その8 病気
私の父は、明治37年(1904)の6月虫垂炎を病んだのでしたが、前後百日、再危険期には看護婦さんを頼んで自宅療養をしました。その看護ぶりは、今で思えば何とも考えられないようなものでした。
つまり、痛み薬と冷すことと何と患部に塗り薬を塗って浸みこませるために二時間位なでているのだそうです。これは私が浦和に行ってから、一年先輩氏がそのように言ってましたから、まあそうだったのでしょう。
前の家の主人は、冷やすのをまちがって、逆に温めたとかで、ついに亡くなっていたのでした。
もう一つ、前にちょっと申しましたが、インフルエンザが猛威をふるったのは大正7年(1918)の夏から10年(1921)の春までの間で、【七郷村】越畑の方はあまりたいした事はなく、もちろん、学校の臨時休校などはありませんでしたが、【菅谷村】平沢は実に烈しかったと聞いています。
一軒で三人も亡くした家もあるとかで、薬は何軒分かをまとめて買って来て、おれぞれへ分けた事も多かったと申します。
また、当方【平沢】の父は一日二回床番*(とこばん)をしたと申しました。
実は私も、大正10年(1921)2月、浦和でやられました。午後寄宿舎に帰って寝こみましたところ、たちまち高熱を出し、同室生が医者を頼むやら、氷を使うやら、本当にやっかいになりました。
その時、医者が四〇度三分と言っていたのをはっきりと記憶しています。
一週間位で一応回復し、期末試験は受けたものの、まだ足は地に着いた気もせず、ふらふらで試験を受け、満点近いと思った数学がなんと五十七点だったことだけは、よく覚えています。
『嵐山町報道』280号 1979年(昭和54)5月25日
*床番(とこばん):関東地方で、墓穴を掘る人のことを床番といった。床取り。(日本国語大辞典)