里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

桜の花を訪ねて9 遠山道のさくら 1981年

2009-03-28 21:11:00 | 千手堂

 千手堂から遠山へ抜ける旧道の道端に高さ五十センチほどの道標があった。大正八年(1919)十二月に千手堂青年部の建てたものである。一面には「西五丁トンネルアリ大字遠山ヲ経テ小川町下里二至ル」と「東十丁大字菅谷ニ接シ松山小川間ノ県道ニ通ズ」とニ行に書かれ、他の一面には「東約ニ丁ニシテ左方大字平沢志賀ノ間道ヲ経テ七郷八和田村ニ至ル」と「南当大字ヲ経テ大字鎌形玉川村ニ至リ西平越生方面」とある。そして正面には「不知己分則言行多過(己の分を知らざればすなわち言行あやまち多し)」と刻まれてあった。道しるべに自らの身を修める言葉を書き記した当時の青年の心意気に思わず感動を覚えた。今ではこのねずみ色の道標に歩みを止める人は居ないであろう。
 道標の文字を書き写していると近所のおばさんが出てきて「寄ってお茶でも飲んでいきませんか」と言葉をかけてきた。時は正午、しかも暗い空からは雨がぽつんぽつんと降ってきたので遠慮した。田舎の人は親切だと思った。
 千手堂から遠山への道は道標の示すとおりトンネルをくぐる細い道だった。これを平沢から遠山へ通ずる道路として完成したのは昭和四十七年(1972)である。その折、この道の両側にさくらを植えた。道に沿って山ざくらの葉が赤褐色に芽ぶいている。
 遠山は盆地の中にある。盆地を囲む山々に点々とさくらの花の白く咲くのが見える。
 遠山への道がさくらの花でトンネルをつくるのはそんなに先のことではないだろう。
     『嵐山町報道』298号 1981年(昭和56)6月1日

<script type="text/javascript" src="http://maps.google.co.jp/maps?file=api&v=2.x&key=ABQIAAAAiqSLL0x2C9fumhvdtO_9mhRK5KJ_ysfVkCrlOfZpAyQdOP0PshTxZN1UytcCnpzYmax-11cBbQXbKw" charset="utf-8"></script>
<noscript></noscript>
<script type="text/javascript">setTimeout('mapFunction_51672()', 2000);function mapFunction_51672(){var map = new GMap2(document.getElementById('mapContainer_51672'));map.addMapType(G_PHYSICAL_MAP);map.addMapType(G_SATELLITE_3D_MAP);map.addControl(new GLargeMapControl());map.addControl(new GScaleControl());map.addControl(new GHierarchicalMapTypeControl());map.setCenter(new GLatLng(36.040792779604764, 139.30436074733734), 13, G_NORMAL_MAP);var marker = new GMarker(new GLatLng(36.040792779604764, 139.30436074733734));GEvent.addListener(marker, 'click', function() {marker.openInfoWindowHtml('');});map.addOverlay(marker);}</script>
Latitude : 36.040792779604764
Longitude : 139.30436074733734


桜の花を訪ねて8 千手院のさくら 1981年

2009-03-28 15:05:00 | 千手堂

 普門山千手院(嵐山町千手堂759)の本堂は赤い屋根で県道からも緑の中に見える。山ざくらと吉野ざくらの二本の老木が境内にある。庫裡は新築中だがほとんど出来上っていた。
 最近駐車場をつくるために整地したところ、いちょうの木の傍からカナ物の位牌が発掘された。それには「沢山頼国大居士」とあり、鎌倉時代頃のものだろうという。
 千手院は「応和二年(962)慈恵大師の開基になり、村上天皇勅願の道場にして、天皇御自作の千手観音を安置せりと伝える」と「嵐山探訪」には誌されている。
 また「嵐山町誌」は次のように述べている。
 村名の起原については伝説として「沿革」に「村上天皇の天暦三年(949)に千手観音堂を造営され、武蔵国比企郡に土地を給与された。それでその土地を千手堂村と名づけ、寺を千手院といった。その後、文治建久の頃(1185~1198)に兵火にかかって、この建物は焼失した。そして更に数代を経て天文年間(1532~1554)に幻室伊芳という住職の時再建した。ところが又々享保元年(一七一六年、徳川吉宗の時代)に火災にあって鳥有に帰した。然し観音像は無事であったという。又、菅谷の館に重忠がいた頃その家来がこの村に居住し、そこに塚が三つあって鎧塚といっている」と。
 これに対し「風土記稿」では千手院の解説で「千手観音を安置する当院は昔、わづかの堂なりしを幻室伊芳という僧を開山とす。」とあり。入間郡黒須村の蓮華院の観音堂に掛けてあるワニ口の銘に「武州比企郡千手堂……」とあるから「このワニ口は千手院のものであり、寛正の頃(1461)はいまだ堂であったことがわかるといっている。
 そして「嵐山町誌」はワニ口の銘文からして千手堂が村の名前になったのであり、それは千手観音があったからだと結論している。とに角由緒のある古い寺の一つである。
 すぐ近くの森に春日神社がある。珍らしいかやぶきの屋根が古さを物語っている。みかげ石の鳥居の上にさくらの花が両側から枝を伸ばして咲いていた。森閑とした山中にうぐいすの声が時をり聞かれた。お宮の左右に掲げられた額の文字は風雨に打たれて見えなくなっている。
 花は石のきざはしに散っていた。
     『嵐山町報道』298号 1981年(昭和56)6月1日

<script type="text/javascript" src="http://maps.google.co.jp/maps?file=api&v=2.x&key=ABQIAAAAiqSLL0x2C9fumhvdtO_9mhRK5KJ_ysfVkCrlOfZpAyQdOP0PshTxZN1UytcCnpzYmax-11cBbQXbKw" charset="utf-8"></script>
<noscript></noscript>
<script type="text/javascript">setTimeout('mapFunction_16060()', 2000);function mapFunction_16060(){var map = new GMap2(document.getElementById('mapContainer_16060'));map.addMapType(G_PHYSICAL_MAP);map.addMapType(G_SATELLITE_3D_MAP);map.addControl(new GLargeMapControl());map.addControl(new GScaleControl());map.addControl(new GHierarchicalMapTypeControl());map.setCenter(new GLatLng(36.03822701231385, 139.30832237005234), 13, G_NORMAL_MAP);var marker = new GMarker(new GLatLng(36.03822701231385, 139.30832237005234));GEvent.addListener(marker, 'click', function() {marker.openInfoWindowHtml('');});map.addOverlay(marker);}</script>
Latitude : 36.03822701231385
Longitude : 139.30832237005234

桜の花を訪ねて7 将軍沢のさくら 1981年

2009-03-28 13:57:00 | 将軍沢

 将軍沢には明光寺(嵐山町将軍沢308)の境内に数本と日吉神社(嵐山町将軍沢425)の参道に三本のさくらがあった。いずれも十数年しかたっていない。村社日吉神社と書かれた御影石の隅に小さな石が保存されていた。表には「田村将軍入口」と朱書きされている。裏には「旧跡○○……ア」と同じく朱書きされているが、何と書かれてあるのか読めない。
 大正六年(1917)に建てられた旗立てがあり、赤い鳥居をくぐって進むと老杉が四本並び、その先にさくらの花がぱっと咲いていた。新築の建物がまず目につく。出来上がったばかりの集会所である。その隣りに白木の鳥居のある小さな社がある。これが将軍様を祀った社殿である。祀られているのは坂上田村麻呂である。
 この将軍社については以前、忍田政治氏の裏の道を三百メートルほど行った道の端に四尺四方の塚があり、平べったい石が積み重ねられて杉の木が生えていたという。そしてここを将軍前と呼んでいた。さきの「田村将軍入口」の石もこの道の入口にあったということである。ここの地名を八反田(はったんだ)という。
 嵐山町誌によると「菅谷村沿革」という書き物に次のように書いてあると。

 「坂上田村麻呂墳、村の中央八反田の山林にあり、八坪、三尺ばかりの墳の上に木製にして三尺四方の小宮あり、昔、利仁将軍此の地を経歴したるとき、此の墳に息(いこ)へしと、想うに延暦中、巌殿山毒蛇退治の時にもあらんか将軍の霊を祭りて大宮権現と称す明治十年(1877)九月村社の池中に移す」
 さらに「村内に利仁将軍の霊を祀りし大宮大権現の社あるをもって将軍沢の名あり」とも記している。

 これらによるとまづ将軍沢の地名は藤原利仁将軍を祀ってあることによって起ったことになる。
 忍田政治氏の語るところでは、昔坂上田村麻呂がこの地に来て湿地帯なのでなんというところだと聞いたが名前がないと答へると、それならば名前をつけてやらうと云って将軍沢の地名がつけられたのだと伝え聞いているという。
 将軍沢の地名は坂上田村麻呂の征夷大将軍の名から起ったのだと子供時代から聞いていた。
 田村麻呂征夷大将軍になったのは延暦十六年(797)桓武天皇の御代である。
 藤原利仁が鎮守府将軍に任ぜられたのは延喜十五年(915)後醍醐天皇の御代である。
 二人の将軍の間には百年以上の歳月がたっている。そして「古墳は坂上田村麻呂の塚であるが、利仁将軍がこの塚に腰かけて休んだのでそこに利仁将軍の霊を祀ったのだという」と町誌は解説している。しかし将軍沢の人たちは誰一人として利仁将軍のことなど考えたこともないだろう。どうしてこういうことを「風土記」や「沿革」が書いたのか疑問である。
 また、将軍社はハシカに効くというので戦前は「大願成就」と書いた赤や白の旗が数多く奉納されたともいう。
     『嵐山町報道』298号 1981年(昭和56)6月1日

<script type="text/javascript" src="http://maps.google.co.jp/maps?file=api&v=2.x&key=ABQIAAAAiqSLL0x2C9fumhvdtO_9mhRK5KJ_ysfVkCrlOfZpAyQdOP0PshTxZN1UytcCnpzYmax-11cBbQXbKw" charset="utf-8"></script>
<noscript></noscript>
<script type="text/javascript">setTimeout('mapFunction_23252()', 2000);function mapFunction_23252(){var map = new GMap2(document.getElementById('mapContainer_23252'));map.addMapType(G_PHYSICAL_MAP);map.addMapType(G_SATELLITE_3D_MAP);map.addControl(new GLargeMapControl());map.addControl(new GScaleControl());map.addControl(new GHierarchicalMapTypeControl());map.setCenter(new GLatLng(36.01881079265031, 139.32820558547974), 13, G_NORMAL_MAP);var marker = new GMarker(new GLatLng(36.01881079265031, 139.32820558547974));GEvent.addListener(marker, 'click', function() {marker.openInfoWindowHtml('');});map.addOverlay(marker);}</script>
Latitude : 36.01881079265031
Longitude : 139.32820558547974