民主党という政党が政権政党として能力、体質を持っていないことがよく分かります。また、理論的、政策起案能力も組織的には持っておらず、個人の立場、思想で運営がされた結果、政権政党からの凋落が起きたこともよく分かります。あまりにも知能レベルが低くて信じられないような政権幹部の発言です。二大政党制が以下にいかさまであったかということもよく分かります。
<藤村前官房長官:インタビュー/上 消費増税に歴史的評価 尖閣購入交渉、小泉政権から>
--野田政権482日間の評価を。
◆野田佳彦首相は、リーマン・ショックと東日本大震災という大きな二つの荷を背負って就任した。前向きな政策も必要なのだが、まずは大きなマイナスをゼロに戻すのが仕事だった。
加えて、税と社会保障の一体改革を手がけた。消費税を5%も引き上げる大きな法改正を1内閣1国会でやった。歴史的に評価されると思う。
--最も対応が難しかった外交問題は沖縄県・尖閣諸島の国有化ではありませんか?
◆そう見られているが、尖閣の買い取りについては野田政権が一昨年9月に発足した際に引き継ぎを受けた。自民党の小泉政権の終わりごろから水面下で交渉は進んでいた。
政府は内閣官房に室を設け、外務省などとやりとりしながら尖閣の地権者と代替地について交渉していた。石原慎太郎東京都知事が昨年4月、「都が買い取る」と不規則発言をしたことが、事態が急転するきっかけにはなったが。
--中国は猛反発しました。
◆中国には順に説明してきたのだが……。中国が反発した背景としては、総書記が胡錦濤(こきんとう)氏から習近平氏に代わる手前だったことと、南シナ海にある南沙諸島の領有権をめぐって強硬に出て、成功したことがあったのではないかと思う。
--日本政府は昨年11月15日と16日、モンゴルで北朝鮮と局長級協議をしています。
◆北朝鮮は「拉致問題は解決済み」と言ってきたが、その協議の場で大きく変わったのは事実だ。北朝鮮は日本との関係を改善したいと思っている。
--政局は衆院解散が最大の焦点でした。
◆麻生(太郎元首相)さんが「(2012年)8月に解散しろ、解散しろ」と、しきりに私に言ってきていた。
--野田首相は昨年8月8日、「近いうちに解散する」と、自民党総裁だった谷垣禎一氏に明言しました。
◆麻生さんは私を呼び出しては「自民党はこう考えている」と言ってきた。「(税と社会保障の一体改革をめぐる民主、自民、公明の)3党合意ができたんだから、野田さんは内々に谷垣さんに言え」と。その結果、「近いうちに」という言葉になった。
--解散時期の判断は縛られましたか?
◆野田首相が「近いうちに」と言ったことに縛られ、悩むような場面は全くなかった。野田首相はしょっちゅう「必要なときは解散するし、状況をよく見ないといけない。解散が年を越して、うそつきと言われてもかまわない」と言っていた。
--しかし年をまたがず、昨年11月16日に解散しました。
◆その一つの柱は、日本維新の会に相当な勢いがあったことだった。解散まであまり時間をかけると、維新がもっと組織を固めてくる。維新の選挙準備が整わないうちに解散するということだった。
もう一つは衆院選と(13年夏の)参院選の時期があまり近くなると民主党は両方の選挙に負けてしまうという判断があった。
--解散日程はいつ決めたのですか?
◆昨年11月2日だ。首相公邸でエネルギー問題の閣僚懇談会をやって、食事の後、岡田克也副総理と私が残って野田首相と話した。どの時点で、どう解散を打ち出すかというシナリオを考えた。その日に少し先の道行きを考えないといかんということを2週間前から計画していた。
--野田首相は昨年11月14日、自民党の安倍晋三総裁との党首討論で「16日に解散する」と明言しました。
◆11月2日に、そういうシナリオを書いた。あのころ、野田首相と安倍氏が党首会談をやるという話がかなり出ていたが、その席で「党首討論の場で打ち出したらどうか」という案が浮上した。討論の場で、ずばっと約束しようということになった。「近いうちの意味はこうだ」と。
--その日に衆院選の日程が決まったと。
◆いや、私たちがその日、想定したのは12月9日投開票だった。その場合は11月27日公示だが、政治家だけの席だったので詰めた議論はしていなかった。
それを私が預かって、内閣総務官と総務省選挙部長に内々に詰めてもらったら「12月9日投票なら、解散は11月12日でないとぎりぎり間に合いません」と。
そうすると、11月14日の党首討論で解散を言っていたら遅い。それで修正が加わり、11月16日解散の場合は「12月4日公示、12月16日投開票」になった。
--民主党幹事長だった輿石東氏は解散に抵抗しました。
◆11月2日の晩、野田首相に「幹事長ときちっとやってくださいよ」と言った。その2日後ぐらいに輿石さんは首相公邸に裏から入って野田首相と会談した。輿石さんは「うーん」と言って持ち帰った。
--11月11日にも野田首相は輿石氏と会談しています。
◆その日、私と岡田さんも首相公邸に集まったが、野田首相との会談は別々だった。野田首相は輿石さんに考えを伝えたと思う。輿石さんは「うん」とは言わなかったが、「首相がそういうご決断なら、そういうふうにするしかない」という腹で帰ったと思っている。
◇
--野田佳彦首相が踏み切った衆院解散・総選挙で民主党は政権を失いました。
◆09年は本格的な2大政党間の政権交代で、大きな意味があったと思う。しかし民主党は昨年12月の衆院選で敗れ、存亡の機を迎えている。それはなぜか。自民党と民主党はどこが違うのか。きちんと整理する必要がある。
--具体的には?
◆例えば、よって立つ基盤。自民党は経営者側、農協など旧来の既存の圧力団体などが基盤だと言える。民主党は労働組合、生活者側。団体といっても福祉団体やNPOが基盤だ。安倍政権は旧来の公共投資型にシフトするが、民主党は人への投資に力を置いた。それが09年の衆院選では受け入れられた。
--しかし今回の選挙では大敗しました。
◆自民党は地域の自治会会長らを集めてきちんとやってきたが、民主党はそこに食い込めなかった。有権者にどれだけ接触できているかという点で努力が全然足りなかった。
--だから逆風下の選挙で大敗したと。
◆その通りだ。09年衆院選では、地域の皆さんが民主党の考え方に賛同してくれたが、昨年12月の衆院選では「民主党はもうあかん」と。でも、各候補者への信頼が地域にあれば、ここまでの結果にはなっていなかった。
--鳩山由紀夫、菅直人両元首相をどう評価していますか。
◆鳩山さんは小沢一郎さんの理想を何とか実現しようとして上滑りした。鳩山さんが「少なくとも県外」と言った米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設問題がその典型だ。後で聞けば聞くほど「やっぱり(沖縄県名護市)辺野古か……」と。官僚に相談せず、レクチャーを十分受けずに発言した結果、鳩山さんは自分の首をかけて辺野古に戻すことになった。
菅さんは市民活動家出身で政治的センスはいいと思うが、政権を担うには、それだけではダメだ。歴史があって幅の広い問題を扱わなければならないからだ。しかし菅さんは官僚の活用の仕方も知らなかったし、しようともしなかった。東日本大震災が起きたということはあったが、独善的なところがあって政治全体をうまく動かせなかった。
--野田首相はどうでしたか。
◆その2人を見ていたから、野田首相は割に修正した。首相に就任した当初から「しっかり(官僚を)活用すべきだ」と言っていた。官僚も元気が出てきたと思う。
--民主党政権は党内の権力闘争に終始した印象があります。
◆党内にグループがあることが、党のガバナンス(統治)に良い効果をもたらさなかった。寄り合い的な合併政党の弱さが出た。政権与党なのに分裂気味の状態が続いた。あるグループは党の方針に正面から反対して党内が真っ二つになり政府・党の決定に従えない人たちは出て行った。
--小沢氏との党内抗争になりました。
◆小沢さんは大義の部分では「自民党はダメ」と言いつつ、「民主党、旧新進党など自民党の対抗政党はもっとダメだ」と証明することに終始した。
--小沢氏らの離党後、野田首相は党を純化しようとしたといわれました。
◆野田首相は、小沢さんたちが出て行った後で党を純化しようとは思わなかった。
--小沢氏が離党する前、野田首相は2度会談しています。
◆輿石東幹事長が仲介して党本部で1回、官邸で1回やった。その後、野田首相は僕に「小沢さんは党に残る条件をいくつも出してきたが、一つものめない」と言っていた。野田首相は多くを語らなかったが、小沢さんは党の選挙対策の責任者にしろとか、そういうことを求めたようだ。
--小沢氏が民主党に復党する可能性はあるでしょうか。
◆小沢さんが復党すれば、民主党の基本政策の中身は大きく変わってしまう。野田さんや岡田克也さんにすれば、民主党を出ろという圧力になる。そうすると、党を割って新党を作り、自民党と連携するなど動きが出てくるかもしれない。
--野田氏、岡田氏らには小沢氏と組むのと、自民党と組むのとどちらがハードルが低いと見ますか?
◆それを比べれば、自民党のほうがハードルは低い。環太平洋パートナーシップ協定(TPP)も原発も消費税も、安倍政権は野田内閣が決めた方向に近づいていくと思う。こうした大きな課題については民主党・野田政権が敷いた路線に方向性が収斂されていくと私は見ている。
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<藤村前官房長官:インタビュー/上 消費増税に歴史的評価 尖閣購入交渉、小泉政権から>
--野田政権482日間の評価を。
◆野田佳彦首相は、リーマン・ショックと東日本大震災という大きな二つの荷を背負って就任した。前向きな政策も必要なのだが、まずは大きなマイナスをゼロに戻すのが仕事だった。
加えて、税と社会保障の一体改革を手がけた。消費税を5%も引き上げる大きな法改正を1内閣1国会でやった。歴史的に評価されると思う。
--最も対応が難しかった外交問題は沖縄県・尖閣諸島の国有化ではありませんか?
◆そう見られているが、尖閣の買い取りについては野田政権が一昨年9月に発足した際に引き継ぎを受けた。自民党の小泉政権の終わりごろから水面下で交渉は進んでいた。
政府は内閣官房に室を設け、外務省などとやりとりしながら尖閣の地権者と代替地について交渉していた。石原慎太郎東京都知事が昨年4月、「都が買い取る」と不規則発言をしたことが、事態が急転するきっかけにはなったが。
--中国は猛反発しました。
◆中国には順に説明してきたのだが……。中国が反発した背景としては、総書記が胡錦濤(こきんとう)氏から習近平氏に代わる手前だったことと、南シナ海にある南沙諸島の領有権をめぐって強硬に出て、成功したことがあったのではないかと思う。
--日本政府は昨年11月15日と16日、モンゴルで北朝鮮と局長級協議をしています。
◆北朝鮮は「拉致問題は解決済み」と言ってきたが、その協議の場で大きく変わったのは事実だ。北朝鮮は日本との関係を改善したいと思っている。
--政局は衆院解散が最大の焦点でした。
◆麻生(太郎元首相)さんが「(2012年)8月に解散しろ、解散しろ」と、しきりに私に言ってきていた。
--野田首相は昨年8月8日、「近いうちに解散する」と、自民党総裁だった谷垣禎一氏に明言しました。
◆麻生さんは私を呼び出しては「自民党はこう考えている」と言ってきた。「(税と社会保障の一体改革をめぐる民主、自民、公明の)3党合意ができたんだから、野田さんは内々に谷垣さんに言え」と。その結果、「近いうちに」という言葉になった。
--解散時期の判断は縛られましたか?
◆野田首相が「近いうちに」と言ったことに縛られ、悩むような場面は全くなかった。野田首相はしょっちゅう「必要なときは解散するし、状況をよく見ないといけない。解散が年を越して、うそつきと言われてもかまわない」と言っていた。
--しかし年をまたがず、昨年11月16日に解散しました。
◆その一つの柱は、日本維新の会に相当な勢いがあったことだった。解散まであまり時間をかけると、維新がもっと組織を固めてくる。維新の選挙準備が整わないうちに解散するということだった。
もう一つは衆院選と(13年夏の)参院選の時期があまり近くなると民主党は両方の選挙に負けてしまうという判断があった。
--解散日程はいつ決めたのですか?
◆昨年11月2日だ。首相公邸でエネルギー問題の閣僚懇談会をやって、食事の後、岡田克也副総理と私が残って野田首相と話した。どの時点で、どう解散を打ち出すかというシナリオを考えた。その日に少し先の道行きを考えないといかんということを2週間前から計画していた。
--野田首相は昨年11月14日、自民党の安倍晋三総裁との党首討論で「16日に解散する」と明言しました。
◆11月2日に、そういうシナリオを書いた。あのころ、野田首相と安倍氏が党首会談をやるという話がかなり出ていたが、その席で「党首討論の場で打ち出したらどうか」という案が浮上した。討論の場で、ずばっと約束しようということになった。「近いうちの意味はこうだ」と。
--その日に衆院選の日程が決まったと。
◆いや、私たちがその日、想定したのは12月9日投開票だった。その場合は11月27日公示だが、政治家だけの席だったので詰めた議論はしていなかった。
それを私が預かって、内閣総務官と総務省選挙部長に内々に詰めてもらったら「12月9日投票なら、解散は11月12日でないとぎりぎり間に合いません」と。
そうすると、11月14日の党首討論で解散を言っていたら遅い。それで修正が加わり、11月16日解散の場合は「12月4日公示、12月16日投開票」になった。
--民主党幹事長だった輿石東氏は解散に抵抗しました。
◆11月2日の晩、野田首相に「幹事長ときちっとやってくださいよ」と言った。その2日後ぐらいに輿石さんは首相公邸に裏から入って野田首相と会談した。輿石さんは「うーん」と言って持ち帰った。
--11月11日にも野田首相は輿石氏と会談しています。
◆その日、私と岡田さんも首相公邸に集まったが、野田首相との会談は別々だった。野田首相は輿石さんに考えを伝えたと思う。輿石さんは「うん」とは言わなかったが、「首相がそういうご決断なら、そういうふうにするしかない」という腹で帰ったと思っている。
◇
--野田佳彦首相が踏み切った衆院解散・総選挙で民主党は政権を失いました。
◆09年は本格的な2大政党間の政権交代で、大きな意味があったと思う。しかし民主党は昨年12月の衆院選で敗れ、存亡の機を迎えている。それはなぜか。自民党と民主党はどこが違うのか。きちんと整理する必要がある。
--具体的には?
◆例えば、よって立つ基盤。自民党は経営者側、農協など旧来の既存の圧力団体などが基盤だと言える。民主党は労働組合、生活者側。団体といっても福祉団体やNPOが基盤だ。安倍政権は旧来の公共投資型にシフトするが、民主党は人への投資に力を置いた。それが09年の衆院選では受け入れられた。
--しかし今回の選挙では大敗しました。
◆自民党は地域の自治会会長らを集めてきちんとやってきたが、民主党はそこに食い込めなかった。有権者にどれだけ接触できているかという点で努力が全然足りなかった。
--だから逆風下の選挙で大敗したと。
◆その通りだ。09年衆院選では、地域の皆さんが民主党の考え方に賛同してくれたが、昨年12月の衆院選では「民主党はもうあかん」と。でも、各候補者への信頼が地域にあれば、ここまでの結果にはなっていなかった。
--鳩山由紀夫、菅直人両元首相をどう評価していますか。
◆鳩山さんは小沢一郎さんの理想を何とか実現しようとして上滑りした。鳩山さんが「少なくとも県外」と言った米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設問題がその典型だ。後で聞けば聞くほど「やっぱり(沖縄県名護市)辺野古か……」と。官僚に相談せず、レクチャーを十分受けずに発言した結果、鳩山さんは自分の首をかけて辺野古に戻すことになった。
菅さんは市民活動家出身で政治的センスはいいと思うが、政権を担うには、それだけではダメだ。歴史があって幅の広い問題を扱わなければならないからだ。しかし菅さんは官僚の活用の仕方も知らなかったし、しようともしなかった。東日本大震災が起きたということはあったが、独善的なところがあって政治全体をうまく動かせなかった。
--野田首相はどうでしたか。
◆その2人を見ていたから、野田首相は割に修正した。首相に就任した当初から「しっかり(官僚を)活用すべきだ」と言っていた。官僚も元気が出てきたと思う。
--民主党政権は党内の権力闘争に終始した印象があります。
◆党内にグループがあることが、党のガバナンス(統治)に良い効果をもたらさなかった。寄り合い的な合併政党の弱さが出た。政権与党なのに分裂気味の状態が続いた。あるグループは党の方針に正面から反対して党内が真っ二つになり政府・党の決定に従えない人たちは出て行った。
--小沢氏との党内抗争になりました。
◆小沢さんは大義の部分では「自民党はダメ」と言いつつ、「民主党、旧新進党など自民党の対抗政党はもっとダメだ」と証明することに終始した。
--小沢氏らの離党後、野田首相は党を純化しようとしたといわれました。
◆野田首相は、小沢さんたちが出て行った後で党を純化しようとは思わなかった。
--小沢氏が離党する前、野田首相は2度会談しています。
◆輿石東幹事長が仲介して党本部で1回、官邸で1回やった。その後、野田首相は僕に「小沢さんは党に残る条件をいくつも出してきたが、一つものめない」と言っていた。野田首相は多くを語らなかったが、小沢さんは党の選挙対策の責任者にしろとか、そういうことを求めたようだ。
--小沢氏が民主党に復党する可能性はあるでしょうか。
◆小沢さんが復党すれば、民主党の基本政策の中身は大きく変わってしまう。野田さんや岡田克也さんにすれば、民主党を出ろという圧力になる。そうすると、党を割って新党を作り、自民党と連携するなど動きが出てくるかもしれない。
--野田氏、岡田氏らには小沢氏と組むのと、自民党と組むのとどちらがハードルが低いと見ますか?
◆それを比べれば、自民党のほうがハードルは低い。環太平洋パートナーシップ協定(TPP)も原発も消費税も、安倍政権は野田内閣が決めた方向に近づいていくと思う。こうした大きな課題については民主党・野田政権が敷いた路線に方向性が収斂されていくと私は見ている。
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