谷川橋
谷川橋起工式 遠山-小倉(おぐら)を結ぶ谷川橋の新設工事は、本村と玉川村共同事業として、計画が進められ、土木事務所吉松技師により、巾員四米、延長二十米、鉄筋コンクリートラーメン構造の近代的設計が出来上がったので、両村々長は、議会に諮ってその予算措置を講ずると共に請負業者と交渉を進め、十一月二十八日東松山関中組と工費二四〇万円で、契約締結を完了した。工期は来年三月二十五日。その起工式が、十二月八日午後二時から遠山側現場で挙行された。出席者は、両村助役、土木係、議長、土木委員長、請負者、土木事務所吉松技師、遠山、小倉区長等。
猶この橋の完成と共に玉川村小倉地内、本村遠山地内、小川町の下里地内の町村道改良工事も実地され、菅谷、玉川、小川町を結ぶ、中央幹線が出来上がって、関係地区民の増祉に寄与するところが大きい。経費は、菅谷、玉川角一一〇万負担、小川町四〇万寄附で実地される。
『菅谷村報道』129号 1961年(昭和36)12月20日
谷川橋工事進捗
三月末、完了予定の谷川橋工事はセメント不足資材難でおくれていたが、去る四月二十七日、床板打ちを終って、基幹工事を略々完了した。
支柱型枠除去は、五月二十日頃、あと仕上げ工事で完成する見込み。竣工祝い等については、菅谷玉川両村で協議しているという。
『菅谷村報道』133号 1962年(昭和37)5月15日
谷川橋完成 五月三十一日祝賀会
小川・菅谷・玉川 三町村の道路の焦点
本村の遠山と、玉川村の小倉境界、槻川上に、村道の谷川橋が出来上り、五月三十一日、その竣工式が行われた。
この橋梁は、本村では昭和三十五年度から計画され、その後玉川村と共同施工することになった結果、その位置や、規模等も変更になり、最後は東松山土木事務所の設計により、鉄筋コンクリートラーメン構造、幅員四米、延長二十米のものとなった。請負は松山関中組で、その金額は二四〇万円である。
一平荘門前から大平山の山腹を、ゆるく西北に廻って槻川渓谷上を、遠山に進むと、左手に屹立する小倉城趾と、その懐に抱かれた小倉の清境が行人の目を惹き心を往昔に運ばせる。
山腹の道路が尽きて、車が急角度に左折して、山を下ると遠山の桃源郷に入る。ここは、前述の小倉城主遠山氏の菩提寺、遠山寺があり松山城の支城小倉城が陥落した天正十五年(1587)より三年前に歿した遠山光景の遺骸がここに葬られたと伝えられている。かくして、古く小倉遠山は等しく遠山氏の領土として一地区をなし、又、近くは、槻川の沿岸を辿って玉川村田黒(たぐろ)、菅谷村鎌形から小倉、遠山を経て下里、下小川を過ぎる小川町に通ずる重要路線の一部であった。然し、この道路も、幅員狭くとくに、小倉遠山間に、橋梁がないため、最近の交通事情に即応することが出来ず、槻川を境にこの両地区は分断されて、夫々、菅谷玉川両村の辺境的地域として、生活の不自由を忍ばねばならなかった。
偲々(たまたま)小川町と玉川村が、数年前から、この古い路線の改良に着手し、本村も又、これに同調して、遠山地内村道の議が定まった。これ等の事情から、この町村道の復活と、関係地域開発のためその集点となったのが、谷川橋の建設であってここに玉川菅谷小川三町村の連繁が成って、永久橋の完成を見るに至ったのである。かくして、現在計画中の遠山及び、下里地内の町村道改良が終了すれば、この道路は、再び、小川菅谷玉川を結ぶ、大動脈となって関係地域の発展は期して挨つべきものがあるとされている。
式は午前十一時前に始り、玉川議長の開会、神事、玉川村長の経過報告、菅谷村長の式辞、感謝状の贈呈(土木事務所職員・関中組)、小川町長の祝辞の後、両村々長によってテープが切られ、遠山側から渡り始めが行はれた。閉会は菅谷議長、続いて、一平荘で直会の儀が行はれた。当日の参列者は菅谷・玉川村議、遠山・小倉区長、小川町長、議長、建設委員、小久保県議、土木事務所員、関中組等七十余名に上がった。
『菅谷村報道』134号 1962年(昭和37)6月10日