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S嬢のPC日記

2004年から2007年まで更新を続けていました。
現在ははてなで活動しています。

類似品

2005年08月05日 | つぶやき
続:「デザート」 のコメント欄で USHIZO さんがヨックモックの「ドゥーブル」を「冬の恋人」タイプとおっしゃいまして。
おお、この表現はとてもよくわかる。
そうそうそう、と思う。

しかし、この「冬の恋人」でわかる、観光地によくあるあの「お土産お菓子」は、もともとは「白い恋人」ではないですか。
「北海道のお土産お菓子版は 白い恋人か、六花亭のホワイトチョコ が定番」って感覚、アリ、ですよね。
この定番の人気商品、人気ってことで、あちこちの観光地に「白い恋人類似商品」があふれているのは衆知の事実ということだと思う。
クッキー的温泉まんじゅう、という称号を与えたい。
(さすがに六花亭のホワイトチョコに類似品が出ないのは、ホワイトチョコのシンプルな板チョコであることと、あの包装の絵にもブランド性がある「お土産品」だからかもしれない。)

元の商品に人気があり、そのことで全国に類似品があるというものの代表的なものは、やはり「萩の月」。
学生時代、仙台が実家だという人間が帰省するときに、周囲が目を輝かせて「萩の月買ってきて」な~んてことを言ってたころには、これほどまでには類似品は存在していず、「萩の月」はお土産品として「王道」だったと思う。

ところが「あんれ~~?」と思うほどに、最近ではあちこちで「萩の月もどき」が売っている。
まあ、そういうもんよねえ資本主義社会は、と思いつつ、検索でなんとも興味深いところを見つけました。

「萩の月」を探せ

これ、すごいです。
個人の探求心として、おおいに敬意を表したい。

パッケージになんの変哲もなく、信州方面で、どこのお土産屋にももそっとおいてある「そば粉豆」っておいしいですよね。
なんというか、「味のみの勝負」でおしゃれ性もへったくれもないからこうした類似品戦争の中に入らないのかもしれないが、わたしは好きです。

続:「デザート」

2005年08月04日 | つぶやき
昨日の「デザート」という文章にトラックバックがつきまして。
あら、文中に出てきたシガールを、懇切丁寧に写真までつけて語っている記事でありまして。
「言及もリンクも無い」なんて、かてーことゆーなよというのが感想です。
と、いうよりも、文中で説明なんぞということをとんとしなかった「シガール」の商品説明を、ここまでたっぷりと紹介する記事をくっつけてくれることなんぞが、感謝でもあります。

正直に言えばね、わたしはヨックモックのお菓子をここまで紹介してこそ、ワリとキリギリス日記の「不遇感」に出てくる「ヨックモックのシガールっぽいセルフイメージを大切にもっているのだが」が味わえると思う。
でもまあ、ヨックモックなんざ、誰でも知ってるさってとこで、そこまで懇切丁寧に本文に入れなくてもいいと思った。

そのうえで、せっかくこんな懇切丁寧なリンクが記事にくっついたので、昨日省略したことを記述。
トラックバックで送信された記事 「さっくさく☆ヨックモック!」 で出てくる「ドゥーブル」。
そして手前に写っている各種は、「ドゥーブル」と呼ばれるお菓子。このドゥーブルこそが、ヨックモックの代名詞でもありまして、ワタクシは幼少の頃から一番うれしいオヤツであります。
(´ー`)好き!
ヨックモックってのは、「ちょっとした贈答品」に、一般的によく使われる。
その中で、そうだよ、あのチョコだのなんだのとくっついてくるヤツ、普通はあっちを「うれしい」と思う人多くないか?と思う。
しかし、誰が「ドゥーブル」なんて名前をしっかり覚えているんだろう。
対して「シガール」は、「あの細いヤツ」と称されることはあって、自分で商品名が言えなくたって「ヨックモックのシガール」と言われれば、たいがい「ああ、アレのことだ」とわかる人は多いと思う。
「ヨックモックのドゥーブル」と言われて、いかにその人が実は喜んで食ってる層だとしても、いったいどれだけの人が「ヨックモックのドゥーブル」でわかるのか。
たいがいの人は、「なに?それ」という感覚になるんじゃないだろうか。

同じ缶の中に詰めてある「ドゥーブル」にどんどん手が伸ばされて、「残ったシガールを食べる」という扱いを受けていても、ヨックモックの缶を見て「ドゥーブル」を期待してあけてみて、ごろんごろんと並ぶシガールだけを見つけてがっかりする人がいたとしても、それでも「ヨックモックのシガール」といえば、たいがいの人が「ああアレか」とわかるんだと思う。

そうやって、「飾り立てた味」のすぐそばで、正当なシンプルさを主張している、主張し続けている「シガール」。
それを前提にわたしはワリとキリギリス日記の「不遇感」に出てくる「ヨックモックのシガールっぽいセルフイメージを大切にもっているのだが」という部分を味わったということなのですよ。

こんな「解説」は、「ドゥーブル」が一緒に詰め合わされた写真なんぞをもってこなきゃ、そうそう簡単には記述できるもんじゃない。
だって「ドゥーブル」って言っただけで、わからないじゃないか、たいがいの人は。

それがひとつの「検索ワードでトラックバック」で、丁寧に画像付きの商品説明がリンクしてもらえる。
まあ、便利。
トラックバックを送りたい相手の「利」と、受ける側の「利」が手を結ぶ。
これもひとつの「トラックバックありがとう」の一例かもしれない。

と、いう、このトラックバックの感想を、相手に伝えるか。
いーんじゃない?伝えなくて。
先方は記事内容とは無関係に「ヨックモック」でワード検索してトラックバック送ってるだけだし。
(検索して他にも送られている記事の存在を複数確認)

「デザート」

2005年08月03日 | つぶやき
なんともいえないセンスが大好きで、巡回先として固定されている ワリとキリギリス日記
8月2日更新分の「不遇感」という文章がたまらない。
普段自分の評価を出来るだけ低く設定するように心掛けていて、お菓子で言えば、ヨックモックのシガールっぽいセルフイメージを大切にもっているのだが、時々人に誉められると、自分のことをお菓子で言うと、なんていうのかわからないけど、わからないのに例えようとしているけど、大皿にちょこんとのってチョコレートを薄く削ったやつとか、パウダー状の砂糖や、何らかのソースが色鮮やかに細い線状に網掛けにかけられていて、アイスクリームが添えられて、アイスクリームの上にはミントの葉っぱがのっている。そんなステキなイメージになるのだが、どんなにステキにイメージを膨らませても現実は微動だにしないため、必ずその後で深く落ち込む。
(たぶん)ニュースサイトに乗るネタではないし、はてなブックマークにも(今のところ)取り上げられてるわけでもない。
でも、でっかい声で、「いいでしょう?コレ。いいよねえ、コレ。」と吹聴したい気分になるんですが。
是非、行って全文読んでみてください。オチもあります。

さて、ワタクシの日常。
ワリとキリギリス日記「不遇感」を読みながら、「大皿にちょこんとのって」からどんどん、ふくらんでいくイメージがあって。
高そうなこじゃれた店のコース料理にワインリストからワインなんぞ選んで、もっともらしいウェイターの出す試飲にもっともらしくうなづいたりなんぞしながら、(おお、やっとめんどくさい儀式が終わって酒が飲める)という正直な内心を曖昧な笑みで隠し、ナイフとフォークでゆっくり食事を楽しんで、まだ食うのかというノリで小さなデミタスカップの濃いめのコーヒーなんぞと一緒に運ばれてくるデザート。。。
(以下、「不遇感」の、「大皿にちょこんとのって」に続く。。。)

で、まあ、「深く落ち込む」わけではないけどふっと我に返り、冷凍庫にストックしてある、ガキにねだられて買った6本で300円くらいのスイカバーでも食っとくか、と、現実はそんなもので暑さをしのいで「ああ夏だ、夏休みだ」なんぞと満喫しております。
スイカバーといえば、その辺のスーパーの箱アイス売り場にたいがいどかどかと並んでおりますが、シャトレーゼスイカバーは、うまい。

*「続:デザート」に続きます。

みんな大好き冷たいおっぱい

2005年07月29日 | つぶやき
いろんなニュースサイトで取り上げられていたコレ。

みんな大好き冷たいおっぱい

この情報紹介には、余計な説明はどこも省いてあり、わたしはスルー。
スルー、スルー、ときて、あんまりどこにでも出てくるもんだから、しつこさに負けてクリック。

わあ、豆腐だ。

この話を読みながら、ふと思い出す10年以上前のこと。
娘を連れて、母子通園の障害児療育施設の集団指導の中で。
ある日、小麦粉粘土あそびをやったんですよね。
小麦粉をこねて粘土状にする。
障害児の「感触遊び」としては、まあよくある教材なわけです、小麦粉粘土。
乳幼児期を対象にしたクラスで、対象は肢体不自由と中度から重度の知的障害。
運動機能の発達のいい子で座位がやっとの状態で、もちろん言葉を持たない状態ですから、口を開いているのは指導員と保育士と、母子通園でくっついてきている母親。
大人が大人同士で「子どものために話している」、まあ、日常的にはちょっと不思議な光景ではあります。

そのときにある指導員(女性)が、とても楽しそうに小麦粉をこね、その粘土状のものを子どもにさわらせてやりながら言いました。

「ほうら、おっぱいみたいね」

なんか、わたし、ぎょっとしてテレてしまって。

最初の子どもである娘は、生後まもなく状態が悪くなり入院。
退院まで手術を含めて、半年以上かかりました。
当初は病院の指示通り、母乳を絞って届けていましたが、すぐに「心臓腎臓疾患児用低塩分ミルク」に切り替えられ、用のなくなった「乳」は簡単に枯渇。
箱の中の呼吸器をつけられて昏睡する娘を眺めるだけの面会、病室の窓から機器につながれた娘を眺めるだけの面会。
そんな日々も長かったので、母子関係の中で「ふわふわおっぱい」などという記憶は何も持っていませんでした。
退院後も、再入院させたくない気持ちから「病院からの預かりもの」のように感じて、必死に薬飲ませたり、状態を観察したりという日々が続き、なんだか「ふわふわ」どころじゃなかった。
マイ聴診器も持ってましたし。

だから、なんというか、「おっぱい」は「おっぱい」などと発語されるだけで、ぎょっとしてしまうような、母親以前の状態のような母親であったんですよね、当時。

「ほうら、おっぱいみたいね」

いや~、なんというか、そのとても自然なしあわせに充ちたような言い方を聞きながら、思った。
母乳だのミルクだのってこととは関係なく、母子がいっしょにいることが原点の、当たり前に赤ん坊が母親に抱かれて、その顔のそばにおっぱいがあるというか。
そんな母子関係というものの成立の原点を語るフレーズなんだなあと。
そんなことを思いながら、第二子妊娠・出産は、「絶対このフレーズのしあわせ感を体感してやる!」みたいに思っていたなあと。

みんな大好き冷たいおっぱい 、食べてみたいです。

豆腐といえば、開発秘話のあるこんなものもあります、ご参考までに。

ひかるKunの”ちょうどのおとうふ”

「薬」と「アメ」と

2005年07月24日 | つぶやき
現在、娘が体調を崩しています。
日中は元気なのだけれど、夕刻から発熱という状態が再び復活。
6月から数週間おきに、この状態をくり返しています。
単に、体力が低下しているために、風邪をひきやすくなっているということのようですが、どうも落ち着かない。

その「生活」の中でのことですが。
薬を錠剤で飲ませておりまして。
昨日、薬を飲んだ後に、咳がひどく苦しそうだったので、
「アメをなめると楽になるからね」
と言いながら、本人の目の前でアメの小さな袋をやぶって口に入れてやりました。
そうしたら、ごっくんと、コレを飲み込んでしまいました。
おいおい、それ飲み込むには大きいぞ、と思って、コップに水を入れて渡してやったのですが。
なんせ、直径1.5センチほどの球形ですから、このアメ。

今日、食後に薬を飲ませまして。
そうしたら、本人、したり顔で、アメを取り出しまして。
小さな袋を破いて、口に入れて、
そしてごっくんと飲み込んで、コップに水を入れて飲んでいました。
にっこりと、誇らしげな顔で。

おいおいおいおい。
それは違うよ。

知的障害のレベルとして「重度」の判定をされる我が子。
そして、その「重度」の判定を超えた生活能力を持っているのは、本人の個性として持っている以下の力が作用しているわけで。
・シチュエーションから学ぶ能力
・行動に見通しを立てる力
・自己を持とうとする意志力
「知的障害」というもののメカニズムのようなもの、
本人の個性を生かしていくという要素、
全て引っくるめてわたしにはまだまだ興味がつきないなあと思うような出来事でした、「アメごっくん」。

データに見る「痴漢被害」の実態

2005年07月20日 | つぶやき
警視庁ホームページ:痴漢相談所「電車内における痴漢犯罪の実態」より、考察。

場所別発生状況
卑猥行為というものの大半が「電車内」で行われているという結果になっています。
被害を確認し、訴え出るという件数は氷山の一角と思われる中で、卑猥行為ではなく「犯行がエスカレートした場合に適用される『強制わいせつ罪』」の、平成16年中の電車内における認知件数は、304件。
つまり盆暮れや土日祭日等を除いた平日において、おおよそ一日に1人以上は都内において、なんらかの「エスカレートした行動」の被害に遭っているということです。
これが「表に出てくる数字として」です。

電車内における痴漢犯罪発生件数の推移
調査において、被害に遭う数字は年々増加しており、特筆すべきことは「暗数は、この数十倍に上ると見込まれる」とされていることです。
つまり警視庁において把握している数字というものは「氷山の一角」であると、警視庁が認識しているということです。

被害発生時間帯
大半が朝のラッシュ時に起きており、これは駅員の迅速な対応が望めない時間に起きているということでもあると思われます。
駅員の迅速な対応が望めない時間帯に起きているということは、「暗数」の存在の大きさも推測できることなのではないかと思います。

被害者の年齢層
被害者の大半が10代から20代であるということが特徴的です。
10歳から15歳までの数値は16歳~18歳までよりも下がりますが、通常学区の小中学校に進学する場合は電車を使いませんので、この層の全体数を下げていることも関係していると思います。
つまり、実際の「人数」というより、私学に通う中学生の被害の経験率の大きさが、このデータから推測されると思います。

路線別被害状況
わたしが通学に使っていたのは、京王線、山手線、丸の内線の3本です。
いずれもワースト記録の中に入っていることが、ここでわかります。
わたしの経験の中では、エスカレートした行為の多かったのは「山手線」、性器の押しつけが多かったのは「丸の内線」でした。

電車に乗る上で、痴漢被害に対しての「自衛策」としては、同じサイトの許すな痴漢!というコンテンツの内容がよくできているという印象を持ちました。

*関連記事 「電車の中で

続々「電車の中で」

2005年07月15日 | つぶやき
どんな風に出て、どんな風にアドレスが出されてるのかわたしにはわからないのですが、2ちゃんねるにアドレスが二つほど出ているようです。
そのひとつの「電車の中で」のアドレスに向かってのアクセスが昨日134ありました。
そしてそのことによるコメントが最新記事に投稿されたようで。

まあ、どこか覚悟していたことですから、削除せずに受け入れることにします。
これがまあ、世の中というものの縮図のひとつでしょう。
連打でこなかったことと、早い段階でストッパーになってくださった方がいらしたこと、感謝します。

以前、ある学校の社会福祉に関しての授業という場で、時間をいただいてお話をさせていただいたことがあるのですが。
「社会福祉」というのは興味をお持ちになる方もいらっしゃるし、選挙では公約の一つとしてよく出てくる。
しかし社会福祉施策というのは、「どこかで誰かがやっといてくれる」ということには、誰も反対意見は述べませんし、「いいこと」と判断する方も多いようですが、「福祉を成立させるために、あなたも少し我慢をしてください」ということになると、途端に福祉の対象になる人間に攻撃がやってくるものだと。
それは社会福祉を受ける立場にいる人間は、経験の中で知っていることが多いのだと。
そのことを心に留めておいていただきたい、などとお話ししたのですが。

女性専用車両というもの、様々な意見が飛び交うものだと思いますが、是だの非だのと言っているわけではないわたしのところに、なぜ攻撃が来るのでしょう。
こういう被害の経験があるということに対して、なぜ、「男性差別者」と言われなければならないのでしょう。

ひとつの施策の実現という鉄道各社の選択に対しての異論反論はあるのでしょう。
でも、性被害というものは犯罪なのだということにはかわりはない。
そうした犯罪が、被害者の泣き寝入りの中で、今も続いているだろうと思うということ。
そうしたことを、少しでも具体的に知っている人が増えることは、もしかしたら何かのきっかけになるのではないか。
そんなことを思った上での記事上げでした。

社会の視点

2005年06月26日 | つぶやき
子どもを生むと、知らない人とよく話すようになる。
赤ん坊を連れて外に出ると、いろいろな場所で聞かれる。
「まあ、かわいい赤ちゃん。何ヶ月ですか?」

他意はないんだと思う。
子どもを生んだことのある女性は、赤ん坊を見ると無条件に反応するようになるのだろうと思う。
でも、ダウン症の子を生んだ女性にとって、これは何度となく繰り返される試練になる。

(「赤ちゃん」って、いつまでの月齢を指す言葉だろう)
(○ヶ月じゃないんだけど。とっくに「歳」なんだけど)

普通の子があっという間に大きくなっていく赤ん坊の時期において、ダウン症の子は、その体の小ささ、発達のゆっくりさで明らかに「若く」見える。
特にうちの娘はダウン症の中でも体はさらに小さいし、発達も遅かった。「実年齢」を答えることで出てくる相手の絶句に最初は「ダウン症です」と答えていたけれど、相手の反応がめんどくさくて、そのうちその場に応じて平然と「年齢詐称」を覚えた。
極端な例ではあったけれど、「ダウン症だから」と答えることで「アンタに泣かれても困るのよ」って時さえあった。

乳幼児期に学習したことは、母親が思っているほど、母親がびくついているほどには、ごく普通の生活をしてきた人には乳幼児期の「ダウン症」はわからないということ。
「単に若く見える生き物」というか、そんな感じすらあったと思う。

それでも年齢が進むにつれて、「単に若く見える生き物」ではなくなっていくというか。
わたしは話しかける「母親」に、こんな言い方をするようになっていった。
つとめて穏やかに「この子が『普通の子』じゃないのはわかるでしょ?」と。

子どもにもあらゆる個性があるように、「ダウン症児の母親」にも様々な個性がある。こんな言い方をするということにびっくらこいてしまう人だってたくさんいる。
でもわたしは楽だったんですよね、自分の持っているカードを、娘が持っているカードを出してしまうことが。

「この子が『普通の子』じゃないのはわかるでしょ?」
この質問に黙って頷く人が増え、安心してわたしは娘を語り、そんなことも慣れていった。
年齢料金の線に応じて「年齢詐称」はすることもあったけれど。

と、ここまでは実は長い長い「前置き」。
昨日、びっくらこくことがありまして。

大手スーパーのレジにて。
娘のお菓子にテープを貼って手渡してもらって、娘が「あっとー」と答える(「ありがとう」が発音できない)。
たくさんの食品を計算していく間、わたしと娘はきゃっきゃとジャンケンをしながら遊んでいて。
息子がいなかったので、わたしは思う存分、娘のレベルできゃっきゃと遊んでいたのだけれど。
レジの、多分50代の方、わたしににこやかにこうおっしゃいまして。

「いいですね、今の時期が一番かわいいですよね」

・・・・・・。
いや、とりあえず、無言の笑顔のみで応えたんですけどね。
その言い方と、その表情から察するに、この方、明らかに娘を「幼児」と判断していたんですよね。
身長135センチの「中学生」もあり得ないんだけど、身長135センチの「幼児」も同じくらいあり得ないはずで。
そういえば、ファミレスでたまに堂々と「子どもの取り皿とスプーンとフォーク」が来たりする。何も考えずに断っていたけれど、あれも「幼児」と判断してのコトだったのかな、と。

母は今年14になる娘に、ガキっぽくて子ども服なんざ、もう着せたくないんですけどね。
この日も細身のSサイズのデザインTシャツ、着せてたんだけどね。
このレジの少し前に、娘のブラジャー、別の階で新調してたんですけどね。
娘、このときは母と「遊んでくれた」けど、思春期の同性の親に対しての反抗も出ていますし。

でも「普通の子」と疑わずに「幼児」のレッテル。。。
いろいろな人がいるんだなあ。
社会って、奧が深いなあ。
などと思ったのでありました。。。

続「電車の中で」

2005年06月25日 | つぶやき
「電車の中で」

コメント不可にした理由ですが。
内容を書き上げて、ちょっと疲れ果てまして、内容に関しての「会話」はできないと思ったこと。
情報として手渡して、考察は読んだ方にお任せしたかったことが、自分の中の表の理由です。
裏の理由というか、これは、好奇の視線にさらされるような言動が生まれることを避けたかったことです。

本文にも書きましたが、痴漢行為に対して被害者として車内という密室で行動を起こすと、わたしは好奇の視線にさらされました。
「被害者の容姿を確認」という感じの、観客的視線はきつかったです。
また、逆ギレの恐怖感も引きずっています。
被害者という構図は自分が考えるもので、自分の想像通りには世の中は動かない。
そんな学習もしました。

電車という密室の中で、加害者と被害者以外の人々に「正義感」を要求できるか。
今、冷静に思うことですが、難しいんではないかと思います。
これは人間に対してのあきらめというよりは、大人になってからの冷静な判断です。
混雑した電車での通勤、朝のラッシュ時の電車。みな、疲れてますよ、通勤自体に。「正義感」なんていう元気なエネルギーを朝のラッシュ時に居合わせた人々に要求するのは酷ではないかとも思います。

「正義感」というより、まきこまれたくないという意志のある男性は、最初から両手を上げています。
つり革に置いた片手の腕に、もう片方の腕を添えたり、腕をくんでいたり、カバンを両手で抱え込んでいたりします。
こうした方々は、もしかしたら、にらまれる等のえん罪経験者かもしれません。

電車の中での痴漢行為というものは、性的行動以前に、性的興奮喚起の要素を求めているのかもしれないとも思います。
被害が明確に確定するまでの時間というものが存在するのです。
ふれているかいないか、微妙な状態の手の甲。その手の甲の指一本の力のようなものの存在。そしてその力の微妙なかすかな上下運動。様子をうかがうように微妙に止まり、またかすかに上下運動が始まる。そして段々とその状態はひどくなっていく。
微妙ですよね、この「開始部分」。この相手が加害者なのか、それとも気のせいなのか、ずっとこちらは様子をうかがい続けるわけです、自分の体の一部を提供しながら。

もちろんこの時点で「逃れたい」ですよ。でも混雑時に体の位置や向きを変えたり、移動しようとしたりするという行動は、無関係の人にはけっこう迷惑な動きなんですよね。だからこの時点で自分が行動を起こすことは集団の中の1人としてある意味難しいことなわけです。
口惜しいことに、それが加害者の意識的行動ならば、この間、ずっとこの加害者は「楽しい」んでしょうね。

電車の中での痴漢行為というものは、たいがいこうした「前戯」のようなものが存在するんですよね。この「前戯」の段階でストップさせようとすると、誤解やえん罪のようなものが起きてくることがあるのだと思います。
でもこうした「前戯」の状態でも、当事者にとっては実は立派な性被害なんですよね。訴えることができるのは、電車の中での性被害の、本当に一部なんだと思います。

通勤のついでの痴漢行為というよりは、本職というか、マニアの目的行動というか。そう言いたくなるような方に遭遇するのは「山手線」でした。一駅の時間が数分。どの駅もある程度の乗降客がいますから、車両の乗換でターゲットの変更も可能だということもあるんでしょう。乗ってくるときに車内に素早く視線を走らせる男性は、わたしは「危険人物」と認識していました。

「女性専用車両」に対して、いろいろな意見があるようですが、それはそれぞれの方の考えに、わたしはお任せしたい。
ただ、「女性専用」という女性優遇は差別だと言われる男性の方に対して思うのは、女性は女性としての体を持っているだけで性被害の可能性があるという「差別」を受けているということを、もっと理解していただきたいということ。
そして、専用車両でなくても、どんな混雑の中でも、場所を動きたがっている女性に居合わせることがあったなら、協力してあげて欲しいということ。ほんの少しの位置移動で状況は変わる可能性が大きいのです。

それが電車の中の世界なのだと思います。

*参考データ
  はてなブックマーク S嬢のPC日記:電車の中で

「電車の中で」 アクセス数
6/196/206/216/226/236/246/25
2812123220011266
6/266/276/286/296/307/017/02
4310729190623134

「悪い言葉」と「生きる力」

2005年06月24日 | つぶやき
娘が成長の中で覚えていった言葉の中に、人に対して「ばか」とか「ジジィ」とか言うものがありまして。

「まあ、悪い言葉を覚えて。
 そんなことを言ってはいけません。」

と、わたしは言ったでしょうか。

答は「否」でございます。
返答として違う場合は「コラ」は言いましたが、言葉の使用自体は放置しました。
その理由ですが。

大人になっていく中で、本人が相手に対して怒りを覚えることという出来事も出てくるでしょう。
女の子ですから、性被害に遭う可能性も出てくるでしょう。
咄嗟に、何と言い返していいかわからずに、相手のペースに巻き込まれてしまうという可能性もあるでしょう。

そのときに、とにかく何でもいい、「相手に対して『悪い言葉』」を知っているかどうか、ここに大きな分かれ目がある。
「ばか」でも「ジジィ」でも「ウンコ」でもなんでもいい。
そこで言葉が出るか出ないかは、大きい。
そこで「否定の言葉」を発することで、相手に対して「NO」の態度を表明できるかということは大きい。
そこで「否定の言葉」を発することで、周囲の人間に「SOS」を出せる可能性を持つことも大きい。
「イヤ」だけではない、相手に対して罵りの言葉を知っているかどうかは、知的障害者として大きな「生きる力」の差があるんではないだろうかと。
たとえ稚拙な言い方であっても、それは生きていくための「サバイバル」としての言語になるだろうと。
そうした意味をこめて、わたしは「悪い言葉」を覚えた娘の成長を喜んだのでした。

そのことをわたしは、「それは暴力で犯罪なのです」という文章を読んで、改めて思い出しました。
娘に対して思う。
あなたの尊厳を揺るがされそうになるときに、必要なことは知的能力の高さではない。
あなた自身があなた自身を守る、尊厳という心を持ちなさい、と。
あなたはあなたのままで価値があるのだと、わたしはあなたに伝え続けるから。

*トラックバック
 歩いていこう「それは暴力で犯罪なのです」

電車の中で

2005年06月19日 | つぶやき
「女性専用車両」で、あちこちで意見が交わされているようです。
それはそれなりに、その人その人の意見があるのでしょう。
それはそれでよいんですが。

痴漢被害に遭ったという人の一部の偏った情報が現実だというように流れるのは、ちょっと・・・と思うところがあります。
本当に現実的な被害の情報というのは、あまり表に出ないように思います。
大半のケースが、泣き寝入りだと思います。

わたしは都内23区内に生家があり、中学から私学に通っていました。
3駅、4駅、2駅と、二回乗り替えで3種の路線を使っていました。
中学入学は、痴漢被害体験のスタートでもありました。
学校は、中学で生徒募集があり、高校では外部募集がなく、短大と女子大とがある「純粋培養系」の学校でした。
わたしはスカートが長いでも短いでもなく、髪の毛が赤いでも茶色いでもなく、化粧をするでもなく。
真冬にコートというときに、マフラーの色でオシャレをしたり、ほのかに色のついたリップクリームを選んだり、そんな程度の中高生でした。

昨夜、USHIZOUさんの CURRY DIARY (・x・)「女性専用車両についてのトラバへの考察」 にこんなコメントを残してきました。
わたしは生まれて初めて「男性器」というものを見たのは山手線の車内です。
13歳です。
手の甲に「皮膚」の感触があり、位置的に誰かの手かと思っていたのですが、目の前の人の両手の位置を確認したときに震撼しました。
少しずつ空間を作り、いきなり離れたら、大慌てでモノをしまえずにいる姿が大衆の面前にさらされました。
この方、次の駅でしまえないモノを出したまま、慌てて降りていきました。
車内の誰もがわたしを被害者と知っていましたが、誰も助けてくれるわけでもなく、「少しずつ空間を作り、いきなり離れたら」という自衛しかありませんでした。
その直後は、助けられる、フォローされるどころか、好奇の視線にさらされました。
生まれて初めて、男性の精液というものを知ったのも、通学中の電車の中です。
スカートにかけられました。
これは14歳のときです。
スカート切り魔の反抗跡を、目の前で目撃したこともあります。
横に切って縦に切り、ぺらっとめくれるように切ります。
被害に遭った子は、全く自覚なくやられていて、わたしが教えると泣き崩れました。

なかなか被害を言えない人間は泣き寝入りし、また、被害を口にできないタイプや年齢が狙われます。
女子高生よりは女子中学生の時代の方が、わたしは圧倒的に被害が多かったです。
ほぼ、毎日でした。
精神のどこかの部分が、慣れでマヒしました。
マヒすることに助けられていたこともあります。
親が私学に行かせたことを後悔すると思うと申し訳なくて、親に言ったことはありません。
(汚れたスカートは自分で処理しました)
自分のいる位置を、周囲の人間に合わせて選ぶということもよくやりました。
オッサンよけ、学生狙いという場所選択をよくやりましたが、制服の高校生さえ、手を出してくることがありました。

女性専用車両、必要かどうかということではなく、「いらないんじゃないか」「必要ないじゃないか」と簡単に言われると、ちょっと腹も立つ「経験者」のワタクシでした。
文中の「なぜ親に言わなかったか」ということ。
投稿後、思ったのですが、違いますね。
本当の理由は「騒がれることがイヤだったから」です。
これは友人たちもそうだと思います。
親に言ったという話は、特に聞いたことがありません。
いろいろなことを友達とのおしゃべりで乗り越えていく世代ですが、痴漢被害の話は、「痴漢に遭った」という話はよくしていても、何をされたかという具体的な話は出なかったように思います。
コメント文中の「男性器露見」の話は、わたしにはとても頑張った武勇伝だったので、登校後話し始めたら、みな出だしで恐怖というか嫌悪というかという感じで引きつってしまったのを感じて、すぐに話自体をやめました。
また、話すことで現場の「追体験」をするような感じも、イヤでした。
コメント文中の話は、人に体験談として「話せる」ようになったのは、前者が20代の後半になってから、後者は数年前が初めてです。

以下、その他の被害の具体的内容ですが。

*押しつけてくる
「日常的」でした。
堅いものが、太股、腰、等、下半身に押しつけられます。
一度に二人、三人というケースもあります。
自覚のポイントは、「堅い」ということと、電車が揺れたときにその一点が固定されたような動きをすることです。
押し返すと「うっ」と、奇妙な声で反応されてしまうことがあってから、カバンを持つ位置や、揺れた時に自分の立つ位置を変えていくということしかできませんでした。
朝のHRで、担任から何度も言われた話として「電車の扉のコーナー部に立つな」ということがありました。
ここに立つと、どこにも逃げ場が無くなり、何でもかんでも「され放題」になります。
この場所での「押しつけ」は恐怖です。
揺れではない、堅いものを中心とした腰の動きなど始まって、相手の呼吸が微妙に乱れ、その呼吸からも逃れられない。
当然、泣き寝入りです。
あなたは言えますか?
どこの誰とも、どんな人かもわからない人に、「あなたの性器をわたしに押しつけないでください」と。
駅員に被害を訴えるということもできません。
乗降駅は全て通勤通学ラッシュにてんてこまいですし、そんなヒマな駅員もいないと思います。
大人の男の人にさんざんな目に遭って、大人の男の人に性被害を訴えに行くということは、発想にはありませんでした。

*さわってくる
太股、腰等、下半身のあらゆる部分がターゲットになります。
まず、手の甲。
電車の揺れのときに、その手の甲は絶対に場所を変えません。
一定の時間の経過後、手の甲が裏返ります。
電車の揺れのときに、その手のひらで重心を支えてもらう、なんていう馬鹿げたことも日常です。
「さわられる」ケースは、「押しつけてくる」ケースと違って、勇気を出せば、声に出して言うこともできます。
「さわらないでください」と言う。
ただし、余程、はっきりと「被害」が明確になっていないと言えません。
逆ギレされることも、もちろんあります。
手首をつかんで、相手の顔を凝視し続けると、たいがいやめます。
にらむというより、凝視の方が、撃退の威力はあったと思います。
ひどいケースでは、制服のジャンパースカートの、ウェストから腿の部分に位置するスナップをはずされ、手が入って来そうになったことです。
学習したことは、下を向いてうつむけばうつむくほど、相手は「喜ぶ」ということです。
手の存在を感じて、動き始めたときから、絶対にうつむかない。
これも自衛の一つでした。

*奇妙なケース
1.「おテテつないで仲良し」
手を握ってきました。
離しても離しても、手を求めて握ってきました。
顔を見ると、とてもうれしそうなのが不気味でした。
相手を凝視すると、にっこりとされたのが怖くて、途中の駅で降りました。

2.「変な動物」
お尻を押しつけてきました。
かがんで、お尻を押しつけてきて、腰を左右に振るのです。
呼吸がだんだん荒くなって、前傾姿勢で、左右に大きく腰を振っていました。
恐怖というより、(この動物は何だろう・・・)という感じがしました。
明らかに目立つ動きでしたが、周囲の人は知らん顔でした。

23か24の頃に、夕刻の新宿の雑踏の中で、男性にこんな風に声をかけられたことがあります。
「毎朝、○○線の○○駅から××分に乗ってくる方ですよね」
すごくうれしそうでした。
しかし、間髪入れずにわたしはこう答えました。
「明日からその電車に乗りません」。
気の毒なほどがっくりとうなだれて、「すみませんでした」と去って行かれました。
わたしは、電車の中の男性から受けた全ての被害の嫌悪感を、感情的にこの方に渡してしまったのだと思います。
申し訳なくて、申し訳なくて、毎朝同じ電車に乗り続けましたが、二度と出会うことはありませんでした。
ごめんなさい。

さて、以上がわたしの「電車」での具体的な体験談です。
「女性専用車両」、このことに関しての意見は人それぞれだと思います。
でも、反対だと言われる方、本当にその被害の実態を知っていますか。
泣き寝入りが大半だということを、知っていますか。

そんなことをわたしは問うてみたいです。

*すでに40代に入っている年齢でも、具体的に内容を書くことは、ちょっときつかったです。
申し訳ないのですが、コメントは不可にさせてください。

*追記
わたしは知的障害のある娘に電車通学をさせていますが、「空席を見つけることのできる下り線」です。
これは学校選択において、重要なポイントでした。

*2005.6.25追記
 関連記事
 続「電車の中で」

未来検索登録ワード

2005年06月16日 | つぶやき
昨日上げた記事の冒頭。
わたしはlivedorのサービスである「未来検索」というものに登録しています。
登録しているワードは「たったひとつのたからもの」と「ダウン症」です。
このワードが入ったブログ記事がアップされると、その一覧がメールとして入ってきます。
ウソです。
いや、ウソじゃないです。
ウソじゃないというか、ウソじゃないんですが。
登録しているワードは「たったひとつのたからもの」と「ダウン症」です。
ちがいます。
本当は、こうです。
登録しているワードは「たったひとつのたからもの」と「ダウン症」と「ハンガーマン」です。
しかし、この「ハンガーマン」該当ブログは、滅多なことでは入ってきません。
だから、つい、いいかな~と、省いてしまいました。

いや、今日、この未来検索で「ハンガーマン」該当ブログが入ってて。
わ~~いと手をたたいて喜んでおります。
ふれてる箇所はほんのちょっとなんだけど。
コレです。

ハンガーマンの活動の中心場所は、現在横浜みなとみらい地区のようですが、東京・大阪もたまにいらっしゃるようで。
笑っていいともにも出たし、サンデージャポンのエンディングにも出てたんですけどね。

しかし、なんというか。
検索ワードトラックバックっての、やる人の気持ちが、なんだかちょっとわかったような気がしました。
もちろん、こんな動機は、ごくごく一部なんでしょうが。
なんというか、
共通のワードをあげる人に、ぶんぶんと握手したくなるような、そんな気持ちが暗にあるケースがあるのかも、と。
いや、もちろん、全部が全部でなく、大半が「押しつけ的自己顕示」なんだろうと思いつつ。
でも、その中にも「なつき型」というのもあるのだろうなと、ちょっと動機として、そうなのかな、と思った。

いずれ、もっとハンガーマンを語るブログが出てきた折りには、トラックバックを送ってみたい。。。

*関連記事
 大好き!ハンガーマン

TDLにて

2005年06月05日 | つぶやき
先日、学校が平日休みの日に、娘と息子を連れて、東京ディズニーランドに行ってまいりました。
シーができたために異常な混雑が緩和されたことに加え、休日と並んでいない「平日」、悪天候ということで、楽にアトラクションを回れるという快適ぶりでした。
(まるでオープン後数年くらいの時期の平日みたい。。。)

息子お目当ての「バズ・ライトイヤーのアストロブラスター」。
午前中に手続きしたファストパスは、「18:25~19:30」。
普通に立って並んで待って「70分待ち」ということだったので、「まあ、軽いわね」と列に加わりましたが(TDLの常識的感覚になんかすでに慣らされている)、息子が大好きな「クリームソーダ味のポップコーン」を買って帰ってくるまでに中に入れる状態で、とても「70分待ち」というほどではなかったのでした。この売り場もすぐそばで、たいして並んでいなかったのですけれどね。

そして時刻は夕刻の6時半を回り。
所持しているのは「バズ・ライトイヤーのアストロブラスター」の「18:25~19:30」と記載されたファストパス
「どうする?」と息子に聞くと、「帰りが遅くなるからもういいよ、一度乗ったし」と。
「だって、すぐ乗れるよ?」と言うと、「明日ちぃちゃん学校だよ?」と。
(翌日息子の小学校は創立記念日で休みだが、娘は通常登校)
「はい」と、素直にうなずき、母は同意。
「じゃ、これ、もったいないから誰かにあげよっか?」
と、バズに並ぶ人を見ると、あららららら~~~、長蛇の列だ。
あそこでどこの誰にあげたらいいか、あの長蛇の列の中で誰かにあげるのは、他の人に対しての「攻撃」だよなあ、と。
そこに、「父・母・息子」らしき三人連れ。
思わず、「三人ですか?」と声をかける。
「わたしたち、もう帰るんですが、バズのチケットが3枚あるんです。」

ここでね、ご両親は「そうですか」という感じだったんだけど、最初にきちんと「ありがとうございます」と言ったのは、お子さんだったんです。
息子と同じくらいの年齢の子でした。
5年生か6年生くらいでしょうね。
大人の会話に口を出すような子ではなく、それでも最初にきちんと「ありがとうございます」とはっきりと言いました。
これ、ちょっとした感動でしたね。

後で、これ、息子に言いました。
「アンタ、気がついた?」と。
息子、ちょっと口を不満そうにとがらせて「わかってたよ」と。
(おや、この不満そうな表情はなんなんだ?)
息子、続けて「ああいう子になって欲しいって言うんでしょう?」
(おや、コイツ、ずいぶんと育ってきたじゃないか、ははは)

「いや、アンタがなりたいようになればいいよ。
 わかっててもああは言えないってことだって、山ほどあるしね。
 アンタがああいうときに、ああ言えようが言えまいが、そんなことはどうだっていいよ。
 ただね、ああいうこと、気づく、わかるってことはわたしは大事だと思うから、それで聞いただけ。」

そして、確認。

「わたしがアンタに『なりたいようになればいいよ』って思ってるってことはわかってる?」
ここで素直な顔で「うん、知ってる」

オッケー、それでいいや。
と、わたしは思ったのでした。

おかあさん

2005年06月04日 | つぶやき
NHKの朝の連ドラ「ファイト」
今週のテーマは「おかあさん」。
今日は、土曜日ということで、第10週のクライマックスです。
父、母、姉が、それぞれの事情と苛立ちと戸惑いに忙しい中、1年生の小さな「弟」は、ある日小学校に行かず家出をし、電車に乗って姉が行き慣れた厩舎にいったところを父親に保護されます。
その小さな「弟」が母親に言えなかった小さな心に「母親」が気づき、迎えに行くというのが今日のクライマックスでした。

さてさてさて。
見ていたこちらの日常の光景にも、ちょっとビックリが。
へー、というか、ほーというか、うーんというか。
NHKに「感想」出しちゃおうっと。
以下、その内容。

毎日、放送を楽しみに拝見させていただいています。
さて、今朝の放送ですが、土曜日ということで13歳の娘と一緒に見ていました。
この娘には知的障害があり、現在養護学校の中学部に在籍しています。
生活力があり、日常生活に多くの支援を必要とはしていませんが、知的能力の判定は重度。
その言語能力は簡単に言って3歳児に満たないレベルです。
時々は二語文、三語文を口にすることはありますが、多くは単語のみの会話で、生活に密接したイエス・ノークエスチョンに答えることは可能ですが、5W1Hの質問に答えることは困難です。
動作による意思表示も、生活の中では中心になっています。
その娘と見ていたのですが、というより、娘がドラマを見ているわたしのそばにいたという方が正確かもしれません。
でも、”見ていた”んですよね。
優しく流れる”おかあさん”の歌も、聞いていたのだと思う。
そして今日のドラマの、”おかあさん”の亜沙子が厩舎にいる”息子”の檀を迎えに行くシーンの時。
亜沙子が、「檀!」と叫んで亜沙子の顔がアップになったとき、その映像が映った瞬間に、娘が画面を凝視しながら叫びました。
「あ、おかあさん!」

正直、わたしは驚きました。
その言い方と、その言い方に込められた、なんともいえない声の表情や、言い方に込められた情感は、的確にそのシーンの意味をつかんでいました。
ドラマを見ていて、娘がこうした、直接的な言語による反応を瞬時に見せることは珍しいということも、その彼女の「一言」に対しての驚きとしてありました。

放送の最後に出てくる西原氏の絵。
その絵の中の、葉の陰から顔を出す小さな男の子の「見つけてくれるまで待ってる」という言葉。
娘の発した一言の余韻にひたりながらその絵を見ていて、娘にとっては自分の意思を「見つけてくれるまで待ってる」ということ、そんなことも生活の中で、彼女の心の中にはあるのかもしれないな、と思いました。
見つけてやらなきゃ届かない思いというものを、この子も持っているんだろうなと。

ドラマの内容以上に、生活の中に小さな発見をさせていただいたこと、ありがたく思いました。
今朝のうちのお嬢。
昨夜発熱し、38度台で、食事もちょこっとという感じで休ませました。
朝、起きてみると。
どうやら早朝、ごそごそと起き出したようで、とっくに着替えをすませて、絵なんぞ描いていました。
傍らには牛乳を入れたコップと、そして「柿の種」を入れた皿が。
「柿の種」の味の微妙な辛さに「ひー」とか「はー」とか言いながら、ぼりぼりと食ってました。
熱も下がったようなんですが。
昨日、熱が出始めの時、勝手に引っ張り出した「真冬のかっこう」をしてたんですが、今朝はフトモモむき出しの短パンに、本人大好きなどピンクのノースリーブに近いような半袖のTシャツ着てました。
(昨日は冬で、今朝は夏かい。。。)

体調、復活してるようです。。。

今日の一句

2005年05月28日 | つぶやき
今日は娘の養護学校と、息子の小学校の運動会。
わたしは小学校の運動会の方に出席しまして、まあ、久しぶりにたくさんの方と顔を合わせたり、お話ししたりもしました。
娘の学年の保護者、息子の学年の保護者、そして学校のPTA活動で知り合った方々。
地域の子ども会関係で知り合った方々。

「娘が障害児」
ということは、相手の記憶に印象的に残る。
目立つ子なもんだから、娘とわたしを記憶している方はとても多い。
普通は「子どもの学年の保護者」って言ったって、せいぜい同じクラスになったことがある人くらいだろう。
ところがこっちは、「交流級」なんてものがあって、その「交流級」も、交流教育が効果があるようにするために、いろいろな子どもと接しられるように、クラス替えの度に「新しく知り合える子どもが増えるように」という配慮もされている。
「交流級の懇談会」は、挨拶のみで失礼することも多々あったので、向こうはこっちを記憶するだろうが、こっちは「挨拶程度」じゃ全員まではわからんよ。

PTAだって、ただでさえ少ない障害児学級の人数からクラス役員を毎年選出してるものだから、結局何回も役員をやることになる。
こっちは同じ顔、しかも「記憶されやすい環境」で、しかし相手は「多数」なわけで。
つい、うっかりと「長」のつく立場も、経験しちゃったし。

息子の学年だって、「姉が障害児学級に行ってま~す。交流教育で皆様のお子さんもおつきあいがあると思います、よろしく~。」なんていう挨拶をしょっちゅうしてた。
入学後、そしてクラス替えがあったときとか。
相手は記憶しやすい、こんな挨拶、続けてたら。
しかし、こっちは全員までは覚えきれんよ。

オマケに地域の子ども会関連は、おととし会長、やっちゃったし。

と、いうことで。
相手の顔を見た瞬間に、顔に記憶があることははっきりとわかっても、名前やどこで知り合ったどこの人か、すぐに記憶がつながることが困難なほど、相手が多い。
要するに、相手の数が多すぎて、記憶がついていかなくなることが出てくる。
「こんにちは」と言われれば、瞬間、その人とのつながりを思い出せなくても、反射的に「笑顔であいさつ」が出てしまう。
どこで失礼ぶっこいても困るので、顔に記憶がある人には、とにかく挨拶することも習慣になる。
町で「記憶のある顔」と出会って、反射的に「笑顔で挨拶」してすれちがって。
それから記憶をたどれば「よく行くお店の店員さん」なんてことがあるのもご愛敬というか。
そこで「挨拶してしまった」ことで、そのお店の方が娘に「気軽に話しかけてくれる」ようになるのも、いわば「ケガの功名」。

そんな「環境」が前提の上での、今日のこと。

「こんにちは~」と言われ、「こんにちは~」とにっこりと返す、小学校の校庭で。

あ・・・。
今のあの人って・・・。
わたし、ハラワタ煮えくりかえるほど、頭に来てた人だった。。。
次回、顔合わせても、きっちりと「怒ってるんですよ」と意思表示、したかったのに。。。
わ、わ、わ、忘れてた。。。

って、今、わたし、言っちゃいませんでした?
にっこりと「こんにちは~」って。

ううううう、
チャラになってしまった。。。
いや、チャラにしてしまった。。。
あんな「友好的な挨拶」をしてしまったら、チャラにするしかないではないですか、自分。。。
チャラにしなきゃ、偽善者になってしまう。。。
ええい、忘れたろ。
水に、じゃじゃ~~っと、流したろ。

と、いうことで、今日の一句。

習慣が、墓穴を掘って、人格者。