その14 山鳥の親心
「焼野の雉(やけののきぎす)、夜の鶴(よるのつる)、子を思う情は舐犢(しとく)にも備われり。……」は昔の高等小学校「国語読本」にあった書き出しの名文だが、私にはまさに、これを証明するに足る体験があります。高等科二年の夏休み、例によって兄と二人で馬に乗って山草刈り行く途中、家を出て一キロ位山に入り、大沼の西側の山裾の進み、沼のウラ(沼の終る辺)の、幅五十米位の水田を目前にした処で、左手の山から子連れ山鳥が飛び立って水田の上を極めて低空で、水田越しに反対側の山に向かって行く。その数は何と今でもはっきり記憶しているが子が十一羽、親が一羽、余りに数が多いので「一羽位取り得るか?」と思ったのだろう。兄が「駄目駄目」と言ふのも何のその、馬の背ではない尻から跳び降りて、その辺と思う地点に行ってみると、何しろ十一羽の子だからそれが一斉に草の中を走って逃げると、幾状も幾状も草が左右に揺れて素晴らしい光景であった。成る程これでは俺にはどうにもならないと思いつつも、足は二、三歩前進、雛鳥の分け進む草の揺れもずっと遠くなった時、足許二,三米の地点から親鳥一羽が物凄い羽音で飛び立った。自分は度肝を抜かれてあっと棒立ちになった侭。馬の上から兄が「アハゝヽヽ」。説明無用と思いますが、雛が完全に安全地帯に逃げ去る迄は、正に文字通り親鳥は身を挺して接敵動作を続けていたわけですね。
『嵐山町報道』285号 1979年(昭和54)12月1日
焼野の雉(きぎす)夜の鶴(つる):雉は巣を営んでいる野を焼かれると、わが身を忘れて子を救おうと巣にもどり、巣ごもる鶴は霜などの降る寒い夜、自分の翼で子をおおうというところから、親が子を思う情の切なることのたとえ。
舐犢(しとく):親牛が子牛を愛しなめてやること。転じて、親が子をかわいがること。