ここで、武蔵酪農発足当時の理想について2点の目標について述べたい。
1 処理場(クーラーステーション)の自主運営
処理場の自主運営は最大の目標であったが、この問題については、先ず自己資金の確保に重点をおかなければならない為、伊東所長の協力指導を受けながら移管の交渉を進め、自己資金確保についても年々準備を重ね、漸く期も熱し処理場移管促進委員会が発足し具体化の段階に入った。(後述)
2 指導体制の確立、獣医師、人工授精師の確保
戦後、乳牛を購入飼育することは、経済的にも非常に貴重な財産で、一旦事故が発生すると再起不能の様な環境にあった。
そこで、組合員が安心して酪農経営を継続するには、獣医師を確保して何時でも現地指導が出来又急患に対応出来る体制が必要であり、尚他組合と対抗するためにもその必要性を感じ、当組合の役員会は逸早く若手獣医師の確保につとめた。次に簡単に獣医師、人工授精師の経緯を記しておくことにする。
牛乳出荷と同時に会社の伊東獣医師が24年(1949)10月着任、続いて組合の獣医師として田村獣医師が25年(1950)2月着任し診療を開始した。伊東獣医師は所長としての業務が次第に多忙となり、組合側としては組合員の増加と共に組合の獣医師の増員が必要となり、26年(1951)7月玉置源吉獣医師が採用され診療に従事した。故あって玉置獣医師(後に明治乳業へ入社、現和光畜産社長)が退職。28年(1953)6月若林進獣医師採用、29年(1954)7月西川奨獣医師採用、31年(1956)7月若林獣医師は雪印問題で退職。
直ちに当組合で実習勉強し岐阜に就職している小鷹隆夫獣医師に連絡、同意を得、31年(1956)11月採用、着任した。
32年(1957)春、田村獣医師は、事務系にまわり(後、惨事就任)、井上久男獣医師が県畜産課を退職し、32年(1957)4月採用、勤務した。
西川、小鷹、井上獣医師により万全の指導体制が出来上り、組合員600名の信頼を得、組合発展充実の基盤を成したのである。
36年(1961)西川獣医師は新事業を志し、惜しまれて退職した。
この時、組合の役員会は将来の組合員の構成等について検討し、組合の職員獣医師は井上、小鷹両獣医師を主体とし、地元関係の大山通夫獣医師を36年(1961)8月嘱託として採用し応援を求めた。10年後、45年(1970)12月大山獣医師は小動物の診療が多忙となり退職した。その後は嵐山町の藤田利雄獣医師の応援を得て今日に至っている。
人工授精師については、加藤留平人工授精師が25年(1950)12月嘱託として勤務し、激動の時期を過ごし、32年(1957)4月職員に採用されたが、33年(1958)12月牛乳販売店開業のため退職。
34年(1959)1月松本人工授精師を嘱託として採用。仕事に対する献身的な姿勢が認められ、36年(1961)4月職員に採用。田辺郁彦人工授精師の協力を得て、人工受精事業の充実に共々貢献された。
特に井上獣医師、小鷹獣医師、松本人工授精師の各技術者については、30数年に亘り組合員の経営指導に又診療人工受精事業に永い間貢献され、尚今後共継続貢献されますことに感謝と敬意を表すると共に、他の関係技術者についても又同様であり、組合の発展に対する功績は大であった。
武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(田村孝一執筆 1990年1月)23頁~24頁