七、木曽義仲についての生立の論説
(1) 出生
山吹姫は班渓寺に穏栖し久寿元年(1154)駒王丸(義仲)が生れ、次の年即ち久寿二年(1155)に大蔵の戦に義賢が敗れ、山吹姫及駒王丸も捕へられしが、山吹姫はその後ゆるしを得て、班渓寺に一生を送り、此の寺の開基として往生をとげた。
義平はその駒王丸をなきものにしゃうとし畠山庄司重能(重忠の父)に命ぜしが重能は流石に重忠の父だけあってどうかして助けてやらうと思て【斉藤】実盛に頼んだ。
此のことは前の処でのべた。
(2) 木曽にて育成
その後旗上までは木曽山中にて育ったことであらうが、長じて二十才の頃ひそかに関東の地にもどったと思はれる。
これらは文献等には不明であるが、地方の伝説又木曽引畧記に依っても察せられる。
木曽引畧記に妾は荻久保氏の女とある。その妾は多分関東へ戻りし時の妾なりと推論する。
(3) 木曽義仲の産湯の清水について
鎌形へ来て義仲の産湯を問ふるならば誰しも郷社八幡神社の境内に案内する。
そしてその水壷は半石も水を貯へることが出来、又その傍に「木曽義仲産湯の清水」と刻んだ石碑が立って居て、それは誤りだと思ふ人はあるまい。しかし実はそれは誤りで当地の故簾藤左近氏が八幡神社の境内に石碑を立てれば人目につくと思ひ、自分で石に刻んで明治年間に建てたものである。
そしてその石碑無名無年月日にした。かうして史蹟を人目につく様に郷社八幡神社に建てたことは賢明と云はねばならないと思ふ。
又それを郷土史としても差つかへはないと思ふ。[ この部分は抜けている ]を始め郷土史の種々の本にあらはれて居るから此の論説をくつがへす必要はないと信ずる。
而し私は此の問題について、いさゝか関心を持って居る。それ故私は此の郷社八幡神社の清水を否定すると同時に班渓寺の境内を西へ出て木曽殿坂にある清水をその真なるものと思ふからである。
此の清水は寛で水を十数米位引へて来て甕の中へ落す。付近は一面竹林が茂り、自然当時様子がひしひしと身にせまってくる感がする。これも八幡神社の清水も鎌形の七清水の一に数へられて居る。
これまでのべると此の二つの問題についてどうしてかと疑問になる者もあるだらうから此処に私の研究の一端を述べやう。
◎八幡神社の清水を使用しなかった理由
(イ) 八幡神社は坂上田村麻呂が蝦夷征伐の時に応神天皇を塩山(鎌形の小山)に祀ったので以後そのまゝそこに祀られてあったが約二、三百年前、此の地に遷されたものらしい。
今日未だ塩山に大願成就の奉納旗を見ることがあるので遷されたことは古くない。
(ロ) 今の神社と班渓寺の距離が相当に遠いので、若し今神社のある場所に清水があったとしても水汲みにわざわざ行かなかっただらう。
(ハ) 若し神社があったら神の御利益を得る為に遠路をわざわざ行ったらうが、その当時神社はなかったことは前に推定して居る。
◎班渓寺木曽殿坂の清水を利用した理由
此の木曽殿坂の清水は平安朝頃からあったに相違なく、又班渓寺建築以後日用の飲料水として用ひられて居たと思はれる。それ故にこれがつかはれたことが察せられる。
私は以上の様なことを研究推考して見た。
長島喜平『源義賢・義仲郷土史に関する研究』(1941)(http://blog.goo.ne.jp/satoyamanokai/d/20081228)