読み始めたのが本当のところ。

 最初は、どうということもない話から始まるが、83pあたりから「灰色の男たち」が登場する。どうやらここからが話の本筋らしい。「灰色の男たち」は人間から時間を盗む時間泥棒である。
 この辺は、現代社会に対する批判的な部分だと思われるが、この「時間」の扱いが、先日読んだ「時と永遠」と重なって、とても興味深い部分だった。古くからある人間にとっての「時間性」の問題、認識論の問題だからである。「時間性」の問題は「モモ」の中でもほぼ同様の認識であったように思うが、その先が異なる。

「モモ」は「永遠性、不死性」を求めている訳ではない。ただ「人間らしい生活」を取り戻したいだけである。「灰色の男たち」は「時間性」の破壊的な、壊滅的な側面なのだが、そこに「永遠」と称して、宗教的な飛躍を求めないところが現代的なのだと思う。
 しかし、「時間の国」やその「境界」は登場する。カメの「カシオペイア」はその案内人である。そして時間を司る「マイスター・ホラ」の助けを借りなければならなかったことは、やはり宗教的飛躍の側面でもあるように思う。「神」ではなく「マイスター」というところは、いかにもドイツ人なのだが。そして、語り口だけは確かに「少年少女向き」なのだが、実際これを読んで現代の「少年少女」はどんな感想を得るのか知りたいものだと思う。

 この作品は1973年の出版だから、もう50年近くも前のことである。「モモ」の話は「過去の話でもあり、将来の話でもある」と言っている通り、無関心、無気力、すべてのものに対する不満が蔓延し、致死的退屈症によって現代人は「灰色の男」になってしまっているのだろうか。そう思うといかにも寒気がしてくるのだが、本当は誰の心の中にも「モモ」は存在する。それを呼び覚ましたいというのが、著者の本音ではなかろうか。





あかね空

2022年02月06日 19時02分01秒 | Review

山本一力/文春文庫

 2004年9月10日初版、2004年10月30日第5刷。著者の作品は「まねき通り十二景」「欅しぐれ」を既読しているが、「あかね空」は最初の長編時代小説ということで、これまたいつか読みたいと思っていた一冊である。宝暦12年からの豆腐屋、親子二代の話である。
 江戸と上方(京)の食文化の違いをうまく使って、その斬新さや困難さを混ぜながら、長屋の人々と共に(1つの文化が)根付くまでの根気の居る命がけの努力である。それだけでなく商売敵や身内の争いが、更にその困難さに輪を掛ける。しかし、腹を割って話してみれば、寛容になれるのが家族である。そんな家族ほど強いものはない。突然亡くなった著者の母への思いと共に作品に込めた思いであろう。

 作品の中で「人さらい」が登場する。いかにもこの時代の話だが、博徒一家の傳蔵親分は、自分が豆腐屋「相州屋」の一人息子(正吉)であったことは、回状や触れ書きから知っていたであろう。この時、当時の事情を知るものは永代寺の賄主事、西周くらいしかいない。「京や」が「平田屋」同様の豆腐屋であったなら、第二幕は違った展開になったと思われる。しかし、思わぬところで自分の親のことが明らかにされ、「恩人」と思っている人に出会ったことで、用意した第二幕の筋書きはちょっと違った方向になったように思う。傳蔵のことがとても気になる部分だった。

 最初に読んだ「まねき通り十二景」は深川の冬木町が舞台だったが、「あかね空」は同じ深川の「蛤町」である。「蛤町」は地図で見ると3か所ほど同名の場所があるが、作品から推して永代寺の南側にある「蛤町」であるらしい。冬木町とはさほど離れていない。この界隈には著者の深い愛着が感じられる。

 俗に作家ほど「陸でもない」人間はいない。或いは「陸でもない」人でなければ成れないのが作家であるなどと言われるが、著者も、それを地で行くような人らしい。しかし、だからこそ書ける作品もあるのではないだろうか。




山小屋の灯

2022年02月04日 14時31分02秒 | Review

小林百合子/ヤマケイ文庫

 2021年2月5日初版。何かの紹介でいつか読みたいと思っていた一冊。早い話が、山のガイド本といったところ。著者は結構飲兵衛で、あちこちの山小屋の主人達と忌憚のない付き合いをしているらしい。薄暗い山小屋の灯の下で、それで「山小屋の灯」なのだ。いつも、カメラマンの野川かさねさんとコンビらしい。この本には文章に負けないくらい野川さんの写真が載っている。よく見掛ける絵葉書風の写真ではなく、山小屋とその生活のリアルなヤツだ。それが文章とよくマッチしていて実に良い。山の写真も多くは雲の中に霞んでいる。これが現実だ。

 訪れたことのない山もあったが、以外にも馴染みのある山も多かった。秩父、尾瀬、大菩薩峠、中央アルプス、富士山等。ただし、50年も昔の話だ。「雲ノ平」の存在がチラホラ聞こえ始めた時代だったように思う。何分写真が多いので、昔を思い出しながらもスイスイと軽快に読み進む。

 深田久弥の「日本百名山」と比較するのはおかしいが、これはこれで現代の「山小屋」にスポットを当てた一冊であることに間違いはない。「山小屋」の現状と経営者の方針を大切にしながら、自然との関わり、山の見方、楽しみ方を教えてくれる。それは50年前も、今も変わらないように思う。普段は「厚かましくてやかましい編集者」なのかもしれないが、その山小屋への思いは確実に伝わってくる。何だかまた行きたくなってしまうのは私だけだろうか。