サイババが帰って来るよ

Count down to the Golden age

ネズミさんにも頼みましょうか

2015-04-13 00:00:24 | 日記
ポニョ:昨日のガネーシャの話は面白かったな。

ヨシオ:ポニョは人ごとやから面白いかもしれんけど、夜中に起こされる俺にとっては大変やで。
ポニョ:全てはええ事なんや。受け入れなさいって記事にもしたよな。言ってることとやってる事が違ったらあかんねんで。

ヨシオ:うるさいわ。俺がガネーシャになってポニョを夜中に叩き起こしたろか。ポニョやったら布団を頭から被って出て来ないやろ。

ポニョ:それ以前にあんな大きなガネーシャの像なんて買わないよーだ。

ヨシオ:そうやろな。ビビンが悪かったんや。でも俺が聞いたガネーシャの話で面白かったのが、ホワイトフィールドにあるサイカレッジでガネーシャのお祭りのためにガネーシャの像を毎年造ってたんや。
粘土は近くの湖から取ってきてそれをプラットホームの上に乗せて、主にアートクラスの学生が中心になって造っていたんや。
でも、問題はガネーシャのお祭りの日になると、粘土を焼いていないので、像のあっちこっちがひび割れて、とても醜くなるんや。
それで皆で相談して、こんな醜いガネーシャの像をお祭りに使うのは良くないと考えて、その年は既成の像を店で買うことにしたんや。

ポニョ:その年って一体いつ頃の話なんや?

ヨシオ:七十年代やったな。それでガネーシャの像を買おうとしたら、ババから電話がかかって来て、昔から各家庭でガネーシャの像を造るのがインドの伝統行事だから、今年も自分たちで作りなさいと言われたんや。

ポニョ:七十年代にはババから直接電話がかかって来て、そんな指示をもらってたんか。考えられへんな。めちゃラッキーやぜよ。

ヨシオ:それで早速、湖から粘土を持って来て、プラットホームの上に置き、アートクラスの学生たちがババからの直接の指示だからということで張り切って造り始めたら、どこからともなくネズミが一匹部屋に入ってきてプラットホームの下に逃げ込んだんや。

ポニョ:ネズミって昨日の記事にも有ったけど、ガネーシャの乗りもんなんやろ。それって、ええ事やんか。そのまま居てたら面白いのにな。

ヨシオ:そうやねん。学生たちもガネーシャの乗りものが来たって喜んでたんや。それで当初、店で買い求めるつもりやったから、時間がもう余りなくて突貫で造り上げたんや。

ポニョ:どれくらいかかったんや?おいらはガネーシャ像の写真を見たことがあるけど、結構大きな立派なガネーシャ像やった🐘。

ヨシオ:もう、ええっちゅうに。同んなじギャグばっかりじゃ嫌がられるで。学生たちは約五日で造り上げたんやで。

ポニョ:それはすごい。よく頑張ったな。

ヨシオ:そして、お祭りの当日ガネーシャ像をプラットホームから持ち上げようとすると、五日前に逃げ込んだネズミが、またプラットホームの下から出て来て、何処かへ逃げて行ったんや。

ポニョ:五日間もその下におったんやろか。何を食べてたんやろな。学生たちも驚いたやろな。

ヨシオ:そうやねん。みんなガネーシャの像を造っている間中ネズミが像の下に居てたって、カレッジ中にその話が伝わったんや。そしてお祭りも無事に終わり、ある日ババが学生たちにガネーシャのお祭りはどうだった。と聞かれたんで、みんな上手く行きました。ありがとうございました。と言ってババに礼を言うと、ババは「私は一匹のネズミに、君たちのところへ行くように言ったんだが来ましたか?」と聞かれたんや。

ポニョ:それはすごい。ネズミさんに行くようにババがアレンジされたんや。本当になんでも全てをコントロールされているんやな。今の話、オチが最高やったな。ババらしいわ。
でも昨日の記事の中で少し腑に落ちなかったのが、なんで小さい神像やったらきちんと礼拝を捧げなくてもよく、五センチ以上の大きい神像やったらしきたりに則ってプージャや礼拝をせなあかんねんやろか。サイズが違うだけでどっちも同じ神像やのに。

ヨシオ:それは以前に記事にしたけどバッテリーの容量と出力の関係や。それを載せている過去記事から少し引用すると…。

ポニョ:二三日前の記事で少し気になったのがあって、言いそびれてたけど、サイババさんは病気のような状態になっておられたんや。それで、皆はもう死なれるんじゃないかなと心配してたんやったな。

ヨシオ:実際のところ、半年以上ゆっくりされていて、親しい信者の人にババは、サマディになりたいって言っておられたんや。

ポニョ:サマディって体から離れるってことやろ。まだ、二十四五歳の頃やったんと違うのん。ちょっと早すぎるやんかな。

ヨシオ:これも、いつものババのお遊びや。だって、同じ頃にカスツーリさんに、君は、僕の伝記を将来書く仕事があるよ。って言われてたから、サマディなんてなるわけは無いけど、少しは思っておられたかもしれん。

ポニョ:でもいくらお遊びでも、なんでそんな長いこと療養されてたんやろな。

ヨシオ:これだけは、後世の「アヴァターの傾向と対策」を分析する専門家がいろいろと論文を書くやろうけど、今、俺が言えることはバッテリーの容量と出力の関係かな。

ポニョ:なんやねん突然。このブログはユアサバッテリーのホームページと違うで。

ヨシオ:俺が言いたいことは、ババの霊力が帰依者が増えるに連れてどんどん増えて行くにつれて、ババの身体の中にある霊体を調整していくって事やねん。だって、普通の人間の肉体に入っている霊体はその人間の体を動かして、毎日の生活を送って行くのに十分な容量を持っているけど、神の化身のように莫大な霊力を保持して行くには、容量はとても小さすぎるんや。

ポニョ:ああそれで、バッテリーの容量と出力の関係って言ったんか。なんか分かったような気がしてきたぜよ。だから、あんたが言いたいことは、その容量を大きくする為に療養しないといけないと言う事やねんやろ。というのも、その肉体に入っている霊体では神の大きな霊力を受け入れることが難しいからや。

ヨシオ:人間の身体の内にある霊体も、実は、俺たちが食べる食料で維持されてるんや。
その食料の、波動が荒い部分は肉体の栄養となって身体を維持し、その食料の精妙な部分である霊体を、俺たちの霊体が、自分の中に取り込んで霊体を維持してるんや。
クリタユガ期、トレタユガ期、またはドワパラユガ期では、人の体も今の何倍も大きかったし、霊界との繋がりも強くて、半神半人みたいな霊体か肉体か分からん用なモンスター人間がたくさんいてたけど、このカリユガ期では、人は食料を身体に取り込まなかったら三週間以内に死んでしまう。もちろんその中の霊体も体からすぐ離れてしまう。
昔やったら、神のような強力な霊体が入っていたから、肉体が死んでも骨が朽ち果てるまで、霊体が骨の中に残っていて、一見、骨やけど実は生命力がその中に宿っていたんや。

ポニョ:以前、そのこと記事にしたよな。その中に想念のパワーが入っていて人をも殺すことが出来るんや。それに、ガイコツ踊りのシンドバット虎の目大冒険の話もあったな。

ヨシオ:でも今では、そんな神さんの巨大で強力な霊体を入れれるような器を人は持っていないので、少し療養して英気を養っておられたんやろな。

ポニョ:霊体だけでは無いやろな。だってババはシヴァラトリの日に、身体を磁石化したので足が地面にくっついて歩くのが難しいて言われたやろ。肉体だって大変やで。そんな強力な霊力を持っていたら。

ヨシオ:サイババさんのように神の力を全て持って来ておられるアヴァターは、肉体の中に入り込むと色々と不都合が出て来るんや。だから、霊体だけやったら、いくらでも大きな霊力が入ろうが簡単に調整出来るけど、肉体は少しの調整期間が必要になってくるんや。

ポニョ:でも、本当はババが意思すれば、一瞬のうちに身体を調整して大きな霊力が入るようにされることだって可能やろ。

ヨシオ:もちろんポニョの言う通りや。でもババは、こういうふうに言っておられる。一度、人の身体をとってこの世界に来た以上、この世界の法則に従う、と。

ポニョ:つまり、おいら達が、もし、大きな霊力を身体に取り込むんやったら、いろんな不都合が肉体に起こるけど神の化身やからと言って、それを、避けて通りません。と言うておられるんやろ。だから、子供の時にも、大きな霊力が入る時に、なんか気狂いみたいになったりして、大変な目に遭われたんやったな。

ヨシオ:その通りや。ババは、肉体をとるってとても面倒臭いことや。と言ってられる。本当は、人の身体なんか取らなくても、いろんな事が出来るし、そっちの方がやり易いんや。でも、人に、神さんを愛してもらって、親しんでもらう為に、人間の身体をとって、人間のように振る舞って、わざわざ大変な道を選んで歩んでおられるんやで。だから、ババは療養中に親しい帰依者に,サマディをしたいとおっしゃたんや。だって、身体を離れて、霊体だけになった方がもっと楽にいろいろ出来る。だから、ババがやっておられる事は、頭のてっぺんから足の先まで、一点の曇りもない無私の愛そのものなんや。ババがやっておられること全ては、愛なんや。だから、愛の化身と呼ばれているんや。

ポニョ:ババは、そう言うたら、私がこうして皆さんの前を歩いてダルシャンを与えているだけでも、あなた達の為にとてもいい事なのに、あなたの為にしているのにそれを分かっていない。インタビューばかり望んでいる。と言われたことがあるな。

ヨシオ:今回も、肉体から一時的に離れられているけれど、それは、大きな神の計画の一部なんや。というのも、これからサイババさんは、世界中の空に現れたり、全ての人のハートに直接話しかけたり、また、何千、何万と身体を分けて人々の前に現したり、山脈を持ち上げられたりされると予言されている。

ポニョ:それって、すごい霊力を使うやろな。

ヨシオ:だからやねん。肉体を離れられた一つの理由は。来るべき、人類の歴史上、比類なき奇跡が連続して俺たちの目の前で展開されるんや。
だから、そのためにも、いろいろと制限のある肉体を投げ捨てられて、霊体だけとなって神の無限の霊力を全人類の目の前に現されるんや。今まで、いろんなアヴァターがこの世に生まれ変わって来てくれたけど、これほどすごい力を人類に示されるアヴァターは初めてなんや。
そういうことを理解すれば、今こうしてこの時代に生きているって事が、どれほどラッキーなのかが分かるはずだ。

ポニョ:すげ~。寒イボが立ってきたぜよ。おいら達は本当にすごい時代に生きてるんやな。なんか、めちゃ嬉しくなってきたぜよ。

ヨシオ:それではポニョが興奮して寒イボが立ってきたところで、サイババさんの話に入ります。
以上、過去記事から引用しました。

ポニョ:つまり神像が大きければそれだけ霊力を蓄えられるので、しっかり礼拝をしていかないかんということやろ。小さければ、毎日しなくても少し神様のことを思っただけで、霊力が補充されて行くので大丈夫なんや。

ヨシオ:大きい神像にはそれに見合った霊力を送り込む礼拝をしないと、霊的な効果が望めないし、御利益も得ることは出来ないんや。俺は、デリーにあるシルディの寺院に行ったけど、そこには大理石で出来た巨大な、鉄人28号のような大きさのシルディの像が安置してあったんや。御足に触れさせてもらったけど、すごいバイブレーションで、頭の中が真っ白になるほどやった。その時お袋も御足に触れたけど、お袋は俺より霊的に繊細な分、その神聖な影響を受けて、涙がちょちょぎれるぐらい出てたな。もう腰が抜けてしまって、しばらくの間立って歩くことも出来ないので、その場に息子と三人で座ってバジャンを聞いていたな。その頃、俺たちはシルディババの事を知らなくて、サイババ寺院があるって聞いたので行ったんや。すると祭壇で待っておられたのは初めて見たシルディババの像やったんや。

ポニョ:でも、それを見てお袋さんは、以前見たことがあるって泣いておられたんやったな。前世の記憶が蘇った瞬間やったんや。以前に霊力が物質の中にしっかりチャージ出来ると、その物体を浮かすことも出来るっていう記事も載せたことがあるな。

ヨシオ:ああ、確かそんな事も話したよな。インドのある寺院の神像はそんなに大きくはないけれど、人々の霊力が入っていて24時間一年中、宙に浮かんでいるんや。

ポニョ:そういや、ババがマドラスのシルディババの寺院の中にある神像に霊力を注いだ時に、その神像は宙に浮いたよな。霊力ってすごい力をもたらすことが出来るんや。おいらも少し欲しいな。
(シルディ ババの寺院)

ヨシオ:その話をし始めると切りがなくなるのでまたの機会にしよか。

ポニョ:なんやせっかく乗ってきたのに。

マントラの力やヤントラの力よりも強力なのは、清らかなハートです。
信仰は、神の御座であるハートから生ずるものでなくてはなりません.
今日、私が教えた5つのマントラをあなたの不断の同伴者とし神への信仰を強めなさい。
それによってあなたは必ず神我顕現を得ることが出来ます。
神への不動の信念によって、霊力は強化され甘美な至福を享受することが出来ます。
疑ってはなりません。人生において何事を成し遂げるにも、神への信念こそ肝要です。
信念が無ければ、ごく平凡なことでさえ成し遂げられません。21/7/86

現実の生活において、人は生と死の秘密を理解できずにいます。
多くの人が、死の特性を発見しよう、死後何が起こるのか、死の背後にある神秘とは何かを見出そうと試みましたが、答えを見つけることはできませんでした。
そのため、深い探求心を授けられていた者たちは、すべての生き物の奥底には一つの力が存在し、その力は神から来ているという結論に至りました。
彼らはその力を神と名づけたのです。そして、神の力が存在すること、そして、それは人間の理論を超えており、宇宙にみなぎっていると結論づけました。
その力は何なのでしょう? 人は目に見えないものをどうやって認識できますか?
そのようなものを信じるべきなのでしょうか?
そのようなものを知ることは不可能だと考える科学者もいます。
一方、古代人たちは、太陽を神性という存在の実証できる明らかな証拠と見なしていました。
そして、太陽がなければ世界は存在しないと思っていました。
太陽がなければ何ものも成長することはできません。
人間の営みは一切不可能となります。人が終わりなき暗黒を生き抜くことは不可能です。
それゆえ、古代人たちは、この偉大な光とエネルギーの源は神の霊的な力の存在証明であると思っていました。
その後、その神聖原理は一つなのか、それとも複数であるのかという議論が生じました。
古代人たちは、「エーカム サット」、すなわち、神は唯一者であり、唯一者でしかあり得ないという結論に達しました。
ヴェーダも「エーコーハム バフスヤム」(私は多として顕現した唯一者である)と宣言しています。
それによって、ヴェーダは神の一体性を宣言したのです。
神は唯一なるものですが、異なる人々に多として顕現しているのです。
聖仙や予見者たちがタパス(苦行)を行ったのは、こうした深い探求の精神によるものです。
そして、その苦行と禁欲生活によって、彼らはすべての知識の源はプラナヴァ(オーム)であるということを発見しました。
もしプラナヴァが存在していなければ、音も言葉も存在し得なかったでしょう。