“さるかに合戦”  臼蔵 と 蜂助・栗坊 の呟き

震災や原発の情報が少なくなりつつあることを感じながら被災地東北から自分達が思っていることを発信していきます。

民主党の藤村前官房長官のインタビュー記事 

2013年01月27日 13時00分00秒 | 臼蔵の呟き
民主党という政党が政権政党として能力、体質を持っていないことがよく分かります。また、理論的、政策起案能力も組織的には持っておらず、個人の立場、思想で運営がされた結果、政権政党からの凋落が起きたこともよく分かります。あまりにも知能レベルが低くて信じられないような政権幹部の発言です。二大政党制が以下にいかさまであったかということもよく分かります。

<藤村前官房長官:インタビュー/上 消費増税に歴史的評価 尖閣購入交渉、小泉政権から>

 --野田政権482日間の評価を。
 ◆野田佳彦首相は、リーマン・ショックと東日本大震災という大きな二つの荷を背負って就任した。前向きな政策も必要なのだが、まずは大きなマイナスをゼロに戻すのが仕事だった。
 加えて、税と社会保障の一体改革を手がけた。消費税を5%も引き上げる大きな法改正を1内閣1国会でやった。歴史的に評価されると思う。
 --最も対応が難しかった外交問題は沖縄県・尖閣諸島の国有化ではありませんか?
 ◆そう見られているが、尖閣の買い取りについては野田政権が一昨年9月に発足した際に引き継ぎを受けた。自民党の小泉政権の終わりごろから水面下で交渉は進んでいた。
 政府は内閣官房に室を設け、外務省などとやりとりしながら尖閣の地権者と代替地について交渉していた。石原慎太郎東京都知事が昨年4月、「都が買い取る」と不規則発言をしたことが、事態が急転するきっかけにはなったが。
 --中国は猛反発しました。
 ◆中国には順に説明してきたのだが……。中国が反発した背景としては、総書記が胡錦濤(こきんとう)氏から習近平氏に代わる手前だったことと、南シナ海にある南沙諸島の領有権をめぐって強硬に出て、成功したことがあったのではないかと思う。
 --日本政府は昨年11月15日と16日、モンゴルで北朝鮮と局長級協議をしています。
 ◆北朝鮮は「拉致問題は解決済み」と言ってきたが、その協議の場で大きく変わったのは事実だ。北朝鮮は日本との関係を改善したいと思っている。
 --政局は衆院解散が最大の焦点でした。
 ◆麻生(太郎元首相)さんが「(2012年)8月に解散しろ、解散しろ」と、しきりに私に言ってきていた。
 --野田首相は昨年8月8日、「近いうちに解散する」と、自民党総裁だった谷垣禎一氏に明言しました。
 ◆麻生さんは私を呼び出しては「自民党はこう考えている」と言ってきた。「(税と社会保障の一体改革をめぐる民主、自民、公明の)3党合意ができたんだから、野田さんは内々に谷垣さんに言え」と。その結果、「近いうちに」という言葉になった。
 --解散時期の判断は縛られましたか?
 ◆野田首相が「近いうちに」と言ったことに縛られ、悩むような場面は全くなかった。野田首相はしょっちゅう「必要なときは解散するし、状況をよく見ないといけない。解散が年を越して、うそつきと言われてもかまわない」と言っていた。
 --しかし年をまたがず、昨年11月16日に解散しました。
 ◆その一つの柱は、日本維新の会に相当な勢いがあったことだった。解散まであまり時間をかけると、維新がもっと組織を固めてくる。維新の選挙準備が整わないうちに解散するということだった。
 もう一つは衆院選と(13年夏の)参院選の時期があまり近くなると民主党は両方の選挙に負けてしまうという判断があった。
 --解散日程はいつ決めたのですか?
 ◆昨年11月2日だ。首相公邸でエネルギー問題の閣僚懇談会をやって、食事の後、岡田克也副総理と私が残って野田首相と話した。どの時点で、どう解散を打ち出すかというシナリオを考えた。その日に少し先の道行きを考えないといかんということを2週間前から計画していた。
 --野田首相は昨年11月14日、自民党の安倍晋三総裁との党首討論で「16日に解散する」と明言しました。
 ◆11月2日に、そういうシナリオを書いた。あのころ、野田首相と安倍氏が党首会談をやるという話がかなり出ていたが、その席で「党首討論の場で打ち出したらどうか」という案が浮上した。討論の場で、ずばっと約束しようということになった。「近いうちの意味はこうだ」と。
 --その日に衆院選の日程が決まったと。
 ◆いや、私たちがその日、想定したのは12月9日投開票だった。その場合は11月27日公示だが、政治家だけの席だったので詰めた議論はしていなかった。
 それを私が預かって、内閣総務官と総務省選挙部長に内々に詰めてもらったら「12月9日投票なら、解散は11月12日でないとぎりぎり間に合いません」と。
 そうすると、11月14日の党首討論で解散を言っていたら遅い。それで修正が加わり、11月16日解散の場合は「12月4日公示、12月16日投開票」になった。
 --民主党幹事長だった輿石東氏は解散に抵抗しました。
 ◆11月2日の晩、野田首相に「幹事長ときちっとやってくださいよ」と言った。その2日後ぐらいに輿石さんは首相公邸に裏から入って野田首相と会談した。輿石さんは「うーん」と言って持ち帰った。
 --11月11日にも野田首相は輿石氏と会談しています。
 ◆その日、私と岡田さんも首相公邸に集まったが、野田首相との会談は別々だった。野田首相は輿石さんに考えを伝えたと思う。輿石さんは「うん」とは言わなかったが、「首相がそういうご決断なら、そういうふうにするしかない」という腹で帰ったと思っている。
   ◇
 --野田佳彦首相が踏み切った衆院解散・総選挙で民主党は政権を失いました。
 ◆09年は本格的な2大政党間の政権交代で、大きな意味があったと思う。しかし民主党は昨年12月の衆院選で敗れ、存亡の機を迎えている。それはなぜか。自民党と民主党はどこが違うのか。きちんと整理する必要がある。
 --具体的には?
 ◆例えば、よって立つ基盤。自民党は経営者側、農協など旧来の既存の圧力団体などが基盤だと言える。民主党は労働組合、生活者側。団体といっても福祉団体やNPOが基盤だ。安倍政権は旧来の公共投資型にシフトするが、民主党は人への投資に力を置いた。それが09年の衆院選では受け入れられた。
 --しかし今回の選挙では大敗しました。
 ◆自民党は地域の自治会会長らを集めてきちんとやってきたが、民主党はそこに食い込めなかった。有権者にどれだけ接触できているかという点で努力が全然足りなかった。
 --だから逆風下の選挙で大敗したと。
 ◆その通りだ。09年衆院選では、地域の皆さんが民主党の考え方に賛同してくれたが、昨年12月の衆院選では「民主党はもうあかん」と。でも、各候補者への信頼が地域にあれば、ここまでの結果にはなっていなかった。
 --鳩山由紀夫、菅直人両元首相をどう評価していますか。
 ◆鳩山さんは小沢一郎さんの理想を何とか実現しようとして上滑りした。鳩山さんが「少なくとも県外」と言った米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設問題がその典型だ。後で聞けば聞くほど「やっぱり(沖縄県名護市)辺野古か……」と。官僚に相談せず、レクチャーを十分受けずに発言した結果、鳩山さんは自分の首をかけて辺野古に戻すことになった。
 菅さんは市民活動家出身で政治的センスはいいと思うが、政権を担うには、それだけではダメだ。歴史があって幅の広い問題を扱わなければならないからだ。しかし菅さんは官僚の活用の仕方も知らなかったし、しようともしなかった。東日本大震災が起きたということはあったが、独善的なところがあって政治全体をうまく動かせなかった。
 --野田首相はどうでしたか。
 ◆その2人を見ていたから、野田首相は割に修正した。首相に就任した当初から「しっかり(官僚を)活用すべきだ」と言っていた。官僚も元気が出てきたと思う。
 --民主党政権は党内の権力闘争に終始した印象があります。
 ◆党内にグループがあることが、党のガバナンス(統治)に良い効果をもたらさなかった。寄り合い的な合併政党の弱さが出た。政権与党なのに分裂気味の状態が続いた。あるグループは党の方針に正面から反対して党内が真っ二つになり政府・党の決定に従えない人たちは出て行った。
 --小沢氏との党内抗争になりました。
 ◆小沢さんは大義の部分では「自民党はダメ」と言いつつ、「民主党、旧新進党など自民党の対抗政党はもっとダメだ」と証明することに終始した。
 --小沢氏らの離党後、野田首相は党を純化しようとしたといわれました。
 ◆野田首相は、小沢さんたちが出て行った後で党を純化しようとは思わなかった。
 --小沢氏が離党する前、野田首相は2度会談しています。
 ◆輿石東幹事長が仲介して党本部で1回、官邸で1回やった。その後、野田首相は僕に「小沢さんは党に残る条件をいくつも出してきたが、一つものめない」と言っていた。野田首相は多くを語らなかったが、小沢さんは党の選挙対策の責任者にしろとか、そういうことを求めたようだ。
 --小沢氏が民主党に復党する可能性はあるでしょうか。
 ◆小沢さんが復党すれば、民主党の基本政策の中身は大きく変わってしまう。野田さんや岡田克也さんにすれば、民主党を出ろという圧力になる。そうすると、党を割って新党を作り、自民党と連携するなど動きが出てくるかもしれない。
 --野田氏、岡田氏らには小沢氏と組むのと、自民党と組むのとどちらがハードルが低いと見ますか?
 ◆それを比べれば、自民党のほうがハードルは低い。環太平洋パートナーシップ協定(TPP)も原発も消費税も、安倍政権は野田内閣が決めた方向に近づいていくと思う。こうした大きな課題については民主党・野田政権が敷いた路線に方向性が収斂されていくと私は見ている。
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習総書記が会談 対話の機運を大切に

2013年01月27日 11時00分00秒 | 臼蔵の呟き



山形県最上川

歴史認識、中国侵略の過去が清算できない日本、自民党、民主党政権が持つ限界がアジア諸国との外交関係に色濃く反映しています。日本、日本人が一方的に感じるかどうかではなく、他国を侵略し、蹂躙し、多くの国民を虐殺したことは歴史的事実であり、再び、侵略戦争を行なわない決意、政治的な保障を維持するしか信用はされません。尖閣列島の問題は、このような歴史認識との関係で難しい問題です。尖閣諸島の領有権は、日本に帰属することは歴史的事実であり、中国との関係でそのことを外交的に説明しきることが必要です。しかし、侵略戦争で中国、アジア諸国に多大な災禍を負わせたことは事実であり、相手国があらゆる問題、場面で、日本の謝罪、反省を受け入れてもらえる政治的対応こそが必要です。

自公政権が目指す憲法改悪、9条改正、集団的自衛権の確立などはまったく歴史の反省がなく、アジア諸国との軋轢を拡大する以外、道はありません。愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶです。

<習総書記が会談 対話の機運を大切に>

 中国共産党の習近平総書記が訪中した公明党の山口那津男代表と会談したことは、対話再開に向けた一歩だといえる。粘り強く現実的な外交で、日中関係改善の糸口をぜひとも、つかんでほしい。
 日本政府が昨年九月、尖閣諸島を国有化したことに中国が反発し日中関係は国交正常化以降で最悪と言われる状態にあった。
 こうした事態になって以降、中国共産党トップが政権与党の党首と会談したのは初めてである。
 安倍政権の成立後、中国側は尖閣の国有化について「民主党政権の決定」として新政権との対話は拒まない姿勢を示していた。議員外交によってようやく実現した対話の機運を大切にしてほしい。
 安倍晋三首相は新政権スタート直後の会見では、靖国神社参拝を明言せず、選挙中に訴えてきた「尖閣諸島への公務員の常駐検討」の公約にも触れなかった。
 憲法問題などでタカ派色が批判される面はあるが、安倍政権は対中外交では冷静な対応で対話再開に道筋をつけたといえる。

 公明党は、中国で対日外交に影響力を持つ唐家〓元国務委員や程永華駐日大使らと太いパイプを持つ。日中関係を重視してきた実績も会談実現に弾みとなった。
 昨年末、北京に着任した木寺昌人・駐中国大使は「第一の任務は日中の友好関係を深め、広げることだ」と述べた。

 民主党政権時代は、与党政治家の対中パイプが細く、外交をバックアップする力に欠けていた。
 安倍首相は前に政権を担った二〇〇六年、「氷を砕く旅」として訪中し、戦略的互恵関係の構築で合意した実績がある。日中友好議連会長の高村正彦自民党副総裁も近くの訪中を検討している。
 政凍経冷とでも言えるような難局だけに、大いに政治の力を発揮し、隣国との関係を改善軌道に乗せてほしい。
 習総書記は尖閣問題で「対話と協議で解決していく努力が重要だ」と述べた。双方が歩みよる努力をすることに異論はない。民主党政権は「(一時棚上げという)約束は存在しない」と閣議決定し、政治の知恵といえる棚上げ論を否定した。

 日本に主権があることは疑いもない事実だが、国際社会で外交上の係争地と見られていることはそれも現実として否定できない。
 それらを踏まえ、何よりも武力紛争が起こらないよう、対話を進めることが肝要である。
 ※〓は王へんに旋
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来館500万人の第五福竜丸  「ビキニと福島  つながっている」

2013年01月27日 06時00分00秒 | 臼蔵の呟き

除染後の残土



汚染された農地

核兵器と原子力発電所は1つにつながっています。日本以外の核保有国はプルトニウム取出しをするために、核爆弾製造と原子力発電所は一体の設備となっています。原子力発電所は核の平和利用と言われていますが、本質的には核兵器開発と一体であることは事実です。

核兵器は殺人兵器以外の何者でもなく、地球上に存在させてはならない兵器です。核兵器を使用可能とするために、常に、核実験を行う必要に迫られ、多くの地域、地域周辺の核汚染、放射能汚染による被害が問題となっています。しかも、その汚染は、一地域の限定された範囲ではな
く、地球的な規模に汚染範囲が広がる特性を持っています。

アメリカによる核実験が日本漁船の被爆につながっていることを見ても分かります。国を超えた核実験禁止、核兵器廃絶の運動を広めてゆくことが重要だと思います。そのためにも平和を維持し、発展させる各国の平和的な関係を築くことも重要なことと思います。

<来館500万人の第五福竜丸  「ビキニと福島  つながっている」>

 太平洋のビキニ環礁で米国の水爆実験により被ばくした漁船「第五福竜丸」元乗組員、大石又七さん(79)=東京都大田区=が1月25日、都内の中学校で講演した。四十年にわたり八百回近く体験を語ってきたが、昨年四月に脳出血で倒れ、この日は約一年ぶりの講演。福島第一原発事故後の日本を生きる若者たちに「原発も核兵器と同じ。なくさなければ安心して暮らせない。一人一人が考えて答えを出して」と訴えた。
 「怖いとも思わなかった。何も知らなかったから」。三輪田学園(千代田区)の講堂。中学二年生百七十二人を前に大石さんは、久しぶりに、やや緊張気味に話した。
 福竜丸の冷凍士だった大石さんは当時、二十歳。早朝の暗がりに突然、光と赤みがかった色が船を覆った。数分後、ドドドドーというごう音。しばらくすると、白い粉が落ちてきた。放射性物質を大量に含んだ「死の灰」。髪にも手にも付いた。
 二十三人の乗組員に頭痛や頭髪が抜けるなどの急性症状が現れ、半年後には久保山愛吉さん=当時(40)=が亡くなった。
 「あの時、放射能の怖さ、内部被ばくの怖さ、平和の大事さを、ちゃんと説明できたはずだ」。元乗組員の半数以上が亡くなった今、大石さんは、自分たちの体験や警告が顧みられず、今なお世界中に核兵器が存在することを憂える。原発事故後は、より精力的に全国を回り、放射能や原発の危険性を訴えた。
 講演で大石さんは、A4判5枚の文章を生徒たちに手渡した。題は『ビキニの水爆と福島の原発はつながっている』。脳出血でリハビリ中、講演に行けなくても思いを伝えられるようベッドで書いた。
 この日、福竜丸を展示する都立第五福竜丸展示館(江東区)が来館者五百万人を突破。「それだけの重みを一般の人も感じているからだろう。大事なことを忘れない人は何%かいて、そういう人たちが世の中を守っているのかな、という喜びがある」
 もう一つ、大石さんがうれしかったのは、展示館の学芸員市田真理さん(45)が共に舞台に立ち、対談形式で大石さんの言葉を引き出してくれたことだ。市田さんは大石さんの療養中、すでに予約が入っていた講演会で代理を務めてくれた。
 「史料に基づいた語りをしてくれる人がビキニ事件を伝えてくれていること、うれしく思っています」と大石さん。
 市田さんも「語り部・大石又七の、私は『語り継ぎ部』でありたい」と生徒たちに語った。
<ビキニ事件> 1954年3月1日未明、米国は施政権下にあったマーシャル諸島ビキニ環礁で、広島に投下された原爆の約1000倍の威力の水爆「ブラボー」を使った実験を実施。公海上にいた静岡県焼津市の遠洋マグロはえ縄漁船「第五福竜丸」の乗組員や島民らが「死の灰」と言われる放射性物質を強く帯びた砂を浴びた。その後も実験は続き、同年末時点の太平洋で操業中だった日本漁船が少なくとも856隻被ばく、全国で水揚げされた魚が破棄された。
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