サイババが帰って来るよ

Count down to the Golden age

悲しみも喜びになればどうなるの?

2019-02-16 04:00:59 | 日記

ポニョ:以前の記事であんたは、自分を自分で愛するために創造されたこの世界に俺たちは生きているけど、この世界で先ずやらなければならない事は、全ては愛だって事を悟る事や。そのためには自分の内に深く内省し、この世界を覆っているマーヤーのカラクリを探り当て、そのカラクリに騙されたフリをして神様の事を愛する事なんや。そういう覚めた態度を取ることが、このマーヤーのまやかしに騙されず生きるコツなんや。その人は夢の世界に住んでいても、いつも目覚めた状態で生活をしているから、この世の中のものに全く囚われないんや。って言ってたけど、そのカラクリに騙されたフリをして神様の事を愛するって言ってた所が面白かったな。

ヨシオ:そういう人は、映画を見ていても実はそれを写し出しているスクリーンを見ている。みんなと同じように映画館の椅子に座って映画を見ているフリをしているだけで、本当は違うんや。ポニョが言ったように、それって映画を見るために買ったチケット代が無駄になるやろ。つまり、この世に生まれて来ても、このように全てが神だと悟ればもう、この世で過ごす理由が無くなるんや。

ポニョ:でも、そういうことを悟ってもまだこの世に自分の義務をするために、身体をまとったまま生活している人だっているやろ。

ヨシオ:もちろんや。シータを畦道の中から見つけ出して、自分の娘として育て上げたジャナカ王もその一人や。ジャナカ王は聖者に言われた事に従い、馬の鐙に一方の足をかけて鞍の上にまたがろうとした時に悟りを得たんや。王はその時アートマンの光を垣間見てしまったんや。それ以来この世に対する興味を一切失ってしまったんやけど、しかしまだ王としての義務を果たすために働いていたんや。

ポニョ:アートマンの光を垣間見た王か。もうそんなレベルにまで行ってしまったら、何もかも興味が無くなるやろな。

ヨシオ:ジャナカ王は、ある時、聖者の教えを乞うために講義を聞こうとして、庵を訪ねたんや。聖者は王が来るまで講義を始めなかったので、そこで修行していた修行者たちは、聖者が王に対して依怙贔屓をしていると思い嫉妬したんや。聖者は王が到着し講義を始めようとした時に、ああ大変だ。王国が火事だ。宮殿も、たくさんの家々も火に包まれている、あちこちから火の手が上がっていて、家々が燃えていると叫び声を上げたんや。すると、全ての修行者が自分の家が燃えているかどうか心配になって、王国に走って戻り、庵から誰もいなくなったんや。

ポニョ:でも、ジャナカ王だけが残っていたという話ジャナカと思ったけど、当たりやろ。

ヨシオ:ピンポーンや。ポニョも冴えてるな。最近のダジャレ。俺のレベルになって来たで。このように、一度アートマンの光に人が触れるとこの世の物事に関心が無くなってしまうんや。このジャナカ王のレベルになれば、水の上に書いた字のようにその人の行為は、行為をした後からスーッと消えてしまうんや。

ポニョ:どんな行為をしてもその人はそれを自分がしたと思わないから、カルマを作らないんやな。

ヨシオ:その人は、自分というエゴが無いので、その人の全ての行為は神がやっておられるのと一緒になってしまうんや。

ポニョ:ということは、絵描きである神さんがキャンパスに向かって描いた絵から、その人が飛び出してきて、神さんのキャンパスに神さんと一緒にお絵描きをして遊んでいる様なイメージかな。
ヨシオ:そういう感じやな。そのレベルになれば、絵描きである神さんとその人は、友達のように仲良く並んでベレー帽をかぶりながら、キャンパスに向かって一つの筆でワイワイ言いながら絵を描くんや。

ポニョ:それって楽しそうやな。「君、ちょっと絵が下手くそやね。鼻が欠けているやないの。もうちょっとこの女の人を綺麗に描いてあげないと、可哀想やんか。」「あんたちょっとうるさいで。いちいち人が描いた絵に注文つけやんといてくれる?この女の人は耳や鼻をちょん切られる役割りやからこれでええんや。この人はラクシャサやねん。」とかワイワイ言って絵を描いたら面白いやろな。

ヨシオ:神さんはそういう人と一緒に、いつも遊びたいなって思っておられるんや。帰依者がそういうレベルにまで昇って来るのを待っておられるんや。

ポニョ:つまり、遊び相手が欲しんやな。おいらで良かったらいつでもお相手したげるぜよ。

ヨシオ:そのためには、エゴや欲望、執着などを無くしていかないとあかんな。特に、ポニョは食欲が強いからな。まだチャクラが胃のあたりをウロウロしてるやんか。

ポニョ:これだけは、誰にも譲れないおいらの楽しみやぜよ。

ヨシオ:神さんに君は僕の友達だと言ってもらえるには、その人がいつも神さんと繋がっているという強い決意を持たなくてはダメなんや。自分の思い通りにならないからと言って、神さんへの信仰心がぐらついたり、ひどい場合には批判をしたりしてたらお友達にはなれない。また、日常生活で神さんの教えを守って生活をしなくてはならない。ここまでは、神さんに捧げる生活や活動で、ここからは自分のプライベートな部分。とか、これは神さんに捧げる部分でこれは、自分の物とか言っていたら、いつまで経っても神さんと離れたままになるんや。それに、一番大切なことは、どんな事があっても幸せに満ち、喜びに溢れて、満ち足りていることなんや。

ポニョ:食べ物への執着を除けばおいらにとって、そんな難しくないぜよ。早くお友達になりたいな。

ヨシオ:ただ誤解してはならない事は、世間の物を手に入れることによって得られる喜びや満足と、心の底から湧き上がって来るアートマンの喜びとは違うって事や。世間的な喜びは長続きがしないんや。スマホを手に入れても、しばらく経てばもっとアップグレードした新しいスマホが欲しいとか言っているやろ。それと一緒や。

ポニョ:車と家と嫁さんは新しい方がええって言うもんな。

ヨシオ:それを、ポニョの嫁さんの前で言えるんか?殺されるで。今回は黙っといたげるけどな。

ポニョ:ちょっと言ってみただけやろ。そんなにいつものように怖い顔をして怒らなくてもええやんか。目くじら立てずにいつもハッピーって今あんたが自分で言ったとこやろ。

ヨシオ:いつものようには余計や。それで心の底から湧き上がってくる大きな喜びは、世間の儚い楽しみからはやって来ないんや。だから神様を信じるものは世間の事に気を取られたり、それに溺れたりしてはいけないんや。

本当の悦びはただの満足とは違います。
この二つの違いを理解していただくために、神への讃歌を歌う場合を見てみましょう。
口から出てくるだけの歌と、心から湧き上がって出てくる見事な歌、大きな悦びが自然にあふれ出るような歌があります。
それと同じように、目に見える物質的な世界で手に入るつかの間の楽しみと、心の底から湧き上がる本当の悦びがあります。
本当の悦びは、真実と結びついた永遠のものです。
世間のはかない楽しみにとらわれることの無い魂は神と一つです。
本当の悦びは移ろいゆくことがありません。
そこに付け加えるものは何もありません。
それ自体が満たされていて完全なのです。
この話の深い意味は、神を信じる者は世間のことに気を取られ、溺れてはいけないということです。
時間をかけて、彷徨う心を抑え、静かな心でいるように努めるのです。
本当の悦びは、静かで落ち着いた心からやって来るのです。
勝ち負けや損と得、喜びと悲しみのどちらにも左右されない涼やかな心から生まれるのです。SGc3

ポニョ:心を世間的なものから遠ざけ、心がさまようのを抑え、静かな心を持たないと難しいやろな。

ヨシオ:それには、人は人生で、失ったり得たり、勝ったり負けたり、損をしたり得をしたり、喜んだり悲しんだりするけど、そういうことに左右されない穏やかな心を持たなくてはいけないんや。それにはどんな事があっても、それを神さんからの愛の贈り物だという態度を取ることが必要なんや。

ポニョ:そんな態度を取ることが出来れば、いつも満ち足りた心でいることが出来るんやろな。
でも、言うは易し、行うは難しやな。

ヨシオ:それが一人ひとりに与えられた霊性修行や。別にヒマラヤの山の中にこもって一日中瞑想しなくても今いるところで、そういうことが出来るやろ。

ポニョ:どんなことが自分や家族の身に降りかかっても、静かで落ち着いた心で受け止められたら、いつも心の底から湧き上がってくる喜びを体験出来る人になれるやろな。おいらもなれるかな?そんな人に。

ヨシオ:それには強い決意がいるんや。全ての人は、決意という神さんからのプレゼントをもらっているんや。でもそれをある人は金儲けだけに使って財産を残す事は出来るけど、その財産のひとかけらも、死んだ時に一緒にあの世に持って行くことは出来ないんや。またある人はその決意を人への復讐などに使って、人としての品性を失い悪魔のような性質を身につける人もいる。また、ある人はそういう決意を持ってはいても、全く優しさや同情心に欠け、神さんからどんどん離れて行く人もいる。だから、この決意というのは道具と一緒で、良い事にも悪い事にも使えるんや。

神への信仰と善良な決意が結びつくことは、電流の陽極と陰極が交わるようなものです。
その結びつきによって、どのような大きなことでも達成できるのです。
私達は、人間の無限の潜在能力を自覚していません。
人間は身体に関してだけでなく、知性の点でも地上の他のどのような生き物より遥かに優れています。
人は、自分がそうしようと意志したことは何でも達成することが出来ます。
それどころか全世界の主人になる事だって出来ます。21/7/86

ポニョ:それをどう使うかは、あなた次第です、やな。だから、そういう神様から頂いた決意という道具を人は悪い事や、世間的なものに向けるんではなく、神の方に向けてそこから恵みを受け取らなあかんという事なんやな。おいらも、自分がもっと美味しいものを食べたいな。と思う代わりに、美味しいものを神様に捧げたいなと決意せなあかんという事なんやろな。

ヨシオ:それってちょっと的が外れてるけど。

すべての人が、またすべての生き物が、平安と幸福を得ようと努めます。
誰もが人生の目的を知ろうとしています。
しかし、人々はその努力に成功することができないでいます。
強い決意をもって、目標に到達するまであきらめない人は、百万人に一人です。
限りある命をもつ普通の人は、それが自分の手に届かないものだと考えて、全くこの方面の努力をしません。
彼らは、物質的なその場限りの快楽を追及することに一生を費やします。
彼らは、衣・食・住こそが人生の三大目的であると勘違いしています。
その人生は、妻子を中心としたものになっています。
彼らは、人生にはこれよりも高い目的があるということに気がつきません。23/11/02
決意あるいは、その決意の背後にある決心の力が強くなりすぎると、マインドは自らの限度を超えてしまい、そうなった人は精神異常者という表現をされます。21/11/79

最新の画像もっと見る