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里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

武蔵酪農の歴史 15 『武蔵酪農40年の歩み』より 1990年

2010-01-16 08:22:00 | 嵐山地域

 ここで、武蔵酪農発足当時の理想について2点の目標について述べたい。

1 処理場(クーラーステーション)の自主運営
 処理場の自主運営は最大の目標であったが、この問題については、先ず自己資金の確保に重点をおかなければならない為、伊東所長の協力指導を受けながら移管の交渉を進め、自己資金確保についても年々準備を重ね、漸く期も熱し処理場移管促進委員会が発足し具体化の段階に入った。(後述)

2 指導体制の確立、獣医師、人工授精師の確保
 戦後、乳牛を購入飼育することは、経済的にも非常に貴重な財産で、一旦事故が発生すると再起不能の様な環境にあった。
 そこで、組合員が安心して酪農経営を継続するには、獣医師を確保して何時でも現地指導が出来又急患に対応出来る体制が必要であり、尚他組合と対抗するためにもその必要性を感じ、当組合の役員会は逸早く若手獣医師の確保につとめた。次に簡単に獣医師、人工授精師の経緯を記しておくことにする。
 牛乳出荷と同時に会社の伊東獣医師が24年(1949)10月着任、続いて組合の獣医師として田村獣医師が25年(1950)2月着任し診療を開始した。伊東獣医師は所長としての業務が次第に多忙となり、組合側としては組合員の増加と共に組合の獣医師の増員が必要となり、26年(1951)7月玉置源吉獣医師が採用され診療に従事した。故あって玉置獣医師(後に明治乳業へ入社、現和光畜産社長)が退職。28年(1953)6月若林進獣医師採用、29年(1954)7月西川奨獣医師採用、31年(1956)7月若林獣医師は雪印問題で退職。
 直ちに当組合で実習勉強し岐阜に就職している小鷹隆夫獣医師に連絡、同意を得、31年(1956)11月採用、着任した。
 32年(1957)春、田村獣医師は、事務系にまわり(後、惨事就任)、井上久男獣医師が県畜産課を退職し、32年(1957)4月採用、勤務した。
 西川、小鷹、井上獣医師により万全の指導体制が出来上り、組合員600名の信頼を得、組合発展充実の基盤を成したのである。
 36年(1961)西川獣医師は新事業を志し、惜しまれて退職した。
 この時、組合の役員会は将来の組合員の構成等について検討し、組合の職員獣医師は井上、小鷹両獣医師を主体とし、地元関係の大山通夫獣医師を36年(1961)8月嘱託として採用し応援を求めた。10年後、45年(1970)12月大山獣医師は小動物の診療が多忙となり退職した。その後は嵐山町の藤田利雄獣医師の応援を得て今日に至っている。
 人工授精師については、加藤留平人工授精師が25年(1950)12月嘱託として勤務し、激動の時期を過ごし、32年(1957)4月職員に採用されたが、33年(1958)12月牛乳販売店開業のため退職。
 34年(1959)1月松本人工授精師を嘱託として採用。仕事に対する献身的な姿勢が認められ、36年(1961)4月職員に採用。田辺郁彦人工授精師の協力を得て、人工受精事業の充実に共々貢献された。
 特に井上獣医師、小鷹獣医師、松本人工授精師の各技術者については、30数年に亘り組合員の経営指導に又診療人工受精事業に永い間貢献され、尚今後共継続貢献されますことに感謝と敬意を表すると共に、他の関係技術者についても又同様であり、組合の発展に対する功績は大であった。

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(田村孝一執筆 1990年1月)23頁~24頁


武蔵酪農の歴史 14 『武蔵酪農40年の歩み』より 1990年

2010-01-15 08:19:00 | 嵐山地域

   武蔵酪農誕生(名称変更)
昭和31年(1956)5月5日 第六回通常総会開催 於菅谷村小学校
           総組合員数 611名
            出席者数 376名(内委任状68名)
           理事欠員につき選任  理事 松田 林造 選任
 第6回通常総会に於て緊急動議が出され、菅谷支部中島長吉氏より組合も益々発展し亦将来も規模拡大を実施してゆくためにも武蔵北部の北部を削除し、設立当初の理想であった武蔵酪農にしてほしい旨の発言あり。議長はこの動議を議案としての成立を議場に諮ったところ賛成を得、北部を削除することに挙手にて全員異議なく賛成し議決した。

昭和31年5月23日
     定款変更認可申請
       1 事務所 比企郡菅谷村大字菅谷234番地の4
       2 名 称 武蔵酪農農業協同組合
 他に数件の定款変更もあったが、同時に埼玉県知事大沢雄一氏に定款変更認可申請書を提出した。この件については福島敬三理事の並々ならぬ努力もあった。

   31指令農政収第1261号
     比企郡菅谷村
     武蔵北部酪農農業協同組合
 昭和31年5月23日申請の定款変更については、農業協同組合法第44条第3項の規定により認可する。
     昭和31年7月27日
                埼玉県知事 栗原 浩 印

昭和31年8月11日登記完了(浦和地方法務局小川出張所)
昭和31年10月9日 埼玉県知事 栗原 浩氏に登記完了報告を提出した。

    7月31日 獣医師 若林進 退職
    11月1日 獣医師 小鷹隆夫 採用
    12月31日     内田千鶴子 退職
  32年1月5日     小原洋子 採用
    2月19日     石川 友一 採用

○夏乳増産共励会開催
○家畜共済制度の改正により診療業務は共済制度に従った収入とし、家畜共済加入を推進する。
○野幌学園分校設置
○32年3月 倉庫増築 3.75坪 増築資金19万2610円

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(田村孝一執筆 1990年1月)21頁~23頁


武蔵酪農の歴史 13 『武蔵酪農40年の歩み』より 1990年

2010-01-14 22:43:51 | 1956年

○昭和31年(1956)度
 高坂地区で攻防戦を展開している最中、七郷村に於ては埼玉酪農七郷支部の出荷者の中に於て、武蔵酪農加入の機運は高まり明治乳業伊東所長現地に出向し、内容説明すると共に、菅谷支部の若手リーダーの山田巌氏、奥平武治氏、鯨井正作氏、支部長の中島源造氏等地区内に潜行し加入説得に当たる。七郷地区に於ては、これ又若手の明治派田畑郷治氏、杉田善作氏、中村昇氏等が決起し、武蔵酪農加入推進に邁進し、時の元老達を困らせ乍らも40数名全員一体となって武蔵酪農の加入に漕ぎ着けた。
 6月4日の理事会に於て奥平武二氏理事より経過と全員加入の説明がなされた。この厳しい争奪攻防戦も昼夜に亘り熾烈を極め、菅谷第2支部が発足した。
 その後数名の巻き返し離脱者が生じた。
 昭和31年4月 理事 高橋永治 退任

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(田村孝一執筆 1990年1月)21頁


武蔵酪農の歴史 12 『武蔵酪農40年の歩み』より 1990年

2010-01-13 22:41:00 | 1955年

○昭和30年(1955)度
昭和30年(1955)5月7日 第五回通常総会開催 於菅谷村小学校
           総組合員数 533名
            出席者数 330名(内委任状39名)
            役員改選 理事16名  監事3名
     5月13日 組合長 濱中東重郎(非常勤)選任
     5月27日 専務  藤野喜十(常勤) 選任
     7月20日     根立トシ子 採用
     7月31日     吉田愛子  退職
○夏乳増産共励会実施
○家畜共済制度の改正
○役員会生産、販売、購買の各部門制発足
○サイロ形枠購入。サイロ設置推進
○12月 倉庫建設 土地56坪購入 購入価格69850円
    倉庫木造平 30坪  価格117228円
    (この倉庫は横塚氏より車庫を贈与され倉庫に改築建造した。これに対し組合は感謝状と金一封を贈った。)
 31年(1956)春、発足して間もない高坂農協酪農部(高坂支部)は、高坂農協の役員改選により酪農部の指導者も変った。そこで雪印乳業の問題が発生し、酪農事情に浅い指導者達は酪農の現況を把握できないまま、目先きの問題に翻弄され、生産者戸惑いのなかで、新方向に傾倒の傾向が現れ、高坂内部に於て明治武蔵酪農系と雪印農協系との間に於て激烈な攻防戦となり、明治乳業及び当組合の役職員指導陣の昼夜に亘る活動は激烈なものであった。結果的には25名が半々に分裂し、農協酪農部は雪印乳業と契約した。当組合に残った13名は農協酪農部を離脱し、高坂支部として安定的な発展を成した。高坂農協酪農部は指導部の弱体から数年後生産者共々崩壊した。この時大岡支部に於ても数名のものが雪印に出荷し支部が分裂した。

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(田村孝一執筆 1990年1月)20頁


武蔵酪農の歴史 11 『武蔵酪農40年の歩み』より 1990年

2010-01-12 22:38:00 | 嵐山地域

○昭和29年(1954)度
昭和29年(1954)5月5日 第四回通常総会開催 於菅谷村小学校
           総組合員数 438名
            出席者数 330名(内委任状14名)
     7月1日 獣医師 西川奨 採用
     11月8日     内田千鶴子 採用
 乳質指導も段々と強化され、牛乳検査は県衛生部松山保健所の管轄で器具の取扱い、その他搾乳衛生等について秋池春雄技師が指導されると共に酪農家に対し食品衛生の理念についての教育もなされた。
○三保谷、高坂支部加入
○夏乳増産共励会実施 
○酪農振興法の施行により生乳取引き契約締結
○獣医専用オートバイ購入。
 前年の酪農ブームの喜びも、今年度は一転して乳価値下げ(1升7円)となり、酪農経営に多大の不安を与え、酪農ブームに乗って始めた酪農家、三保谷、高坂の生産者は乳牛価格の最高時に購入し、これから酪農の第一歩を踏み出す出ばなを挫かれ、苦境に追い込まれた。当組合獣医陣は飼育管理上の失敗なきよう、連日その指導に当り経営の安定に努めた。

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(田村孝一執筆 1990年1月)19頁~20頁


武蔵酪農の歴史 10 『武蔵酪農40年の歩み』より 1990年

2010-01-11 21:02:58 | 嵐山地域

○昭和28年(1953)度
昭和28年5月10日 第三回通常総会開催 於菅谷村小学校
           総組合員数 398名
            出席者数 289名
            役員改選 理事 16名 監事 3名
     5月15日 組合長 濱中東重郎(非常勤)選任
           専務 大塚眞一(常勤) 選任
     6月1日  獣医師 若林進 採用

○6月第1回乳牛導入実施 導入頭数13頭 購買地 山形県 購買委員 山田、荒井、伊東他
○夏乳増産共励回実施
○第2回乳牛導入
 導入頭数20頭 購買地 山形県 購買委員 吉田、山下、荒井、山田、田村
○獣医用自動二輪車購
○育成牛共励会実施 菅谷会場50頭 小見野会場 50頭
 27年(1952)~28年(1953)にかけて生産量も上昇し、全国的に牛乳の争奪戦が展開され、乳業界は戦国時代となり、この近辺に於ての業界も農家に支払われる原料乳価は経済乳価から競争による乳価の上積みが行われるようになり、採算をこえての追従があった。所謂酪農ブームとなり有畜農家創設特別措置法制定と平行し農家は酪農へと転じ、自転車で手綱を持ち牛買いに歩く様があちこちに見られた。
 高坂村、三保谷村でも酪農の機運が高まり高坂では高坂農協が酪農部を作り、明治乳業と交渉が進み導入希望者は20数名に達し資金は農協が対応し、武蔵酪農に加入が決定し29年(1954)春山形導入を実施し田村獣医師が出張した。初妊牛価格15~18万。時を同じくして三保谷村に於ても12名酪農希望者が集まり岡野、石黒、関氏或いは三保谷村農務課の長沢氏等当組合の福島敬三理事の指導に依り武蔵酪農に加入が決定した。29年(1954)3月早速山形導入を実施し購買者4名、当局より1名、武蔵酪農から福島理事と田村獣医師が参加し11頭の初妊牛を導入した。

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(田村孝一執筆 1990年1月)18頁~19頁


武蔵酪農の歴史 9 『武蔵酪農40年の歩み』より 1990年

2010-01-10 21:33:46 | 嵐山地域

○昭和27年(1952)度
 昭和27年4月29日 第二回通常総会 於菅谷中学校
            総組合員数 383名
             出席者数 288名(内委任状65名)
 第二回通常総会に於て定款変更を上程し前定款を廃棄し、新定款に変更した。
 信用事業をとり入れられ貯金業務も開始された。
    5月12日 専務  山下武二(常勤)  辞任
    5月18日 専務  大塚眞一(常勤)  選任
    12月 1日 獣医師 玉置源吉退職
              (後に明治乳業入社現和光畜産KK社長)
 組合の運営も着々軌道に乗りつつあるも酪農戦国の世は厳しく近隣の小川に小川ミルプラントの設立計画(10円牛乳)が進み目先現乳の高買いが始まり、組合内部に於ても八和田、野本等の地域で蠢動的な様相が見えはじめ、数拾名の脱落者を出すに至った。(数年を待たずに乳代の遅延等が生じ崩壊し、出荷者は元の組合に戻るもの他の組合に出荷するもの等に別れた)
 かかるなかで、組合は着々事業を進め、当時は田畑は米麦主体の大切な財産であり飼料作物等普及については大変な苦労を費した。
 飼料作物指導圃設置について1支部5畝として種子を無償で交付し、推進に努めた。例1.2.3.の圃場設計を出し、各支部より希望を求め、次の通り野本例3、松山例1、大岡例1、西吉見例1、宮前例1、菅谷例3、八和田例1、福田例1、唐子例3、小見野例1、八ツ保例1、竹沢例1の圃場作付が実施され、これにより自給飼料普及推進が始まり、後に山林牧野等にイタリヤン等の牧草が播種されその推進が図られた。

○烏山工場(のちの東京工場)へ送乳
 大都市に於ける乳製品及び飲用牛乳の需要は年々増加の傾向にあり、この年の7月明治乳業は烏山工場(後の東京工場)を開設操業した。新烏山工場は、わが国で初めての高温短時間殺菌方式による市乳処理設備をもち、乳業界に大きな革新をもたらした工場で、当組合の原乳も新烏山工場へ送乳することになった。
 早速役員支部長会は全員新設操業した新烏山工場を見学した。
 玉置獣医師の退職により、獣医師の補充については伊東所長田村獣医師に一任し、当面手不足となった診療について自動二輪車の購入が検討された。
後に購入委員会に依り、メグロ500CCが獣医専用車として購入された。
 購入金額24万8000円資金は組合員の負担金によるものであった。
 この年度は小川プラント問題等もあり乳価問題について会社側貫当96円、組合側は100円で伊東所長と理事会に於て厳しい折衝が行なわれた。

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(田村孝一執筆 1990年1月)17頁~18頁


武蔵酪農の歴史 8 『武蔵酪農40年の歩み』より 1990年

2010-01-09 06:51:55 | 嵐山地域

○昭和26年(1951)度
昭和26年5月3日 第一回通常総会 於菅谷小学校
           総組合員数 353名
            出席者数 299名(内委任状39名)
            役員改選 理事 16名  監事 3名
     5月8日 二代組合長 濱中東重郎(非常勤) 選任
            専務  山下武二(常勤)  〃
     7月4日 獣医師 玉置源吉 採用
     7月27日 理事会に於て事務所(会議室、宿直室を含む)
           建設が決定
           場所   集乳所の近辺  資金25万円以内
           建設委員 山田眞平 高坂清一 江野子吉
                (理事会で総て一任)
     8月1日 土地取得(中島照三氏より)
           菅谷村大字菅谷234番地の4
           面積30坪 取得価格1万円
     9月21日 事務所 木造平家 建坪15坪 建築価格23万円
            (宿直は獣医師に依頼)
○牛の流行性感冒について全頭予防施策を講じ、前任に比し発生は減少した。
○人工授精用二輪車購入(寄附金)
○乳質改善対策として落等乳防止等指導懇談会開催。
○興農資金貸付に依る乳牛導入。
○理事会内部に於て乳質問題に関連し集送乳事業の問題で討議がなされた。

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(田村孝一執筆 1990年1月)17頁


武蔵酪農の歴史 7 『武蔵酪農40年の歩み』より 1990年

2010-01-08 06:48:00 | 嵐山地域

   その後の経過
○昭和25年(1950)度
 昭和25年7月東京乳業株式会社比企集乳所が新設され、伊東勝太郎氏が初代集乳所長に就任した。小松氏(現関東製酪KK社長)大貫、木下氏等受乳を担当し、小松氏は後に秩父(現全秩酪農)へ赴任した。
 武蔵北部酪農農業協同組合は、集乳所の一隅を借り発足した。
 組合事業については販売、購買、指導の諸事業が開始され、集送乳については横塚、長谷部、木村、志村の各氏が担当した。
 その頃の酪農家の乳牛の飼育頭数は一戸当り1~2頭で搾乳は1日3回搾った原乳は一斗缶又は冷し缶で井戸に吊して冷却保冷した。
 組合は各地域に集乳所の設置を計画していたが、菅谷村菅谷、平沢、千手堂、遠山、鎌形、宮前村月輪、伊古等、集乳所の近辺の組合員は自転車の荷台に一斗缶をつけ持ち込み、二本の持ち込みは稀であった。
元老の山田眞平氏関根茂良氏達は和服姿で姿勢よく自転車に乗り、原乳を運んだ姿も牛乳の争奪戦とは裏腹に一時代を憶わせる和やかな光景でもあった。
 東京の送乳については横塚氏(後の旭運輸社長)は木炭車のトラックの面倒をみながら二斗缶を荷台に積み二斗缶の間に氷を乗せシートを覆い乳質を気にしながら苦労して板橋工場へと送乳した。
 酪農の戦国時代の幕開けとでもいうべきか、各地域では隣の家はA組合、或いはB組合と複雑な環境のなかで引続き組合の支部長、役職員はメーカーと共に夜も休まず組合の理想をかかげながら、攻防戦を展開する長い道のりとなる訳である。
 牛乳の生産量も着々増量し夏期に於て日産10石を記録するに至った。
9月上旬~10月中旬にかけて突如、牛の流行性感冒が発生し猛威を振い殆んど全頭が罹患し、伊東所長、田村獣医師は昼夜にわたる診療活動に大変てあった。
 10月東京乳業KKは明治乳業KKと合併したので、原乳はそのまま明治乳業株式会社と取引きは継続された。

 生産態勢も着々軌道に乗り日産乳量も拾数石に達した。

○昭和25年(1950)12月17日
  拾石祝(日産)が菅谷中学校に於て盛大に行なわれた。

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(田村孝一執筆 1990年1月)16頁


武蔵酪農の歴史 6 『武蔵酪農40年の歩み』より 1990年

2010-01-07 22:48:09 | 嵐山地域

   武蔵北部酪農組合の発足

○設立登記
 319名の同意者を得、組合員の協力と期待を担って1月22日創立総会を開催し、誕生した武蔵北部酪農農業協同組合は、2月19日付 定款その他必要書類を添え、設立許可申請書を発起人中島信治他15名により埼玉県知事大沢雄一氏に提出され次の通り許可された。

  25農協収160号
農業協同組合設立認可指令
    比企郡菅谷村
    武蔵北部酪農農業協同組合
               発起人 中島信治  他15名
昭和25年2月19日申請の武蔵北部酪農農業協同組合の設立について認可する
  昭和25年6月9日

                         埼玉県知事 印

 設立認可を受け8月18日出資の払込を完了した。
     総出資者数       327名
     総出資口数       1209口
     出資一口の金額     100円
     総出資金額      120900円
 昭和25年8月28日設立登記完了(浦和地方法務局小川出張所)
 昭和25年9月1日大沢雄一埼玉県知事に設立登記完了報告書を提出した。

○執行体制
 事務所を比企郡菅谷村大字菅谷232番地の3に置き武蔵北部酪農農業協同組合は発足した。
     (7月に新設された東京乳業比企集乳所の一隅を借用)

 理事会の互選により初代組合長専務が選出され
       組合長  吉田龍次郎(常勤)就任
       専務   山下 武二(常勤)就任

 昭和25年9月1日付で下記の者が職員に採用された。
  職員
       購買担当        荒井照雄
       診療〃    獣医師  田村孝一
       受乳〃         吉田愛子
(役職員共総立総会前後より業務を担当し、田村獣医師は2月1日着任2日より診療に従事した)
 昭和25年12月6日加藤留平人工授精師嘱託に採用。

○発足時の組合員名簿(327名)
菅谷村 45名
 武井與平 山田眞平 小林忠一 河合賢一 村田文作 内田時治
 西 忠一 奥平常太郎 内田喜雄 内田与市 内田惠一 山下武二
 関根茂良 関根金平 内田孫三郎 瀬山友治 簾藤庄治 根岸直次
 小沢庚一 小沢長助 川島重治 鯨井正作 根岸梅松 中島信治
 山岸一利 中島利恭 中島福治 関根常次郎 木村留造 根岸寅次
 中島年治 笠原傳吉 権田豊治 権田和重 権田昭三 島崎栄助
 島崎竹雄 高橋増三 根岸房吉 高瀬梅治 出野 好 侭田雪光
 深沢高義 武井治平 金子幾太郎
宮前村 60名 【氏名略】
唐子村 42名 【氏名略】
野本村 24名 【氏名略】
竹沢村 12名 【氏名略】
八和田村 18名 【氏名略】
松山町 21名 【氏名略】
大岡村 28名 【氏名略】
西吉見村 10名 【氏名略】
東吉見村 11名 【氏名略】
八ツ保村 30名 【氏名略】
小見野村 12名 【氏名略】
福田村 14名 【氏名略】

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(田村孝一執筆 1990年1月)12頁~15頁


武蔵酪農の歴史 5 『武蔵酪農40年の歩み』より 1990年

2010-01-06 20:31:31 | 嵐山地域

○昭和24年(1949)度事業計画
1 事業の方針 酪農業生産力の増進と組合員の経済的社会的地位の向上を図る。
2 組織の方針 (1)酪農経営者315人 戸数315戸 従事者315人
   当初加入組合員数
       (1)正組合員 酪農経営者 315人
       (2)准組合員 なし
   加入予定者   合計        315人
3 初年度事業計画
 (1)集乳所建設 (2)各支部出荷所設備 (3)優良牛乳生産に関する技術の改善 (4)購買販売事業 (5)乳牛管理に関する事業
4 資金計画
 (1)資金調達計画
  払込出資金      61,900円(出資口数619口1口壱百円)
  東京乳業借入金    200,000
  合計         261,900
 (2)資金運用計画
  固定資金(設備資金) なし
  事業資金購買     200,000円
      販売
  預裕金 預金      61,900
  合計         261,900

 昭和24年度予算(別表4)

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(田村孝一執筆 1990年1月)10頁~11頁


武蔵酪農の歴史 4 『武蔵酪農40年の歩み』より 1990年

2010-01-05 22:50:14 | 嵐山地域

 2 設立総会
 開催公告期日  昭和25年1月7日
 招集通知日   昭和25年1月13日
 開催日時場所
    日時   昭和25年1月22日午後1時
    場所   比企郡菅谷村小学校
 総同意者数   319名
 出席者数    292名(内委任状63名)
 議長選任    議長  濱中 東重郎
 議事
  第1議案 定款案承認並びに役員選挙規定承認の件(理事13名原案修正)
  第2議案 事業計画 収支予算案承認の件
  第3議案 選挙管理人並びに立会人選任の件
       選挙管理人  中島信治
       選挙立会人  田中 盈 高坂清一 市川仙之助 落合兵作
  第4議案 此の組合の設立当時の役員は第1回通常総会に於て、之を改選する案を諮る(付帯決議)
  第5議案 理事、監事選挙の件(理事13名、監事3名)
閉会       5時10分

○設立時役員名簿(別表3)

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(田村孝一執筆 1990年1月)9頁~10頁


武蔵酪農の歴史 3 『武蔵酪農40年の歩み』より 1990年

2010-01-04 22:40:00 | 嵐山地域

○設立準備会
1 開催日時  昭和24年12月11日 午後1時
2 開催場所  武蔵北部酪農農業協同組合設立事務所
3 出席者   50名
4 招集者及び議長
   招集者 発起人代表 中島信治
   議長        山田眞平
5 副議長及び書記の任命
   副議長       田中 盈
   書記        中島年治
6 議事
 (1)組合の名称及び事務所の所在地
   名称  武蔵北部酪農農業協同組合
   所在地 埼玉県比企郡菅谷村大字菅谷128番地に事務所を置く。
 (2)組合の地区 比企郡、大里郡、秩父郡全域
 (3)組合員の資格
   正組合員 組合の地区内で常時一頭以上の乳牛を飼養する者。
   准組合員 組合の地区内に住所があって、この組合の施設を利用することが適当と認められる者
   組合員となろうとする者が組合員たる資格を有するか否か明らかでない時は理事会が之を定める。
 (4)定款作成の基本となる事項の決定
   出資一口の金額 一口に付壱百円
   出資の払込方法 第1回全額払込
   賦課金     事業の為必要と認めたる時総会の決議を経て組合員に賦課する。
   事業      左の事業を行う。
   生産協同事業  流通協同事業 其の他の協同事業
   役員及び職員  理事10名 任期2年 内組合長1名、専務理事1名を互選する。
           監事 3名 任期2年
           本組合に参事1名、会計主任1名を置くことを得、其の他職員若干名を置く。
 (5)定款作成委員選任  議長一任
 (6)創立総会の日取りの決定
   昭和25年1月17日(後に22日に変更) 午前10時より菅谷小学校に於て
 (7)決議録署名者指名の件
   決議録署名者   中島信治  武井與平
7 閉会   午後5時
                (昭和24年12月18日定款作成)

     ○定款作成委員名簿(別表2)

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(田村孝一執筆 1990年1月)7頁~8頁


武蔵酪農の歴史 2 『武蔵酪農40年の歩み』より 1990年

2010-01-03 14:57:40 | 嵐山地域

○設立発起人名簿(別表1)
○設立目論見書
1. 名称   武蔵北部酪農農業協同組合
1. 地域   埼玉県比企郡、大里郡、秩父郡全域
1. 事務所  埼玉県比企郡菅谷村大字菅谷128番地
1. 組合員の資格
 (イ)組合地区内で常時一頭以上の乳牛を飼養する者。
 (ロ)組合地区内に住所があって此の組合の施設を利用する事が適当であると認められる個人、又は団体はこの組合の准組合員として加入することが出来る。
   備考 組合員となろうとする者が組合員の資格を持っているか否か明瞭でない時は理事会でこれを決する。
1. 出資一口の金額  壱百円
1. 出資の払込方法  出資金は全額を一時に払込むものとする。
1. 賦課金
  事業の為必要ある時のみ総会の決議を経て組合員に賦課する。
1. 事業
(イ)牛乳生産に関する一切の事業
(ロ)牛乳生産に関する必要なる物資の供給
(ハ)乳質改善の研究
(ニ)共同利用施設の設置
(ホ)組合員の生産する牛乳の運搬加工貯蔵又は販売
(ヘ)酪農技術及び酪農事業に関する組合員の知識向上を図る為の教育
(ト)組合員に対する一般的情報の提供
(チ)組合員の経済的地位の改善の為にする団体協約の締結
(リ)前各号の事業に付帯する事業
1. 役員及び職員
   理事   15名
   監事   5名
   参事及び会計主任各1名 職員若干名

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(田村孝一執筆 1990年1月)5頁~6頁


武蔵酪農の歴史 1 『武蔵酪農40年の歩み』より 1990年

2010-01-02 14:54:00 | 嵐山地域

   武蔵酪農設立の経緯
 1 背景並びに設立の経過
 比企郡の酪農については、昭和12年(1937)頃より17年(1942)頃にかけて菅谷村(現・嵐山町)、宮前村、福田村(現・滑川町)、竹沢村、小川町、八和田村(現・小川町)、玉川村(現・ときがわ町)、亀井村(現・鳩山町)、唐子村、野本村、松山町(現・東松山市)、吉見村(現・吉見町)、小見野村、八ツ保村(現・川島町)等の各町村の有志が相前後して酪農をとり入れ、埼玉酪農組合の各支部が結成されていた。
 それ以前は古くは明治の頃より乳牛を飼育し牛舎(牛乳屋)へ貸付けていたのが酪農の前身でもある。
 戦前戦後の埼玉の酪農の原乳は森永の寄居工場に出荷されており、その頃の寄居工場は乳製品工場で乳価についても加工乳価格で取引されていた。
 戦時下牛乳も他の物資と同じく統制下におかれ乳業会社も統制会社として終戦後も業務が続けられ昭和23年(1948)に会社の再編が行なわれた。
 昭和24年(1949)埼玉酪農組合内部に於て、役員間で組合運営取引先等の問題で意見の対立が発生したかに聞き及んでいる。又菅谷村駅前に事務所のあった比企酪農組合に於ても同様の問題が起こっていた。
 そこで新たな目標をかかげた比企郡に於ける武蔵酪農組合発足にかかわる酪農指導者達である武井孝次郎氏(宮前村)、田中盈氏(松山町)、松本完氏(八和田村)、吉田龍次郎氏(竹沢村)、山田眞平氏(菅谷村)、福島敬三氏(八ツ保村)、中島信治氏(菅谷村)、山下米吉氏(西吉見村)、武井與平氏(菅谷村)、高坂清一氏(宮前村)、山下武二氏(菅谷村)、荒井照雄氏(唐子村)、高橋増三氏(菅谷村)、松本博氏(川本村)、市川仙之助氏(野本村)、新井甚次氏(野本村)等その他数多くの有志達は、埼玉県の酪農家の原乳が加工乳価格で取引きされている現状をうれい、今後は埼玉の酪農を市乳地帯の基盤固めにすべく、乳価についても市乳価格で取引きしなければならないという大きな理想をかかげ時代を先取りするためにも、単なる組合の分裂行動でなくして、埼玉県の酪農基盤を市乳圏に入れることにより酪農家の経済基盤の安定向上を図る錦の御旗を掲げ、各地区に於て会合を設け、幾多の困難をのりこえ乍ら数多くの同志の賛同により結束を固めたのである。
 代表者により時の東京都の市乳の主流をなしていた東京乳業株式会社と交渉に入り、国生専務取締役(後の明治乳業KK)と交渉が妥結し、内部に於ては集送乳について着々態勢を整え、集乳については長谷部正氏(宮前村)、木村氏(大岡村)、志村氏(小見野村)、送乳については横塚元吉氏(後の旭運輸KK社長)等の絶大なる協力を得て、昭和24年(1949)10月16日「3石4斗」の原乳をもって東京乳業株式会社板橋工場への出荷が開始された。
 そして武蔵北部酪農農業協同組合設立事務所を菅谷村中島信治氏宅に設けた。昭和24年(1949)10月31日新進気鋭の獣医師伊東勝太郎氏24才(後の明治乳業株式会社専務取締役)が臨床を担当しながら責任者として派遣され着任した。(菅谷村小島屋旅館に単身寄宿、後に宮前村長谷部宅の離れに下宿)、11月1日より直ちに昼夜の別なく勢力的に活動を開始し乳牛の診療並びに地域の会合へと自転車で奔走努力した。
 伊東勝太郎氏は豪快(柔道4段)で人情味豊で明朗な性格と併せて、獣医師として乳牛の妊娠50日~60日の直腸検査による妊娠鑑定では100発100中の抜群の優れた技術を備え、又高度の診療技術を有していたことが生産者により一層の信頼を得ることになり多くの酪農家の同意者を集める要因となった。(組合発足後の獣医陣の礎をなし急患に備え誰か必ず地域内に残り、緊急の場合でも24時間体制で組合員に迷惑をかけないという思想は今でも継承されている。)
 この頃相前後して秩父郡、大里郡に於ても同様の問題が発生して居り、伊東氏は秩父郡の関係(現全秩酪農組合)も兼務した。
 強力な指導者を得た同志の面々は着々組合設立準備の体制に入り組合設立発起人を選考した。

※組合の名称については武蔵酪農農業協同組合で設立準備をすすめていたが県の指導により武蔵では大きすぎるので北部をつける様指示され、武蔵北部酪農農業協同組合の名称で設立準備をした。
 16名の設立発起人は全員出席の基に昭和24年10月23日以来前後3回の協議会を経て目論見書を作成した。

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(田村孝一執筆 1990年1月)3頁~4頁