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里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

「報道」より見た1955年(昭和30)

2009-04-03 23:53:00 | 七郷地区

 三月二十七日、菅谷、七郷両村の議会は、廃村と新村建設の決議を行い、四月十五日、新村名を菅谷村としてその第一歩を踏み出した。

  面積 約三十平方粁(キロ)
  世帯数 一五八二
  人口 九三九三
  村長職務執行者 高崎達蔵
  参与 青木義夫(七郷村長) 小林博治(菅谷村助役)
  収入役代理 安藤安雄(七郷村収入役)
  七郷支所長 井上文雄(七郷村助役)

 また当時の村会議員は三十六名で菅谷地区二十二名、七郷地区十四名であった。七郷地区の議長であった馬場覚嗣氏が新議長に、菅谷地区の議長であった杉田寅造氏が副議長となった。最高齢者は馬場覚嗣氏で六十六才、最若年者は三十二才の小林久氏である。
 四月十五日には菅谷小学校で祝賀会が行はれたが、これに先立ち午前八時から役場職員に任命辞令の交付があり、続いて村議会が開かれ上提された四十案件を一気に可決して、十一時から祝賀会に移った。
 川越農高菅谷分校の第一回の入学式が四月十一日に行はれ三八名が入学したが、その後、時勢には勝てず十年を待たずして自然廃校となってしまった。
 四月二十四日には県会議員の選挙が行はれ、本村平沢から立候補した山田薫氏は本村で二五〇七票を得たが落選した。
 合併後初の村長選挙は五月十四日行はれたが高崎達蔵氏が無投票で当選し初代村長に就任した。
 六月の定例村会において三十年度予算が審議されたが、総額二千三百三十九万円であった。また助役には青木義夫、小林博治の両氏が、収入役には安藤安雄氏がそれぞれ決った。
 菅谷中学校校舎の落成式が八月二十二日の行はれた。
 大川建築士の設計で勝村建設が請負い、工費は一千五百十二万、校舎三棟四八八坪である。校地は七〇二六坪、運動場の広さ三七九五坪である。
 八月に新村名の募集を行った結果、いろいろな名が寄せられたが、そのうち主なものを挙げてみる。
  城山村、菅郷村、嵐山村、七菅村、谷郷村
 議会は新村名について協議したが、結論は得られなかった。
 十月には村議会議員と教育委員の選挙が行はれたが教育委員は無投票で決まった。議員選挙は小選挙区制で菅谷地区十二名、七郷地区十名の定員であった。臨時村会で議長に栗原侃一氏、副議長に山下欽治氏が決った。
     「菅谷村報道」159号 1965年5月10日


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