サイババが帰って来るよ

Count down to the Golden age

ネズミさんにも頼みましょうか

2015-04-13 00:00:24 | 日記
ポニョ:昨日のガネーシャの話は面白かったな。

ヨシオ:ポニョは人ごとやから面白いかもしれんけど、夜中に起こされる俺にとっては大変やで。
ポニョ:全てはええ事なんや。受け入れなさいって記事にもしたよな。言ってることとやってる事が違ったらあかんねんで。

ヨシオ:うるさいわ。俺がガネーシャになってポニョを夜中に叩き起こしたろか。ポニョやったら布団を頭から被って出て来ないやろ。

ポニョ:それ以前にあんな大きなガネーシャの像なんて買わないよーだ。

ヨシオ:そうやろな。ビビンが悪かったんや。でも俺が聞いたガネーシャの話で面白かったのが、ホワイトフィールドにあるサイカレッジでガネーシャのお祭りのためにガネーシャの像を毎年造ってたんや。
粘土は近くの湖から取ってきてそれをプラットホームの上に乗せて、主にアートクラスの学生が中心になって造っていたんや。
でも、問題はガネーシャのお祭りの日になると、粘土を焼いていないので、像のあっちこっちがひび割れて、とても醜くなるんや。
それで皆で相談して、こんな醜いガネーシャの像をお祭りに使うのは良くないと考えて、その年は既成の像を店で買うことにしたんや。

ポニョ:その年って一体いつ頃の話なんや?

ヨシオ:七十年代やったな。それでガネーシャの像を買おうとしたら、ババから電話がかかって来て、昔から各家庭でガネーシャの像を造るのがインドの伝統行事だから、今年も自分たちで作りなさいと言われたんや。

ポニョ:七十年代にはババから直接電話がかかって来て、そんな指示をもらってたんか。考えられへんな。めちゃラッキーやぜよ。

ヨシオ:それで早速、湖から粘土を持って来て、プラットホームの上に置き、アートクラスの学生たちがババからの直接の指示だからということで張り切って造り始めたら、どこからともなくネズミが一匹部屋に入ってきてプラットホームの下に逃げ込んだんや。

ポニョ:ネズミって昨日の記事にも有ったけど、ガネーシャの乗りもんなんやろ。それって、ええ事やんか。そのまま居てたら面白いのにな。

ヨシオ:そうやねん。学生たちもガネーシャの乗りものが来たって喜んでたんや。それで当初、店で買い求めるつもりやったから、時間がもう余りなくて突貫で造り上げたんや。

ポニョ:どれくらいかかったんや?おいらはガネーシャ像の写真を見たことがあるけど、結構大きな立派なガネーシャ像やった🐘。

ヨシオ:もう、ええっちゅうに。同んなじギャグばっかりじゃ嫌がられるで。学生たちは約五日で造り上げたんやで。

ポニョ:それはすごい。よく頑張ったな。

ヨシオ:そして、お祭りの当日ガネーシャ像をプラットホームから持ち上げようとすると、五日前に逃げ込んだネズミが、またプラットホームの下から出て来て、何処かへ逃げて行ったんや。

ポニョ:五日間もその下におったんやろか。何を食べてたんやろな。学生たちも驚いたやろな。

ヨシオ:そうやねん。みんなガネーシャの像を造っている間中ネズミが像の下に居てたって、カレッジ中にその話が伝わったんや。そしてお祭りも無事に終わり、ある日ババが学生たちにガネーシャのお祭りはどうだった。と聞かれたんで、みんな上手く行きました。ありがとうございました。と言ってババに礼を言うと、ババは「私は一匹のネズミに、君たちのところへ行くように言ったんだが来ましたか?」と聞かれたんや。

ポニョ:それはすごい。ネズミさんに行くようにババがアレンジされたんや。本当になんでも全てをコントロールされているんやな。今の話、オチが最高やったな。ババらしいわ。
でも昨日の記事の中で少し腑に落ちなかったのが、なんで小さい神像やったらきちんと礼拝を捧げなくてもよく、五センチ以上の大きい神像やったらしきたりに則ってプージャや礼拝をせなあかんねんやろか。サイズが違うだけでどっちも同じ神像やのに。

ヨシオ:それは以前に記事にしたけどバッテリーの容量と出力の関係や。それを載せている過去記事から少し引用すると…。

ポニョ:二三日前の記事で少し気になったのがあって、言いそびれてたけど、サイババさんは病気のような状態になっておられたんや。それで、皆はもう死なれるんじゃないかなと心配してたんやったな。

ヨシオ:実際のところ、半年以上ゆっくりされていて、親しい信者の人にババは、サマディになりたいって言っておられたんや。

ポニョ:サマディって体から離れるってことやろ。まだ、二十四五歳の頃やったんと違うのん。ちょっと早すぎるやんかな。

ヨシオ:これも、いつものババのお遊びや。だって、同じ頃にカスツーリさんに、君は、僕の伝記を将来書く仕事があるよ。って言われてたから、サマディなんてなるわけは無いけど、少しは思っておられたかもしれん。

ポニョ:でもいくらお遊びでも、なんでそんな長いこと療養されてたんやろな。

ヨシオ:これだけは、後世の「アヴァターの傾向と対策」を分析する専門家がいろいろと論文を書くやろうけど、今、俺が言えることはバッテリーの容量と出力の関係かな。

ポニョ:なんやねん突然。このブログはユアサバッテリーのホームページと違うで。

ヨシオ:俺が言いたいことは、ババの霊力が帰依者が増えるに連れてどんどん増えて行くにつれて、ババの身体の中にある霊体を調整していくって事やねん。だって、普通の人間の肉体に入っている霊体はその人間の体を動かして、毎日の生活を送って行くのに十分な容量を持っているけど、神の化身のように莫大な霊力を保持して行くには、容量はとても小さすぎるんや。

ポニョ:ああそれで、バッテリーの容量と出力の関係って言ったんか。なんか分かったような気がしてきたぜよ。だから、あんたが言いたいことは、その容量を大きくする為に療養しないといけないと言う事やねんやろ。というのも、その肉体に入っている霊体では神の大きな霊力を受け入れることが難しいからや。

ヨシオ:人間の身体の内にある霊体も、実は、俺たちが食べる食料で維持されてるんや。
その食料の、波動が荒い部分は肉体の栄養となって身体を維持し、その食料の精妙な部分である霊体を、俺たちの霊体が、自分の中に取り込んで霊体を維持してるんや。
クリタユガ期、トレタユガ期、またはドワパラユガ期では、人の体も今の何倍も大きかったし、霊界との繋がりも強くて、半神半人みたいな霊体か肉体か分からん用なモンスター人間がたくさんいてたけど、このカリユガ期では、人は食料を身体に取り込まなかったら三週間以内に死んでしまう。もちろんその中の霊体も体からすぐ離れてしまう。
昔やったら、神のような強力な霊体が入っていたから、肉体が死んでも骨が朽ち果てるまで、霊体が骨の中に残っていて、一見、骨やけど実は生命力がその中に宿っていたんや。

ポニョ:以前、そのこと記事にしたよな。その中に想念のパワーが入っていて人をも殺すことが出来るんや。それに、ガイコツ踊りのシンドバット虎の目大冒険の話もあったな。

ヨシオ:でも今では、そんな神さんの巨大で強力な霊体を入れれるような器を人は持っていないので、少し療養して英気を養っておられたんやろな。

ポニョ:霊体だけでは無いやろな。だってババはシヴァラトリの日に、身体を磁石化したので足が地面にくっついて歩くのが難しいて言われたやろ。肉体だって大変やで。そんな強力な霊力を持っていたら。

ヨシオ:サイババさんのように神の力を全て持って来ておられるアヴァターは、肉体の中に入り込むと色々と不都合が出て来るんや。だから、霊体だけやったら、いくらでも大きな霊力が入ろうが簡単に調整出来るけど、肉体は少しの調整期間が必要になってくるんや。

ポニョ:でも、本当はババが意思すれば、一瞬のうちに身体を調整して大きな霊力が入るようにされることだって可能やろ。

ヨシオ:もちろんポニョの言う通りや。でもババは、こういうふうに言っておられる。一度、人の身体をとってこの世界に来た以上、この世界の法則に従う、と。

ポニョ:つまり、おいら達が、もし、大きな霊力を身体に取り込むんやったら、いろんな不都合が肉体に起こるけど神の化身やからと言って、それを、避けて通りません。と言うておられるんやろ。だから、子供の時にも、大きな霊力が入る時に、なんか気狂いみたいになったりして、大変な目に遭われたんやったな。

ヨシオ:その通りや。ババは、肉体をとるってとても面倒臭いことや。と言ってられる。本当は、人の身体なんか取らなくても、いろんな事が出来るし、そっちの方がやり易いんや。でも、人に、神さんを愛してもらって、親しんでもらう為に、人間の身体をとって、人間のように振る舞って、わざわざ大変な道を選んで歩んでおられるんやで。だから、ババは療養中に親しい帰依者に,サマディをしたいとおっしゃたんや。だって、身体を離れて、霊体だけになった方がもっと楽にいろいろ出来る。だから、ババがやっておられる事は、頭のてっぺんから足の先まで、一点の曇りもない無私の愛そのものなんや。ババがやっておられること全ては、愛なんや。だから、愛の化身と呼ばれているんや。

ポニョ:ババは、そう言うたら、私がこうして皆さんの前を歩いてダルシャンを与えているだけでも、あなた達の為にとてもいい事なのに、あなたの為にしているのにそれを分かっていない。インタビューばかり望んでいる。と言われたことがあるな。

ヨシオ:今回も、肉体から一時的に離れられているけれど、それは、大きな神の計画の一部なんや。というのも、これからサイババさんは、世界中の空に現れたり、全ての人のハートに直接話しかけたり、また、何千、何万と身体を分けて人々の前に現したり、山脈を持ち上げられたりされると予言されている。

ポニョ:それって、すごい霊力を使うやろな。

ヨシオ:だからやねん。肉体を離れられた一つの理由は。来るべき、人類の歴史上、比類なき奇跡が連続して俺たちの目の前で展開されるんや。
だから、そのためにも、いろいろと制限のある肉体を投げ捨てられて、霊体だけとなって神の無限の霊力を全人類の目の前に現されるんや。今まで、いろんなアヴァターがこの世に生まれ変わって来てくれたけど、これほどすごい力を人類に示されるアヴァターは初めてなんや。
そういうことを理解すれば、今こうしてこの時代に生きているって事が、どれほどラッキーなのかが分かるはずだ。

ポニョ:すげ~。寒イボが立ってきたぜよ。おいら達は本当にすごい時代に生きてるんやな。なんか、めちゃ嬉しくなってきたぜよ。

ヨシオ:それではポニョが興奮して寒イボが立ってきたところで、サイババさんの話に入ります。
以上、過去記事から引用しました。

ポニョ:つまり神像が大きければそれだけ霊力を蓄えられるので、しっかり礼拝をしていかないかんということやろ。小さければ、毎日しなくても少し神様のことを思っただけで、霊力が補充されて行くので大丈夫なんや。

ヨシオ:大きい神像にはそれに見合った霊力を送り込む礼拝をしないと、霊的な効果が望めないし、御利益も得ることは出来ないんや。俺は、デリーにあるシルディの寺院に行ったけど、そこには大理石で出来た巨大な、鉄人28号のような大きさのシルディの像が安置してあったんや。御足に触れさせてもらったけど、すごいバイブレーションで、頭の中が真っ白になるほどやった。その時お袋も御足に触れたけど、お袋は俺より霊的に繊細な分、その神聖な影響を受けて、涙がちょちょぎれるぐらい出てたな。もう腰が抜けてしまって、しばらくの間立って歩くことも出来ないので、その場に息子と三人で座ってバジャンを聞いていたな。その頃、俺たちはシルディババの事を知らなくて、サイババ寺院があるって聞いたので行ったんや。すると祭壇で待っておられたのは初めて見たシルディババの像やったんや。

ポニョ:でも、それを見てお袋さんは、以前見たことがあるって泣いておられたんやったな。前世の記憶が蘇った瞬間やったんや。以前に霊力が物質の中にしっかりチャージ出来ると、その物体を浮かすことも出来るっていう記事も載せたことがあるな。

ヨシオ:ああ、確かそんな事も話したよな。インドのある寺院の神像はそんなに大きくはないけれど、人々の霊力が入っていて24時間一年中、宙に浮かんでいるんや。

ポニョ:そういや、ババがマドラスのシルディババの寺院の中にある神像に霊力を注いだ時に、その神像は宙に浮いたよな。霊力ってすごい力をもたらすことが出来るんや。おいらも少し欲しいな。
(シルディ ババの寺院)

ヨシオ:その話をし始めると切りがなくなるのでまたの機会にしよか。

ポニョ:なんやせっかく乗ってきたのに。

マントラの力やヤントラの力よりも強力なのは、清らかなハートです。
信仰は、神の御座であるハートから生ずるものでなくてはなりません.
今日、私が教えた5つのマントラをあなたの不断の同伴者とし神への信仰を強めなさい。
それによってあなたは必ず神我顕現を得ることが出来ます。
神への不動の信念によって、霊力は強化され甘美な至福を享受することが出来ます。
疑ってはなりません。人生において何事を成し遂げるにも、神への信念こそ肝要です。
信念が無ければ、ごく平凡なことでさえ成し遂げられません。21/7/86

現実の生活において、人は生と死の秘密を理解できずにいます。
多くの人が、死の特性を発見しよう、死後何が起こるのか、死の背後にある神秘とは何かを見出そうと試みましたが、答えを見つけることはできませんでした。
そのため、深い探求心を授けられていた者たちは、すべての生き物の奥底には一つの力が存在し、その力は神から来ているという結論に至りました。
彼らはその力を神と名づけたのです。そして、神の力が存在すること、そして、それは人間の理論を超えており、宇宙にみなぎっていると結論づけました。
その力は何なのでしょう? 人は目に見えないものをどうやって認識できますか?
そのようなものを信じるべきなのでしょうか?
そのようなものを知ることは不可能だと考える科学者もいます。
一方、古代人たちは、太陽を神性という存在の実証できる明らかな証拠と見なしていました。
そして、太陽がなければ世界は存在しないと思っていました。
太陽がなければ何ものも成長することはできません。
人間の営みは一切不可能となります。人が終わりなき暗黒を生き抜くことは不可能です。
それゆえ、古代人たちは、この偉大な光とエネルギーの源は神の霊的な力の存在証明であると思っていました。
その後、その神聖原理は一つなのか、それとも複数であるのかという議論が生じました。
古代人たちは、「エーカム サット」、すなわち、神は唯一者であり、唯一者でしかあり得ないという結論に達しました。
ヴェーダも「エーコーハム バフスヤム」(私は多として顕現した唯一者である)と宣言しています。
それによって、ヴェーダは神の一体性を宣言したのです。
神は唯一なるものですが、異なる人々に多として顕現しているのです。
聖仙や予見者たちがタパス(苦行)を行ったのは、こうした深い探求の精神によるものです。
そして、その苦行と禁欲生活によって、彼らはすべての知識の源はプラナヴァ(オーム)であるということを発見しました。
もしプラナヴァが存在していなければ、音も言葉も存在し得なかったでしょう。


ガネーシャさんちょっと静かに歩きましょう

2015-04-12 00:00:53 | 日記
ポニョ:今日は過去記事から、象さんの頭を持たれたガネーシャ神のお話をします。

ヨシオ:ガネーシャはヴィナーヤカとも呼ばれているな。胡麻団子や白い草を捧げてお祝いするんや。

“ヴィナーヤカ チャトゥルティーの日、人々は特別料理としてクドゥムルとウンドラッルーを作ってヴィナーヤカに捧げます。
これらは少しも油を使わずに蒸して作るという意味において特別で独特な料理です。
ゴマと米粉とジャッガリー〔ココナッツ黒糖〕を混ぜ、団子状にし、蒸してヴィナーヤカに捧げます。皆さんはこのような供物を作る目的を調べるべきです。
ゴマは目に良いのです。油を少しも使わずに蒸して調理した料理は消化器官に良いのです。
このような料理を食べる人には血圧と血糖の問題がなくなり、ずっと健康と幸せを満喫できるでしょう。
油を使って火で熱する調理法は、ジャタラーグニ(消化の火)に対して有害です。そうした料理はさまざまな病気を引き起こします”

ポニョ:おいらもインド人の家に招待された時、ゴマ団子を頂いたけど美味しいよな。日本のお菓子の中にあんこが入っているゴマ団子があるけど、元々はインドから来たんやろうな。でも、白い草を捧げるって聞いたことがないな。それに白い草って見たことがないぜよ。

“ガリカー(白い草)でヴィナーヤカを礼拝しなさい。
ヴィナーヤカに供えた草を食べれば消化不良から解放されるでしょう。
ペットに犬を飼っている人たちはこのことをよく知っています。
犬を草むらに放すと、犬は白い草を探して食べます。
このわけは何でしょう? 白い草は犬の消化器官に役立つのです。
このことから、ヴィナーヤカに捧げられた供物はすべてのものの健康を保証することがわかります。10/9/02”

ヨシオ:白い草って見かけないよな。でも、漢方薬で片白草 三白草という草を使っているし、ババが言われたように消化にええんやろうな。

ポニョ:おいらはいつも胃炎になるから、自分にピッタリな草なんや。ところであんたの家の玄関先に大きな等身大の木彫りのガネーシャ像があるな。あれはインドで買ったんか?

ヨシオ:そうやねん。ホワイトフィールドにババがおられた時、家族でバンガロールに滞在していたんや。その時に通りを歩いていると、ある店の前にあの大きなガネーシャ像が置いてあるのを見つけたんや。そしてその前を歩くとビビンと感じたので直ぐその店の人と交渉して買ったんや。

ポニョ:ほんまに直感人間やな、あんたは。何がビビンや。

ヨシオ:ほんまやで。言葉で説明出来ないけれどビビンと感じる時ってないか?

ポニョ:あるかもしれんけど、そんな風にすぐに行動に移せへんわ。おいらがビビンと来て買うのは食料品売り場の前を歩いている時だけやけどな。みたらし団子の前を歩いたり、オクラの天ぷらの前を通るとビビンと来るな。

ヨシオ:ポニョのビビンと俺の言ってるビビンと少し違うと思うねんけどな。まあええわ。

ポニョ:同んなじやって。それで、あんたとこに泊まらせてもらった時に朝の三時頃、あんたはいつもそのガネーシャ像の前で大きな声でルッドラムを唱えてたな。

ヨシオ:ババは帰依者たちに神様の像を物質化して与える時に、親指程の小さい神像を与えられるんや。というのも、もしそれ以上の大きさのものを与えると、聖典に則ってきちんとその神像に礼拝をしなければいけないからと言われたことがある。

ポニョ:それで、毎朝やってるってわけか?大変やな。小さい神像やったら楽やのにな。

“普通の家庭では、神像の大きさは5センチメートルを超えてはならない。
それより大きい神像を持っている場合はきちんと手順を踏んだプージャやナイヴェーダを毎日しなければならない。
これが私が人々に小さい神像を与える理由なのだ。”

ヨシオ:買った時は、そんな事をババが言ってられてるのを知らなかったんや。知ってたらそんな大きいのを買わへんわ。でも、おかげで早起きが出来るようになって良かったな。

ポニョ:あのね夜中の三時はちょっと早すぎるで。おいらが泊まっている時に、そのガネーシャ像のある玄関に続く部屋の扉が開いたり、閉まったりする音で目が覚めたで。もうちょっと静かに戸を開け閉めしてくれないと、家族中が目を覚ますやんか。

ヨシオ:そうやろ。うるさいなほんまに。しかも早朝に。俺も困ってるんや。

ポニョ:どういう意味やねんそれって。あんたが自分でやっといて。

ヨシオ:俺じゃないねん。ガネーシャが催促しとるんや。玄関先から出て来て戸を開け閉めしよるんや。

ポニョ:なに~。ガネーシャの亡霊か!

ヨシオ:ガネーシャは既に神霊やんか。何を言ってるねん。そのガネーシャの霊がウロウロしとるんや。その戸を開け閉めしてもまだ俺が寝てたら俺が寝てる二階まで上がってきて、俺の眉間にある第三の目のところを優しく撫ででてくれるんや。ものすごく愛がいっぱいある手やで。その手のフィーリングは愛の塊と言うしか形容の仕方が無いな。それで俺が渋々起きて礼拝に行くっていうわけや。冬なんかここは内陸やからとても冷えるで。

ポニョ:ガネーシャがベッドの側まで来て起こしに来てくれるんか。それは驚き、桃の木、山椒の木やな。まるで霊界に住んでるみたいやな。そう言えばあんたの家でバジャンをしている時や、礼拝をしている時に大きな音が家のあちこちからするなって思っていたんや。ホーンテッドハウスみたいや。

ヨシオ:そうやろ。この家の横に大きな岩があるやろ。その前に丸い岩を幾つか集めて四角の形にしてあったりして、ここはアボリジニの聖地なんや。アボリジニの神聖な土地なんや。以前にも記事にして紹介したやろ。

ポニョ:おお、そんな事があったな思い出したぜよ。なんでも家の建築中の時に大工さんが家の下で働いてたら、誰もいないはずの家の中を誰かが走り回ってる音が聞こえたり、あんたの娘さんが、夜中に枕元に置いてあるキーボードを誰ががカチャカチャと叩いてうるさいから触ると濡れていたり、あんたの嫁さんが大きな足音がするのを夜中に聞いたり、本当に霊の集会所みたいな家やな。

ヨシオ:この場所に引っ越してきたその日の夜に、ババが夢に出て来たって以前記事にしたよな。ババが家族全員をアボリジニに紹介したって話。

ポニョ:そうそうコーヒーをそのアボリジニの人に差し上げなさい、と言われたんやったな。それと、サイキックな人があんたの話を聞いて遠くからやって来て裏山に野宿してたけど、毎晩アボリジニの霊がやって来てその人を叩き出したんやろ。それと、あんたのペットやった大きな蛇が夢の中であんたに挨拶に来て、その蛇の頭を祝福すると突然アボリジニに変わったっていう話もあったな。

ヨシオ:蛇のボブ君の話か。あの夢の後、ボブ君が屋根の上で死んでたってことも言ったよな。

ポニョ:多分、次の生は、人になって生まれ変わって来るんやろな。今までこの土地を護って来てたんやろな。寒くなると冬眠を家でさせてくれって、玄関先でとぐろ巻いて待ってるんやろ。

ヨシオ:あいつは家族の一員やったな。応接間で長~くなって寝てたりして知らない人が見たら驚くで。俺たちが家族で出かける時も何処からともなく出て来て送りに来てくれたな。話題は元に戻るけどガネーシャが夜中に待っているから、仕方なしに朝早くからガネーシャ像の前でヴェーダの詠唱をしてるんや。

ポニョ:それで寝坊して起きて来なかったら、ガネーシャさんがベッドまで起こしに来るんや。面白いなそれって。本当にガネーシャさんが家の中をウロウロしているのが見えたら可愛いやろな。

ポニョ:ちょっと、ガネーシャさん。そんな大きなお腹を揺らして夜中に家の中を歩き回ったら、家中の人が目を覚ましますよ。音を立てないようにゆっくりと歩いてくれませんか?

ガネーシャ:いや、それは無理なんだ象。一歩一歩、歩く度にこの長い鼻が左右に揺れて弾みがつくので、どうしてもこんな歩き方になってしまうのだ象。象のように四つ足だったら上手く歩ける象。それより、お前もヨシオと一緒に朝からヴェーダを唱えた方がええ象。身体中の細胞がリフレッシュになる象。

ポニョ:いや、おいらは朝と言っても三時では早すぎますので遠慮しておきます。それでは、相方のヴェーダを楽しんで下さいね。

ガネーシャ:うん。そうする象。毎朝それが楽しみなんだ象。

ポニョ:それより、ガネーシャさんはどうして、身体がそんなに大きいのに小さいネズミさんの上に乗っかってウロウロされるんですか。弱いものいじめをしているみたいですよ。

ガネーシャ:わしは弱いものいじめをしない象。ワッハッハ。ネズミさんはいつもウロチョロしてる象。感覚がウロチョロしておるからなのだ象。ネズミさんというのは、人々がわしに到達するには感覚をコントロールしなくてはならない、というシンボルなんだ象。だからネズミさんの上に乗っかっておるんだ象。

ポニョ:そうだったんですか。でも、その大きなお腹では本当にネズミさんも重そうで可哀想ですね。ガネーシャさんは知っておられると思いますが、お腹をへっ込めようとしてダイエットコークを飲むと余計に太ってしまうんですよ。

ガネーシャ:わしはなんでも知っている象。アスパルテームという化学物質をあらゆる食品にわざと入れて悪さをしとる奴がおる象。ついでに脳細胞も溶ける象。お前もお腹がポッコリ出て来とるから、わしの弟子になれる資格はある象。一緒について来れば良い事がある象。

ポニョ:いや、お誘いは有難く受け取りますが、もう少しこの地上でやり残した事がありますので、次の機会にお願いします。

ガネーシャ:それではまた会おう象。

というような会話になるんかな。

ヨシオ:はいはい。久々に出ましたポニョの一人会話。でも、ポニョがやり残してることって美味しいものの食べ歩きをすれば叶うんと違うんか。

ポニョ:そうなんかなぁ。うん、そうかもしれん。それ以外に考えられへんわ。

ヨシオ:ポニョは何を一人で納得しとるんや。

ポニョ:あゝそうや。ガネーシャについて少し気になったババのコメントを思い出したぜよ。
おいらの知っているサイの組織で頑張ってる人に、お前はガネーシャのレベルにまでしか行けない象。と言われたんや。それってどういう意味だ象。

ヨシオ:象はもうやめておこう象。俺の知り合いもそういう事を言われたって言ってたな。それはこういうことやろう。一つ目の理由は、人が霊的段階を歩む上でまず克服しなければいけないのは、この物質世界に対しての欲望を無くしていかなければいけないんや。その為にガネーシャは、この物質世界にある物を手に入れるのを助けてくれたり、欲望を満たせてくれたりするんや。
だから、ガネーシャ神のレベルまでしか行けない人って、この物質世界に満足し、次のレベルである、この世のものに執着しないというレベルまで達することが出来ない人なんや。
一旦、この世のものに執着しないというレベルをクリヤーする事が出来ると、後は全てのものが神として見ることが出来るようになって、一気に霊的な階段を駆け上がっていく事が出来るんや。
二つ目の理由は、ガネーシャって全ての障害物を取り除き、神々の中でも一番最初に礼拝する地位を持ってる神さんやろ。だから、ガネーシャ神を礼拝している人は自分が一番素晴らしい神を礼拝していると思い込んでいる人がいるんやろな。
それと同じようにババの事をやってる人の中にも、特に組織で頑張っている人の中には、ババが大元の神さんやから、ババが一番や、なんて思っている人がいるんやろ。
他に色々神さんを信じて頑張っている組織もあるけど、俺たちが一番やなんて思ってる人っているやろ。

ポニョ:おるおる。おいらの知り合いの中にもそんな人はいてる。気持ちは分かるよな。だって人って自分がやってる事や信じていることが一番良いって思いたいもんな。

ヨシオ:もちろんババは大元の神やけど、ババのその人に対するコメントはそういう意味ではなく、ババもラーマもクリシュナもガネーシャも同じ神さんやって言われたんやろな。

"アートマの原理としてすべての中に住む神は、特定の名も姿ももちません。
しかし、人々が様々な名と姿を神にあてはめるのです。
ガナパティ(註:ガネーシャ神の別 名)を崇める者は、ガナパティを偉大だと考えます。
シヴァを崇める者は、シヴァに勝るものはないと考えます。
サイの帰依者は、サイが最も偉大であると考えます。
すべてはひとつと語る帰依者もいます。
実際、すべての名と姿は同じ神に属しているのです。
帰依者がどのような姿の神を崇めようと、神は帰依者の祈りに応えます。
それゆえ、それぞれの者は、自分が崇める神の姿が他の姿をとる神々に勝っていると考えてしまうのです。
ある姿の神が他の姿の神々よりも優れていると考えることは、無知の証です。
大切なのは、あなたの祈りが単なる言葉に留まらずにいることです。
祈りは、行動に移されなければなりません。
言うは易し、行なうは難し、です。行動に移されるものが、真の祈りです。"

ヨシオ:ガネーシャについてある時、ヒスロップさんがババにこんな事を質問されたことがある。

ババ様、ガネーシャ神は本当にいるんですか?あんな格好をされている神さんがいるんですかって。するとババは、この世界には隙間がないぐらい色んな霊で満たされておる象って言われたんや。

ポニョ:ということはおられるって事なんや。

ヨシオ:ヒンドゥー教で祀られている全ての神々は霊の世界に存在してるって事なんやろな。
でも、ババは御講話でシバ神をこの世で見た人はいないと言っておられたから、霊の世界にだけその御姿を見れるんやろな。

ポニョ:でも、ガネーシャ神はあんたの家の中をウロウロされてるで。姿は見れねど気配はするや。あんたの家は、なんか霊界とこの世界の接点みたいな、霊界の入り口みたいなとこやな。

ヨシオ:そうかもしれんな。一人で居る時も、周りにいつも何かがいるっていう感じはすごくするな。土地の形も三角形やし。風水から見ても霊が集まりやすい場所なんやろな。

(ガネーシャが兄弟のムルガと世界一周の競争をしたが、ガネーシャは両親の周りを一周しただけだった。しかし、両親であるシヴァ神とパールヴァティを全世界とみなしたのでガネーシャが勝ちをおさめた)というお話をされてから、
"森羅万象は、自然と主という二つの力によってのみ動いているのです。
それゆえ、そのような両親のまわりを一周することは、全世界を勝ち取るのに等しいのです。
このようにして、ヴィナーヤカは、どんな礼拝を行うときも真っ先に礼拝されるという特別な地位を手に入れました。
罪深い行為の前には障害物を置いてもらい、賞賛に値する行為からは障害物を取り除いてもらえるように、人はヴィナーヤカに祈らなくてはなりません。
人間が救いを見出すのは、神を愛し罪を恐れているときのみです。
しかし、最近では誰も罪深い行為を恐れていません。
その結果、神への愛も存在していません。
人は、これからは罪深い行為を用いないという決意をもってヴィナーヤカを礼拝します。
若者たちの幼いハートは、放っておけば舵のない船のように動きまわります。
若者たちは凧のように飛んでいってしまいがちです。
若者たちは野放しの想像や光景を頭に描いてそれに浸っています。
私たちの大学の学生たちは、母性の具現である未来の母親となる可能性を秘めています。
ですから、そのような想いにふけるべきではありません。
なぜなら、子どもは、母親が善良であるときにだけ善良になるからです。
嫁が善良であれば、嫁ぎ先の家族全員が善良になります。
私たちは皆、善良な性質を育てるよう努めなければなりません。
皆さんが得ている教育は、お金を稼ぐためのものでも、仕事に就くためのものでもありません。徳を身に付けるためのものです。徳があれば座はあります。
徳がなければ座はありません。ですから、大小にかかわらず、どんな仕事を始めるときにも、その前に障害物を取り除いてくれるようにヴィナーヤカに平伏しなければなりません。"

“重要なのは、永続的な効果を得られる可能性の高いヴィナーヤカへの礼拝の内的意味を知ることです。
命の通っていない像への礼拝の意義は、その像の容姿に現されている微かな霊的存在への黙想へと導くことなのです。
アートマ(真我)の悟りはこのようなプロセスによって生じます。7/10/97”




重箱の隅には何があるの?

2015-04-11 00:00:47 | 日記
ポニョ:以前の記事で、クリシュナの膝の上でラーダーがフルートの音色を聴きながら亡くなった話が感動的やったな。そして、それ以来クリシュナはフルートを吹くのをやめたんやったな。

ヨシオ:金子ミス夫の砂浜に残った神様と二人分の足跡の詩もハートフルやったな。

ポニョ:前にも言ったけど、その金子ミス夫はおいらのペンネームと違うからやめてくれる?ミスばっかりしそうやから。それより以前、あんたがパラグライダーをやってて、最高のフライトをグルプニマの日にしたよな。地平線から昇る満月と地平線に沈む夕陽の間の空間を飛んで素晴らしい体験をしたけど、それ以来飛ぶ気がしなくなったと言ってたやろ。クリシュナもフルートをやめたのは、ラーダーのような素晴らしい帰依者が死んでいなくなったので、フルートを吹く気がしなくなったからなんやろか?

ヨシオ:このクリシュナがフルートをやめた話は、ババの講話の中で実は二つ程違うバージョンがあるんや。ババは人は九つの穴が開いた皮袋やって言ってられる。フルートも九つの穴が開いていて、中は空洞になっているやろ。神さんがそこに息を吹き込むと、綺麗な音がなって素晴らしいメロディを奏でることが出来るんや。それと一緒で神の帰依者も自分というエゴを身体から追い出せば、神さんが息を吹き込んでくれて、素晴らしい神さんの道具となって世の中を光で輝かせることが出来るんや。ラーダーは素晴らしい神の道具の典型やったんや。エゴが一点の曇りもなく、彼女の心の中は、クリシュナだけで占めていてまさしく彼女こそ、バクティヨガをしている帰依者のお手本やったんや。最高の帰依者であるラーダーはクリシュナがいつも持ち歩くに相応しいフルート自体やったんや。そして、そのフルートであるラーダーが亡くなったのでクリシュナもフルートを捨てたんや。

ポニョ:そうやったんか。人の体に空いてる九つの穴と、フルートの穴。そしてそこに吹き込まれる神の息吹によって奏でられる神聖なメロディーと、人が神聖化する事によってもたらせる神さながらの行為。二つの物質が神聖化する事によって神の道具になるのか?すごいロマンチックやな。でも、本当に人間の身体って九つの穴が空いているんやろか。目と耳が二つずつやろ。鼻は一つとして数えるんやろか、それとも二つかな。

ヨシオ:ポニョの鼻の穴は一つに繋がってるんかい。二つに決まってるやろ。

ポニョ:でも奥で繋がってるで。でも見かけは二つやな。おいらもそうやと思った。それと口と…おへそも数えるんかな?

ヨシオ:さっきからしょうもない事ばっかり聞いてくるなよ。ポニョのでべそは穴が空いていてそこから息をしとんのかい?

ポニョ:おいらは、でべそと違うんやけど。おへそに穴が空いてたら息をする代わりにおならが出てくるやろな。でも、なんか変や。公共の場でおならが出そうになったらおへそを押さえるなんて。あんたはん。さっきからおへそを押さえてはりますけど、芋の食べ過ぎやおまへんか。もうちょっと離れたところでその押さえた手を離してくれますか、ここら辺でおへそからプーと嫌な臭い撒き散らさんといてくださいな。という具合に直ぐにおならを我慢してるのがバレるもんな。だからおへそは数えたらおかしいぜよ。あっ、変な話やけど男と女は穴の数が違うやんか。

ヨシオ:あのな、もうさっきからええ加減にせえや。ポニョはほんまに。どこが、ロマンチックやねん。現実的過ぎるやないか。まあ、ポニョは誰が見ても善人の塊みたいな人間やけどな。ポニョが何を言っても罪がないわ。神さんの事もしっかり愛しているし、ポニョみたいな人間が神の神殿に到達出来るんやろな。でも、おかげでクリシュナとラーダーの夢が壊れてしまったやないか。

ポニョ:神の神殿に?おいらが?それやったら今からちょっとええ服を新調しとかなあかんぜよ。

"私達は、他人からの批判に臆すること無く我々自身の正しい道や、英知そして決意を守り通さなければなりません。
格言にもある通り、果物をつけた樹木だけが、通行人から石を投げられるのです。
常に善人は悪人を刺激して中傷を招き、悪人は善人を中傷して物笑いの種とします。
これがこの世の常道です。
この世にそうしたことは起こらないと思う事にこそ、人は驚くべきです。
単なる善人は、至高の神がおわす神殿に到達する候補者となりうることは確かであるが、しかし帰依の念を持つ善人は、確実にそこに到達する権利を持っているのだ。SDMp115"


ポニョ:ところで今さっき、ババの講話で幾つか違うバージョンを言ってられるって言ったけど、どうしてそのように違うバージョンがあるんやろな。

ヨシオ:それは、民間に伝わっているクリシュナのエピソードを尊重されているからなんや。ババはクリシュナだったし、もちろんその時その場で一体何が起きたかも逐一知っておられる。でも、クリシュナの話は六千年前の話で、その間いろんなバージョンが伝えられてるんや。小さい頃からそういうクリシュナについての伝承を聞かされて大きくなった子供達も、その伝えられた話を信じているし、そういう子供がインドにはたくさんいるんや。だから、物語の根幹に関わらない部分については、民間の伝承を尊重されるんや。こういう事は、ラーマヤーナにも出て来る。例えば、ラーマがラヴァナを征伐して凱旋して武将たちに褒美の品物を配っている時に、シータがハヌマンに、自分を救ってくれたお礼にと、自分がしている真珠の首飾りをプレゼントしたんや。するとハヌマンはその真珠を一つひとつ耳に当てて、ラーマというサウンドがするか確かめて、サウンドが聞こえなかったので、歯で噛んで割って中身を確かめているんや。ハヌマンにとっては真珠もダイアモンドもラーマのサウンドを発していないものは何も価値は無いんや。そこまでは、どのバージョンも一緒なんやけど、それを見ていた将軍がやっぱりこいつは猿や。真珠の価値を知らんから歯で割って壊してしてしまいよった。というのと、それをシータやラーマが言ったという三つのバージョンがあるんや。因みに、この後ハヌマンは自分の身体の毛を一本抜いて耳に当てるように言ったんや。するとその毛からは、コンスタントにラーマ、ラーマ、ラーマというサウンドが聞こえて来たんや。このようにいろんなバージョンがあるのは、物語に大きな影響を与えないマイナーな部分やから、インド各地に伝わっている民間の伝承を尊重されているんや。

ポニョ:でも、将来ゴールデンエイジになってババの講話を学校とかで教えるようになったり、大学で研究するようになったりすれば、ババは違うところで違うことを言ってるなんて重箱の隅を突つくような事を言い出す研究者もいるんやろな。

ヨシオ:もちろんや。実はババは、そこを狙っておられるんや。わざと矛盾するような事を講話で言っておいて、後世においてババを研究する事によって食っている研究者や学者、専門家はその頃はメジャーになっているであろうけど、そういう者たちの間で、争いの種、争論を起こさそうとされているんやろうな。

ポニョ:なんでそんな種をわざわざ蒔かれるんや。

ヨシオ:今の世界を見渡したら、一体どれくらいの人がババの教えを守って行きていると思う?ほんのほんの一握りやろ。しかも、今回ババはあの世で潜伏されて再び降臨される機会を伺っておられるけれど、ババの帰依者の間でも、そういう事を否定して信じていない人が大多数やんか。

ポニョ:でも、最近は少し増えて来ているぜよ。

ヨシオ:でもまだまだマイノリティやろ。将来、ババが再降臨された時、世界中がババ一色に塗りつぶされる。その時に、今までババを三流マジシャンだと言って馬鹿にして来た人も、インチキ手品師のアフログルと言って無視して来た人も、今、ババの再降臨を信じず鼻でせせら笑っている人も全て、涙を流しながら空に浮かんでおられるババの神々しい御姿を見るんや。そして、これからの何千年の間、その事が神話となるまで後世に伝えられて行くんや。

ポニョ:ゴールデンエイジが待ち遠しいな。でも、それとバージョンと何の関係があるんや。

ヨシオ:その、ゴールデンエイジがやって来ると、今までババを批判して来た人も、誰も彼もがババのことを学び始め、周りはババの専門家だらけになる。そして、霊的レベルの低い人もババの帰依者になり、ババの教えについて一言申す人がわんさか出て来るのは目に見えている。そして、大抵そういう人たちは、以前ババを批判していたように、ババの講話の中の矛盾点を重箱の隅を突つくみたいにして見つけ出して、将軍の首を取ったみたいに喜ぶんや。ババは、そういうレベルの人達のことを考えて、今わざと餌をばら撒いておられるんや。

ポニョ:それに、ババは講話の中や、グループ、個人に話される時に、その人の霊的レベルに応じて話されるので、同じトピックでも違うことを言ってられる時もあるしな。でも、えらい遠い将来の事まで考えて講話されているんやな。でも、本当にそうやろな。ババは一言も無駄な事を言われないから。将来、今ババをマジシャンやとかペテンやとか言って批判している人も全てババの帰依者になり、自分が昔言ったことを忘れて、ババの事を人一倍知っているような事を言い始めるんやろな。

ヨシオ:そのような人が例え亡くなっても、次に生まれ変わった時代はゴールデンエイジになっているけど、その人の前世からの傾向でゴールデンエイジになっても、ババの言われている矛盾点を見つけ出して、いろんなことを言うんやろな。だから、その時に人々に本物と偽物を見分ける機会を与えるために、ババはこういうことをされるんや。

ポニョ:前世からの傾向って結構その人の行為に影響するんやろな。

" 不浄の傾向は、低い欲望をかきたてるもの、例えば映画などを見たがったり、魚や肉などを食べたいと思ったり、人格を台無しにするアルコール類を飲みたいと思ったり、怒り、迷い、貪欲、自惚れ、欺瞞、憎悪、嫉妬などの念を生じさせます。
そのような不浄の傾向には、栄光、権力、個人的な栄耀栄華を手に入れようとする世俗に関する前世からの欲望傾向、世に名の聞こえた学者となり、同じ分野の競争相手を負かそうとする学問に関する前世からの傾向、美しい肉体、筋骨たくましく、なめらかな肌を愛し、それらが皺や筋肉の歪みで衰えるのを好まない身体に関する前世からの傾向の三つがあり、それらは、あなたを生々流転の浮世の車輪に縛り付けます。
そして、ハートに侵入して次々に悩みを作り出します。
それは、過去の経験を思い起こさせ、快楽を思い出させるので、人はまたそれを味わいたいとの欲望を持ち始めるのです。
心は執着という傾向を持つゆえに、物資と外界に引きつけられ物質のことを絶えず考えるようになり、物資の属性に囚われます。
すべてそれは、心に前世からの傾向があるからなのです。
心に前世からの傾向が無い人は、外界の事物によって影響を受けません。DVJp80~3"

ヨシオ:そして、一旦ゴールデンエイジになってプレマサイもサマディになった後、何千年も神の化身は地上に現れないんや。それくらいこの世は平和になっているんや。だからちょっとぐらい刺激がある方がええやろ。何れにしても、ババは全てを知っておられるし、わざと人々の間が混乱する様に種を蒔かれるんや。ババが何もされてもされなくてもそれは、愛で持ってやられているんや。全ては愛、愛、愛なんや。

ポニョ:この世は全て愛なんやな。本当はどこを見ても愛に見えるように自分を訓練しないといけないし、この世に起こる全ての事は、起こるべくして起こるんやな。

ヨシオ:カルマの法則や。二三日前に紹介した、闘牛士の心を動かした牛の話も、あの牛は多分前世では闘牛士やったと思うで。

ポニョ:そう言ったらそういう可能性はあるよな。だって、闘牛士って罪もない牛を、余興のために殺すというめちゃ大きなカルマを作る人たちやろ。だから次の生は牛に生まれ変わっても仕方が無いやんか。そして、牛に生まれ変わって闘牛士に殺される時に、その自分を殺そうとしている闘牛士に私を殺さないで下さい。あなたも私のように牛になって生まれ変わりますよ。動物を殺すのをやめましょう。と、その闘牛士に強いメッセージを想念の力として送っていたのが通じたんやろな。

ヨシオ:今日はポニョの変な一人芝居のおかげでスペースが無くなり、サイの学生さんの話が出来なかったやないの。

ポニョ:おいらよりあんたの方がたくさん話していたぜよ。

"神の信者になろうとしている者は、肉食、アルコール、喫煙をやめなければならない。SS12/1994p315
今日、どうして人口の増加が起こっているかといえば、それは人々の行為のせいである。
人々の小さな胃袋を満たす為に、神は世界に沢山の食料となる物を創造しました。
大量の米、大量の小麦、大量の果物のような良い食料を神が与えているのにもかかわらず、人々は肉や魚などを摂っています。
そしてそれらの人によって殺され食された魚(や動物たち)が,人として生まれ変わってくるのです。SSIB1977p182
人々の為に飲料水を提供する施設を創設し、同時に人々が動物を食料として殺しているのを止めさす、という二つのことが太古の栄光を取り戻す上で基本的に必要なことです。
どんな形にせよ、罪のない動物を殺すということは暴力であり、悪であり、野蛮な行為なのです。SS12/94p323
真の信者になろうと思うならば、肉食を完全に止めなければならない。
人は動物を殺しながら、どうして自らをサイやラーマやクリシュナの信者だと言えよう?
そのような人は悪魔である。
そのような人は、神の恩寵を決して受けることは出来ないであろう。
誰であろうと、その人がインド人だろうが外国人だろうが、サイババの命に従わなければなりません。
今すぐ肉食を止めなさい。SSN春95p33"


最後の言葉はありがとう❷

2015-04-10 00:00:25 | 日記
ポニョ:この世界で、おいら達が見たり聞いたりするもの全てのものは、実は元々おいら達の中にあるものが外の世界に投影されているだけやという話やねんけれど、まだちょっと分かりにくいぜよ。


どこにいても完全な調和をもって生きなさい。
決して憎しみに余地を与えてはなりません。
もし敵対する人に出くわしたら、愛をもって迎えなさい。
相手も反射的に愛をもって応じてくるでしょう。
なぜなら、全世界は、反動と、反映と、反響で満ちているからです。
あなたの心に不安があるとしたら、それは、外的要因によるものではなく、あなた自身の欠陥や欠点が、不安という形となって反映しているのです。1/3/03朝

ヨシオ:ババは不二一元のものの見方でお話をされるから、この「俺」と「俺以外のもの」という二元の世界に生きている俺たちにとっては、頭を調整しながら講話を聞かないとさっぱり理解出来ないんや。でも、一度そういう不二一元のものの捉え方に慣れてしまうと、逆にとてもシンプルで分かりやすく説明できるようになるんや。

ポニョ:そんなものかな?

もし神を見たいなら、自分は体ではないことを固く信じなくてはなりません。
自分を体と同一視することは、まさに幻想です。
学生たちはこのことを明瞭に理解しようと努めるべきです。
外側に見えるものはすべて単なる反映であり、実体ではありません。
皆さんはサイ ババを目の前に見ています。
皆さんはサイ ババを体と同一視しています。
けれども、私は体ではありません。私と皆さんは一つです。
一旦この真理をはっきりと理解すれば、どんな相違もなくなるでしょう。
もし誰かの頬を叩くなら、それは自分を叩いていることになります。
もし他人を罵倒するなら、それは自分を罵倒しているのです。
あなたは必ずや自分の行為の結果に直面することになります。
あなたの苦楽の原因はあなたです。
他人にはそれに対する責任はありません。
実際、他人などいないのです。すべての人は一つです。21/3/04

ヨシオ:ザックリ説明すると、ポニョは神さんやから実は全てのものを自分の内に持っているんや。その内に持っているものを外の世界に創り出したものが、俺たちが住んでいるこの二元世界なんや。その世界はポニョが自分自身を自分で見るために、自分を無数にし、全てに置き換えて創造したんや。ポニョが全てになったから、全ては愛で満ちているんや。だってポニョは自分の事を自分で愛しているやろ。

ポニョ:もちろんやぜよ。だから、神さんは愛そのものっていうわけか。

ヨシオ:ところがポニョが創造した世界にはいろんな人がいて、動物から生まれ変わったばかりの人はまだ動物的なエゴがいっぱいある獣性が残っているので、自分がポニョと同じなのにエゴが邪魔をして自分がポニョと認識出来ないんや。

ポニョ:エゴのために、おいらがおいらを自分と認識出来ないって悲劇やぜよ。

ヨシオ:そうやろ。だからババはいつもそういう俺たちに、いつも可哀想やなって慈悲の心を投げかけてくれるんや。それに困った事に、エゴの力が強いためにポニョが愛で創造した世界に生きているポニョは、全てが愛なのにおいらはこいつが好きだ。とかあいつは嫌いだとか言って自分の中で狭い世界を創り上げて行くんや。

ポニョ:おいらがただ、自分を自分で見るために、愛でもって創造した世界に住んでいるもう一人のポニョが、勝手にそういう世界を創り上げて行くんか?面白いぜよ。

ヨシオ:そうやろ。それが所謂霊界なんや。

ポニョ:ということは、一人ひとりの分だけ其々の霊界があるって事なんか?

ヨシオ:だから、霊界はこの物質的な世界より何億倍も大きいんや。

ポニョ:それって面白カルカルやぜよ。

ヨシオ:本当は全てが愛の世界なのに、その世界に生きているポニョは、自分の好き嫌いの思いを自分で創り上げた小さい世界に投影させ、それが、自分を取り巻いている世界って思っているんや。

ポニョ:ハハー。それってアホやぜよ。本当は愛だけで出来ている世界に住んでいるのに、自分で自分の世界を狭隘なものにしてるんや。アホなポニョやぜよ。

ヨシオ:それが今のポニョなんや。

外界はあなたの思考を反映します。
愛をもって世界を見るなら、世界は愛に満ちて見えるでしょう。
憎しみを持って世界を見るなら、すべてはあなたに敵対して見えるでしょう。
愛に満ちた目は、明るさと快活さで輝いています。
憎しみに満ちた目は、血走って恐ろしく見えます。
自分の思考が自分の善悪の行為を決定するのです。24/7/83


ポニョ:あのね。ということは、おいらはそのアホなポニョって言いたいのか?この愛で溢れた世界を自分のエゴのために、それを見ることが出来ない可哀想なポニョって、おいらの事なんか?

ヨシオ:その通りや。ポニョが見ているのは元々は愛で創造された世界。それをエゴがいっぱいのポニョの頭の中で創り上げている世界は、元々の世界とは似ても似つかぬ悪魔の様な裏社会の連中がゴロゴロいてる世界を創り上げているやろ。だからポニョがいる世界は、ポニョの想念の反響、反応、反映なんや。だから、俺は以前から口を酸っぱくして言っているけれど、ポニョの様に、この世界の全てが神と見れない、愛の世界として見れない人は、食べ物とかワクチンさえ気を付けていたら、あの裏社会の連中の事は無視した方がええと言っているんや。

皆さんは、良かれ悪しかれ、自らの感情の反映、反応、反響という体験に束縛されているのです。あなたが他者の中に悪いものを見たとすれば、それは自分の悪い感情の反映に過ぎないのです。自分自身の過ちを無視して他者を非難することは誤りです。
まず最初に、あなたの感情を清めなさい。
あなたが邪悪だと見なしている人々さえも愛しなさい。
実際、この世に邪悪な人間などいないのです。9/10/02

ポニョ:おいらはちょっと深入りしすぎたかな。


皆さんはそのように神聖で慈悲深いハートをもっています。
それなのになぜ、悲しみにおぼれているのですか? 
一切の悲しみは、あなたの内面 の感情の反射であり、反作用であり、反響なのです。
皆さんは朝早くに新聞に目を通 します。
紙面のどこを見ても、誰かが誰かを殺したとか、憎しみや、嫉妬や、怒りなど、不穏な記事ばかりです。
こうしたニュースのすべてが、あなたを非常に悲しい汚れたムードにしてしまいます。
夜ぐっすり眠ったあとでベッドから起き上がったとき、心は穏やかな状態でなければなりません。そうして初めて、あなたの生活に悲しみが入り込む余地はなくなります。
早朝からすぐに平安で幸せな生活を送らなければなりません。
あなたは不幸や苦境に陥っているかもしれません。
しかし、それらは来ては去り行く雲にすぎません。
実にあなたはそうしたものに悩まされるべきではありません。
そうしたものをハートに引き入れて、それに固執しているときにのみ、あなたは苦しむのです。
それらを無視してしまえば悩まされることはなくなります。 1/3/03朝

ヨシオ:俺も昔、ポニョの様に、この世界の様々な悲劇的な戦争や事件などを見聞きして、憤慨していた時期もあったけれど、ババの事を知ってその教えに触れてから、全てはババにお任せしましょうという気になって、とても平安な気持ちになった。もちろん、この世界で抑圧、弾圧されている人々や、人に食されるために殺されて行く動物達のことを思うと心が乱される。でも、ババはそういう悲劇的な事を全てお許しになられて、次の一手を打たれる準備をされているんや。要は忍耐や。ババがこれだけ世界中でダルマが蹂躙(じゅうりん)されているのをジッと我慢されて見ておられるんや。このままでは絶対済まん。人類全体にいつか大きなしっぺ返しが来るんやろうけれど、ババは、全てを愛で持って見守っておられる。俺たちも神様の様な大きな愛の心を持ってこの世界を見守って行けば、心を掻きむしられる様な、いろんな凶悪な事件に接しても平安な気持ちでいられるんや。

ポニョ:おいらが見聞きする全ての物事は、おいらの反響、反応、反映か。神様の様な大きな心で愛の心で世界を見れば、全てが愛として見れるか…。難しいぜよ。少し分かった様な気はするけれど。

ヨシオ:ババは世界で引き起こされる残虐な事件でさえも、全て裏に理由があると言われた事がある。原爆投下を正当化してるなんて言われるかもしれないけれど、敢えて誤解を生むことを恐れずに言うと、あの日本に落とされた二つの原爆でさえ、ババはそれによって日本はカルマを支払ったと言われたことがある。俺たちは、その原爆によってたくさんの罪のない人が亡くなったやないか、と思うけれど、神さんの目から見れば、その場所に、その時間に、その人がいたという偶然なんて無いんや。その原爆で亡くなった方達は、生まれる前から死ぬ時は、そこでその時間に原爆によって身体を離れるって知っていて、この世に生まれ変わってきている人達なんや。この世界には何の偶然も無いんや。霊的な事を少しかじれば誰でもその事が分かるんや。

ポニョ:以前、そういう事を記事にしたよな。硫黄島でたくさん兵士たちが亡くなったちょうど同じ日に、ババは長い間身体から離れて戻って来られなかったって。多分、霊界でたくさんの兵士達の霊を慰められていたんやろうって話やったよな。

http://blog.goo.ne.jp/saiponics/e/dc2a7b134dfe19e5f48e1f809627a728
ヨシオ:俺は昔、神様に意識を集中していた時に、自分の意識がとても深く深く神様の方に向かって行った事があったんや。そして、俺の過去の人生の一コマ一コマが走馬灯のようにクルクルと目の前に展開し始めたんや。そしてその時、俺の人生におけるいろんな出来事は、全て神様が俺のためにと思って俺に体験させているって分かったんや。それは、もちろん楽しいことや嬉しいこと、悲しいことや苦しいこと、それだけではなくて、人に嫌味を言われたり、辱めを受けた事でさえ、俺のエゴを減らすためや、俺のプライドを低くするために神様が、俺の人生に関わっていた全ての人の姿を取って、俺の為にされていたんやという事が分かったんや。俺が体験した全ての事は、神様の愛、愛、愛で包まれていたんや。俺の周りは実は全て愛だけだったんや。それに俺が気づかなかっただけで、愛の神様が、俺がエゴや世俗的な欲望を無くして神様の元に帰って行けるように、様々な試練や体験をさせてくれていたって事に気付いたんや。俺が夜、外に出て夜空を見上げた時に見える、優しい光を発しながらまたたいている満天の星々。そして、頬を撫でる心地よい風。そしてその風に乗って匂ってくるユーカリの木の香ばしい香り。気持ちを鎮める虫たちの鳴き声。それら一つ一つが実は、神様が俺のために事前に仕組んでくれていた恩寵だって分かったんや。俺は、それを悟った時に神様に対してありがとうございました。という言葉しか口から出て来なかったんや。その時に、俺は、人の魂が神様に融合すれば、もう言葉さえ発することが出来ないって聞いていたけれど、もし、解脱する前に一言、最後に言葉を発することが出来るんであれば、その時の俺のこの世での最後の言葉は、神様、ありがとうございました。という言葉やなって思ったな。人は生きている間にいろんな経験をするけれど、どんな嫌な体験や苦しい経験をしても、「神様、この様な苦しみや困難を戴いてありがとう御座います。」という言葉だけを唇から発して生きていかなければいけないんや。神様はいつも、エゴを持っている俺たちには100%理解出来ないけれど、神様が考える最善の方法で、俺たちが神様の方に歩んで行くように導いておられるんや。それは時には近視眼的にしか人生を見れない俺たちにとっては不都合で、苦難に満ちたもののように見えるけれど、本当は、それらは神様からの俺たちへの最善の贈り物なんや。それなのに、俺たちは人生においてそういう苦難や困難に出会うと、神様に対して信仰心を失い、神を罵り始めるんや。神様は俺たちを無条件に愛しておられるんや。それも、この世で俺たちを愛してくれている嫁さんやお袋の愛より何千倍も強い愛なんや。だって、さっきも言ったけれど、実は全ては神さんなんやから。

何を見ようと、誰に出くわそうと、すべての姿を神の顕現に他ならないものと見なしなさい。「私」と「あなた」という相違に付け入る隙を与えてはなりません。
神の創造物の中に何を見ようとも、すべては反動、反映、反響です。
皆さんは鏡をのぞき込み、自分は鏡の中にいると言います。
実際は、あなたは鏡の中にはいません。
鏡の中に見えるのはあなたの反映にすぎません。
山の向こうに行って「おーい!」と叫べば、すぐさま同じ大声で誰かが叫び返してくることに気づくでしょう。
実のところ、その声は他の誰のものでもなく、あなたの声にすぎません。
このように、今日、人は誤った印象に耽っています。
外で見るものは何であれ、自分の内なる存在の反映にすぎません。
皆さんは一体性を多様性と見なして過ちを犯しています。
不幸なことに、今、人々は自分自身の本性を理解することができずにいます。21/3/04

最後の言葉はありがとう❶

2015-04-09 00:00:59 | 日記
ポニョ:ババの教えの中で少し分かり辛いのが、自分が見たり聞いたりしたものは全て、本来自分が持っているものの反映、反動、反響だっていうところや。実際は誰も自分を傷つけていないとか、他人なんていないとか、さっぱり分からんぜよ。

外側の世界で見る顔はどれも、実際のところ、あなたの中に既にあるものの投影にすぎません。ですから、万物はあなたの中にあるものの反映であり、反動であり、反響です。
誰かがあなたを批判していると、あなたは悲しくなります。
誰もあなたを批判していません。
あなたがあなたを批判しているのです。
他人が自分を傷つけていると、あなたは考えますが、実際には他人など存在しないのです。27-7-02

ヨシオ:普段の日常生活を送っている中で、今のババの御言葉を周りの人に言えば精神病院へ連れて行かれるやろな。病院の先生が、「君、もしもし、私の顔を見てください。君にとって私は他人ですか?それとも君自身ですか?」と聞かれたら「君は私です。他人ではありません。」なんて言えば、間違いなく錠前の付いた大きなスチール製の扉の向こうにある病棟に押し込まれるやろな。

ポニョ:それって困るやないの。学校でディベートをしている時も、「ポニョ君、君の主張は完全に間違っている。全然主題からかけ離れているではないか!」なんて言われた時も「今のあなたの私への批判は、実は私自身が私を批判しているのでそれは批判に当たりません。もっと賢くなりましょう。」なんて答えれば教室から摘み出されるぜよ。また、「おい、ポニョ見てみろ。あの女子新入社員。めちゃ可愛いやないか。今度飲みに連れてこか?」と同僚が言えば「あの子は既においらの心の中にいるんやぜよ。君はその事にまだ気付いていなかったんか?残念でした。少し遅かったですね。ノロマさん。」なんて言えば会社で四面楚歌になってしまうぜよ。

ヨシオ:首やろな。嫁はんがおるのに手が早すぎるって。これらの事は、もちろんポニョも気づいているんやろうけれど、ババが述べておられるのは不二一元の教えなんや。究極の哲学なんや。だから誰でも直ぐに理解出来るものでは無いんや。だから「ああそうですか。ポニョさんが言われたことはもっともです。あなたの言われたことは良くわかります。私がバカでした。ごめんなさい。」何て誰も絶対に言わないんや。

ポニョ:本当に不二一元の教えって、自分と何かというこの二元の世界に住んでいるおいら達には、とても理解し難い教えやぜよ。

ヨシオ:そうやな。俺もお袋の介護を十年以上もして来たけれど、そのおかげでこの教えが頭ではなく、体で少し理解出来たと言うか、実感出来たような気になったな。

ポニョ:不二一元の教えを実感出来たってどういうことやねん。

ヨシオ:俺は前からポニョに、全ての人や生きとし生けるものの中に神様を見ることは大切やって言ってたやろ。そういうふうに思うようになったんは、お袋が俺の事も誰かわからん様になり、自分のことが何一つ出来なくなるぐらい認知症が進んで来た時でさえ、お袋の中にいるババが俺に的確なアドバイスをしてくれることに気付いたんや。例えば、下の息子を日本のバスケットボール重点校に入れる相談を、嫁さんと居間でした後にお袋の部屋に行くと、突然真顔になって、「私の可愛い孫をそんなところに連れて行ってはいけない。ここで十分やないか。」と言われたんや。俺はそれを聞いて驚いたな。だってお袋の部屋は少し離れたところにあって居間での会話なんて聞こえないし、その当時のお袋には理解出来る話じゃなかったんや。それにお袋が言った事は当たっていて、その当時、下の息子はこちらのバスケットボール重点校に奨学生として入学することに決まっていたんや。また、冬に少し熱めのお湯に浸かってもらっていた時に、のぼせてしまったことがあったんやけれど、その時、真っ赤な顔をしながら、俺の頬を平手で張ったんや。そして俺に、「この肉体をこんなふうに扱えば、この肉体の寿命が来る前に魂が離れてしまうではないか!」と言って大声で叱られた事がある。その時、俺が自分の目で見ているお袋は、実はイリュージョンではないだろうか。この俺の目の前に横たわっている肉体は、実は俺の心の中におられるババ御自身と同じで、その同じババが、このお袋の肉体をとって俺に介護をする機会を与えて下さっているんだということが実感出来たんや。

皆さんが自分は人間だと思い、「私」という感情〔自我意識〕を持っている間は、他人に奉仕をすべきです。
それからゆっくりと、自分が奉仕している相手は自分の反映であり、反動であり、反響である、ということに気が付いてきます。
神は一つであり、目的地は一つですが、それは社会の中で多となって現れています。
皆さんは社会の中に一体性を見るべきです。
なぜなら、一体性は神性だからです。
そうして初めて、皆さんの霊性修行は功を奏します。27-7-02

ポニョ:そんな体験をすればそんな風に思ってしまうんやろな。

ヨシオ:俺は、この俺の身体とお袋の身体は、肉体のレベルで見ると確かに違う形をしているし、別々に存在している。でも、今俺はお袋という肉体の中にいるババを見ている。そのババは俺の中にもいるし、全ての人の中、全ての生き物の中にいる。その上辺の肉体を取ってしまえばババしか残らない。とすると、お袋って誰やねんって考えると、俺がお袋って思い込んでいるのがお袋ということになるやろ。つまり、俺の中で作り上げたお袋のイメージが今、俺の目の前にいるお袋なんや。でも、本当は全ては神さんなんや。

ポニョ:なんか耳から煙が出て来たぜよ。つまり手っ取り早く言うと、あんたはある日お袋さんに叱られたんやけれど、実はババに叱られたという風に感じたんやろ。だから、それをきっかけに全ての人や生き物の中に実はババがおられるんやと実感したんやろ。ということは、おいら達が見ている肉体や体は幻の様なもので、そこから導き出される結論は、実は全ては神で、おいら達が見ているものは、自分の中に持っているそれらのイメージを、外の世界に投影して見ているって事なんやということを言いたいんやろ。

ヨシオ:そういうことや。ポニョは俺より上手く説明したやないか。

何かドレスを着て鏡の前に立てば、鏡には同じドレスが映って見えます。
自分の内にどんな良い思いや感情、あるいは、悪い思いや感情があったとしても、それと同じものが外界に映し出されます。
すべては反応であり、反映であり、反響です。
自分の生活の過ごし方が、そのまま自分に戻ってくるのです。
何であれ私たちが見るものは自分自身の反映です。
誰を見たとしてそれは実際には自分の姿です。
自分が患う病気ですら自分の行為の結果(反映)によるものなのです。 1/1/08

ポニョ:おいらの場合は長い間ババの本やらを読んで来ているから、頭では理解出来るけれどなかなか実感までは行かないぜよ。

ヨシオ:ババが言われたように、自分がまだ自分と思っている間はこういう事を実感する事はとても難しいんや。だから、もっともっと全ての人や生き物の中におられる神さんを見て、その神さんに奉仕するようにすれば、「私が」とか「私のもの」というエゴが少なくなっていって、全てのものの中におられる神さんを見ることが出来るようになるんや。

ポニョ:ということは、そういう風に出来るかどうかは、その人の心がエゴや欲望でどれぐらい汚れているかによって違って来るってわけか。おいらはまだ、食欲によって惑わされているから、まだまだ難しいやろな。

平安の境地にある人の性質は、おのずから、波一つない鏡のごとき湖面 のようになります。
貯水槽に水が入っていれば、風の動きによつて、水面にはさざ波が立っているのが見えるでしよう。
水の表面が振動していれば、水に映ったあなたの姿も揺れているはずです。
泥が多く、濁った水に映ったあなたの姿は、はっきりせず、ぼんやりしたものになることでしょう。
透明で波のない水の場合は、そこに映ったあなたの姿は、動くこともなく、はっきりと見えます。
同様に、根本的な真理、すなわちアートマ(真我)の実質は、宇宙万物に遍在しており、唯一にして変わることがありません。
 ところが、それが反映された姿は、それを反映する媒体の純枠度と特質によって、アートマが反映される度合いが異なります。
 ~ですから、反映された姿は異なっているように見えても、それらはすべて同じ神聖な原理に由来しているものであるために、基本的には同じものであるということを認織しなければなりません。
このように、神と人間と宇宙は、本質的には同じものなのです。KSH