今日、蟻を見つけて殺しても何とも思わないのに、神様の像を見ればその像に向かって拝んでいる人達がいます。
言っていることとやっていることがまるで違うというのが、現代人の特徴です。
その結果、人は、神様に近づくよりも、邪悪な人になりつつあるのです。
それに対して、ギーターは心と言葉と行為を結びつけるのが本当の人間らしさだと教えています。
それが出来れば神様のような人になれるでしょう。
神を深く信じ、すべての生き物の中にただ一つの神を見るようにして下さい。
愛を大きく拡げていくのです。
愛は、皆さんが神である印であり、すべての生き物の中に神がいる証です。
すべての人を愛と真心の目で見て下さい。
そんなふうに人とふれあうことが出来なければ、どんな修行も無駄になります。
神様をあがめながら自分の身近な人を傷つけていては、最高の目標に達することは出来ません。SGc27
ポニョ:あんたは昔はとても短気やったんやろうけれど、今は落ちつているよな。おいらが最初に会った時は、なんて無口な変わり者な人やなって思ってぜよ。
ヨシオ:昔は本当に怒り虫やったな。結婚してからも、嫁さんがのんびりした性格やから、会社の大事な書類やら鍵をよく失くしたりしてたから怒って叱っていたな。おかげで結婚してから、眉間に深い縦じわが二本出来たんや。
ポニョ:今も深く刻まれていますよ。その眉間の縦じわは、めちゃ怖そうに見えるぜよ。
ヨシオ:そうか。俺は短気やった時に気付いたんや。怒った後にめちゃエネルギーが抜けて行くのを。でも啖呵を切った後なんかは、なんかスカッとするけどな。それで怒るって一体どういう事かなって考えたんや。俺の得た結論は、怒るって自分が期待したり、思っていた結果にならずにストレスを溜め、そのストレスを発散さす事が怒る事なんかなって。だから怒る事は必要な事なんかなって思ったんや。だって怒らなかったら、ストレスが溜まったままでほっておいたら病気になるやろ。
怒りによって、血液は急激に脳に流れ込みます。
血圧は上昇し、血液の構成成分が変化します。
かなりの量の毒素が血液の中に入り込むために神経は傷つき、あなたを実際の年齢よりも老けさせてしまいます。
また、母親が怒るとその乳に毒素が混入し、乳児に影響を与えるのです。SSSVol11p72
ポニョ:それは言えるよな。おいらのおっ母は、いつもストレスを溜めていて、何があっても絶対怒らない人やったから、精神的な病気になったんやと思う。そういう意味で怒るって必要悪なんかな。
ヨシオ:そうかもしれんな。でも本当はそんなストレスを溜めない生き方をするのが一番やけどな。人はこの世に執着しているから、ストレスを溜め込むんや。
身体は、中に入って来ようとする毒素をすぐに外に出そうとします。身体が自然に反応して毒素をはき出そうとしているときに、薬を飲んで吐き気を抑えようとするのは、正しいことではありません。薬を飲んだら、毒素を出せなくなってしまいます。毒は、胃から出ていかずにたちまち体中に回ってしまうでしょう。だから毒は出してしまうべきで、薬で抑えるようなことはしない方が良いのです。毒素を出してしまった後なら、薬を飲ましても良いでしょう。吐き気が収まっている頃には、身体も弱っていることでしょう。その時には、病人もおとなしくなり、忠告を受け入れてくれるはずです。毒素を出そうとしている人には、そうさすのが一番良いのです。
ひどく怒っている人がいて、その人が怒ることによって毒素を出そうとしている場合も、それと同じ事が言えます。その人が言いたいように言わしておけば良いのです。止めようとしないで気の済むまで言わせてほって置けば良いのです。その人が、すべてを言い尽くすまでは、こちらは静かに我慢しているほかはありません。こちらまで心を乱して頭に血を上らせてはいけないのです。怒らずに静かに耐えている内にやがて心は安らぎ、幸せな気持ちになるでしょう。それこそが天国の経験なのです。どうしてあなたは、自分の頭に血を上らせて天国の悦びを捨ててしまうのですか。耐える心はきわめて大事な特性です。人間の様々な特性の中でも、耐え、許す心は何よりも尊いものです。スワミは許す心こそ真実であり、正義であり、非暴力であり、幸せであると何度も話してきました。許す心とは本当はこの世で出会うすべての物の価値と等しいのです許す心さえあれば、心を静めることも、感覚の節度を守ることも、欲望を捨てることも、(世俗に)捕らわれないことも、信じて迷わぬ事も、心を定めることも、どんな特性も身につきます。これらの六つのすべてが、清らかな心を作ります。SGc33
ポニョ:そう言えば、おいらのおっ母は、めちゃこの世界に執着してたぜよ。特に自分の店に対しては。精神的な病気になったのも、家族会議で店をたたもうと決めた時からなんや。おっ母にとっては、あの小さな店は生きがいであると共に、執着心の塊やったんやろな。
ヨシオ:多分そうやろな。そういう意味で、その執着心を突き詰めていくと、欲望や願望があるやろ。だから先ず、そういう世俗的な願望や欲望を自制していけば、怒りも無くなってくるんや。
願望がくじかれると、怒りがかま首をもたげます。18/9/85
ポニョ:誰かに何かを頼もうと思って期待して、それを断られたら腹立つもんな。でも世俗的な願望や欲望などを少なくするって難しいよな。今の時代は、どこを見てもこれを買いなさい。あれを買いなさい。という物質文明花盛りの世界やもんな。
ヨシオ:だから俺は、そういう欲望を持っている人とか執着心を持っている人と話すと疲れるんや。神さんの事を一生懸命話す人なら何時間一緒にいても疲れないけれど、自分のやりたい事とか、いろんな不満不平、欲しいものや手に入れたいものの話しをするのを聞いていると本当に疲れて来るな。一番疲れるのは、こっちが腹を割って話しているのに、相手が俺を陥し入れたり、最初から俺が言っていることに反論する為に、俺の話しを聞いているフリをしている人やな。何か心にイチモツを持っている人と話す時は一番疲れるな。だってこっちは、その人が自分の欲望などを持っているのが丸分かりやのに、それを隠しながら、ぎこちない表情で話されるとヘドが出そうになるんや。
ポニョ:自分の言いたい事を隠しながら話し、別の例えや言葉で伝えて行く会話は、大人の会話というんやと子供の頃教えられたけれど、それってババさんの教えとはかけ離れているよな。おいらの家族は、そういう権謀術策が出来ない性質を持っている人ばかりで、心で思っている事と、言葉と行動がいつも同じなんや。だからおっ母が小さな食堂を経営している時も、いろんな取引先などと関わらなくてはいけないけれど、そういうおっ母の正直なところや裏がない性質を人に利用されたり、騙されたりした事が多々あるんや。でもそんな時におっ母は、人を騙すより騙される方がええんやと言ってたな。
ヨシオ:俺は天神橋筋商店街で育ったから、そういう騙し騙されの世界を、子供の頃から目の前で見て来ているんや。生馬の目を抜くようなひどい商売をしている人は、周りにたくさんいたな。だから俺は、そう人の手口を知っているから、絶対に人に騙されたりしないという変な自信を持っているんや。だからポニョのお袋さんのように、騙される方がええでという人と会うと、俺と全然違う生き方やから驚いてしまうな。だって俺が住んでいた世界では、人から騙されるような人は生き残れないんや。
ポニョ:でもあんたの隣で小さな肌着や靴下を売っていた西端さんは、お客さんを信じてキャッシャーを店の入り口ではなく店の真ん中に置いて、セルフサービスという万引きが多かった当時では画期的なシステムを使った薄利多売で小売店を始めたので、大きく成功をされたって言ってなかったか?
ヨシオ:そうやったな。親父と二人で箱根のゼミナールに行かれたんや。そしてそのゼミナールで学んだ事に、二人はとても感激したんや。親父は俺のようにすぐ感情が高まる性格やったから、その場で大きな声で泣きながら、「今まで俺はどんな商売をして来たんやろ。一度もお客さんの気持ちなんて考えもせず、ただただ金儲けだけしか考えていなかった。これからはお客さんを信頼して、お客さんと一緒に社会を良くして行くことを目的に商売を始めるんや。」と決心して、大阪に帰って来てから、二人は新しい考えの元で商売を始めたんや。でも親父はその後すぐに病気で死んでしまったんや。逆に西端さんの店は大きくなり、ニチイという会社を作り、東証一部上場の企業にまで昇りつめたんやで。
ポニョ:そういう意味では俺のおっ母が「いつも正直で勤勉に働きなさい。人を騙したり、嘘をついてはいけません。人に騙されても憎んだりしてはいけません」といつも言ってたけれど、そういう商売人って、あんたが育ってところでは生き残っていけないと言ったけれど、でもババさんは、ダルマは、ダルマをしている人を護ると言っておられるから、結局、そういう正しい事をしている人の方が最終的には成功するんやぜよ。とは言っても、おいらのおっ母はいつも金のやりくりで大変やったけれど。
ヨシオ:そういう事なんやろな。俺たちは近視眼的にしか物事を見れないからな。
ポニョ:おいらのおっ母は、今から振り返ってみるととても偉いなと思うぜよ。だって、料理人を一人雇っていたんやけれど、その人が売り上げから毎日お金をこそっと抜いてネコババするんや。店を閉めてから計算しても、いつも勘定が合わないんやぜよ。それでおっ母は、すぐにその料理人がネコババしていると分かったんやけれど、その人に支払っていた給料にネコババされた額を上乗せすると、おっ母がその人の給料を上げようとしていた額と一緒になるから、ちょうどええんやと言って笑っていたぜよ。
ヨシオ:肝っ玉母さんやな。でもその料理人は、カルマを作り続けるから、そういう時はその料理人の為にも、ビシッと言った方がええやろな。俺やったら、「君、今日はこれだけ金を売り上げから抜いたやろ。しらばっくれても、こっちはお見通しなんや。今回は見逃してあげるけれど、給料を来月から上げてやるから、もうこういう事をやったらあかん。」と言うやろな。
ポニョ:おっ母も性格上そのようにズバッと言いたかったんやろうけれど、その料理人は腕が良くて、辞められたら困るから我慢してたんやろな。でもあんたみたいに人相が悪くて、でかい図体をしているヤーさんみたいな人が、ズバズバ言ったら対人関係が持たないやろ。
ヨシオ:サイババさんも結構本当の事を遠慮せずビシッと言われるで。でも霊性修行は二つあって、一つは五感をコントロールする事、もう一つは他の人との調和をはかる事なんや。だから、出来るだけ人生は、人と縁を切って生きて行くのではなく、他の人たちと仲良くして愛の輪を広げて行かないといけないんや。でも本当は人って縁を切る事なんて出来ないんやで。ババさんの教えに触れるまでは、俺もこいつとは縁が切れたなとか、こいつとは縁が薄いから適当に付き合ってらええとかという考えで生きて来たけれど、ババさんは、全ては一つ。元々は全部一つで、世界の終わりには元の一つになるって言っておられるやろ。そういう教えに触れて、縁が切れたなんてカテゴリーは神さんには無いんやと悟ったんや。それで、人にダイレクトに言うのは直らないけれど、その人を出来るだけ傷付けないように上手く言うように工夫してるんや。
ポニョ:それで?信じられないぜよ。いつもグサグサっと、人の心の奥深くに刺さるような事ばっかり言ってるって、あんたは自分で気付いていないんでしょう。
ヨシオ:そうかな。まあそれじゃ、そういう努力をしてると言い換えたらええんやろ。だいたい繊細とは程遠いポニョが、そんな俺の言葉の一つや二つで傷付く訳がないやないか。
スワミが人と接する場合は、その人の善良な性質に目を向けて、悪い性質を無視します。
それは、その人の善良な性質を増強するためです。
~この世で生きて行く上でのスワミの教えの核心は、他者に内在する本質的性質である神を見て、その性質を愛し、それ以外の一切の行為、性質、不品行、悪い特質などに気を止めないことです。
私たちの接する相手の内におられる神に対して抱く愛は、霊的愛であって肉体的愛ではありません。
それは、その人の世俗的な性質に神を見るということではありません。
その人の世俗的行為の不品行を大目に見たり、褒めたりすることではなく、誤った行為を叱らないという意味でもありません。
その人に内在する神に真に集中し、それを愛するとはいえ、その人の欠点、誤った行為、短所などを叱ってそれに気づかせるべきです。
そうすることは、その人を傷つけることでもありません。
重要なことは、それをする動機です。CWSSBJp82
言っていることとやっていることがまるで違うというのが、現代人の特徴です。
その結果、人は、神様に近づくよりも、邪悪な人になりつつあるのです。
それに対して、ギーターは心と言葉と行為を結びつけるのが本当の人間らしさだと教えています。
それが出来れば神様のような人になれるでしょう。
神を深く信じ、すべての生き物の中にただ一つの神を見るようにして下さい。
愛を大きく拡げていくのです。
愛は、皆さんが神である印であり、すべての生き物の中に神がいる証です。
すべての人を愛と真心の目で見て下さい。
そんなふうに人とふれあうことが出来なければ、どんな修行も無駄になります。
神様をあがめながら自分の身近な人を傷つけていては、最高の目標に達することは出来ません。SGc27
ポニョ:あんたは昔はとても短気やったんやろうけれど、今は落ちつているよな。おいらが最初に会った時は、なんて無口な変わり者な人やなって思ってぜよ。
ヨシオ:昔は本当に怒り虫やったな。結婚してからも、嫁さんがのんびりした性格やから、会社の大事な書類やら鍵をよく失くしたりしてたから怒って叱っていたな。おかげで結婚してから、眉間に深い縦じわが二本出来たんや。
ポニョ:今も深く刻まれていますよ。その眉間の縦じわは、めちゃ怖そうに見えるぜよ。
ヨシオ:そうか。俺は短気やった時に気付いたんや。怒った後にめちゃエネルギーが抜けて行くのを。でも啖呵を切った後なんかは、なんかスカッとするけどな。それで怒るって一体どういう事かなって考えたんや。俺の得た結論は、怒るって自分が期待したり、思っていた結果にならずにストレスを溜め、そのストレスを発散さす事が怒る事なんかなって。だから怒る事は必要な事なんかなって思ったんや。だって怒らなかったら、ストレスが溜まったままでほっておいたら病気になるやろ。
怒りによって、血液は急激に脳に流れ込みます。
血圧は上昇し、血液の構成成分が変化します。
かなりの量の毒素が血液の中に入り込むために神経は傷つき、あなたを実際の年齢よりも老けさせてしまいます。
また、母親が怒るとその乳に毒素が混入し、乳児に影響を与えるのです。SSSVol11p72
ポニョ:それは言えるよな。おいらのおっ母は、いつもストレスを溜めていて、何があっても絶対怒らない人やったから、精神的な病気になったんやと思う。そういう意味で怒るって必要悪なんかな。
ヨシオ:そうかもしれんな。でも本当はそんなストレスを溜めない生き方をするのが一番やけどな。人はこの世に執着しているから、ストレスを溜め込むんや。
身体は、中に入って来ようとする毒素をすぐに外に出そうとします。身体が自然に反応して毒素をはき出そうとしているときに、薬を飲んで吐き気を抑えようとするのは、正しいことではありません。薬を飲んだら、毒素を出せなくなってしまいます。毒は、胃から出ていかずにたちまち体中に回ってしまうでしょう。だから毒は出してしまうべきで、薬で抑えるようなことはしない方が良いのです。毒素を出してしまった後なら、薬を飲ましても良いでしょう。吐き気が収まっている頃には、身体も弱っていることでしょう。その時には、病人もおとなしくなり、忠告を受け入れてくれるはずです。毒素を出そうとしている人には、そうさすのが一番良いのです。
ひどく怒っている人がいて、その人が怒ることによって毒素を出そうとしている場合も、それと同じ事が言えます。その人が言いたいように言わしておけば良いのです。止めようとしないで気の済むまで言わせてほって置けば良いのです。その人が、すべてを言い尽くすまでは、こちらは静かに我慢しているほかはありません。こちらまで心を乱して頭に血を上らせてはいけないのです。怒らずに静かに耐えている内にやがて心は安らぎ、幸せな気持ちになるでしょう。それこそが天国の経験なのです。どうしてあなたは、自分の頭に血を上らせて天国の悦びを捨ててしまうのですか。耐える心はきわめて大事な特性です。人間の様々な特性の中でも、耐え、許す心は何よりも尊いものです。スワミは許す心こそ真実であり、正義であり、非暴力であり、幸せであると何度も話してきました。許す心とは本当はこの世で出会うすべての物の価値と等しいのです許す心さえあれば、心を静めることも、感覚の節度を守ることも、欲望を捨てることも、(世俗に)捕らわれないことも、信じて迷わぬ事も、心を定めることも、どんな特性も身につきます。これらの六つのすべてが、清らかな心を作ります。SGc33
ポニョ:そう言えば、おいらのおっ母は、めちゃこの世界に執着してたぜよ。特に自分の店に対しては。精神的な病気になったのも、家族会議で店をたたもうと決めた時からなんや。おっ母にとっては、あの小さな店は生きがいであると共に、執着心の塊やったんやろな。
ヨシオ:多分そうやろな。そういう意味で、その執着心を突き詰めていくと、欲望や願望があるやろ。だから先ず、そういう世俗的な願望や欲望を自制していけば、怒りも無くなってくるんや。
願望がくじかれると、怒りがかま首をもたげます。18/9/85
ポニョ:誰かに何かを頼もうと思って期待して、それを断られたら腹立つもんな。でも世俗的な願望や欲望などを少なくするって難しいよな。今の時代は、どこを見てもこれを買いなさい。あれを買いなさい。という物質文明花盛りの世界やもんな。
ヨシオ:だから俺は、そういう欲望を持っている人とか執着心を持っている人と話すと疲れるんや。神さんの事を一生懸命話す人なら何時間一緒にいても疲れないけれど、自分のやりたい事とか、いろんな不満不平、欲しいものや手に入れたいものの話しをするのを聞いていると本当に疲れて来るな。一番疲れるのは、こっちが腹を割って話しているのに、相手が俺を陥し入れたり、最初から俺が言っていることに反論する為に、俺の話しを聞いているフリをしている人やな。何か心にイチモツを持っている人と話す時は一番疲れるな。だってこっちは、その人が自分の欲望などを持っているのが丸分かりやのに、それを隠しながら、ぎこちない表情で話されるとヘドが出そうになるんや。
ポニョ:自分の言いたい事を隠しながら話し、別の例えや言葉で伝えて行く会話は、大人の会話というんやと子供の頃教えられたけれど、それってババさんの教えとはかけ離れているよな。おいらの家族は、そういう権謀術策が出来ない性質を持っている人ばかりで、心で思っている事と、言葉と行動がいつも同じなんや。だからおっ母が小さな食堂を経営している時も、いろんな取引先などと関わらなくてはいけないけれど、そういうおっ母の正直なところや裏がない性質を人に利用されたり、騙されたりした事が多々あるんや。でもそんな時におっ母は、人を騙すより騙される方がええんやと言ってたな。
ヨシオ:俺は天神橋筋商店街で育ったから、そういう騙し騙されの世界を、子供の頃から目の前で見て来ているんや。生馬の目を抜くようなひどい商売をしている人は、周りにたくさんいたな。だから俺は、そう人の手口を知っているから、絶対に人に騙されたりしないという変な自信を持っているんや。だからポニョのお袋さんのように、騙される方がええでという人と会うと、俺と全然違う生き方やから驚いてしまうな。だって俺が住んでいた世界では、人から騙されるような人は生き残れないんや。
ポニョ:でもあんたの隣で小さな肌着や靴下を売っていた西端さんは、お客さんを信じてキャッシャーを店の入り口ではなく店の真ん中に置いて、セルフサービスという万引きが多かった当時では画期的なシステムを使った薄利多売で小売店を始めたので、大きく成功をされたって言ってなかったか?
ヨシオ:そうやったな。親父と二人で箱根のゼミナールに行かれたんや。そしてそのゼミナールで学んだ事に、二人はとても感激したんや。親父は俺のようにすぐ感情が高まる性格やったから、その場で大きな声で泣きながら、「今まで俺はどんな商売をして来たんやろ。一度もお客さんの気持ちなんて考えもせず、ただただ金儲けだけしか考えていなかった。これからはお客さんを信頼して、お客さんと一緒に社会を良くして行くことを目的に商売を始めるんや。」と決心して、大阪に帰って来てから、二人は新しい考えの元で商売を始めたんや。でも親父はその後すぐに病気で死んでしまったんや。逆に西端さんの店は大きくなり、ニチイという会社を作り、東証一部上場の企業にまで昇りつめたんやで。
ポニョ:そういう意味では俺のおっ母が「いつも正直で勤勉に働きなさい。人を騙したり、嘘をついてはいけません。人に騙されても憎んだりしてはいけません」といつも言ってたけれど、そういう商売人って、あんたが育ってところでは生き残っていけないと言ったけれど、でもババさんは、ダルマは、ダルマをしている人を護ると言っておられるから、結局、そういう正しい事をしている人の方が最終的には成功するんやぜよ。とは言っても、おいらのおっ母はいつも金のやりくりで大変やったけれど。
ヨシオ:そういう事なんやろな。俺たちは近視眼的にしか物事を見れないからな。
ポニョ:おいらのおっ母は、今から振り返ってみるととても偉いなと思うぜよ。だって、料理人を一人雇っていたんやけれど、その人が売り上げから毎日お金をこそっと抜いてネコババするんや。店を閉めてから計算しても、いつも勘定が合わないんやぜよ。それでおっ母は、すぐにその料理人がネコババしていると分かったんやけれど、その人に支払っていた給料にネコババされた額を上乗せすると、おっ母がその人の給料を上げようとしていた額と一緒になるから、ちょうどええんやと言って笑っていたぜよ。
ヨシオ:肝っ玉母さんやな。でもその料理人は、カルマを作り続けるから、そういう時はその料理人の為にも、ビシッと言った方がええやろな。俺やったら、「君、今日はこれだけ金を売り上げから抜いたやろ。しらばっくれても、こっちはお見通しなんや。今回は見逃してあげるけれど、給料を来月から上げてやるから、もうこういう事をやったらあかん。」と言うやろな。
ポニョ:おっ母も性格上そのようにズバッと言いたかったんやろうけれど、その料理人は腕が良くて、辞められたら困るから我慢してたんやろな。でもあんたみたいに人相が悪くて、でかい図体をしているヤーさんみたいな人が、ズバズバ言ったら対人関係が持たないやろ。
ヨシオ:サイババさんも結構本当の事を遠慮せずビシッと言われるで。でも霊性修行は二つあって、一つは五感をコントロールする事、もう一つは他の人との調和をはかる事なんや。だから、出来るだけ人生は、人と縁を切って生きて行くのではなく、他の人たちと仲良くして愛の輪を広げて行かないといけないんや。でも本当は人って縁を切る事なんて出来ないんやで。ババさんの教えに触れるまでは、俺もこいつとは縁が切れたなとか、こいつとは縁が薄いから適当に付き合ってらええとかという考えで生きて来たけれど、ババさんは、全ては一つ。元々は全部一つで、世界の終わりには元の一つになるって言っておられるやろ。そういう教えに触れて、縁が切れたなんてカテゴリーは神さんには無いんやと悟ったんや。それで、人にダイレクトに言うのは直らないけれど、その人を出来るだけ傷付けないように上手く言うように工夫してるんや。
ポニョ:それで?信じられないぜよ。いつもグサグサっと、人の心の奥深くに刺さるような事ばっかり言ってるって、あんたは自分で気付いていないんでしょう。
ヨシオ:そうかな。まあそれじゃ、そういう努力をしてると言い換えたらええんやろ。だいたい繊細とは程遠いポニョが、そんな俺の言葉の一つや二つで傷付く訳がないやないか。
スワミが人と接する場合は、その人の善良な性質に目を向けて、悪い性質を無視します。
それは、その人の善良な性質を増強するためです。
~この世で生きて行く上でのスワミの教えの核心は、他者に内在する本質的性質である神を見て、その性質を愛し、それ以外の一切の行為、性質、不品行、悪い特質などに気を止めないことです。
私たちの接する相手の内におられる神に対して抱く愛は、霊的愛であって肉体的愛ではありません。
それは、その人の世俗的な性質に神を見るということではありません。
その人の世俗的行為の不品行を大目に見たり、褒めたりすることではなく、誤った行為を叱らないという意味でもありません。
その人に内在する神に真に集中し、それを愛するとはいえ、その人の欠点、誤った行為、短所などを叱ってそれに気づかせるべきです。
そうすることは、その人を傷つけることでもありません。
重要なことは、それをする動機です。CWSSBJp82