小柳通義氏が本村を訪れたのは昭和三年(1928)初夏の候。六十歳の頃である。
小柳氏は明治の漢学者根本道明博士の弟子で、漢学の権威として当時の学界に重きをなし、一高、慶応等の講師に聘されたが、辞して受けず、専ら野に在つて、漢学の研究に一生を委ねた。
この小柳氏がある日、浄瑠璃、鎌倉三代記(紀海音作)を読んで、畠山重忠の行跡と武蔵国小衾郡菅谷の館の件りに逢着。懐旧の念禁じ難く、その遺蹟を探ねて、本村を訪れた。 駅頭に立った小柳氏は、先ず、畠山館蹟を訪ねて、山王沼を経、現小学校敷地を貫く村道から城に入ったらしい。この時沼に辺りで現村議根岸巷作氏の家人に道を問うたことが、後日明らかになった。根岸氏の家人が沼で養具を洗っていたというから、小柳氏の来村は、丁度今頃若葉の薫五月の初めであったと思われる。
その当時、武蔵嵐山は、根津嘉一郎氏により「新長瀞」の名で、漸くその風趣が、都人に宣伝され出した頃、小柳氏は、更に新長瀞探勝を思いついたのであろう。ここにゆくりなくも、小柳氏と関根茂良氏の邂逅が起った。
昭和六年(1931)、庄田友彦氏が現在の嵐山道路を開くまで六角堂下の川沿いに僅かに魚とりの通う仄路が新長瀞に続いていた。これを辿るには関根氏の前庭を過りその西側の谷から川岸の道に出る外はない。小柳氏は剌を通じて関根氏邸内通過の許可を求め、恰も在宅の関根氏に、菅谷村探訪の意を語った。斯うして、小柳関根両氏の交りが始ったのだという。
この年(1928)十一月十日、今上天皇御即位の大礼が行われた。当時在郷軍人分会長であった関根氏は上京してその式典に参列し、その帰路、日暮里の宿に小柳氏を訪ね、ここで、重忠像建立の議が決したのだという。
もと重忠館趾については大正十二年(1923)県知事から百三十円の助成を受けて畠山重忠菅谷館趾史跡保存会(会長山岸徳太郎氏)が結成され、その保存に務めていたことは、重忠像下の碑文で明かであるが、像建立の趣意を述べたものは、像近辺の碑文に残されていない。
像落成の昭和四年(1929)の秋日、「忠魂義胆懐武士道」の頌德詩一篇が小柳通義氏の手に成り、銅板に刻まれて、像の傍に建立されたが、戦後心なき輩により、この銅板は盗み去られた。然し幸にその詩文の原文は、中島喜一郎氏が蔵せられ現存している。(本誌[菅谷村報道]第八十五号所掲)
農士学校を相して、東方主事長の一行が来村したのはこの昭和五年(1930)の夏、(前号で四年の秋としたのは誤り)これ又、中島喜一郎氏の蔵する「日本農士学校建設秘誌」によれば、「昭和五年七月十三日、菅原茂次郎を伴い……味爽萬居出て、東上線を武州松山駅に下車し……転じて菅谷駅に下車し……遠山越の隧道上高地に立って東方を瞰下すれば図上旧城址と思しき辺りに白紗の衣を干したるが如く見ゆるものあり、夫れと相距る程遠からぬ地点に、又真白で切り立てたる石塔様のものが見えた。伝々」とある。今、廃懐し去った忠霊塔である。
こうして前号でのべた関根茂良氏の語る、農士学校用地選定の端緒は、秘誌の筆者、東方・氏によって、明かにその裏付けがなされ、紛れない史実として、後世に伝えられるべきものとなるのである。
『菅谷村報道』133号(1962年5月15日)