ポニョ:この前、ブリンダヴァンで行われたヤグナに行って来たけれど、とても面白かったぜよ。最初、ヴァーダを唱念する時にたくさんの僧達が一度に唱え始めるので、音がバラバラなんや。でも、しばらくすると一番大きな声で唱念している僧の音にみんなが合わして行くようになって行くんや。
ヨシオ:最初に、この音で始めますよと言って、音叉とか何かで音合わせをしてから始めればええやないか。
ポニョ:おいらもそう思ったぜよ。面白かったのは、やっと、バラバラな音が揃い不協和音が無くなったって思っていたら、違う章に入った途端に、別の僧がまたもっと大きな声を出して違う音で始めるんや。それでみんなはまた、その僧の音に合わせて唱え始めないといけないんや。だからルッドラム一つ唱えるのに、いろいろ途中で音階が変わるんでめちゃ面白いぜよ。
ヨシオ:最初は不協和音やけれど、途中で自然に調和されて一つになって行くんやな。ええやないの、それって。でも、ババはヴェーダを唱える音は、その寺院に据え付けてある鐘の音に合わさなければならないって言っておられた講話を読んだ事があるな。
ポニョ:でも、寺院でないところやったら鐘が無いから難しいぜよ。
ヨシオ:そうやろな。でも、ポニョが事前にこの音で始めてくださいと言って、音叉か何かで音を取って皆に示せばええやろ。
ポニョ:おいらの問題じゃないぜよ。でも、おいらの育った家は血液型がO型ばかりで、何か家族で相談事やら揉め事があると、最後にはいつも必ず一番大きな声の人が勝つんや。それぞれの僧達が大きな声で、違う音階で最初唱念を始めた時、おいらは昔、自分の家族の中で言い争いしたことを思い出したぜよ。だから一番大きな声の人がヴェーダの唱念をリードされた時、それを思い出してお腹を抱えて笑ってしまったぜよ。
ヨシオ:ヤグナでそんなに笑っている人ってポニョだけやろ。それにインド人はO型が多いからな。ポニョの家族のような人がたくさん住んでいるんやろな。
ポニョ:おいらもそう思ったぜよ。だからおいらにとって居心地がええんやろな。もうしっかりとインドにはまってしまったぜよ。
ヨシオ:それより、もうすぐしたらババの四周忌やな。俺は遅くとも四周忌までにババが再降臨されるやろなと思っていたけれど、まだもうちょっと先のような感じやな。
ポニョ:四回忌か。来週に迫ったな。ババの再降臨が遅くなるほど、再降臨されてからのババの地球での滞在期間が短くなるから、早く出てきて欲しいよな。だって、2022年やったっけ。ババの96歳の降誕祭は。その年がババがこの地球に滞在される最後の年になるもんな。
ヨシオ:そうやな。インドでは数え年でとしを数えるからな。再降臨が早ければ早いほど、この世に長く滞在されることになるから、一日でも早く来て欲しいよな。
ポニョ:とは言っても、人々が心の底から神様を求める様にならないと、戻って来られないぜよ。何か世界にドンと人々が頭を打つような事が起こらないと無理やぜよ。誰もこの世界に、星やんのように神様を求めて泣く様な人はいないもんな。
ヨシオ:星やんは、神の恩寵を得るには、神様を求めて泣かないといけないんや。小さい赤子のように母親を探し求めて泣けるようにならないといけないんや。といつも言ってたな。
ポニョ:ババが四年前に肉体を脱ぎさられた時、おいらは、ババ特有の神様のお遊びが始まったと思って笑ってしまったけれど、でも肉体のババを暫く見れないと思うと、寂しくなって泣いてしまったぜよ。
ヨシオ:それとこれとちょっと話が違うやろ。星やんは、真の帰依者は神様をいつも心の中に持っていて、その神様の声を自身の良心の囁きとして聞ける人、いつも落ち着いていて、この世は幻と知っているので何があっても動揺せず、涙一つ流さない人って言うけれど、でもそうじゃないんや。本当は、例えそのように良心の囁きを常に聞ける人であっても、いつも心の中の神様と交流出来る聖者のような人であっても、神様を求めて泣ける人でなければならないんや。と言っていたな。
ポニョ:例え、そのような自らの心の内におられる神様の声を聞くことが出来、神様と交流出来る人であっても、その交流は常に永遠に続くわけでは無いもんな。一時的なもんやぜよ。
ヨシオ:それに、そういう神と交流出来た人っていうのは、神の甘露を味わった人で、一度その神の甘さを味わえば、世俗の楽しみなどは全て二義的なものに思えてくるんや。だから、常にその神の甘露を味わいたいという欲求が出て来るんや。でもそれが出来ないので、星やんの様に神を求めて人一倍泣いてしまうんや。
ポニョ:つまり、こういうことやな。神様と心の交流が出来る人は、別に神様を求めて赤子のようにビービーと泣かなくなるんじゃなくて、逆に神様の甘露の甘さを知っている分、それを知らない人より泣いてしまうっていうことなんやな。
ヨシオ:そういうことや。だから、星やんの持っているババの写真から金色のヴィブティが吹き出た時に、ババはゴールドの帰依心を持っている帰依者には、ゴールドのヴィブティが出るって言われたんや。
ポニョ:つまり、神さんから見たら、常に神さんを求めて心から泣ける帰依者が一番の帰依者ってわけやな。確かに、星やんの帰依心は尋常なものではなかったよな。おいらの知っている限り、そんな帰依の心を持っている人って誰も周りにいないな。本当に最高の帰依者やったな。だから、ババに呼ばれて早死にしたんや。
ヨシオ:あいつがまだ生きていたら、あいつのホンマもんの帰依心から、たくさんの人々が学ぶことが出来たのにな。
ポニョ:ババは、人が死んでも、次の生にそれまで培った帰依心を持って行くことができるって言っておられたけれど、本当に前世から持って来たものって大きいよな。
ヨシオ:人は、帰依心を培うのには、神様からの恩寵をたくさんもらえば培える。星やんの様にたくさんインタビューをもらったり、ババからいろんな物をプレゼントされたりすれば、ああいう帰依心を持てるなんて言っているけれど、実際は、帰依心があるからあの様な恩寵を得ることが出来るんや。帰依心が最初で、恩寵が次にやって来るんや。逆じゃない。
ポニョ:でも、どうやって帰依の心を培うことが出来るんやろうか?
ヨシオ:もちろん、自分が思っている事と、言っている事、そしてやっている事が一つにならないといけないっていうのが基本やけれど、俺がこのブログでいつも言っている様に、全ての人や生きとし生けるものの中に神様を見るってとても大切なんや。そうすれば自分が接する全ての人や生き物に親切に対応出来るし、愛を持って人生を生きて行くことができる。誰に対しても嘘をつかなくなるし、傷つけることもなくなる。このように、全てのものの中に神様を見て人生を歩んで行けば、否応なく神様への帰依心が湧いてくるんや。
帰依の道から学ぶことで何よりも大切なのは、神を愛するだけで無く、生きとし生けるものすべてを愛すること、どの人も神様だと信じて接することです。
神をあがめながら人を傷つけているようでは、神を信じる心を持っているとはいえません。SGc3
ポニョ:そら、神に帰依しますと言っておいて、周りの人を傷つけていたらホンマの神の帰依者ではないよな。
ヨシオ:だから、最初は全ての中に愛そのものである神を見て、自分の中に埋れてしまっている愛を出来るだけ毎日の生活の中で顕現さすんや。
ポニョ:顕現さすって、つまりわかりやすく言えば、毎日の生活を愛で送りましょうってことやな。そうすれば帰依の心も湧いてくるってことなんや。そう言えば、星やんは愛がいっぱいで優しかったな。他人の心の中のほんの少しのエゴや嫌悪、嫉妬の心が見えたり感じただけで、めちゃ落ち込んでいたな。僕はこの世に生まれて一番辛いことは、エゴや欲望を持っている人と一緒に仕事をしたりすることです。って言ってたな。
ヨシオ:めちゃ繊細な奴やったな。そういう人の悪い心が読めて、自分が傷つくってところは、ババにとても似てるよな。星やんのように愛がいっぱいで、全てに愛を捧げれる様な霊的な段階まで行ったら、ほとんど神の化身と変わらんな。
思いのすべてに愛を込めてください。
そうすれば自然に心に真理が現れます。
すべての行為に愛を込めてください。
そうすればどんな行為にも自然に正義が現れます。
気持ちのすべてに愛を込めてください。
そうなれば、限りない平安を味わえます。
理解のすべてに愛を込めてください。
そうすれば誰をもにくむことも無く傷つけることも無いでしょう。
愛は心の平安を支えています。
愛は真理の生まれるところです。
愛は正義と非暴力のよりどころです。
だからババはいつも「愛は神であり、神は愛だ」と。
帰依の道の教えで何より大切なのは愛を育み実践することです。
愛を実践すれば広く大きな心を持つことになるでしょう。
そうやって内にある偉大なものを磨いていくのです。SGc8
ポニョ:あいつは毎日、おいら達と一緒に行動していたけれど、いつも口を開けば神様の話やもんな。それで、話が途切れると、いつも持ち歩いているカバンからタンバリンを出して来てバジャンを歌うんや。
ヨシオ:俺は、第一回サイババ全国大会が神戸で催された時に日本に戻ったんが日本に行った最後の旅やったけれど、その時に、星やんと比良山や琵琶湖や宇治の方を俺の友人を訪ねて一緒に車で行ったことがあるんや。最後は宇治の黄檗山で精進料理を食べたな。そう言えば、あいつ車に乗っている間中バジャンを歌っていたな。バジャンが終われば大きな法螺貝をカバンから出して来て、アラチをしながら耳のそばで吹きまくるんや。うるさいのなんのって、鼓膜が破れそうやったな。
ポニョ:星やんのカバンの中には、例の金のヴィブティが吹き出しているババの写真もあったな。その写真を祭壇に置き、バジャンをすると、写真がみるみるヴィブティで覆われるんや。しかもガラスと写真の間にヴィブティが出て来るから、ヴィブティの勢いに押されてガラスが割れたこともあったぜよ。
ヨシオ:そんな事もあったな。星やんがオーストラリアに来た時も、一日中一緒に行動したけれど、俺の人生でこれほど深く魂の交流が出来た人間はいなかったな。二人で一日中一緒に居ててもとても、快適で心が休まるんや。俺は、別に話すことなんて何もないけれど、あいつはサービス精神が旺盛やから、一人でいろいろと話してくれるんや。早死して惜しい事をしたな。
ポニョ:おいらは、葬式へ行ったぜよ。たくさん古い帰依者が来てたな。心の深いところで交流出来た良い友達やったんやけれどな。
ヨシオ:ババへ帰依する心がお互い深ければ深いほど、心の奥深くまで他の人と交流することが出来るんや。だって、俺たちは、その人は本当は他人ではなく、自分自身やってことがお互い知っているんや。
ポニョ:それって、本当に深いところで交わっていなければ経験出来ないし、言えない言葉やぜよ。そういう英知は、帰依の心が成熟しないと出て来ないんやろな。
ヨシオ:帰依心は霊的な段階で言えば、最初の段階なんや。その次が英知で、最後に全てが神だと分かって、自分の体も含めて、この世の何事にも執着しなくなる段階に入るんや。
帰依と、英知と、無執着は、霊的進歩を表す三つの段階です。
帰依とは、小学生の段階で、人を高校生の段階である神聖な英知へと導きます。
英知によってすべてのものがブラフマン、神と認識できるようになり、無執着の態度が確立されるのです。
それはアートマの教育においては、大学の段階といえるでしょう。サイラムニュースNo,99/2004
身体に対する執着を取り除きなさい。
聖典は、人とは神に帰依する者とあります。
帰依するとは何を意味するのでしょうか?
自分は身体であるという感覚から脱し、神を思うことです。
帰依するというのは、あなたの価値のない肉体や永遠のものでない財産を神に捧げることではないのです。
そのようなものを捧げても何の意味もないのです。SS4月96p96
ヨシオ:最初に、この音で始めますよと言って、音叉とか何かで音合わせをしてから始めればええやないか。
ポニョ:おいらもそう思ったぜよ。面白かったのは、やっと、バラバラな音が揃い不協和音が無くなったって思っていたら、違う章に入った途端に、別の僧がまたもっと大きな声を出して違う音で始めるんや。それでみんなはまた、その僧の音に合わせて唱え始めないといけないんや。だからルッドラム一つ唱えるのに、いろいろ途中で音階が変わるんでめちゃ面白いぜよ。
ヨシオ:最初は不協和音やけれど、途中で自然に調和されて一つになって行くんやな。ええやないの、それって。でも、ババはヴェーダを唱える音は、その寺院に据え付けてある鐘の音に合わさなければならないって言っておられた講話を読んだ事があるな。
ポニョ:でも、寺院でないところやったら鐘が無いから難しいぜよ。
ヨシオ:そうやろな。でも、ポニョが事前にこの音で始めてくださいと言って、音叉か何かで音を取って皆に示せばええやろ。
ポニョ:おいらの問題じゃないぜよ。でも、おいらの育った家は血液型がO型ばかりで、何か家族で相談事やら揉め事があると、最後にはいつも必ず一番大きな声の人が勝つんや。それぞれの僧達が大きな声で、違う音階で最初唱念を始めた時、おいらは昔、自分の家族の中で言い争いしたことを思い出したぜよ。だから一番大きな声の人がヴェーダの唱念をリードされた時、それを思い出してお腹を抱えて笑ってしまったぜよ。
ヨシオ:ヤグナでそんなに笑っている人ってポニョだけやろ。それにインド人はO型が多いからな。ポニョの家族のような人がたくさん住んでいるんやろな。
ポニョ:おいらもそう思ったぜよ。だからおいらにとって居心地がええんやろな。もうしっかりとインドにはまってしまったぜよ。
ヨシオ:それより、もうすぐしたらババの四周忌やな。俺は遅くとも四周忌までにババが再降臨されるやろなと思っていたけれど、まだもうちょっと先のような感じやな。
ポニョ:四回忌か。来週に迫ったな。ババの再降臨が遅くなるほど、再降臨されてからのババの地球での滞在期間が短くなるから、早く出てきて欲しいよな。だって、2022年やったっけ。ババの96歳の降誕祭は。その年がババがこの地球に滞在される最後の年になるもんな。
ヨシオ:そうやな。インドでは数え年でとしを数えるからな。再降臨が早ければ早いほど、この世に長く滞在されることになるから、一日でも早く来て欲しいよな。
ポニョ:とは言っても、人々が心の底から神様を求める様にならないと、戻って来られないぜよ。何か世界にドンと人々が頭を打つような事が起こらないと無理やぜよ。誰もこの世界に、星やんのように神様を求めて泣く様な人はいないもんな。
ヨシオ:星やんは、神の恩寵を得るには、神様を求めて泣かないといけないんや。小さい赤子のように母親を探し求めて泣けるようにならないといけないんや。といつも言ってたな。
ポニョ:ババが四年前に肉体を脱ぎさられた時、おいらは、ババ特有の神様のお遊びが始まったと思って笑ってしまったけれど、でも肉体のババを暫く見れないと思うと、寂しくなって泣いてしまったぜよ。
ヨシオ:それとこれとちょっと話が違うやろ。星やんは、真の帰依者は神様をいつも心の中に持っていて、その神様の声を自身の良心の囁きとして聞ける人、いつも落ち着いていて、この世は幻と知っているので何があっても動揺せず、涙一つ流さない人って言うけれど、でもそうじゃないんや。本当は、例えそのように良心の囁きを常に聞ける人であっても、いつも心の中の神様と交流出来る聖者のような人であっても、神様を求めて泣ける人でなければならないんや。と言っていたな。
ポニョ:例え、そのような自らの心の内におられる神様の声を聞くことが出来、神様と交流出来る人であっても、その交流は常に永遠に続くわけでは無いもんな。一時的なもんやぜよ。
ヨシオ:それに、そういう神と交流出来た人っていうのは、神の甘露を味わった人で、一度その神の甘さを味わえば、世俗の楽しみなどは全て二義的なものに思えてくるんや。だから、常にその神の甘露を味わいたいという欲求が出て来るんや。でもそれが出来ないので、星やんの様に神を求めて人一倍泣いてしまうんや。
ポニョ:つまり、こういうことやな。神様と心の交流が出来る人は、別に神様を求めて赤子のようにビービーと泣かなくなるんじゃなくて、逆に神様の甘露の甘さを知っている分、それを知らない人より泣いてしまうっていうことなんやな。
ヨシオ:そういうことや。だから、星やんの持っているババの写真から金色のヴィブティが吹き出た時に、ババはゴールドの帰依心を持っている帰依者には、ゴールドのヴィブティが出るって言われたんや。
ポニョ:つまり、神さんから見たら、常に神さんを求めて心から泣ける帰依者が一番の帰依者ってわけやな。確かに、星やんの帰依心は尋常なものではなかったよな。おいらの知っている限り、そんな帰依の心を持っている人って誰も周りにいないな。本当に最高の帰依者やったな。だから、ババに呼ばれて早死にしたんや。
ヨシオ:あいつがまだ生きていたら、あいつのホンマもんの帰依心から、たくさんの人々が学ぶことが出来たのにな。
ポニョ:ババは、人が死んでも、次の生にそれまで培った帰依心を持って行くことができるって言っておられたけれど、本当に前世から持って来たものって大きいよな。
ヨシオ:人は、帰依心を培うのには、神様からの恩寵をたくさんもらえば培える。星やんの様にたくさんインタビューをもらったり、ババからいろんな物をプレゼントされたりすれば、ああいう帰依心を持てるなんて言っているけれど、実際は、帰依心があるからあの様な恩寵を得ることが出来るんや。帰依心が最初で、恩寵が次にやって来るんや。逆じゃない。
ポニョ:でも、どうやって帰依の心を培うことが出来るんやろうか?
ヨシオ:もちろん、自分が思っている事と、言っている事、そしてやっている事が一つにならないといけないっていうのが基本やけれど、俺がこのブログでいつも言っている様に、全ての人や生きとし生けるものの中に神様を見るってとても大切なんや。そうすれば自分が接する全ての人や生き物に親切に対応出来るし、愛を持って人生を生きて行くことができる。誰に対しても嘘をつかなくなるし、傷つけることもなくなる。このように、全てのものの中に神様を見て人生を歩んで行けば、否応なく神様への帰依心が湧いてくるんや。
帰依の道から学ぶことで何よりも大切なのは、神を愛するだけで無く、生きとし生けるものすべてを愛すること、どの人も神様だと信じて接することです。
神をあがめながら人を傷つけているようでは、神を信じる心を持っているとはいえません。SGc3
ポニョ:そら、神に帰依しますと言っておいて、周りの人を傷つけていたらホンマの神の帰依者ではないよな。
ヨシオ:だから、最初は全ての中に愛そのものである神を見て、自分の中に埋れてしまっている愛を出来るだけ毎日の生活の中で顕現さすんや。
ポニョ:顕現さすって、つまりわかりやすく言えば、毎日の生活を愛で送りましょうってことやな。そうすれば帰依の心も湧いてくるってことなんや。そう言えば、星やんは愛がいっぱいで優しかったな。他人の心の中のほんの少しのエゴや嫌悪、嫉妬の心が見えたり感じただけで、めちゃ落ち込んでいたな。僕はこの世に生まれて一番辛いことは、エゴや欲望を持っている人と一緒に仕事をしたりすることです。って言ってたな。
ヨシオ:めちゃ繊細な奴やったな。そういう人の悪い心が読めて、自分が傷つくってところは、ババにとても似てるよな。星やんのように愛がいっぱいで、全てに愛を捧げれる様な霊的な段階まで行ったら、ほとんど神の化身と変わらんな。
思いのすべてに愛を込めてください。
そうすれば自然に心に真理が現れます。
すべての行為に愛を込めてください。
そうすればどんな行為にも自然に正義が現れます。
気持ちのすべてに愛を込めてください。
そうなれば、限りない平安を味わえます。
理解のすべてに愛を込めてください。
そうすれば誰をもにくむことも無く傷つけることも無いでしょう。
愛は心の平安を支えています。
愛は真理の生まれるところです。
愛は正義と非暴力のよりどころです。
だからババはいつも「愛は神であり、神は愛だ」と。
帰依の道の教えで何より大切なのは愛を育み実践することです。
愛を実践すれば広く大きな心を持つことになるでしょう。
そうやって内にある偉大なものを磨いていくのです。SGc8
ポニョ:あいつは毎日、おいら達と一緒に行動していたけれど、いつも口を開けば神様の話やもんな。それで、話が途切れると、いつも持ち歩いているカバンからタンバリンを出して来てバジャンを歌うんや。
ヨシオ:俺は、第一回サイババ全国大会が神戸で催された時に日本に戻ったんが日本に行った最後の旅やったけれど、その時に、星やんと比良山や琵琶湖や宇治の方を俺の友人を訪ねて一緒に車で行ったことがあるんや。最後は宇治の黄檗山で精進料理を食べたな。そう言えば、あいつ車に乗っている間中バジャンを歌っていたな。バジャンが終われば大きな法螺貝をカバンから出して来て、アラチをしながら耳のそばで吹きまくるんや。うるさいのなんのって、鼓膜が破れそうやったな。
ポニョ:星やんのカバンの中には、例の金のヴィブティが吹き出しているババの写真もあったな。その写真を祭壇に置き、バジャンをすると、写真がみるみるヴィブティで覆われるんや。しかもガラスと写真の間にヴィブティが出て来るから、ヴィブティの勢いに押されてガラスが割れたこともあったぜよ。
ヨシオ:そんな事もあったな。星やんがオーストラリアに来た時も、一日中一緒に行動したけれど、俺の人生でこれほど深く魂の交流が出来た人間はいなかったな。二人で一日中一緒に居ててもとても、快適で心が休まるんや。俺は、別に話すことなんて何もないけれど、あいつはサービス精神が旺盛やから、一人でいろいろと話してくれるんや。早死して惜しい事をしたな。
ポニョ:おいらは、葬式へ行ったぜよ。たくさん古い帰依者が来てたな。心の深いところで交流出来た良い友達やったんやけれどな。
ヨシオ:ババへ帰依する心がお互い深ければ深いほど、心の奥深くまで他の人と交流することが出来るんや。だって、俺たちは、その人は本当は他人ではなく、自分自身やってことがお互い知っているんや。
ポニョ:それって、本当に深いところで交わっていなければ経験出来ないし、言えない言葉やぜよ。そういう英知は、帰依の心が成熟しないと出て来ないんやろな。
ヨシオ:帰依心は霊的な段階で言えば、最初の段階なんや。その次が英知で、最後に全てが神だと分かって、自分の体も含めて、この世の何事にも執着しなくなる段階に入るんや。
帰依と、英知と、無執着は、霊的進歩を表す三つの段階です。
帰依とは、小学生の段階で、人を高校生の段階である神聖な英知へと導きます。
英知によってすべてのものがブラフマン、神と認識できるようになり、無執着の態度が確立されるのです。
それはアートマの教育においては、大学の段階といえるでしょう。サイラムニュースNo,99/2004
身体に対する執着を取り除きなさい。
聖典は、人とは神に帰依する者とあります。
帰依するとは何を意味するのでしょうか?
自分は身体であるという感覚から脱し、神を思うことです。
帰依するというのは、あなたの価値のない肉体や永遠のものでない財産を神に捧げることではないのです。
そのようなものを捧げても何の意味もないのです。SS4月96p96