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里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

志賀の水野倭一郎、令三郎ら新徴組に参加する 1862年

2009-01-11 00:55:28 | 広野

   水野家の気骨 幕末の激流に身投じる
 東上線武蔵嵐山駅の北西に位置し、細長い町のほぼ中央が志賀地区。江戸末期は志賀村で四家村ともいった。内田、大野、吉野、深澤の四家が村を支えていたためだが、この四家を束ねていたのが水野家だった。代々の名主で村一番の富豪。若き日の渋沢栄一がまゆ玉を背負って訪れたと伝えられている。この水野家は“気骨の家”としてまた知られている。
 安永四年(1775)生まれの水野清吾は、甲源一刀流を学び、比企地方に同派を広げ、弟子の数は、秩父三峰神社奉納額によれば「属弟千五百人」。その長男倭一郎は、新選組の母体となる浪士隊(のちに新徴組)に参加、刀一本をひっさげて幕末の激流に身を投じた。この時、倭一郎は四十二歳、一緒に連れて行った三男令三郎は十五歳だった。
 浪士隊=幕末の志士清河八郎が「京都の勤皇浪人を取り締まる」を名目に尊王攘夷(じょうい)のための隊を編成したもの=入りの話が倭一郎の元に舞い込んで来たのは文久二年(1862)暮れのこと。県内の武術を研究している埼大山本邦夫教授によれば「清河は甲山村(大里村)の郷士根岸友山と親しく、根岸は清吾の門人。この関係で倭一郎も誘われた」ようだ。
 倭一郎は門人の内田柳松らを集め、浪士隊への参加を決めた。村から出立は翌文久三年一月二十八日。この日朝、水野家の「士関演武場」道場に集まって門出の祝い酒を受け、江戸に向かったと伝えられている。
 浪士隊は、江戸小石川の伝通院に集まり隊を編成した。倭一郎は一番隊の副隊長格の小頭。この時、近藤勇や土方歳三は六番隊の平隊士だったから、名前は倭一郎の方が知れ渡っていたらしい。浪士隊は上洛したのち、江戸に戻って庄内藩酒井家預かりとなり、名称を新徴組として江戸取り締まりにあたる。倭一郎はここで隊剣術師範、酒井家との連絡を担当する取締付という肩書で隊の中心人物的な存在となった。
 隊の戦闘参加は、庄内藩内(山形県東田川、西田川、飽海郡)での戊申庄内戦争(慶応四年)だった。半年間の激戦の中で、倭一郎の活躍は目ざましく、わずかに残っている資料の中にも、敵の首を挙げたことが記されている。だが、一緒に戦った令三郎は、流れ弾がひざに当たり、戦死した。
 十九歳の若さで散った令三郎の戦死の模様を水野家に伝えてくれたのは、日露戦争の旅順攻撃の際、第九師団参謀長だった妻沼町出身の須永宗太郎中将。大正初め水野家を訪れた須永中将の話によると、令三郎は「戦は負け。出撃するな」という上司の警告を振り切って出撃し、戦死した。警告を守って命拾いをしたという須永中将は「学問も剣術も令三郎さんが上だった。生きてれば、私が中将なのだから大将にはなっていた」と家族に語り、その気骨ぶりをたたえたという。
 一方、倭一郎は、明治初め、郷里の志賀村に戻った。それも庄内藩での軟禁状態からの“脱走”だったらしい。令三郎を失った悲しみか、負け戦だったためか、新徴組のことはあまり家の者に語らなかったようだ。このため、倭一郎の逸話らしいものが伝わっていない。
 が、一つだけ、こんな話が残っている。倭一郎は志賀に戻ってから、また剣術を教えていた。出稽古(でげいこ)の帰り道、三人組の辻強盗に襲われた。一緒にいた根岸徳次郎は、「先生は簡単にやつける」と、かたずをのんで見ていた。ところが、倭一郎は懐から金を出し、その場を逃がれた。徳次郎が不思議に思って聞くと、「お前は火縄(ひなわ)のにおいが気づかなかったのか」。木の上から火縄銃でねらっていたもう一人の仲間がいたのだった。倭一郎は、銃のこわさを庄内戦争でいやというほど味わったためのものだろう。
     ◇          ◇
 現在(1978)、水野家を継いでいるのは、産婦人科医の水野正男さん。倭一郎について詳しく知っていたのは、叔父の水野円三さんだった。だが、円三さんは、先月十七日、脳いっ血のため八十二歳で亡くなられた。円三さんの口ぐせは「武士の家柄ということを考えろ」。死んだ時は、まわりをぐるっと見回し、涙を一筋流しての大往生だったという。「武士の最期みたいでした」と長男の信夫さん。

メモ:倭一郎の参加した新徴組は、不思議な団体で、勤皇派と佐幕派の浪士が混在していた。このため、隊から新選組が生まれ、尊王攘夷のために決起した筑波新徴組が出るというぐあい。原因は清河八郎の奇策にあったといわれる。庄内藩領地に行ってからも、勤皇の意思を持った隊員が官軍と戦ったり、庄内藩からは戦闘の際、必ず最前線を守らされ、明治になると軟禁状態で松ヶ岡(東田川郡羽黒町)の開墾をやらせられるなど、徹底的に利用された。
 新徴組を調べている山形県酒田市の小山勝一郎さんは、「私の家も庄内藩の士族の出だが、それにしても、藩の扱いはひどすぎた」と新徴組に同情する。山本邦夫教授の調査だと、県内での浪士隊への参加は四十七人。嵐山町からは六人となっている。
     『読売新聞』1978年(昭和53)5月12日 まちかど風土記90 鎌倉街道・嵐山


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