里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

古老に聞く 菅谷大火災の義損 菅谷・中島喜市郎 1963年

2009-03-22 00:04:00 | 古老に聞く

   菅谷大火災の義捐
        -中島喜市郎氏の覚書-
 昭和十年(1935)十二月二日、菅谷の大火災は罹災二十一世帯五十二棟焼失の大被害で、今尚、地民の記憶に新しい。然しこの時、この災害に対して温い同情を寄せた村内外の有志や各種団体の名前、救援金品の額等については混乱の最中であったため、必ずしも村民の間に明らかには残っていないようである。ところが幸い中島喜市郎氏が当時、小島屋の塀に張出された同情金品の一切を書き留めこれを一冊の覚書として、今尚保管していた。請うて被見するに極めて貴重な文献である。よって村誌編纂の資にもと考えて、その全文をここに揚げた。  (村内外、有志、団体の区分は筆者が試みた)

▽村内有志
握飯二盤台(大蔵 向徳寺)
金五円(平沢 内田福次郎)
金一〇〇円(鎌形 杉田ふく)
金一〇〇円(菅谷 田幡歯科)
材木(鎌形 星野材木店)
金十円(菅谷 中島近吉)
金十円(志賀 大野幸次郎)
金十円(平沢 村田秀作)
半紙百帖(川島 島崎友直)
金二円(巡査 富田健吾)
金五円(内田実 権田文司 瀬山正男)
金三円(長島勇二郎 内田保治)
金二円(菅谷 根岸しづ江)
金三円(正木京作、町田富作、小林光雄)
金五円(嵐山駅長大谷)
学用品(岡松屋)
軍手30組(いづみや呉服店)
バケツ(栗原清次)
金5円外衣類(沢野フサ)
太筆百本(卒業生 内田義房 栗原光由 大野文男 栗原千吉)
金十円(志賀 大野角次郎)
金一円(菅谷 中島ヤス)

▽村内団体
金100円(農士学校)
魚二箱(同)
金五円(菅谷武道奨励会)
金五円(千手堂青年団)
金二十円(大字志賀)
金五十円(大字鎌形)
金五円(大字遠山)
金五円(大字川島)
金九円十銭(大字平沢)
金六円(大字将軍沢)
金六円五十銭(大字千手堂)
金三円(大字根岸)
金十五円(大字大蔵)
金100円(第一小学二学区)
金十円(菅谷村分会)
慰問袋22袋(女子青年団)
金二十円(第一小職員)
金十円八十七銭(第一小児童)
金十円(第二小職員)
金三円(青年団平沢支部)」
金十円(鎌形青年団)
金十円(菅谷職工組合)
金十五円(菅谷女子青年団)
金二十円六十銭(菅谷男子青年団)

▽他町村有志
金五円(小川町 船戸商店)
金五円(福田村 権田雄三)
金二円及び衣類(松山町 坂本屋)
金二円(小川町 自由社)
地縞二十五反(松山 松本倉治)
手桶、柄杓(石橋 桑原政吉)
金十円(月輪 高坂奧)
金十円(水房 吉野龍太郎)
金十円(松山 山下正人)
水のう22本(小川 石井賢次郎)
金五円(七郷 田中長亮 井上文雄)
餅菓子五百(宮前 宮崎貞吉)
金一円(杉山 金子忠良)
金十円(県議 横川貞三)
金十円(川越 同郷の子)
金十円(穀物検査員 森慶助)
金十円(水房 吉野和助)
金一円(慈眼寺 篤中俊光)
墨20本(熊谷 滝沢商店)
金一円(松山 塚本忠男)
金一円(志木 細田登志子)
金二円(川口町 欠川波治 高橋増造 欠川清)
金十円(東京 内田利三郎)
金五円(小川 関口忠平)
金五円(赤羽 中島義男)
金一円(福田髙小 江守重良)
金五円(呉軍港 早川留造)
金三円(東京 大野安吉)
金二円(野火止 乙幡金蔵)
金十円(東京 関根国平)
半紙百帖(小川 田口紙店)
玄米二俵(横川重次)
金十円(所沢 岡田ツネ)
紙入23個(松山 精進堂)
学用品(高崎 大畑総七)
金十円(岡本恭平)
石版10枚(七郷 青雲堂)
金三円(大宮 馬場明次)
障子紙百本(下里 安藤喜作)
金五円(東京 小林まつ子)
金二十円(唐子 岩田六郎)
金二円(無名氏)
金二十円(大岡 森田茂一郎)
金五円(小川 福島五久)
金五円(上州 新井親之助)
金三円(軍艦駒橋 中島友蔵)
金五円(東京 大野あき 大野フク)
鉛筆一グロス(松山 戸村新聞店)

▽他町村団体
金五十円(八和田村)
金五十円(小川無尽)
金五十円(松山 武州銀行)
金二十円(竹沢村)
金一〇〇円(小川町)
金三円二五銭並手拭二二本(八和田青年団中爪支部)
金五円(八和田青年団)
金一〇〇円(松山町)
手拭25本(松山 八五銀行)
手拭29本(小川 八五銀行)
金三十円(愛国婦人会埼玉支部)
金三十円(唐子村)
手拭30本(松山日々新聞)
金五円(宮前青年団月輪支部)
金四十円(大河村)
バケツ23個(日本自動車)
金二十円(日赤埼玉支部)
金六十円(福田村)
金三円(岩殿山正法寺)
金十円(宮前村分会水房支部)
金五十円(宮前村)
金五円(川越髙女校友会)
金二十円(五ヶ村護法仏教会)
金五円(小川連合仏教会)
消毒薬八本(小川町松島、市川、マスヤ、横町薬局)
金五十円(吉見四ヶ村)
金三十二円五銭(大椚村)
金五円(七郷男女青年団)
金三円(八和田女子青年団)
金二円茶碗20個(吉見天理教)
金四円五〇銭(太郎丸青年団)
椚金二十五円(高坂村)
金十円(男衾 仏教会)
金十円(比企郡長会)
金二十五円(野本村長)
金三円(実業補習学校長)
金四円(大椚等常高等小)
金五十円(川島領六ヶ村長)
金十円(熊谷農学校)
金十一円三十銭(松山土木事務所職員)
金五円(七郷杉山青年団)
金五円(松中同窓会)
金一円(小川町連合仏教会)
金十五円(今宿村)
金十五円(明覚村)
金十五円(平村)
白米拾壱表(七郷村)
金二十円(行田比企同鄕会)
金二十円二十五銭(松山第一小)
金三円五十七銭(松山第二小)
金七円四銭(大岡小)
金十四円五十五銭(唐子第一小)
金三円四銭(唐子第二小)
金十三円(高坂小)
金十二円(野本小)
金六円十六銭(松山実科高女)
金二十円(比企電灯KK)
金三十円(大岡村)
金二十一円十三銭(福田小)
金二十三円五銭(宮前小)
金二十円二十八銭(七郷小)
金二十円四銭(小川小)
金一円四十銭(浦和小六年)
金五円(月輪青年団)
               (小林博治記)
     『菅谷村報道』144号 1963年(昭和38)5月20日


町の今昔 ケツあぶり 長島喜平 1968年

2009-03-21 12:27:00 | 大蔵

 ケツあぶりというと少々上品でない感じがするが、そうかといって、この地方では昔から捨てがたい行事となっている。
 六月一日または七月一日に、嵐山町では、大蔵、根岸、将軍沢と鎌形の植木山の地方に、なお本県では八高線に沿った西部山麓一帯で行われてきた。
 これは、当時庭先や家へ入るカイドなどで、小麦のバカを燃して、家族のものや隣のものと尻をあぶるのである。
 どうもこのことは、何のためにするのか、はっきりしないが、秩父方面で多く行われる虫送りや吉田町の小川百八灯、熊谷の高城神社の胎内くぐりなどに少しは共通するところがありそうである。
 それは尻をあぶることにより、体の中の病気を追いだし、これにより半年を無事にということであるし、また稲作に虫がつかないようにということでもあろう。
 また土地の人はこう言う
 田村将軍様が岩殿山で大蛇を退治するとき大雪が降り、丁度六月のことなので、小麦のバカを燃してあたたまり、それが行事となって今でも続いているのだという。
 このことについて、岩殿山の寺伝には、「坂上将軍東征の時、この観音の堂前に通夜し悪竜を射たをせしことあり。頃しも六月の始め金をとかす炎暑たちまち指を落すの寒気起り、積雪尺余に至りしかば、人々庭火を焼て雪中の寒気をさらし、いま近郷六月一日、家ごとに庭火を焼くは其の時の名残なりと伝々……」とある。
 私は子供のころ聞いたところでは、殆んどこの寺伝と同じである。
 平安のはじめ、桓武天皇は坂上田村麿を征夷大将軍に任じ、東国の蝦夷征伐に向わせた。時に延暦二〇年(801)のことである。将軍がこの土地に到着したとき、岩殿山の奥深いところに、一匹の大蛇が住み、土地の人々をなやましているということを聞きこれを退治して、村人を苦しみから救ってやろうと、九十九峰四十八谷といわれる岩殿山へ入ったが、大蛇の居どころは一向にわからない。そこで将軍は岩殿の千手観音にお参りし、是とも大蛇征伐に観音様にお力をお借りしたいと祈った。
 ところが翌朝(六月一日)夏山の岩殿がすかっり雪におおわれ六月であるのに、ひどい寒さとなったので、土地の人々は将軍と兵士たちに、小麦のバカを燃やしてあたらせたという。
 将軍は、これこそ観音様のお力と、お礼をのべに山に行くと、谷間に雪がとけて地肌の表れているところがあるので、怪しいと思って近ずいてみると、そこには大木を倒したような大蛇が横たわっていた。
 将軍は兵士と力を合せ、その大蛇を退治するとき、将軍の放った矢が大蛇にあたると、空は一天にわかにかき曇り、風を呼び嵐がおこって、立木はばたばた倒れたがまもなく嵐がやむと、すっかり晴渡り、先程の大蛇は、のたうって死んでいったという。
 その大蛇の首は、岩殿の観音堂の傍のなかずの池の島に埋めたという。
 寺伝では悪竜といい私は大蛇と聞いたが、いずれにしても同じことであろう。なおある人は大蛇は実は蛇ではなく、悪者共だと、つけ加えてくれたのは、なにか将軍の伝説イメージが、こわされたような気がする。
 更に雪は悪竜のしわざと寺伝はいい、私の伝え聞いたところでは観音様のお力であるという。
 いずれにしても伝説は、その土地に住む人々の生活の中から生まれてきたものであるから、つくりかえないで、そっと次へ伝えてゆきたいものだ。  (筆者寄居高校定時制主事)
     『嵐山町報道』186号 1968年(昭和43)7月30日


谷川橋完成 1962年

2009-03-20 20:37:00 | 下里

  谷川橋
 谷川橋起工式 遠山-小倉(おぐら)を結ぶ谷川橋の新設工事は、本村と玉川村共同事業として、計画が進められ、土木事務所吉松技師により、巾員四米、延長二十米、鉄筋コンクリートラーメン構造の近代的設計が出来上がったので、両村々長は、議会に諮ってその予算措置を講ずると共に請負業者と交渉を進め、十一月二十八日東松山関中組と工費二四〇万円で、契約締結を完了した。工期は来年三月二十五日。その起工式が、十二月八日午後二時から遠山側現場で挙行された。出席者は、両村助役、土木係、議長、土木委員長、請負者、土木事務所吉松技師、遠山、小倉区長等。
 猶この橋の完成と共に玉川村小倉地内、本村遠山地内、小川町の下里地内の町村道改良工事も実地され、菅谷、玉川、小川町を結ぶ、中央幹線が出来上がって、関係地区民の増祉に寄与するところが大きい。経費は、菅谷、玉川角一一〇万負担、小川町四〇万寄附で実地される。
     『菅谷村報道』129号 1961年(昭和36)12月20日

  谷川橋工事進捗
 三月末、完了予定の谷川橋工事はセメント不足資材難でおくれていたが、去る四月二十七日、床板打ちを終って、基幹工事を略々完了した。
 支柱型枠除去は、五月二十日頃、あと仕上げ工事で完成する見込み。竣工祝い等については、菅谷玉川両村で協議しているという。
     『菅谷村報道』133号 1962年(昭和37)5月15日

  谷川橋完成  五月三十一日祝賀会
    小川・菅谷・玉川 三町村の道路の焦点
 本村の遠山と、玉川村の小倉境界、槻川上に、村道の谷川橋が出来上り、五月三十一日、その竣工式が行われた。
 この橋梁は、本村では昭和三十五年度から計画され、その後玉川村と共同施工することになった結果、その位置や、規模等も変更になり、最後は東松山土木事務所の設計により、鉄筋コンクリートラーメン構造、幅員四米、延長二十米のものとなった。請負は松山関中組で、その金額は二四〇万円である。
 一平荘門前から大平山の山腹を、ゆるく西北に廻って槻川渓谷上を、遠山に進むと、左手に屹立する小倉城趾と、その懐に抱かれた小倉の清境が行人の目を惹き心を往昔に運ばせる。
 山腹の道路が尽きて、車が急角度に左折して、山を下ると遠山の桃源郷に入る。ここは、前述の小倉城主遠山氏の菩提寺、遠山寺があり松山城の支城小倉城が陥落した天正十五年(1587)より三年前に歿した遠山光景の遺骸がここに葬られたと伝えられている。かくして、古く小倉遠山は等しく遠山氏の領土として一地区をなし、又、近くは、槻川の沿岸を辿って玉川村田黒(たぐろ)、菅谷村鎌形から小倉、遠山を経て下里、下小川を過ぎる小川町に通ずる重要路線の一部であった。然し、この道路も、幅員狭くとくに、小倉遠山間に、橋梁がないため、最近の交通事情に即応することが出来ず、槻川を境にこの両地区は分断されて、夫々、菅谷玉川両村の辺境的地域として、生活の不自由を忍ばねばならなかった。
 偲々(たまたま)小川町と玉川村が、数年前から、この古い路線の改良に着手し、本村も又、これに同調して、遠山地内村道の議が定まった。これ等の事情から、この町村道の復活と、関係地域開発のためその集点となったのが、谷川橋の建設であってここに玉川菅谷小川三町村の連繁が成って、永久橋の完成を見るに至ったのである。かくして、現在計画中の遠山及び、下里地内の町村道改良が終了すれば、この道路は、再び、小川菅谷玉川を結ぶ、大動脈となって関係地域の発展は期して挨つべきものがあるとされている。
 式は午前十一時前に始り、玉川議長の開会、神事、玉川村長の経過報告、菅谷村長の式辞、感謝状の贈呈(土木事務所職員・関中組)、小川町長の祝辞の後、両村々長によってテープが切られ、遠山側から渡り始めが行はれた。閉会は菅谷議長、続いて、一平荘で直会の儀が行はれた。当日の参列者は菅谷・玉川村議、遠山・小倉区長、小川町長、議長、建設委員、小久保県議、土木事務所員、関中組等七十余名に上がった。
     『菅谷村報道』134号 1962年(昭和37)6月10日


臼ひき 小林博治 1958年

2009-03-19 08:21:00 | 嵐山地域

 「から臼をひくと目がつぶれる」といって、親達は子供が臼ひきに手出しをするのを戒めた。子供達は自分の目がつぶれるのだと考へて石臼に神秘的な力を感じた。農家の生活は、一年中石臼と共にコロコロ廻っていた。六月に麦をとるとコーセンにひく。盆や彼岸には、牡丹餅の黄粉をひく。新米の宵米をひいてあんこ餅を食う。正月の餅をひく。四季を通じて、石臼は農家の食生活をひき出した。祝儀、不祝儀にも、祭やお日待にも人が集まれば必ず石臼はゴロゴロ音を立てた。
 大豆をのせてグルグル回っている臼、一廻り毎にくばる一本の手、臼の間からはき出る黄色い粉。ゴロゴロと響く単調な音。これを中心にひき手は世間話に耽ける。臼ひきは女房や娘たちにはたのしいお喋りの場であった。
 石臼はこんなに農家の生活に密着していた。それで子供と同じように親達も石臼に精霊のようなものを感じて、本当に目がつぶれると考えていたものかもしれない。子供が成長して、つぶれるのは臼の目だと分かった頃、石臼は農村がら脱落して、納屋の隅に片付けられた。農村の生活は機械化され、簡易化され、スピード化されて合理的になったが、その代償に石臼に神秘性を感じるロマンチックな心情を喪失した。  (小林記)
     『菅谷村報道』90号 1958年(昭和33)6月30日


子どもの頃の思い出 9 平沢・内田講

2009-03-18 09:15:00 | 内田講『子どもの頃の思い出』

  その14 山鳥の親心
 「焼野の雉(やけののきぎす)、夜の鶴(よるのつる)、子を思う情は舐犢(しとく)にも備われり。……」は昔の高等小学校「国語読本」にあった書き出しの名文だが、私にはまさに、これを証明するに足る体験があります。高等科二年の夏休み、例によって兄と二人で馬に乗って山草刈り行く途中、家を出て一キロ位山に入り、大沼の西側の山裾の進み、沼のウラ(沼の終る辺)の、幅五十米位の水田を目前にした処で、左手の山から子連れ山鳥が飛び立って水田の上を極めて低空で、水田越しに反対側の山に向かって行く。その数は何と今でもはっきり記憶しているが子が十一羽、親が一羽、余りに数が多いので「一羽位取り得るか?」と思ったのだろう。兄が「駄目駄目」と言ふのも何のその、馬の背ではない尻から跳び降りて、その辺と思う地点に行ってみると、何しろ十一羽の子だからそれが一斉に草の中を走って逃げると、幾状も幾状も草が左右に揺れて素晴らしい光景であった。成る程これでは俺にはどうにもならないと思いつつも、足は二、三歩前進、雛鳥の分け進む草の揺れもずっと遠くなった時、足許二,三米の地点から親鳥一羽が物凄い羽音で飛び立った。自分は度肝を抜かれてあっと棒立ちになった侭。馬の上から兄が「アハゝヽヽ」。説明無用と思いますが、雛が完全に安全地帯に逃げ去る迄は、正に文字通り親鳥は身を挺して接敵動作を続けていたわけですね。
     『嵐山町報道』285号 1979年(昭和54)12月1日
焼野の雉(きぎす)夜の鶴(つる):雉は巣を営んでいる野を焼かれると、わが身を忘れて子を救おうと巣にもどり、巣ごもる鶴は霜などの降る寒い夜、自分の翼で子をおおうというところから、親が子を思う情の切なることのたとえ。
舐犢(しとく):親牛が子牛を愛しなめてやること。転じて、親が子をかわいがること。


子どもの頃の思い出 8 平沢・内田講

2009-03-17 12:44:00 | 内田講『子どもの頃の思い出』

  その12 草刈り
だいたい、五月から九月いっぱいは、朝作りと称して、それぞれ草を刈ったものです。田植えの終るまでは、田んぼや土手を刈るわけです。
草刈篭と称する小型の篭で、足支度は「足中(あしなか)」を自分で作り、素足ではくのです。田植えが終ると山草と称し、馬で山へ行くのです。八把(わ)刈って、馬に背負わせるのです。その頃になると、夜明けには、一斉にヒグラシが鳴きます。その声によって「カナカナ時計」と申し、それで起き出るのです。
 さて、その鳴き出す時刻は、七月初旬は四時頃から四十分ぐらい日の出が遅れるに従って、少しずつ遅れます。昔のことがなつかしく、七月二十四日に試したら、四時九分いっせいに鳴き始め、四時四十五分には、一匹も鳴きません。
 また、草刈りをする年令ですが、だいたい小学校四年ぐらいからです。私は五年から九年間刈りました。毎朝、学校での話題も草刈りの事からでした。一番辛かったのは、山草の時の時はカヤの葉で指を切ることです。
 もちろん、上手な者は一つも切りません。私は兄と行くのですが兄は何日刈ってもほとんど切りませんが、私は二月も行けば、今の人は信じないでしょうが、右手の第一と第二の指には、二十ケ所以上傷が見られます。二、三日すると黒く治っているが、次々に切るので、本当にうそのような話です。よくまあ、悪質の化膿菌にやられなかったものですね。

  その13 鳰の浮巣
 山草はだいたい一キロ余、山の中へ行くので、中程は大石に沿って行くのですが、ある年、鳰(かいつぶり)の浮巣が作られ、親鳥が卵を抱いているらしいのです。
 幾朝か見た後、私は兄の制止をきかず、水中に入って三十メートルぐらいで、巣にたどりつき、中をみると、卵が五個あったと思いますがしめたとばかり、左腕で抱えて歩き出しました。
 すると、抱えている巣(水は胸の辺)が一歩ごとに下から小さくなり、おやおやと思っているうちに、全部、巣は崩れてもちろん卵も水の泡でなく、水の底、浮き巣とはよく言ったもので水底から水面に伸び出ている草(方言では夜這草『よばいぐさ』と呼ぶ)を巧みに揉(な)い合せて外側を高く、内側はへこみをつけて、その中に卵を生み、巣は水の増減に従って浮き沈みする仕組みなのです。
 何時の年だったか、沼の水が水田のために出されて、だいぶ、減水したある日、魚を釣りに行ったらたまたま、浮巣が水の少なくなった地上に置かれ、やはり、卵が五個あって、大喜びで採って帰った記憶もあります。
     『嵐山町報道』283号 1979年(昭和54)9月1日


子どもの頃の思い出 7 平沢・内田講

2009-03-16 08:46:00 | 内田講『子どもの頃の思い出』

  その10 旗行列
 今日、日清、日露、日独(第一次世界大戦)のことを言うは、或は、時代錯誤とか、好戦国とかまた、反民主的とか、いろいろ論議はあろうが、これこそ今、日本が全国民を挙げて討論すべき焦眉の大問題と思う(私は、このような大討論会をおおいに行うべきだと思う)が、それはさておき、大正3年(1914)(私小学三年)、サラエボの一発により、引きおこされた、いわゆる第一次世界大戦(私の記憶では、七月と思う)に、日本は日英政府同盟の立場から、八月一五日、連合軍として、ドイツに対し、戦を決し、二十三日に宣戦布告、九月二日には、早くも、神尾中将の率いる、四国善通寺第十一師団が山東半島に上陸。
 十一月七日、ついに、青島(ドイツの東洋基地)を攻略し、日英同盟に対する一応の仁義をすました。(この間、青島脱出のドイツ巡洋艦「エムデン」の大活躍もあるが略す。)
 この時、日本は、勝った勝ったで小学生は旗行列をした。それは三年生以上(私は三年生)が指定村社、七郷は七社のうち、その辺はっきりしないが、古里、吉田、太郎丸、越畑ぐらいと思うが、とにかく、手に手に小旗を振って、特にできた歌を高らかに、ノドの続く限り、どなりながら歩いた記憶があります。
 残念ながら、歌の文句は思い出せません。唯一節「今や青島陥落……」だけです。たぶん時期は十一月半ばだったと思います。
 この時、初めて飛行機が参戦しました。それは、あとで大正八年三月(高一終了)、修学旅行で東京に二泊三日の旅行をした時、「遊就館(ゆうしゅうかん)」に吊ってあった飛行機でした。複葉単座、支柱類は全て木材、翼材は上質の日本紙に油を引いたような感じで、処々に弾痕に張り紙がしてあったような感じでした。
 尚、つけ加えれば、この時ドイツ兵の捕虜が善通寺に収容され、七小の教頭、板倉偵吉先生(勝田の出生で浦和駅東口にあった板倉家に養子に行っていた。)が視察に行き、とてもとても大きい立派な兵達が、なぜ、日本に負けたのかわからない等の話をされたのも思いだします。

  その11 マラソン
 その頃、走ることの総称として「マラソン」と言っていたと思います。考えてみると、フランスのクーベルタン男爵によって、再開された四年目ごとのオピンピックの第五回大会が明治45年(1912)、スエーデンの首都、ストックホルムで開かれ、日本最初の参加として、マラソンの金栗四三氏(たぶん、熊本県人、当時、東京高等師範学校地歴科学生)が十四位?かになったので、マラソンなることばが猛烈に流行し、七郷小でも、たぶん、大正2年(1913)4月(私は小二)から、毎月三年以上が「ソーカ廻り」、今の七小から下にでて、北上し、吉田、古里境にある陸橋【歩道橋】から左折し、小川方面に向き、三ツ沼下から左折して学校に来る道をしたが、私が三年になると、四月と十月の二回になり、大正5年(1916)頃自然に消滅しました。
 今でも、少しでも走るとよくマラソンというが、皆様、御存知のとおり、その起りは遠く、ギリシャがペルシャと約二十五倍の敵兵と戦った時、その死命を制するという「マラトン」の峠の激戦に、とてもギリシャ側(当時、代表アテネ)に勝ち目はないとされた時ギリシャ軍が大勝し、その喜びをアテネ城門に、ひた走りに走って持ち帰り、「喜べ!勝利は我が軍に」と高らかに叫ぶと同時に、心臓破裂でバッタリ倒れた勇士を称えて、その走破した距離が四二・一九五キロメートルだったので、その距離をマラソンレースとして取り入れたものなので、他の如何なる距離を走っても決してマラソンと言わないのが正しいのです。
 メートル法の前は、二十六マイル四分の一だったと思います。だからこれ以外を言う時は、「短距離マラソン」とか「十マイルマラソン」とか、何か副詞的文字を冠するのが正しいわけです。
     『嵐山町報道』282号 1979年(昭和54)8月1日


子どもの頃の思い出 6 平沢・内田講

2009-03-15 02:39:00 | 七郷地区

  その9 熱気球
 大正4年(1915)か5年(1916)頃と思いますが青島戦争で飛行機が初めて実践に使用されたためか、とにかく軽気球というものが作られて、市野川沿いに飛んだのを約一キロメートルばかりの三ツ沼下まで見に行った記憶のある。寒い記憶があるので十二月の農休か、お正月の三カ日頃と思いますが、例によって前の山を越えて、前の家へ行って見ると、三年先輩の船戸政一氏が紙袋を持ち出してこれを揚げるのだと言うのです。
 要は直径一メートル位の紙袋の一部に小さい穴があり、道端のいわゆる、土手を利用してカマドを作り、煙突を長くして(それは土管)その煙突に紙袋の穴をはめ込んで、どんどんと火を燃やすと、追々に紙袋がふくらんで、遂には空中に飛び上がるというので、五,六人して紙袋を持つやら、燃し木を集めるやら、今の人には理解できないでしょうが、当時は燃し木は家庭の必需品なので、仲々その辺に自由に見つかるほどあったのではありません。
 そのうちに誰かが竹の火が強いから、竹がよいというのでどこからともなく拾ってきて燃やしましたところが、とにかく、袋が一杯にふくらんできたので抑えていた手を放したところ上がりました。
 しかし、五十メートルぐらい上がって、百メートルぐらい飛んで落ちてきました。その日はそれで別れましたが、その幾日か後、私は立ち会わなっかたが、今度は大いに上がって、目下工事中の関越高速の山を越えて、下串引の雷電社の大杉に引掛かって、遂にそのままにしてしまったとのことでした。
 距離は八百メートルから千メートルぐらいでしょうか。ちなみに用紙は父親が日露戦争に出征しているので、現役から戦争にかけての手紙であった由、政一氏の母親から聞きました。
 とにかく昔の子供は、コマとかタコとか作るなり、何もない時は木に登るなり、木の実を投げつけあったり、少し暖かくなると(最初は)潅仏会(かんぶつえ)(シャカの誕生日にその像に甘茶をそそぐ行事 陰暦四月八日)に、ぶるぶるふるえながら、水泳したりして遊ぶのが我々の子供時代の遊びでした。
     『嵐山町報道』281号 1979年(昭和54)7月1日


子どもの頃の思い出 5 平沢・内田講

2009-03-14 12:37:00 | 七郷地区

  その8 病気
 私の父は、明治37年(1904)の6月虫垂炎を病んだのでしたが、前後百日、再危険期には看護婦さんを頼んで自宅療養をしました。その看護ぶりは、今で思えば何とも考えられないようなものでした。
 つまり、痛み薬と冷すことと何と患部に塗り薬を塗って浸みこませるために二時間位なでているのだそうです。これは私が浦和に行ってから、一年先輩氏がそのように言ってましたから、まあそうだったのでしょう。
 前の家の主人は、冷やすのをまちがって、逆に温めたとかで、ついに亡くなっていたのでした。
 もう一つ、前にちょっと申しましたが、インフルエンザが猛威をふるったのは大正7年(1918)の夏から10年(1921)の春までの間で、【七郷村】越畑の方はあまりたいした事はなく、もちろん、学校の臨時休校などはありませんでしたが、【菅谷村】平沢は実に烈しかったと聞いています。
 一軒で三人も亡くした家もあるとかで、薬は何軒分かをまとめて買って来て、おれぞれへ分けた事も多かったと申します。
 また、当方【平沢】の父は一日二回床番*(とこばん)をしたと申しました。
 実は私も、大正10年(1921)2月、浦和でやられました。午後寄宿舎に帰って寝こみましたところ、たちまち高熱を出し、同室生が医者を頼むやら、氷を使うやら、本当にやっかいになりました。
 その時、医者が四〇度三分と言っていたのをはっきりと記憶しています。
 一週間位で一応回復し、期末試験は受けたものの、まだ足は地に着いた気もせず、ふらふらで試験を受け、満点近いと思った数学がなんと五十七点だったことだけは、よく覚えています。
     『嵐山町報道』280号 1979年(昭和54)5月25日
*床番(とこばん):関東地方で、墓穴を掘る人のことを床番といった。床取り。(日本国語大辞典)


子どもの頃の思い出 4 平沢・内田講

2009-03-13 12:33:00 | 七郷地区

  その7 思い出すままに
 糸紡ぎ 大正8(1919)、9年(1919)頃までは木綿を蒔いて綿をつくったものです。まず、畑から採ってくると、竹のかごにのせて、何日か天日干しをし、綿繰機で種を除き、綿打ちをする人を頼んで、たたみ綿と糸綿に作りわけ、糸綿は箸を中心にくるくると巻いて、太さは普通の指位、長さは二〇センチ位の円棒を作り、右手で糸車を廻し、左手指で巧みに繰って、糸を針に巻きつけていくのですが、私の母は六歳の時から始めたとか話していましたが、実に腕達者でした。
 幼い頃の自分は、その母のひざを枕に、糸紡ぎを子守唄にしてよく眠ったものです。
 その糸で主として男衆の仕事着(シャツ)を作ったものです。
 機織機は足の突き、引きで綾を作る下織でしたが、大正なかばにはハタシになりました。また、娘たちはハタシで絹織をしたものです。二人か三人位、どこかの家に持ちよって早朝から夜一〇時過ぎまで働いたものです。
子供達は、弁当を運んだり、石油ランプの掃除をしたり、なかなかのものでした。

 自転車 自分が自転車を買って貰ったのは大正7年(1918)か8年(1919)の春でした。明治から大正に移るころ七郷には四台か五台あったとの話です。誰が最初かはわかりませんが、杉山の金子才助氏、越畑の強瀬富五郎氏、市川藤三郎氏は確実に記憶しています。

 自然物 川や沼には水量もあり、どじょう、うなぎ、ふなはたいしたものでした。うなぎも何年に一度沼が干あがると、ヤスをもって夜半過ぎまでうなぎ打ちをしたこともあります。多くとれたのは二回記憶していますが三〇匹以上で大きいものは二〇〇匁(約750グラム)、小さいものでは二〇匁(約75グラム)、平均して三〇匁(約110グラム)程度のものが多かったようです。
 小堀にはどじょうがいました。田植頃からそろそろとり始めて-それまでは繁殖期なので父はとらせてくれませんでした-11月まで、また1月頃水の枯れたドブの小堀に通気穴をあけて、冬眠の姿のをとるのです。普通はみそ汁の中へ入れて、どじょう汁にして、よほど大型のほかは骨ごと食べたのです。
 また、沼には菱、じゅんさいが一面に生育し、ことにじゅんさいは千年以上の古沼でなければ出ないのだと父に聞きました。後になって、あの新葉がまるくなって、特殊のヌルヌルをつけて水中にある時採ったものが、酢のものとして上乗で高級な料理だと知り驚きました。そのような水草は、エビガニの進入によって全滅し、今はほとんど見受けられないと思っていたら、先日志賀の寺沼に菱が出ていたので、これまた驚きでした。
 きのこも、上等ではないが、初茸、だいこく、黒シシ、青シシなど、子供の力では持ちきれないほどでたものでした。
 また、天然現象では、大正7年(1918)頃から昭和3年(1928)頃までの冬は非常に寒く、山間の沼には厚い氷が張りつめたものです。大正8年(1919)から9年(1920)へかけての冬には、兄弟三人して沼の氷の上で火を燃したりマキを伐ったら割ったりしたものでした。
 昭和2年(1927)、3年(1928)頃も、毎朝沼の氷の上に、うさぎの足跡が点々と続いていたのを記憶しています。
 また、日照続きは大正7年(1918)の暮れから8年(1919)の田植にかけて猛烈で井戸を掘ったり、八年(1919)の田植水は全部沼水でしたが、その時、明治2年(1869)生れの父が、覚えて初めての沼水田植えだと申してました。
     『嵐山町報道』279号 1979年(昭和54)4月5日


子どもの頃の思い出 3 平沢・内田講

2009-03-12 12:31:00 | 七郷地区

  その6 子どもの生活
 七郷はほとんどが農家だから、一定の遊び日以外は、もんなそれぞれ家人と働いたものです。
 遊び日は、お正月の三が日、七草、一月十五、十六日、雛まつり、四月のお釈迦様、五月の節句、七月の農休三日間、盆の三日か四日間、十日夜(旧の十月十日)、十三夜、秋の農休三日間といったものでした。
 仕事は、季節にもよりますが、朝は草刈り(五月から九月)、夜は縄綯、ぞうり、わらじ、足中づくり(十月から四月)、私も今でもやれば作れます。水田は、馬の鼻取りや田の草取り、畠は、大人達がエンガで耕起する溝への堆肥入れ、カッパ抜き、麦踏み、冬山は、木の葉をはき、松葉は燃料、落葉樹は堆肥用にした。
勉強は、夕食後暗いランプの下でやった。石油ランプといえばランプ掃除と石油さしは、必ず毎日行うのだが、それは子供の専業で、食事のしたくをするものがすると、石油臭くて困るからである。
 七郷【大字越畑(おっぱた)】に電灯がついたのは、昭和四年(1929)の十月からですが、馬内(もうち)地区は二年ぐらい早かったでしょうか。宿題がある時は、午後の家事は休んで宿題をしました。
 自分達の修学旅行は、大正8年(1919)3月、東京へ二泊三日で行ったと思うが、その費用は労働によって貰った金を貯めるのが普通で、熊谷駅まで往復徒歩、出発の日、学校集合が夜半の零時、提灯つけて母が前の山を送ってくれた事がなつかしく思い出されます。
 遊び日の遊びは、夏は沼で水浴び、先輩から次々に教わって泳げる様になる。その他には、こままわし、鬼ごっこ、兵隊ごっこ、大正七(1918)、八年(1919)頃二冬ばかり飛行機とばしが流行した。プロペラの形をした鉄片を針金で円く囲い、プロペラの中央に穴があって、それを台にさしこみ、その台にヒモを巻いて強く引いて回転を与え、とび上がらせる。数十メートル上がり百メートル位はとんだと思います。
 子づかいは二銭くらい、五銭の白銅貨が貰えれば天にも昇る気持で、鉄砲玉と称する小指頭大の甘い黒い玉が一銭で一二個買えた。
 学校の方は、私が尋常六年間で無月謝、その上二年間が高等科で月謝毎月三〇銭、自分で直接役場収入口へ納入した。
     『嵐山町報道』276号 1978年(昭和53)12月30日


子どもの頃の思い出 2 平沢・内田講

2009-03-11 12:28:00 | 七郷地区

  その4 熊谷小川間の交通
その頃は、人は馬車(一頭立)に荷物は馬背か馬に曳かせたいわゆる運送車で、人力の二輪車もあったが、これは字中で2台か3台しかなかったので、まああまり使われませんでした
 まだ近いところは、人は人力車を利用しました。人力車も自分の記憶では、タイヤではなく硬い細いゴム輪なので、乗る人もつらいしまた、曳く人は相当のものだったと思います。
 したがって重い人や大急ぎの時は二人曳き(梶棒に入る人と梶棒の前のある横木に5メートルくらいの麻なわをつけて、その先を肩にして曳く)を利用したのです。
 馬車が走ったのは、大正5(1916)、6年(1917)が最後だったでしょう。大正5年(1916)の熊谷の桜観に行った帰りに雨の中、馬車の後を走って帰ったのを記憶しています。
 また、運送と称して、新聞を夜通しで熊谷から小川まで、独特の二輪の箱車で運んだもので、その帰りの空車が、昼過ぎガラガラと熊谷へ向けて帰るのを、沼に魚釣りに行ってよく見かけたものです。
 大正9年(1920)には、馬車は無く自動車が走っていましたが、それも普通の乗用車に乗れるだけ乗せて定期的に走っていました。当町にあった自動車は、外輪式で、かなり大きなしっかりした泥よけがついていたので、その上にも人が乗ったり、時には自転車を後部につけたりしたものです。
 私もある時、車の外にへばりついて乗っていったのですが、荒川の大橋を渡って間もなく、電柱で背中をこすり痛い思いをしたことがあります。
 荒川の大橋は、明治43年(1910)の洪水で流れ、しばらく仮橋であったのが、大正5年(1916)の桜観の時期をチャンスに、中央わづかを鉄橋にし、その開通式がはなばなしく行われました。その開通式の四、五年前、その仮橋から下流に、二艘ほどの帆船が動いていたのを見たことがあります。
 ちょっと話がはづれますが、私が、昭和7年(1932)八月、先輩に呼ばれて満洲に遊んだ時「旅大道路(旅順-大連)を二〇人乗りの車が走る。これだけはお土産に乗っていけ」というので乗ってみたが、まだ内地には二〇人乗りは無かったと思います。

  その5 服装
 男も女も、いわゆる着物(和服)がほとんどで、洋服は、学校の先生と巡査、郵便配達夫などが着ていましたが、ほかには、女では、テニスのところで出てきた女性一人、子供では、大正3年(1914)4月1日の入学式に、故田幡順一氏が「ニッカボッカ」姿で来たのを見ただけ。メリヤス類も、大正7(1918)、8年(1919)頃までは一〇人に一人か二〇人に一人位だったでしょう。シャツ、股引は布だけ買ってきて、だいたい家庭で作ったものです。もちろん足袋も手製、ただ底だけは石底とかいったものを買って使ったもので、だから、たいていの家に足袋型があったもです。
 登校の時の常のはきものは、手製のわらぞうりで、雨の時はほとんどはだし、ですから学校には足洗の池がありました。雪のときはわらじ、学校に着くと、一年生の廊下にだけ大火鉢が出されたのもです。私は、学校に着いてからの大雪に、約1.5キロの道をはだしで帰って家人を驚かせたこともあります。
体操の時は、着物の裾を折り上げて三尺をその上から締め、足ははだしかいっつけぞうりでしたがまれに、足袋靴と称して、かかとの下部に鉄の鋲を打った、労働用の足袋を用いた人も一人か二人いたと思います。いっつけぞうりというのは、鼻緒にひもをつけてかかとの上側をまわして、足の甲のところでくくるようになっているものです。
 マラソン足袋については、私が七郷では元祖です。当時、兄が熊中でランニングをやっていたので「スパイクというのもあるし、半足袋もある」というので、母にねだって作ってもらいました。
 母も型が無いので作れないと困ったのですが、私は欲しい一心でいろいろ知恵を出してとにかく作ってもらいました。できあがったものは、普通の足袋の上を切り甲を中途から二つに割って、ボタン穴のような穴を作り、ひもで結ぶようになっているものでした。
 それを大正8年(1919)の運動会にはいていたら、おりからインフルエンザの流行で休校中の、埼玉師範の先輩が見に来ており「お前はいいものをはいてるな」と言われたのを記憶しています。
     『嵐山町報道』275号 1978年(昭和53)11月30日


子どもの頃の思い出 1 平沢・内田講

2009-03-10 12:26:00 | 七郷地区

 私は明治45年(1912)4月1日(その頃は4月1日が始業、入学の日でした)に七郷尋常高等小学校尋常科一年入学ですので、多くの先輩諸賢も健在なのでちょっと面映ゆい気もするのですが、どうしても皆様に広く知ってもらいたいことがあるのです。
 どうしたわけか、みんな運動のことですが。

  その1 野球
 大正2年(1913)10月、七郷の高等科(今の中学一、二年)と大河の高等科の者が大河の校庭でとにかく野球の試合をやりました。
 私は小学二年ですが、全員歩きで行く故弁当だけあれば行けるのでついて行きました。
 結果は11対4で七郷が敗れたのですが、七郷の選手は、越畑の馬場利二氏、長島藤三郎氏、馬場仙重氏、勝田の田中清氏、外は姓だけだが、杉山の金子氏、広野の永島氏などが記憶にあります。
 用具は、グローブなどは一切無く、捕手が一人だけ野手用のグローブを使用、外はすべて素手、球は何かを芯にして糸を巻き、布で縫いあわせたのもで、外見は今の様なものです。バットは、七郷は確か市販されたもの、つまり今のと同じようなものだったが、大河のは適当な丸太棒的なもので、虫が食った紋様がついていたのが忘れられません。もちろん長さも少々長かったと思います。
 ルールは、投手のボーク等細かい点は知りませんが、ほとんど今と同じだったでしょうが、特に異った二つの点は良く記憶しています。その一つは、打者のファールはどこで捕っても打者アウト、その二は、走者にボールを命中させれば走者アウトというものでした。

  その2 テニス
 職員連中が昼休みによくやりました。七郷は庭が小さく、ボールはすぐ二、三〇メートルの篠ややぶの傾斜面(自分等はママ下といった)に落ちた。先生達にとってくるよう頼まれもしないのにそれを拾って来るのが楽しくて「おれは何回拾ったぞ」と仲間達で自まんしたものでした。そうしたある日突然、本当に突然、それは三代目の深谷校長の時ですから、大正四年(1915)か五年(1916)、季節は記憶にありません。昼休みに出て見ると、真白なドレスに白帽を載いた女性が一人でテニスをやっていたのです。その時の球拾いは本当にハッスルしたものでした。

  その3 自動車
 あれは、多分、大正2年(1913)の秋11月初旬と思います。
 「明日は三ツ沼まで自動車を見に行く、弁当だけ持ってこい。」
 当時、男衾村の今市から八和田の高尻、能増、奈良梨、中爪、志賀の中山道(なかせんどう)裏街道は、宇都宮第一師団の秋期演習順路だった。
 その自動車部隊が来るわけなのです。そこで、三ツ沼わきの山に入って木登りしたりなどして待っていたがこない。昼頃、板倉先生(教頭)から「今行って見てきたが(約四キロ徒歩)、自動車は今市下の白坂タンボに落ちているので、今日はこない。見たい者は自由に行け。学校としては解散する。」
 私は家も1キロ位だし友達と行くことにした。とにかく子供の足で全然未知の土地、行って見るとまだ刈らない稲田(その頃は11月いっぱい位は刈らずにおいた)の中に2台の軍用車、まあ今のトラック体でカーキ色の車が腹を天に向けて、亀をひっくり返したように落ちている。その後にまだ10台位は道路上にあった。
 八和田との境は市野川の上流で夏は三~五メートルで、子供の目には立派な橋があり、その八和田側のたもとに黒塗りの乗用車が一台とまって、それは将校用で二~三人の長剣を吊った将校が出入りし、巻尺で道路を計ったり、殊に念入りに橋を計測していたのを記憶している。そうして、近所の農民達もある程度集まっていたが、兵の方から「厚板はないか」とか何とか、だいぶがやがやしていたが秋の日は暮れやすく、なかばかけ足で帰宅した次第。
     『嵐山町報道』274号 1978年(昭和53)10月30日


里やまのくらし 23 将軍沢

2009-03-09 13:25:00 | 将軍沢

 「正直に生きろ!人間真っ当であれば友達は増える」と剣道一筋70年、箔は要らぬと無段の指導者です。1975年(昭和50)嵐山町剣道会が発足、それ以来会長をしている忍田政治さん(大正13年生まれ)を訪ねました。

  剣道へのきっかけ
 学校から帰ると、家の仕事が待っています。帰りを遅くしようと小学校の敷地内にあった道場でおじさんたちがやっとうをやっているのを眺めていました。小学三年生の時です。柔道・剣道を小学生に教えるために、島﨑里次郎、関根茂良さんが東奔西走して作った三間×五間の建物で、柔道は中島勝哉さんが教えていました。ある日、茂良さんにやるかと聞かれて、軽い気持ちで返事をします。入会金を半額にまけてもらい、十五銭払って入門しました。この道場は翌1935年(昭和10)12月、菅谷の大火で焼失しました。

  大人の付き合い
 高等小学校卒業後、体が小さいのは家系で、年齢は十八歳だと偽って、国鉄八高線の日雇い人夫になりました。四年生の時から60㎏の米俵を担ぎ、力仕事では大人達に負けません。保線工夫の手伝、大飯線(川越線)の突貫工事では、二人組で貨車一両にシャベルで砂利を積み込み、レール800㎏を八人で担ぎました。仕事と一緒に人間が生きてゆくための、いろんな事をいろんな人に教わります。子供でも力と人との付き合いは大人並になっていきました。

  凝縮された年月
 東京電力の鉄塔工事中、日雇い仕事は一生続けられるものではないと仲間に言われ、栃木県間々田村役場に出向き軍隊入隊を志願しました。1942年(昭和17)12月習志野の東部片岡部隊に入隊します。入隊三日目、教育係のビンタが炸裂しました。理由はわかりません。我慢できずに口の中のものを吐き出すと、血と一緒に奥歯が五本交じっています。相手を本当に憎らしく思いました。絶対服従を叩き込まれ、これが軍隊だと実感しました。
 一週間で「満洲」に渡り、殴られけ飛ばされて初年兵の教育を終え、選ばれて関東軍の下士官養成所に入所、卒業します。1944年(昭和19)、原隊に戻り、内務班長・初年兵教育係となり65名の部下の教育にあたりました。なめられぬよう髭は剃るなと教えられ、相手との信頼度を考えます。十九歳の忍田さんには全員年長者で、四十代半ばの人もいました。弱い者いじめを許さず、体力の劣る高齢者をかばいます。後の戦友会に出席したとき、抱きついてきて男泣きした人がいました。
 正直で利口で誤魔化しの利かない馬には一番勉強させてもらったといいます。手の付けられない暴れ馬も褒美に飴玉を与えるとコリコリ食べ、味を覚えると欲しがりました。政治さんには素直なのです。タツムラ、リキジ、サワシンなど今でも夢に出てきます。
 「戦争は地獄だ。二度とあってはならない」、十八歳から三年三ヶ月の軍隊生活を体験した忍田さんの言葉です。

  嵐山初のシメジ栽培
 1948年(昭和23)スミさんと結婚しました。スミさんの父親は金鵄勲章をもらった日露戦争の勇士で、終世体内には機関銃の弾がありました。一人息子は日中戦争で子供四人を残し三十二歳で戦死しています。その父親に会って結婚を決めたそうです。スミさんは同じ歳の政治さんを見てずっと年上に感じました。
 農作業は二人です。養蚕や甘藷栽培はいつも高い収穫量でした。子供達の教育を考えます。回転早く収穫できるものにシメジ栽培がありました。二人で秩父の栽培農家を何軒も訪ねて勉強です。1970年頃でした。菌の植付から出荷まで冷暖房の温度調節して約一ヶ月かかります。一年中栽培できたのは、井戸があり水道代が節約できたからでした。政治さんが目方を計り、スミさんが包装、子供達がシール貼りの手伝です。毎日夜中まで出荷準備に追われて、東松山や坂戸の青果市場へ朝六時のセリの時間までに運び込みました。当時埼玉県のシメジ栽培農家は秩父中心の21戸位でした。ところが、国鉄改革で信越線の横川・軽井沢間が廃線となり、碓氷峠のトンネルを利用したシメジ栽培が始まりました。採算割れの市場価格となり業者は半減、子供達も巣立ち政治さんも廃業しました。
 縁側で、日向ぼっこしながら繕い物をしているスミさんの姿に、幼い頃の情景が重なりました。


菅谷郵便局の新局舎が出来る 1950年

2009-03-08 11:20:00 | 嵐山地域

   菅谷郵便局成る
 大正十一年(1922)四月三十日、三等郵便局として開局した菅谷郵便局は、昨年十月旧小学校跡(岡松屋前)に総工費九十万円を以て着工、この四月三十日、まさに開局以来三十年ぶりに新局舎が完成し、六月三日には招待者八十名にのぼる盛大な披露宴が開かれた。敷地七十坪、延建坪四三・五坪の明るい感じのする局舎は、郡下唯一の存在である。まだ木の香も新しい新局長室で庄島局長は次の如く語った。
 皆さんの絶大なる御厚意と御協力により、新局舎が落成いたしましたことを感謝いたします。郵便局は皆さんの郵便局です。皆さんの口であり、耳としての役目を完全に果すことが、われわれにとって最大の任務であることを従業員一同充分に自覚して、皆さんの御利用を待っております。親切と正確、迅速をモットーに特に充実した新局舎に相応しい奉仕をしたいと念願し張切っております。貯蓄の面におきましては目下の所、貯金も保険も共に比企部会十八局中の第一位で、県下においても有数な成績を占めております。これは偏に村民各位の御理解ある御協力の賜でありまして、ここに深甚なる感謝と敬意を表する次第であります。
 どうか此上とも皆さん御自身の郵便局のため、何かと御支援の程を御願致します。
     『菅谷村報道』3号 1950年(昭和25)6月20日