中央奥の山が笠山、トラックの右後は遠ノ平山。
志賀・市野川沿いの耕地を通る送電線の鉄塔。
撮影:1971年(昭和46)1月24日
参照:地産団地造成協議書が結ばれる 1970年11月
「地産団地の建設が始まる 1971年1月」1、2、3、4
「9月入居を目指して突貫工事の地産団地 1971年6月」1、2
「入居者120世帯を超えた地産団地 1972年1月」
中央が広野・金皿山(かなさらやま)。
中央から右が太郎丸の集落。
左が金皿山。中央が太郎丸の集落。
撮影:1971年(昭和46)1月24日
参照:地産団地造成協議書が結ばれる 1970年11月
「地産団地の建設が始まる 1971年1月」1、2、3、4
「9月入居を目指して突貫工事の地産団地 1971年6月」1、2
「入居者120世帯を超えた地産団地 1972年1月」
工事の看板の後が杉山・川袋の集落。
撮影:1971年(昭和46)1月24日
参照:地産団地造成協議書が結ばれる 1970年11月
「地産団地の建設が始まる 1971年1月」1、2、3、4
「9月入居を目指して突貫工事の地産団地 1971年6月」1、2
「入居者120世帯を超えた地産団地 1972年1月」
菅谷大通り(国道254号、2009年現在は旧国道254号)での交通事故後の警察の現場検証現場を中島屋旅館前辺りから東松山方面を撮影したものである。写真左側の家が奥野長吉氏宅(家号だんご屋)、その右隣り(奥)が小林長次郎氏宅(家号松屋)、その横に菅野(すがの)美容室の路地の入口の看板が見える。その右隣りの二階建ての家が山岸松次氏宅(家号虎屋)の空き地に建てられた中華料理店(主としてラーメン屋)の「五十番」(内田勝氏経営)である。この店は4~5年商売をしていた。この家屋(店)は取り壊されて現在は無い。この写真の撮られた年は特定できないが、昭和40年(1965)頃と推定する。
なお、道路左側のトラックの後部辺りの位置は、現在の(株)ファミリーフーズ、滑川町月輪、六軒方向に通じる道路の入り口である。写真右側のブリヂストンタイヤ、ヨコハマタイヤ、MOBILの看板の見える店は、中島油脂店である。(権田文男、2009年3月)
写真中央部左側の森が長慶山東昌寺である。墓地は区画整理されている。寺の周りの家も少ない。写真下側には一部、平沢も写っているのか。役場庁舎はある。撮影年を特定できないが、推測するところ昭和40年(1965)前後の写真か。東昌寺の工事は終わっており(1962)、菅谷幼稚園の建物はある(1964)。(権田文男)
1960年(昭和35)12月25日 菅谷村役場新庁舎落成
1961年(昭和36)6月15日 東昌寺落慶式
1962年(昭和37)4月6日 東昌寺落慶式
1964年(昭和39)4月1日 私立菅谷幼稚園開園(根岸忠与園長)
1970年(昭和45)4月15日 嵐山町中央公民館落成
1971年(昭和46)4月1日 東昌会館を改築して嵐山町立嵐山幼稚園開園
1974年(昭和49)1月 嵐山幼稚園、千手堂中原の新園舎に移動
埼玉県と県道路協会主催による道路清掃、および危険物の除去作業。場所は菅谷の上(かみ)地区、2009年現在の嵐山三叉路付近での道路清掃作業の様子である。道路右側、「ネオサイクリ…」「ワイ…」の広告は島元薬局、手前に島本釣具店があった。
道路愛護週間
県と、県道路協会では、例年のように、四月二十一日から三十日まで道路愛護旬間と定めて、道路愛護作業を行うことになり、本村ではこれに協力して次のように、小中学生が出動し、道路の清掃危険物除去等の作業を実施した。
四月二十六日
菅谷中 四〇四名
菅谷地内県道及び千手堂-遠山、大蔵-将軍沢村道
菅谷小 四八八名
菅谷地内県道及び村道(中学に同じ)
鎌小 一六七名
鎌形地内県道
七郷小中合同 六一〇名
七郷地内県道及び村道
『菅谷村報道』110号 1960年(昭和35)5月15日
菅谷の子供の楽しみの一つに天神講があった。十二月二十四日、俺たち小学校【菅谷村立菅谷尋常高等小学校。現嵐山町立菅谷小学校】の一年生になった者は、風呂敷に包んできた通信簿を座敷に放りだして、天神講だと言って家を駆け出して行く。今年から天神講に参加できると喜んだものだ。高等二年の上級生、高等一年、小学六年、皆大きくたくましく兄貴のようだった。上級生が学校から帰るのを待ち構えていた。昭ちゃん、良平さん、秀夫さん、みんなが帰ってきた。さあこれから天神講だ。
高等二年、一年、みんなで米を入れる袋、醤油ビン、油のビン等をもって、天神講に参加する子供の家を廻る。米二合、人参一本、又次の家では米と大根一本、醤油茶飲み茶碗一杯、油茶飲み茶碗一杯、ゴボウ一本……。上級生の後ろについて歩きながら家々を集めて歩き、今年の宿(やど)をしてくれる家につくころには、荷物が一杯集まった。
そして子供達も大勢集まり、上級生の命令で、これから山に薪を集めに行くものと、笹竹取りに行くものとに別れて出掛けて行く。皆協力して枯木を集めて縄でいわいて運ぶ。夜と朝との自分たちで使う物はみんなで共同で集めて、宿をしてくれる家へもって行き、宿のおばさんに渡した。
宿をしてくれる家では、二部屋続きの座敷を開放して、子供たちに自由につかわしてくれた。子供たちは共同ではたらき、今晩の天神講の宿での、一同に会しての晩飯を楽しみにしながら、上級生の指示に従い、髪と筆、 硯、紙も小さい子供には初めての唐紙(トウシ)という長い紙でした。その紙に上級生がお手本を
奉納 天満天神宮
と書いてみせて、下級生の手をとりながら書いて行く。全員書き終わり墨が乾くまで、座敷いっぱい並べて、うまく書けた子、書けない子、うるさいこと……。
その間にも、年上の子供たちは先程取ってきた笹竹を適当な長さに切り揃え、長いものと旗の頭につけるものとに分けている。そして乾いた紙の頭に糊をつけて笹竹に丸く張り付けて、竹の両方の端を糸で結び、長い笹竹につるしてできあがり。
そろそろ先程集めたゴボウ、大根、ニンジン、いろいろのものを宿のおばさんが料理している匂いがしてくると、子供たちはなんのご馳走ができるのかとひそひそ話。その間にも、上級生たちは習字の道具を片付けたり、掃除をしたりして、宿をしてくれる家に迷惑の掛からぬ様にと気を使っている。自分たちの事だから自分たちでするのが当り前だ。
夕方近くなると上級生の命令で、みんなが家に帰り、ご飯茶碗と箸を持ってくる。上の人たちは、ご飯のちゃぶ台を借り集めて持ってくる。いよいよ待ちに待った夕ご飯。それぞれの絵のついた茶碗に、おいしくできた五目ご飯をよそる。宿のおばさんが一番大変だ。急に子供が十六人。おいしいおいしいとお代わり。もう五杯もたべた。俺は四杯。豆腐のつゆもうまい。食欲旺盛だ。みんなで食べれば何でもうまい。おばさんの作った五目ご飯はすぐになくなる。皆満腹だ。
いじめなどない、塾もない。皆、上級生の命令に従いついて行く。そして、自分も早く大きくなって下のものの面倒をみるのがたのしみだ。
またまた、上級生の命令がでる。今夜泊まるものは布団一枚、家からもって来るようにと。小さい子供は母親が布団をもってくる。布団を敷き、これから上級生のこわい話。雨の夜、土葬の墓の上で青い炎が燃える話。これは、亡くなった人のリンがたち昇る、いや死んだ人の身体からでる油だとゆう話……。又小学校の南西二百メートルぐらいの、山の中の焼場のこわい話。昭和十六年(1941)頃まで使用していた伝染病や肺結核で亡くなった人を火葬したところ。薪に油をかけてもやしていた話……。皆布団の中から首をだして先輩たちの話に長い夜を過ごした。そしていつしかいびきが多くなり眠りについた。
朝六時に起床。顔を洗い、皆寒い寒いと震えている。泊まらなかった子供たちもみんな集まってくる。昨日作った天満天神宮の旗をこれより神社へ奉納しに行くのだ。みんなそろって旗を持ち神社まで行進する。神社には上組・中組・下組、それぞれの子供たちが旗を収め、頭がよくなりますようにと天神様を拝む。
宿へ帰り、宿のおばさんが作った朝ご飯を食べてから全員で遊び、夕方それぞれ解散。子供たちは一年一回のこの天神講をどれほど楽しみに待っていたかがよく分かる。(1995年8月記)
※戦時中の菅谷上組の天神講の回想である。鎌形の天神講については時代は新しくなるが、1961年(昭和36)の中学生の作文がある。