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里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

古老に聞く 農士学校と重忠公の像 関根茂良

2008-08-18 18:39:35 | 千手堂

 菅谷地内の、字城と呼ばれる地帯が、鎌倉初期の畠山館址であり、戦国末の菅谷城址である。今その本丸址の中心地点に丈余の角柱が聳え、その正面には「雲山層々、緑水汪々、先賢之風、山髙水長」の墨蹟が、永く風雪の患に耐えて、人間精神の淸深を象徴している。ここはもと日本農士学校・金鶏神社の遺蹟で、学校は終戦に際し、占領軍の接収にあい、次いで国有に転じ、解かれて同窓会の手に移り、日本農士学校の発足となった。この標柱は、その頃解体した金鶏神社の遺材で建設されたものだという。

 昭和二十七年(1952)、学校は、県有に移り、県立興農研修所となり、学生は高い教養、美しい品格、広い見識を養い、農業経営の新しい知識技術を習得して、県内各地で農村の指導的人材となって活動し、又、南米の天地に雄飛した。然るに、近事著しい経済発展に伴う、農業構造の改善に即応して、研修所は更に農業研修センターに改組され、昭和六年(1931)日本農士学校創立以来三十年の道業は、ここに大きく改変されるという。

 「時は過ぐ、歴史は移る人の世に」而して「真理を究め技を磨き、正義を執りて国のため、世の為に尽くす誠こそ、これぞ宇宙を開く力である」と、農士学校創立者安岡正篤氏が諭し、在野の碩学小柳通義氏は「人道の起点・菅谷城」を説いたという。

 高い理想精神に導かれて、重忠の菅谷荘が新しい歴史の上に、どのような歩みを進めるか。これは一切、経世の先覚に委ねて、いまは暫く目を過去に集め、農士学校用地選定の事情を視い、これを記録に留めて村誌編纂の資料に備えんと希う。

 さて、農士学校に道縁深い関根茂良氏の談話によれば農士学校の創立は昭六年(1931)これに先立つ四年(1929)の秋[次号で昭和五年の夏に訂正]、元乃木軍参謀で陸軍大佐、当時金鶏学院の主事長であった東方寿氏が学校建設の地を相して本村を訪れた。比企郡内に三ヶ所位候補地があったという。本村ではたまたま遠山地内に山林の売り物があったらしい。一行は、遠山に入り目的の土地を検分したが、ここは険しい傾斜地で、とても、学校敷地の用に適さない。落胆した一行は、空しく帰路につき、道を大平山の山道にとり、やがてその山頂に辿りついた。ここは村内でも有数の、眺望絶景の場所で、眼下には槻・都幾の清流が田野をうるほして遠く地平に消え、森と林に包まれた平和な山村が 眠っている。ふと、目をやると、槻川に沿う緑の木立の中に何やら白いものがひらめいている。はて何ものかと、案内の村人に聞くとこれぞ、新建成った畠山重忠公の像だという。この時像はまだ除幕式が行なわれず、像を包む白の白帛が風にはためいて、東方氏一行の目をとらえたのだという。

 東方氏一行は、ここで忽ち重忠公の像を中心とする、菅谷城址の地相に心をうばわれた。何しろ重忠以来の勝地である。東方氏一行が期せずしてこの地に惚れ込んだのも、むべなる哉である。暫くして農士学校の敷地は決定したのだという。日本農士学校を、菅谷之荘に導いた畠山重忠像建立の由来については、明治の碩学小柳通義氏について筆をすすめなければならない。

     『菅谷村報道』132号(1962年4月15日)


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